追憶――消し去った日々Ⅳ
「リュビ! これはどこに?」
手には朝、僕が採ったばかりの草花。
「うん、そろそろお客さんが来るだろうから、そこに置いといて。ホルドは開店準備、よろしくっ!」
リュビは店の奥の部屋から声だけを出している。
行き場もなく、自分の生い立ちも知らず、名前も思い出せない僕をリュビは温かく迎え入れ、この家に住まわせてくれた。
お詫びに僕は、リュビのお手伝いを申し入れている。
どんなに日にちが過ぎようとも記憶は抜け落ち、まるで始めからこの世に存在すらしていなかったように。
それは、まるで雲の上にふわふわと乗ったようだ。
この身に今もあるだろう長剣も、あれから出て来ることはない。
ただ、――身体に重くのしかかる。
「ねぇ、ホルド。十字架って、信じてる?」
ふいに声が聞こえ、僕は飛び上がって驚いた。気付くとリュビが後ろにいて手にあるものを持っていた。
「リュビっ!? ごめん、それ……」
駄目だ。力が入らない。リュビが手に持っているのは、銀で出来た十字架。小さいものでも充分、力はあるようだ。
僕のこの状態が証拠だろう。
「あ、ごめん。やっぱり無理そう? さっき来たお隣さんに貰ったの。可愛いよね」
そう言って掲げてくるが……。
「うわぁっ! 無理、無理、無理ってばっ!」
僕は慌ててベッドの中に潜り込む。何か分からない、恐怖心が蝕んでいく。怖くて怖くて見ることも出来ない。
僕がリュビと数日過ごして分かったことはといえば――。
「十字架が苦手。……というか、目にしたら立つのもままならないって……、まるで」
神話に伝えられるお伽噺。
この世界の神様が人間に与えたという道具、十字架。
神話の時代に使われ、聖の力で魔を滅する。それは僕の正体の微かな手がかりだった。魔を滅する物に僕は抗えない。
――多分、僕は悪魔なのだろう。
だが、リュビは僕を追い出さなかった。
理由は『だってホルド、悪魔っぽくないんだもん。若いっていうか幼いし、記憶なくてなんも知らない悪魔なんて天使だって笑っちゃうよ』だった。
しかも、そう言って大笑いする始末だ。
悪魔だぞ? ――君の親を殺した悪魔なんだぞ?
「ホルドが悪魔だとしてもね。あなたを悪魔なんて思えないのよ」
リュビは十字架を手にしてまた悪戯っぽい笑顔をする。
――……十字架。
それが、僕の弱点であることを知って。
「でもさー、なんでなんだろうね?」
リュビは考え込む。
「十字架って、悪魔とかに効き目あるとか聞くけど、実際持ってるエクソシストとか見ないんだよねー。大体、悪魔自体がよく分かってないし、あんまり見ないし……、天に歯向かって堕とされた天使とか聞くけど。――ねえ?」
リュビはなおも僕を見下ろす。僕はまだ布団を被っている。
「ホルド。神様に逆らったとか欺いたとか……、騙したとか。そんな記憶は無い?」
リュビは悪戯っぽく舌を出す。
「僕が?」
と問われても意味は無い。
記憶喪失の僕には、心当たりがまるでないのだから。
「やっぱ堕天使君かなー、だったらうきうきするんだけど」
リュビはなんだか嬉しそうだ。というか、好奇心だけだろう。
「剣も気になるしね? 実はその剣が十字架でホルドが背負ってるから、罪人ーとか」
はぁ? 身体はだるくて重いが、これが十字架?
リュビは興奮しているようで、声を段々と大きくさせていく。
彼女の好奇心の高さは一体なんなのだろう。
自分が魔法を操れることも証明された。それは少し特殊で、魔方陣を描くのでもなく、呪文を唱えるのでもなく、ただ――。
念じるだけで発動することも。
ただこれは、人間では百人に一人、千人に一人の持つ能力だとしても、悪魔は何百年も生きていれば身に付くものだという。
これで一つ、自分が悪魔だと証明されたようなものだ。
「リュビは僕が悪魔でもいいの」
僕は毛布に包まって小さく呟いた。
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