第4話 アーミン・プレストン卿と鏡の国のビクスビー…前編
旦那さまとパトリシア嬢のご結婚まで、あと二ヶ月もございません。
三十五歳まで独身を通された旦那さまでいらっしゃいますが、花嫁をお屋敷にお迎えになる日が近づくにつれて、少年のように落ち着きがなくなられてしまいました。二十ほど年下のパトリシア嬢のほうが、しっかりされているほどでございます。
かのような吉事は、使用人たちにとって厄介ごとのひとつになってしまいます。なぜなら、普段の仕事に加え、新婚のご夫婦が不自由なくお過ごしになられるよう、支度が山のように待っているのですから。
そんな多忙な日々でございますが、お屋敷の裏庭に棲みついた野良猫の横暴が、わたくしをさらにいらだたせてしまいました。
ええ、皆さまもご存知のとおり、わたくしは猫が苦手でございます。餌をたらふく食っている飼い猫ならまだしも、飢えている野良は始末に終えません。
今夜も、女料理人が片付けた厨房のなかに忍びこみ、わたくしの夜食用にとっておかせたローストポークの切れはしを、風のようにかっさらっていったのでございます。
「きさま、今夜こそ、許さんからな!」
わたくしはほうきを振り回しながら、野良猫を追いかけました。勝手口から庭へ出たとき、ほうきの先が野良猫に当たり、やつは獲物を落としてしまいました。でもわたくしは腹立ちが収まりません。
地面に落ちてしまったローストポークはもう食べられません。だからといって、やつにまたやるのも不愉快でございます。
わたくしは肉の切れ端を靴の裏で踏んづけ、森のなかへ逃げ込んだ野良猫をさらに追いかけました。二度と、お屋敷で泥棒をさせないように、です。
と、窪みにつまづきました。わたくしはつんのめり、ほうきごと地面に倒れてしまいます。年甲斐もなく暴れたせいでございましょうか、うつぶせになったまましばらく動けませんでした。痛みもですが、追突した衝撃のほうが大きかったのです。
「ふぎゃああ!」
野良猫の鳴き声がして、草むらを駆け去る音も聞こえました。どうやらやつにほうきがしたたかに当たり、退散したようでございます。
「やれやれ……」
わたくしはよろよろとほうきを杖代わりにし、立ち上がりました。そして怪我がないのをたしかめると、ひと安心して帰宅しようとしたのですが。
「やあ、おじいちゃん。ぼくを助けてくれてありがとう」
子どもがいるのでしょうか。しかしどこを見回してもそれらしき人影はないようです。
「ここだよ、ここ。切り株のとこさ」
言われたとおり、わたくしは視線を下にやりました。切り株の上では、蝶ネクタイをした白いウサギがいます。小さな身体に似合わない、大きな人間用の懐中時計を首からぶら下げていました。
「これは夢なのか?」
「夢じゃないよ。ボス猫をやっつけてくれてありがとう。あいつ、ぼくの母さんを食い殺した悪いやつなんだ」
「父さんは?」
「ずっとまえ、ジャクソンさんにパイにされたよ。あいつ、もう死んじゃったけど」
ジャクソンといえば、ふもとの村にいた老農夫のことでしょうか。わたくしよりずっと年上の彼は、三ヶ月まえに肺炎で亡くなったのです。
「おじいちゃんはいい人だね。ぼくを見ても捕まえようとしない。だから、お礼をするよ。願いごとをひとつだけ叶えてあげる」
「ウサギごときが魔法など使えるのか?」
「ぼくじゃないよ。鏡の国の女王さまにお願いするんだ。ぼくは女王さまにお仕えする、執事なんだよ」
なんということでしょう!
ウサギともあろう下等な獣が、執事とは。しかも同じ職業。わたくしの誇りがずたずたのボロ雑巾のようでございます。
ひどく悪い冗談を聞いているようで、くらくらとしてきました。ですが、「同業者」という響きが居心地の良い誘い文句になってしまったようです。反射的に愚痴をこぼしてしまいました。
「旦那さまと令嬢のご婚礼支度が忙しくてな。夜食を食べるひまもない。人手が欲しいが、たくさん使用人を雇う余裕もなくてなあ。もうひとり、俺が欲しいぐらいだよ」
ウサギは長い耳をぴくぴく動かし、飛び跳ねました。
「願い事きいたよ。明日の朝には叶っているからね。楽しみにしてて」
ぴょん、と高く跳びはねながら、ウサギは闇へ消えていきました。あとは静まり返ったいつもの森です。
わたくしは何度も目をこするのですが、ウサギはいません。あまりにも気味悪くなり、一目散に逃げました。
朝になりました。
わたくしはいつものように部下の従僕、ベンに起こされ、身支度をいたします。鏡のまえで黒いネクタイを締めるのでございますが――。
鏡に映っているわたくしが、手を差し出します。しかしわたくしはネクタイに手をやっているはず。
怪訝に思いながら、わたくしは頭髪に両手を置いてみました。鏡のなかのわたくしは、腕をさらに伸ばします。
「俺が俺を手伝ってやるぞ」
わたくしは恐ろしさのあまり、悲鳴をあげたのですが、ベンはやってきません。乾燥室で新聞にアイロンをかけている時間でした。
「ぐずぐずするな。忙しいんだろう? 俺が俺を手伝ってやれ、と鏡の国の女王さまのご命令だ」
「そ、そうか……」
どうやら昨夜の白いウサギは、夢のなかのお話ではなかったようです。
怖かったわたくしですが、多忙なのには代わりありません。わたくしならわたくしのことを一番知っていますし、少々、短気で小賢しいときもありますが、悪い男ではございません。わたくしがそう思うのですから、そうなのです。
わたくしは手を鏡のなかへ入れました。すると、もうひとりのわたくし――ややこしくなるので、仮に『執事A』とでもしておきましょうか――が、ひょいとこちらの世界へやって来ました。
Aは言いました。
「よし。そっちの俺は、今日は休暇だ。昨日は胸糞悪い野良猫を追いかけて、疲れているはず」
「そっちの俺は疲れてないのか?」
「疲れてるさ。だから、交代で休憩しようじゃないか。今日は俺、あすはもうひとりの俺」
「なるほど。そうすれば、一日おきだけ仕事をすればいい。さすが、俺だな」
わたくしたちは顔を合わせ、会心の笑みを浮かべました。
翌朝、わたくしは旦那さまの身支度をいたしました。
髭剃りをし、午前用のスーツをお召しになられるのですが、いつもと何ががちがいます。だからといって、どこかどうちがうのかぴんときません。
まさか。
違和感の正体が判明いたしました。わたくしは血の気が引きます。
旦那さまが少しだけ、肩をすくめられました。
「僕の顔に何かついてるのかい、ビクスビー?」
「いえ、ズボンの裾にしわがございまして。お召換えをいたしましょうか」
「ええ? 少しだろ。それぐらいわからないさ」
「さようでございますね」
「なんか、いつものおまえらしくないな」
「それだけわたくしも老いたのでございましょう」
「やっぱりらしくないなあ」
「それより、本日は昼食のあと、教区の牧師さまがいらっしゃいます。ご婚礼の打ち合わせです。相手任せにいたしませんよう、お願いいたします、旦那さま」
「僕、堅苦しいこと苦手なんだよな」
「ご令嬢にとっては、生涯の大切な思い出の日なのですよ」
「わかってるさ。それと、招待客の宿泊部屋も用意しとかないとな。国中から僕の親戚と知り合いが集まってくるんだ。叔父さん、大叔母さん、従兄弟にはとこ……みんな、口さがない連中だよ、まったく。従兄弟がよこした、招待状の返信に、『歳の差結婚をたっぷり祝ってやろう。花嫁ともども楽しみにしておきたまえ。謎の微笑。』って、あった。あいつのことだ、何をしでかすかやら……」
また肩をすくめながら、旦那さまは寝室を出られました。鏡を見ることなく。
わたくしは安堵いたしました。
そう、鏡に映った旦那さまは、パジャマに無精髭という、恐ろしく不格好なお姿でいらっしゃったのです。
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