第30話 高校1年生 師走の一日

 あれからおじさんの切除した胃を調べたところ、4箇所にガンが発見された。

 うち2つはまだ浅かったが、残りは深いところまで根を張っており、胃の全摘は正しい判断だったようだ。

 手術の際にリンパも少し切除してがん細胞の転移がないかを検査し、今のところは大丈夫とのこと。


 とはいえ食事事情が一変してしまったため、おじさんは元より、おばさんと春香も苦労しているようだ。

 何もなければ五、六年ほどで通常の食事が取れるようになるらしいが、そこらへんのことはよく知らない。

 ……まあ、俺が春香にプロポーズする頃には普通の食事で大丈夫になっていると思う。


 けれども、おばさんも春香も、おじさんが無事に帰ってきたことが何よりうれしいようで、次第に新しい生活にも慣れつつあるようだ。


 季節はもう年も押し迫った12月の16日。期末試験も終わり、そろそろ二学期も終わろうとしている。


 高校では俺と春香は美術部に入っている。

 バスケ部からの勧誘もあったんだが、できれば春香と二人でまったりといられる部活に入りたかったんだ。

 部活は決まった日としては毎週木曜日の放課後だが、結構な部員が毎日美術室に入り浸っているようだ。男女比はおおよそ2:8で女子生徒が多いが、これは仕方が無いだろう。


 春香と並んで、イーゼルを立てて描きかけのキャンパスをセットして、その前に座る。

 油絵の道具の入った木の絵具箱を開き、パレットを持つ。


 岩礁に当たり砕け散る波の絵に、二、三の筆を入れていると、隣で静物画を描いている春香が、ふいっと手を止めて窓の外を眺めた。


「もう冬休みになるね」

「そうだね。すぐに正月も来るし」

「冬休みはどこかに行く?」

 俺は筆を止めて少し考える。「う~ん。冬休みって短いからなぁ……」

「街でデートぐらい?」

 俺は春香を見ながら、「……おじさんの方は?」

「うん。お陰さまで何事もなくってところ」

 そう言いながら、春香は筆でパーマネントグリーンを少しとり、キャンパスに緑の色をのせていった。


「少し遠出して東京でも出るか?」

 俺が何気なくそう言うと、春香はがばっとこっちを見て、

「本当? 行く行く!」

と言った。


 すると、春香の向こうから、

「おんやぁ。デートの打合せ? くぅ~。このリア充め! 爆発しろ」

と言いながら、ポニーテールの女子生徒がやってきた。一つ上の上川先輩だ。


 先輩はいっては何だが、背が小さく、性格的にどこかマスコット的かわいらしさがあって男女ともに人気がある。


 先輩は春香の後ろから抱きつくと、

「いいなぁ~。彼氏とのデート。いいなぁ~。どこかに彼氏落ちてないかなぁ」

と言う。春香はあわてながら、

「せ、先輩。どさくさに紛れて触んないでください」

と言うと、上川先輩は俺の方をニヤリと見ながら、

「ああ、ごめんごめん。春たんのおっぱいは夏樹くん専用だものね?」

と言ってニヒっと笑う。

 ……そう。この先輩、ちょっとオタクっぽくて、ちょいエロなんだよね。


 俺はしれっとして、

「そうです。俺のですからダメです」

と言うと、春香が赤くなって、こっちを見ているみんなに手を振って「あわわわ」と言っている。

 上川先輩は笑いながら、

「うん。今日も春たんは可愛いね」

と言って、俺の肩に手を載せた。「で、私に春たん頂戴」

 俺はその手をすっと払いのけ、「ダメです。春香は俺の彼女です」と言うと、上川先輩がぐいっと顔を寄せてきて、

「ちょっとだけ、ね? お裾分すそわけ」「ってか何をですか」

「えぇ~。夏樹くんのいけず……」

と段々、訳の分からない掛け合いになっていくが、これもいつものことだ。


 というわけで、先輩がいつも通り、俺によりかかって、

「今なら私も裸にリボンで夜這よばいしてあげるよ? ね、デートに連れてって欲しいなぁ」

と言い出して、春香があわてて立ち上がると、

「だ、ダメです! 夏樹は私のです!」

と言う。先輩が春香を見て、

「ニヒヒ。やっぱり春たんってば可愛い。けなげだねぇ」

と言って俺から離れた。「もう。いつもと同じ冗談だって。ね? 夏樹くん?」

 はいそうです。ここまでがいつものやり取りです。


 先輩は、ぽんと春香の背中を叩いて自分の席に戻っていった。

 春香は「う~」と言いながら、席に座り俺を見つめる。俺は笑いながら手を握ってやり、

「いつものお約束だって」

と言うと、春香は眉間にしわを寄せて、「夏樹に精神的被害に対する損害賠償を要求します。チョコレートとキスで和解に応じるけどどうする?」ときいてきた。


 ……こいつ。いつものやり取りで成長してるな。

 楽しくなった俺は満面の笑みを浮かべながら、「了解。和解しよう」と言うと、春香はうれしそうに笑った。


 そんな他愛もない日々が過ぎ、冬休みに入った。

 もう年の瀬を感じる何かと忙しい時期だが、俺と春香はそれぞれ親の許可を取って東京にデートに行く計画を立てた。


 行きと帰りは高速バスを利用し、美術館や紅茶のお店巡りをする予定だ。銀座のマリアージュ・フレールに、白金台のマリナ・ド・ブルボン……。

 どのお店にもお気に入りの紅茶があるが、特に横浜のクイーンズスクエアのル・サロン・ド・ニナスには是非とも春香を連れて行きたいと思っている。

 というのも、俺の一番好きだった紅茶「エデンローズ」があるからだ。この紅茶は後に販売が終了してしまったのだが、透き通るような花の、それでいて濃厚で華やかな香りの紅茶を、是非とも春香にプレゼントしたい。

 (ベッジュマン&バートンでも「エデンローズ」があるようだが、そちらは飲んだことがないので同じものか知らない)


 こんな年末にと思うかもしれないが、おじさんの件で普段から神経を使っているであろう春香をめいっぱい楽しませて、癒やしてやりたい。

 ……それにデートが決まったとき、おじさんとおばさんからも楽しませてやってとお願いもされているしね。


 終業式が終わり春香と一緒に下校しながら、

「明日のデートは楽しみにしてろよ」

と言うと、春香はうれしそうに

「うん! ……東京なんて久しぶりだね」

と笑った。


 最近の春香はどこか疲れたような雰囲気もあって心配していたが、デートを楽しみにする笑顔は以前と変わらない。

 ほっと安心しつつも、明日が待ち遠しくなった。


 俺も春香も、明日のデートのために今日中に自分の部屋の大掃除をする約束になっている。

 玄関先で「また明日」と別れ自分の家に帰ると、早速、部屋の掃除に取りかかった。


 マスクをして掃除機とぞうきんを用意し、部屋の窓を開ける。ちょうどはす向かいの春香の部屋の窓もガラガラと開いた。

 互いに気がついて手を振って、

「やってるね~」「おう。そっちもな~」

なんて声をかけて、再び部屋の中に戻り掃除を始める。


 押し入れの荷物を整理し、上から下へ埃や汚れを落とし、じゅうたんに掃除機をかける。窓ガラスをいて机周りを綺麗にする。

 なんだかんだ言って結構な時間をかけて掃除を終えた。


「うん。すがすがしいな」

 綺麗になった部屋を眺めながら、一人、満足げにうなづいた。

 ついでにと思って、本棚に飾ってあったフォトスタンドを手に取り、そこに入っている海に行ったときのツーショット写真を、去年の正月に撮ったツーショット写真に入れ替える。

 こういうものの季節感は大事だよね。


 その日の夕方、父さんと母さんに成績表を手渡してコメントを貰う。

 母さんが成績表を見ながら、

「あんたは手がかからないわよね」

としみじみと言った。父さんも、

「本当だな。塾に行っているわけじゃないのに、これだけ上位をキープしてるのはすごいぞ」

と言う。まあ、二回目の高校生、しかも一年生の範囲だからね。

 それでも俺は気をよくしながら、ロールキャベツを口に入れた。


 プルルルル、――プルルルル。


 その時、電話が鳴った。母さんがさっと立ち上がって受話器を取り上げる。

「もしもし。……ああ、春香ちゃん? ……えっ?」

 どうやら相手は春香らしいが、急に母さんの表情が変わった。痛ましげな表情になりながら俺をチラっと見る。

 俺が立ち上がってそばにいくと、母さんは電話をかわってくれた。

「もしもし。春香? 俺だ」

 そう言って話しかけると、春香が声を殺しながら、

「ごめん。夏樹。明日行けない。――お父さんのガンが転移していたの」


 春香の声に、俺の頭は真っ白になった。

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