灰燼都市のストラグル

最上へきさ

灰燼都市のストラグル

Case.1:麻薬中毒女と殺人機械男

序:女は死体を捨てようとして、死体を拾った

 放り捨てた死体は、どぼん、とくぐもった音を立てて、そのまま沈んでいった。

 多分、もう二度と浮かび上がってくることはないだろう。男の機械化率は、低く見積もっても四割を超えていた。ということは、いくら腐敗してガスが溜まろうと、チタン製のボディを持ち上げる程の浮力は発生しないことになる。仮に麻薬取締局DEAが男の密売ルートに目をつけた所で、この湾に棹を差すことはあり得ない。ギャングは連中より遥かに早く、縄張りに踏み込んだ小蝿を処分する。

 彼女は強張った肩をほぐそうと首を回し、それから煙草をくわえた。腰に差したカタナの柄頭でマッチをこする。

 禁断症状で震える手に言うことを聞かせるのは、少し骨が折れた。

 幾度かの苛立ちの後、ようやく火が点る。

 伸び上がった煙が、旧東京湾の向こうから差し込むLEDの光を白く映し出した。

 どろりとした夜の中で、一際強く輝く光の渦。

 それは、遠く見れば美しく、近く寄れば臭いに吐き気を催す。

 かつて東京と呼ばれた街――エンヴァースの姿だった。

 ヒトならぬものによって無残に焼き払われ、灰の山エンヴァースと化した地に再び灯ったその光を、不死鳥のそれだと呼ぶ者もいる。だが、その例えはいかにも政治的過ぎた。特殊事案課エクソシスト抗体部隊レジスター・ユニットと単結晶防弾ガラスに守られていなければ、そんな発想は出てこない。

 彼女に言わせれば、その光は割れた釜の蓋から漏れ出す、地獄の炎に他ならない。

 紫煙を高く吐き出して、彼女はもう一度首を鳴らした。目を刺すLEDに照らしだされた暗雲は、蠢く蛆のように空を這いまわっている――

(……ん?)

 彼女は違和感を覚えて、目を瞬かせた。

 敷き詰められた雲の中に、僅かな光が灯ったかのような。

(幻覚まで見るのは、初めてだね)

 星など見える訳はない。「大災厄カタストロフ」で巻き上げられた地表と建造物の混合物は、衛星軌道にまで達し、人類はこの煉獄から脱する手段を永遠に失った。尽きない乱気流と粉塵の中、かろうじて飛行できるのは航空要塞ヘリキャリアぐらいのはずだが。

 次に違和を捉えたのは、耳だった。

 大気を伝う微かな振動。小さなものが動いているのではない。遠く、彼方で何かが爆発したかのような、静かな残響にも似た。

(――違う)

 刺激の薄い合法煙草を吹き捨てて、腰の得物に手を掛ける。同時に後退りながら、彼女はもう一度夜空に目を凝らした。

(禁断症状じゃない)

 再び何かが瞬いて――少し光が大きくなったと思ったら、後はあっという間だった。

 は摩擦熱で真っ赤に燃え上がり、さながら流星のように尾を引きながら、彼女の目前に落ちてきた。



「……デ? そレが、このイケメンなノ?」

 前世紀ビフォア・ブレイズのシステムが生み出す高音の合成音声から感情を読み取ることは難しかったが、その作り物めいた顔――これも前世紀の美少女フィギュア・ガールモデルだ――を見れば、言いたいことはほとんど理解できた。

 出来合いの溜め息音を鳴らして、“塵屑屋ジャンキー”マイクは続ける。

「また変なクスリキメてたンでショ、ナナミ」

「キメるクスリがあったら、あんなクソ仕事受けてない」

 彼女――ナナミは鼻を鳴らして、頬に貼った再生促進パッチの具合を確かめた。突然の事態への興奮で、いつの間にか手の震えが収まっている。

「ンじゃ拾い食イしたとカ」

 マイクが発した震える音声は、かろうじて笑っているようにも聞こえる。

「ケツから出たのを口に突っ込まれたくなきゃ、そろそろ黙んな、マイク」

 ナナミは唾を一つ吐いて、スプリングの壊れたソファからゆっくりと腰を上げた。一際大きなコンクリートの塊を喰らった脚を引き摺りながら、部屋の隅に埋もれた姿鏡の前に立つ。

 まったくひどい有様だった。破片を喰らって腫れた額、青白い頬には二筋の切り傷。ただでさえ険しい目つきが、膨らんだ瞼のせいで藪睨みのようになっている。伸ばしっぱなしの黒髪はいくらか焦げて、まだ燐の匂いが取れない。炭素繊維複合材を編み込んだ黒いレザーの上下にも、驚くべきことに幾つか焦げ跡が付いてしまっている。

 とはいえ、命があっただけ儲けものと考えるべきなのだろう。

 ナナミは溜め息を付いて、それから向き直った。

 ゴミとガラクタと危険物をシェーカーで思いっ切り振り回したようなマイクの工房の中央で、唯一整然としている工作台。

 そこに男が横たわっていた。

「……未来から来た殺戮マシンにしちゃ、随分と優男だね」

 例の映画と違うところを挙げるとすれば、男には東洋系の血が混ざっていて、ボディビルダー出身の俳優ほどマッチョではないという辺りだろうか。熱のせいで毛髪の類はすべて焼け落ちていて、その分、整った輪郭や目鼻立ちがはっきりと分かる。見る間に傷が修復されていった皮膚の異様さも、また。

「アンナ野暮ったいノと一緒にしちゃダメ。コレ、ちョッとした芸術品アートだヨ」

 工作台の脇に設置されたワークステーションから、走査結果が投影されている。ナナミにとってその内容は、古代魔法言語エンシェントとそう変わらないものだったが、マイクは作り物めいた大きな眼球で素早く追いかけていく。植えなおしたばかりの緑色の人工睫毛が、バサバサと箒のような音を立てた。

「ベースは龍泉寺重工のムラクモ式内骨格カナ。軍用の最高級品。でも、生体部品ノ割合が違うシ、各部位の制御術式精度が桁違イ。個体識別番号も無いから、別注品ワンオフだネ。どコかの金持ちが愛人ノ死体をこっそり記念品トロフィーにしたのか、もしかすると研究試作かモ」

 言いながら、彼女の両手が触れるたび、立体映像ホログラフが形を変えていく。男のモデルらしき映像が、その肌を剥かれ、筋繊維を取り除かれ、骨格だけの標本めいた姿となった。

「フーム。こノマまマーケットに流すのは、難シいネェ」

 マイクが造り物フィギュアの顔面をプログラム通りにしかめて、やはり平板な嘆息を上げる。

 ナナミはもう一度、男に目を戻した。

 つるりとした肌や引き絞られた身体は、確かに人工物めいた均整を誇っていたが、彼女にはどうしても人形やアンドロイドには思えなかった。

 どちらかと言えば、死化粧を施された遺体のような――両者にどれほどの違いがあるのか、彼女にはよく分からなかったけれど。

「どウスる? 再起動リブートかけてミる?」

「セキュリティは?」

「死んデるヨ。もし無事なラ、スキャンかけタ時点で反応してル」

 ナナミは動かない右脚を叱咤しながら、ソファへと戻り、立てかけておいた二振りの得物――朱塗りの鞘に収めたカタナを、腰のベルトに差し直した。柄を握って、軽く腰を落とす。

「ちょっト、何すルツもリ? 傷とか付ケナいでヨ。モッタイナイ」

「念の為にね。始めていいよ」

 一瞥すると、マイクはこれ見よがしに肩をすくめる。

「ハイハイ。んじャ、スイッチオン、っト」

 しばらくの間、ワークステーションを操作すると、起動コマンドらしきトリガー状の立体映像が浮かび上がる。マイクが小枝のような細い指で、それを弾いた。

 すっ――と、音とも呼べない違和感が、微かに耳朶をこする。

 無言のまま、ナナミは手に力を籠めていく。

 予想より遥かに粛々と――考えてみれば兵器なのだから当たり前か――、それ以上には大したイベントもなく、男性型アンドロイドは目を開けた。

 ガラス玉のような碧眼。

EE9ダブルイーナイン、起動に失敗」

 確かに男の声帯が発する声だった。

 ただし、意志の類はない――オペレーションシステムの報告。

「――記憶領域ストレージの損傷を確認。修復シークエンス――失敗。回線受容部レセプターの物理障害と推測。速やかな排除を要請。感応網ネットワークへの接続が確立されない場合、本機は保護形態セーフモードで稼働します」

「ナルホド。ヤっぱりコイツ、実験機プロトタイプみたイだネ」

 マイクが独りごちる。滝のように流れるエラーコードに目を走らせながら。

「スタンドアローンじゃロクに動かナイ。コレも一種のセキュリティだネ」

 男は何の予備動作もなく上体を起こし、こちらに視線を走らせた。

認識票タグコード走査スキャンに失敗。回線受容部レセプターに障害。音声または接触にて認証ログインを行ってください」

 どう答えたものか。しばらく、男の顔を見つめるが。

 マイクが無言でホログラムを差し出してくる。目も眩むような乱数の羅列。どうやらそれが、彼女の割り出した認証キーらしい。百桁を超える数字とアルファベットで構成された呪文モージョーを、ナナミは心静かに読み上げていった。

 ――二度の失敗を経て、ようやく全て正確に唱えることに成功すると。

暗号パスコードを確認。臨時管理者エクストラ・マスターと認識。保護形態セーフモードでの起動を許可」

 そこでようやく、男に表情が生まれた。完全に弛緩しきっていた表情筋が、僅かに意志を帯びる。死体の顔が、寝起きのようなぼうっとした顔になる程度の違いではあったが。

 ガラス玉の瞳が、申し訳程度の曇りを宿す。

「……貴官の名前と所属を問う」

 ナナミは剣から手を離さず、口を開いた。

「ナナミ・マツシタ。オマエの拾い主さ」

 男は、彼女の顔とその手元を交互に見やる。それから、おもむろに両手を挙げて。

「ミズ・マツシタ。協力に感謝する。質問を続けても良いだろうか?」

 まるで軍人のような――それこそ、古い映画に出てくる憲兵隊のような固い喋り方。甘さが抜けない顔立ちのせいで、背伸びしたい盛りの新兵に見える。

「してみな」

「ありがとう。まず――私は誰だろうか? それから、ここはどこだろうか?」

 ごく当たり前の調子で投げ掛けられたその質問に。

 先に吹き出したのは、マイクの方だった。

「――アッハハハハ、コりゃイイ、ケースに入れて飾っトキたいぐラいの記憶喪失ダ!」

 腹を抱えて椅子から滑り落ちそうな彼女に、男は真っ直ぐな目を向ける。

肯定ポジティブ。どうやらそのようだ――何も思い出せない。名前、所属、血液型、任務、住所。完全に正体不明アンノウンだ」

 タイミングを逃したナナミは、今更笑うことも出来ず、長い髪を掻いた。

「その質問は、アタシがしようと思ってた奴だよ」

 男は真面目くさった様子で頷く。

「そうか。申し訳ない」

「謝られてもな」

 内ポケットから合法煙草を取り出し、火を点ける。煙をゆっくりふかしながら、彼女はつぶやいた。

「これもセキュリティなのかね?」

「ネットワークとノ接続が確立さレレば、記憶もアンロックされルトかネ」

 男は顎に手を当てて、考えこんでいる。

「なるほど。一理ある」

「……本人が言ってると、なんかムカつくな」

 ナナミのぼやきを、マイクはあっさりと肩をすくめて無視した。

「ま、ショウがないネ。“武器屋アーセナル”なラ、捌くルートがアルと思うけド」

 提案をされた所で、特に答えの用意はなかった。街の常識に従えば、不良ジャンクアンドロイドの行く先はパーツ取りか不法カスタマイズの二択で、原型など回路の一つでも残っていれば、まだマシな方と言える。事実、マイクは明らかに前者を狙っていた――死体を運んできてからずっと、人工眼球の瞳孔が立体スキャンモードのままだった。

「そうだね」

 元より宛もなく、言ってみれば単なるのようなもので、再起動をしただけである。換金できるなら、文字通り天の恵み、日頃の善行の結実とも言うべき臨時ボーナスだが。

「――しばらくウチに置いとこうかな」

「ハァ? エ、ナニ? アンタ、そうイウ趣味だッけ?」

 男の青い目が、じっとこちらを見ている。

 ナナミは近づき、グローブに包まれた手の甲で軽く彼の頬を叩いた。

「怪我させられた分は返してもらわないとね。弾除けぐらいにはなるだろ?」

 男は瞬き一つせず、ただ頷いて。

肯定ポジティブだ、ミズ・マツシタ。私の分子編列積層装甲は、民生品の口径ではまず損傷しない」



 警告も無しに放たれた五十口径の弾丸は、確かに彼の額に命中すると、正面衝突した自動車よろしくぐしゃぐしゃになって、アスファルトに跳ねた。

「――イャッハァァァァァァ!! 出直してこいよ、色男ロメオ!」

 アドレナリンとアッパー系ドラッグに酔いしれたチンピラどもの嬌声。

 彼は着弾の衝撃に仰け反ったまま、動かない。

「……敵対行為を確認。有事と判断し、自己防衛の為、保護形態セーフモードの限定解除を事後申請」

 口の中でごちながら、額をさする。ナノマシンで構築された人工皮膚は、見る間に代謝を開始し、剥き出しになった内骨格を覆い隠していく。

「どうやら交渉は難しいようだ。ミズ・マツシタ」

 骨伝導スピーカーから伝う、彼の声。

 ナナミは小さく頭を振った。長い髪が、吹き付けるビル風に流される。いつ建てられたのか分からない小さな廃ビルの、非常階段にある踊り場。

「オーライ。プランBだ」

 ジャケットの中、脇下に吊ったホルスターから取り出す――携帯用注射器シリンジャー

 袖を捲って、静脈に突き立てる。

「――っ……ああぁ……――」

 ピストンを一ミリ押し込むごとに、効果を実感していく。まずは冷却――背中に氷を突っ込んだように冴え冴えとした心地――そして加熱――恐怖も躊躇も消し飛んでいく。

 やがて訪れる、シンプルな世界。

 ただそうすべきだから、そうする。

 錆びついた扉へと向き直り、合法煙草を吹き捨てながら鯉口を切ると。

「全、員、ブチ殺してやるぜ――クソ共がァッ!」

 彼女は裏口のドアを派手に蹴り開け――右脚に装着した補助外骨格エグゾスケルトンのシリンダーがガスを排出する――、飛び込みざまに二刀を解き放った。抜き打ちで二人の男の手首を刎ね、手近にいた別の男の肋骨と胸部埋込み式装甲を一刀で貫き、そのまま盾にする。

「テメ――どこのモンだクルァッ!」

 たちまち湧き上がるギャング達の罵声と悲鳴。何人かはこちらに向き直ったが、残りはまだ窓の外――建物の前庭に釘付けのまま。

「おい、見ろッ! 何だ、オイ、何だありゃァ!」

「えっ……ちょ、ど、あ、アイツ――アイツ強化人間サイボーグかッ」

 前庭の中心に立つ彼――仮にナインと命名した――が振り上げた両腕は、手首から先が百八十度後ろを向いていた。腕の断面から這い出てきたのは、輪胴形に並べられた無数の銃口。

否定ネガティヴ。私は人造人間アンドロイドだ」

 無痛砲ペインレスだぜ――と誰かが口にした時には、もう遅く。

 ナインの手首は、燃え盛るような銃火を上げて、七・六二ミリの銃弾を吐き出し始めた。窓に近づいていた何人かが、身体の何処かを吹き飛ばされてもんどり打つ。

「オイオイ、踊り子から目ェ離すんじゃねェよクソガキども!」

 独特の甲高い駆動音を聞きながら、ナナミは突進した。仲間――否、彼らの流儀で言えば家族ファミリーだ――を撃てずに動揺する連中に向けて、切っ先に引っかかっていた男を蹴りだすと、その場で身体を回転させながら、両の剣を一振り。飛び掛ってきた何人かの腕と足が、まとめて宙を舞った。

「ッぎゃァアァァ――」

 不意に、ガトリングとは違う銃声。耳に入るより早く、ナナミは身を逸らしていた。広がった髪の幾筋かを、鉛弾が焼き切ってしまう。

「――ざっけんなッ」

 彼女は激しく舌打ちしながら、体捌きの反動をそのまま空中回し蹴りに変えた。一人の首を刈り取るように蹴りつけ、着地しながら前転。最中に向けられた三つの銃口を全て撫で斬り、駆け出す。

 何人かが機銃の掃射に巻き込まれたのか、背後で水風船が爆ぜたような音がする。幾筋かの火線を躱しつつ、部屋の隅に積まれていた廃材の影に飛び込む。工事用の足場に銃弾が跳ねて、火花を散らした。

 早くも熱を持ち始めた右脚の補助外骨格エグゾスケルトンをなだめながら、ナナミは肺を膨らませた。

「オイ――サミュエル! “ハラペコハングリー”サム! いるんだろ!!」

 バルカン砲の猛烈な銃声に勝つつもりで、大きく叫ぶ。

「返事をしろ、このクソ不能野郎インポ!」

「――テメェら、どういうつもりだッ、俺達ファミリーに何の恨みがあンだよ、クソが!!」

 普段なら渋いハスキーボイスで通りそうな声が、焦燥と動揺で完全に裏返ってしまっている。なるほど、どうやらこの声の主がこのビルを不法占拠している武装集団――ジャクソンズ・ファミリーの家長リーダー、サム・“ハングリー”・ジャクソンらしい。つまらないハニートラップに嵌って根城を奪われ、側近だけを連れて「ザ・リバー」を渡ってきたクズ。廃ビルに住み着いていた乞食をすっかり手なづけた辺りが、この男の長所なのかもしれないが。

「いいか、もう一度だけ忠告だ! アタシが五つ数え終わる前に、その辺に転がってるテメェのイチモツ拾って消え失せな!! さもなきゃ、次は肩の上に乗ってるクソ袋を刎ね飛ばすぞ!」

「ウルサイんだよ、アンタ! ウチらファミリーには、行くとこも帰るとこもないんだよ! 鉄よりも固い家族ファミリーの掟だけがウチらのホームなんだから!!」

「母ちゃん!」

 返って来たのは、やけに堂々とした女の怒鳴り声だった。どうやらそれがナンバー2である“母親マザー”ピンコのようで――まったく馬鹿げたことに、彼らは本気で家族ごっこの延長のまま組織を運営しているらしい。

「ハハハ――知るかボケ! 掟で劣化ウランが防げんなら試してみろ、クソババア!!」

「お、おおおおおオマエ! 母ちゃんをバカにすんな、バーカ!」

 また別の、幼稚な罵声が響き、廃材に三箇所ほど穴が開いた。

 ナナミはゆっくりと溜め息を吐いた。ドラッグのせいで弾け飛びそうになる理性を宥めながら。

「聞こえてんだろ、ナイン」

「ああ」

「ぶち込め。死なない分量でな」

 唾を吐くような心地で、呟くと。

「イエス、マム」

 返事は明快で、平板で、冷酷だった。

 ふと、窓の外に目を向ける。火線の向こうに見える空は、相変わらず昼か夜かも分からないような濃灰色だった。立ち込める硝煙と血の匂いが、鼻の奥をくすぐる。それを避ける為という訳ではないが、ナナミは腰に吊るしておいた防護マスクを被った。フィルターと本体の接続に問題がないことを確かめると、両手で耳を塞ぐ。

 ガトリングの轟音を更に上回る、ロケット弾の発射音は、その程度では逃れようもなかった。続くのは、壁が砕けガラスが飛散る破砕音、凄まじいまでの悲鳴と罵り、弾頭のバルブから催涙ガスが漏れ出す噴射音。

 ――たっぷり一分は数えて、ナナミは立ち上がった。鉄パイプの束から、こっそりと顔を覗かせる。

 その光景は、ほとんど地獄絵図と言って良かった。男と言わず女と言わず、そこにいる十人あまりの人間全てが顔を押さえて悶絶している。意味はまったく分からないが、それぞれの母国語で、恐らく地上の全てを呪うような文句を吐き捨てながら。負傷している者も同じようにのたうち回っているせいで、吹き上がる血が小さな噴水のようになっていた。

 ナナミは適当に目星をつけて、三番目に体格のいいアフリカ系の男を蹴りつける。

「なあサム。おいサム! どうだ、気に入ったか? イカしてんだろ、アタシの“香水パフューム”」

 分厚い唇が、何かを言おうと形を変えるが、結局新たにガスを吸い込んでしまい、唾液を吐き出す以外には何も出来ない。

 彼女はどうにも笑いがこみ上げてきて、一頻り哄笑を響かせてから。

「最初っから素直に言う事聞いてりゃ、こんなことにはなんなかったのにね」

 男の眼前に、右手のカタナを突き立てる。

 左の刃で――高揚が過ぎて震え始めた左手で、薄っすらと首の皮を削ぐ。

「殺しはしないよ。片付けが面倒なんでね。さっさとここを出て、チバ・シティの収容所ゲットーでピーナッツでも育てな、ビッグ・ダディ」

 首が折れそうな勢いで、サムが頷く。

 飛んでくる涙と鼻水がうっとおしくて、ナナミは彼に渾身のサッカーボールキックを決めた。月まで吹っ飛ばせるぐらい強烈な奴を。

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