対峙

第16話 最期の覚悟

 風は冷たく、荒々しく、エルダのまわりに吹き巻いている。その音が鼓膜を叩いて、もう何も聞こえなかった。


 長い回り道をして、ようやくなすべきことに辿りついた。


 けれども心は重く、ちぎれそうなほどに引かれていた。


 マーロウが、そっと心でささやく。


「本当に、よかったのですか」


(ええ。だって、あなたを残していったら、私が死ぬときを王太子さまに見られてしまう)


「そのことではありません」


 黒猫は風を避けてエルダのマントの下にいるが、その声は彼女の耳もとで響いた。


「彼は、きっとあなたが待ち望んでいた方」


 エルダはびくりとした。


「呪いを解いて、あなたを自由にしてくださる方です。そうなれば、もう、大公さまにはあなたを探すことはできないでしょう。血の絆は大公さまの身体にとりついた魔物のせいで、断ち切られたも同然ですから」


 呪いが解ければ、エルダは声を取りもどす。そして、歌から魔力が落ちる。声が聴けないためにかけられた魔法の存在意義が消えるからだ。

 呪いも魔法も取り払えれば、エルダはただの人間に戻れる。そうすれば、たとえ命名の絆……血の絆であっても、父王の耳には届かない。本当の名前の響きが彼を呼び寄せることもなくなる。


 しかし、その、本当の名前の響きが、厄介な問題なのだ。


(たとえ、彼に私の本当の名前を呼んでもらえても、呪いが解けるとは限らないわ)


 条件は、三つ。


 エルダが愛するものに、愛されること。

 彼に、本当の名で呼ばれつづけること。

 その愛と、エルダを欲する彼の心が、呪いの力よりも上まわること。


(この呪いは強力よ。小さな呻き声でも島を海底に沈めてしまう。そんな力にうわまわることができるほど、私は愛してもらえない)


「彼を信じないのですか」


(違うわ。私の価値を信じられないのよ)


 マーロウが黙った。


 エルダの心を彼女は正確すぎるほどに感じとれる。その悲しみも、苦しみも。

 だから、言葉を返すことができなかった。


(私には、彼に愛されるほどの資格も、その価値もないわ。熱望は現実を変えられない。私は愛する人たちを危険に晒してしまうから、おそばにはいられないの)


 一瞬、エルダの耳から風の音が消えた。

 胸の痛みが、すべての音を消していた。

 マーロウは、さらにエルダに身を寄せた。


「でも、私はあなたを愛しています。我が君」


 安らぎが、互いの悲哀を慰める。


(……ありがとう。ごめんなさい、マーロウ)


 船は海上を進み、やがて緑に覆われた大地が見えた。


 鬱蒼と茂る、深い森。原始の森だ。魔物や怪物が住まう森。人々の上陸を許さない、邪悪な存在で満ちた大陸。エルダが死を迎える場所だ。


 エルダは、船をわずかに下降させた。教えられたものを見つけたら、船から飛び降り、最期の歌で船をボリスのもとに送り返す。


 強風がエルダの髪を引きちぎらんばかりに吹く。不快なほどに濃い、緑と沼の臭い。マントの下でマーロウが身を硬くした。あまりの臭気にエルダも眉をしかめる。この大地には、その臭いが隅々まで漂っている。


 しっかりとマーロウを抱きしめ、エルダは眼をこらした。


 大陸の上空に入ると、悪臭とともにはるか下から気味の悪い鳴き声が轟く。それは恐ろしげな響きで、なにかを呪っていた。


 さらに注意深く、眼をこらす。


 森の中央に開けた場所が見えた。そして、そこに立つ巨木にからみついている、三つ目の大蛇。


 ──いた。


 その周りには、巨大な蛙が四匹。血のように紅い眼が、一つしかない蛙だ。


 落ちていくときに、その蛙たちの長い舌が巻きついて、四方に引っ張られ、裂ける。そして大蛇の炎と蛙の咀嚼で、エルダの肉体は二度と戻せなくなる。魔王の手によっても。どのような力をもってしても、絶対に甦ることはない。大蛇の紅蓮が魂までも焼き尽くすのだ。そうなれば、輪廻も断ち切れる。


 本当に、二度と、命として生まれることはない。


 エルダは船を巨木の真上に止めると、立ち上がった。


(マーロウ)


「いつでも心は決まっています」


 落ち着きはらった声に、エルダは奮い立った。

 これでやっと、成し遂げられる。

 エルダは小さく歌った。


 ──父よ、父の体よ。娘の体とともに滅びよ。

 二度とない転生。二度とない復活。

 永遠に、わが身とともに、大蛇の紅蓮に焼かれよ。

 血の絆、親と子の絆は、この死を永遠にともにする。

 エヴァロン王と、その身に宿る魔物のすべては、ここにわが身と葬られる。

 永遠に、わが身とともに、大蛇の紅蓮に焼かれよ──。


 そして彼女は船から身を躍らせた。


 空気が耳元で鳴る。


(祝福の音楽だわ)


 エルダは目を閉じた。


 大蛇の尾が、地面を震わせて獲物の存在を報せる。


 蛙の舌がのびてくる、鋭い音。


 エルダは唇を開いた。


 ──虹水晶よ、飛びなさい。

 船を飛ばしなさい。

 ボリスさまのもとへ飛びなさい──。


「どこまでも、ともにまいります」


 マーロウが心にささやいた。


(ありがとう、マーロウ。でも、本当は、あなたまで巻き添えにしたくなかった)

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