軍神と月の巫女
氷室 龍
前編
「近衛元帥、アレス・ハインツ・フォン・ベッケンバウアー。」
「はっ、これに…。」
「汝の任を本日只今を持って解く。」
ダイツラント帝国皇帝・ダニエル・クリストフの高らかな声が謁見の間に響く。
それと同時にざわめきが起きる。
それもそのはず、皇帝の眼の前に跪くアレスは実の弟であり、未だ実子のない皇帝にとっては皇位継承権第一位であり、実質的な皇太子である。
近衛元帥は皇帝の軍事面での側近であり、もっとも信頼を置く相手であるということなのだ。
その任を解くということはすなわちアレスの失脚を意味した。
「陛下! 何故元帥の任を今お解きになられるのですか?!」
「それについては宰相・レオポルト。 其方から申せ。」
「御意。」
宰相のレオポルトが蔑むような視線を向け唇の端を上げて話し始める。
「皆さまは東のロンバルティーニ王国の動向をご存じか?」
「兄王を殺して王位についた現王の圧政に民が苦しんでおるとか…。」
「そのとおり。
つい、先日フォルトゥナート辺境伯より要請があり、我が国から遠征隊を派遣することになったのです。」
「それと今回の件とどのような関係が…。」
「現王・アントニオは武勇に優れており、一筋縄ではいかない。
故にこちらもそれ相応の相手を立てるしかない。」
「それが、アレス様だと?」
「如何にも。
『黒の軍神』の呼ばれるアレス殿なら造作もないことでしょう。
征東驃騎将軍として黒竜騎士団を率いロンバルティーニ王国を平定していただく。
その後はその地にとどまり治めてもらいたいのです。」
(つまり帰ってくるなってことか…。)
アレスは跪いたままため息をつく。
チラリと兄の顔を盗み見れば、すまなそうな苦渋に満ちた顔をしている。
「行ってくれるか?」
「陛下の御心のままに…。」
そう一言告げ、アレスは立ち上がると一礼をして謁見の間を下がった。
扉の外では副官のカルロスが待ち構えていた。
そのまま執務室に向かう。
「閣下…。」
「カルロス…。」
「我々だけでロンバルディーニを落せなどと正気の沙汰とは思えません。」
「だが、それをやってのければ俺は自由になれる。」
「し、しかし、彼の国を治めるとなると少々厄介では?」
「厄介だと?」
「閣下、その話は執務室の方で…。」
「分かった。」
アレスはカルロスを伴って自身の執務室へと引き上げた。
執務室の扉をカルロスが周りを気にしながら静かに閉めた。
「そこまで心配する必要ないだろう?」
「いえ、用心に越したことはありません。」
「さっきのアレで俺は失脚したと思われてるはずだ。」
「まぁ、そうでしょうけど。」
「それより、皆に出立の準備をさせろ。」
「それは抜かりなく。 明朝にでも出立できます。」
「そうか。 なら全軍に出陣を伝えよ。」
「はっ!」
「ただし、今回の出陣は片道切符。
家族がある者は残るようにとも伝えておけ。」
「閣下…。」
「上のいざこざに末端までが振り回されることはない。」
「承知しました。」
翌朝、アレス率いる黒竜騎士団はロンバルティーニへと発った。
アレスは馬上にて今回の経緯を思い返していた。
事の発端は長らく懐妊の兆しがなかった皇妃が身籠ったことからだ。
それを利用しようと目論んだのが宰相のレオポルト。
どうやらヤツは外戚となって宮廷を牛耳りたいようだ。
それにはどうしても自分が邪魔と思ったのだろう。
そこで思い付いたのがロンバルティーニの平定。
それも黒竜騎士団のみでとは…。
失敗したとしてもこの国の被害はたいしたことはない。
それに責任を自分一人に擦り付け、処理すればいいと思っているのだろう。
(誰が、その手に乗るものか! 俺を馬鹿にするなよ!!)
そう思って進軍したアレスだったが、予想外に呆気なく終わった。
まさか、アレス直々に黒竜騎士団を率いて攻め込んでくるとは思っていなかったのであろう。
恐れをなした大臣たちがあっさり現王の首を差し出してきたのだ。
結局、王都も無血開城となり何とも拍子抜けな結末だった。
「まさしく『戦わずして勝つ』ですね。」
「まったくだ。」
「まぁ、こちらは一切損害受けてないですからありがたいですけどね。」
「強行軍でみな疲れているだろうから、ゆっくり休ませろ。」
「閣下は?」
「そうだな…。 月の神殿にでも行ってくる。」
「月の神殿?」
「あそこにはいい温泉があるそうだ。」
「ああ、左様ですか。 ゆっくり浸かってください。」
「そうさせてもらう。」
そう言って、アレスは後をカルロスに任せ、月の神殿へと向かった。
だが、それがまさかあんなことになろうとは。
この時のアレスは知る由もなかった。
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