アーミン・プレストン卿の奇妙なる日常

早瀬千夏

第1話 アーミン・プレストン卿の奇妙なるレッスン



「おい、ビクスビー。ロンドンで評判の声楽家をひとり手配してくれ。至急だぞ」

「旦那さまが声楽を?」

「ほかにだれが?」

 旦那さまが眉をしかめるのも無理ございません。わたくしが三〇年と少々、奉公しておりますお屋敷、プレストン・ホールには、当主でいらっしゃる旦那さましか住んでおりませんゆえ。

 それでもあえて、わたくしは問いたかったのです。 なぜなら、旦那さまは歌うことがとてもお嫌いでございましたから。

「長年仕えているおまえだから、簡単に話してやろう。そのあとで何も聞かなかったことにして、さっさと手配してくれ。いいな」

 そう前置きされて、旦那さまはわたくしに先日の夜会のできごとを語られたのでございます。



 僕はそもそも乗り気じゃなかったんだ。

 でもな、伯母さんがうるさいから、仕方なく……といった出席だったのは、おまえも知っているだろう。

 まあ、ひまつぶしにしてやるか、ぐらいの気持ちで適当に世間話をしていたわけだよ。

 そのなかにはプリチャード男爵と娘の令嬢レイチェルもいたんだが。

 あ、おまえ、その目!

 そうだ、そうなんだよ。

 あのプリチャード男爵にあんなかわいい令嬢がいたなんて、僕はその夜まで知らなかったんだ。

 だからまったく期待もしていなかったのもあるが。

 で、いくらかお話しているうちに、ウィリアム・オズボーン氏のピアノ演奏が始まった。

 あいつ、僕の同級生で、パブリック・スクールにいたころからキザな野郎だとは思っていたが、甘い顔をしてうっとりするような曲を弾いていた。

 それだけならまだよかったが、やつは歌まで披露してな。

 昔から歌はうまかったが、なんでこういうときに。

 そうだ、そうなんだよ……。

 おまえが察したとおり、令嬢レイチェルはどうやらやつに惚れたようだ。

 『わたしも歌が大好きですの。うれしいわ』

 だ、そうだ。

 だったら僕はこう答えるしかないじゃないか。

 『ええ、僕も大好きなんです! 今夜は喉の調子が悪いので無理ですが、つぎにお会いしたとき、ぜひ聴いてください』



 翌々日。わたくしが手配いたしました、声楽家J氏がプレンストン・ホールにやってまいりました。

 まずは旦那さまがどれだけの歌唱力をお持ちなのかを調べられました。声楽家が、先代夫人が亡くなってから弾き手がなかった、ピアノの鍵盤を叩きます。その音階に合わせて、旦那さまが発声されるのですが、なんともまあ一音たりとも合っておりません。そばで様子を見守っておりましたわたくしが、笑いをかみ殺すほどでございます。

「ずばり、お答えいたしましょう。すでに自覚されているとお察ししますが、あなたさまは相当の音痴です。数日で矯正できるのは厳しいと覚悟してください」

 淡々と事実を告げる声楽家でしたが、旦那さまは納得されません。昔から、負けず嫌いなところがございましたから無理もないでしょう。

「わざわざ呼んだ意味がないじゃないか。それでよく声楽家を名乗れるな」

「失礼を承知で申しあげますが、これも商売でしてね。ひどい音痴のお客さまには、はっきりとお伝えしているのです。無理なものは無理。筋金入りの音痴ですから、年単位で練習されないと。あとでどうのうこうのうと、苦情されても私も困るのですよ」

「そんなにひどい音痴なのか? そりゃあまあ、たしかに僕は歌が昔から苦手だったが、ここまで念を押されると自信なくすな」

 旦那さまは大きなため息をつかれて、ソファに沈まれました。

「……令嬢レイチェルと約束したんだ。来週の夜会で歌うって」

「正直におっしゃったらいかがです? 歌うのもピアノを弾くのも苦手だと。音楽だけが縁ではございませんでしょうに」

 わたくしの助言はまったく功を奏しませんでした。

「そんなことできるか! オズボーンのやつに令嬢を奪われるだろ」

「すでにお付き合いされているのでしょうか?」

「それは本人にきいてみないとわからないが。あいつ、昔から女にもてたしな。また奪われるのも悔しすぎるじゃないか」

 『また』という言葉をわたくしは聞かなかったことにいたしました。残念ながら旦那さまは、亡くなった先代に似ておられてとことん不器用な貴公子でございます。二八歳になられた現在でも、将来のプレストン夫人になられる令嬢をお迎えすることができない状況なのです。

「しかし、もてるというオズボーン氏もいまだ独身。ということは、勝ち目ありますよ、プレ――ぐげっ!」

 わたくしは耳聡い声楽家の脇腹に肘鉄を食らわせてやりました。お節介はよろしい。

 たしかに顔と声が素晴らしいオズボーン氏――別名、なんらかの事情があると推察される独身主義貴公子がお相手なら、勝てる見込みはあるやもしれません。ただ、そんな策略すら思いつかないほど、旦那さまは不器用な御方なのでございます……。



 令嬢レイチェルをあきらめきれない旦那さまに、声楽家は特別に猛特訓をほどこすことにいたしました。上手に歌えなくても、せめて人前で披露できる程度になりたい。音痴を克服されるためでございます。

 しかし、克服方法は想像していたより、奇妙でした。

 馬小屋で調達した麦わらを数本束ね、旦那さまの奥歯に噛ませたまま、発声練習です。伸びた藁の両端が白いヒゲみたいでこれまた、わたくしは笑いをこらえながら、お茶の配膳をいたしました。

「あー、あー、あ゛~!!!」

 まるで丘の頂上でヤギがうめいているようです。声楽家は仕事ですから、まったく嫌な顔をしておりませんが、にこりともいたしません。お茶を飲むときも、ひたすら「発声が大切だ」と力説しておりました。

「なぜだ? 音程が合ったほうがいいじゃないか」

 そう旦那さまが問われましたら、声楽家はあっけらかんとおっしゃいました。

「ピアノ伴奏に勝てばいいのです。声の通りが良くなって、自信満々に歌われればいくらかうまく聴こえるものですよ」

「それって、勢いで乗り切る、というやつかい?」

「そうともとれますな」

 旦那さまは頭を抱えられました。「身も蓋もなさすぎる」とうなりながら。しかしあと三日しか残されておりません。正統派で勝負するには時間がなさすぎるのでございます。

 翌日は朝から、ブリキのバケツを頭から被られ、ひたすら発声練習の予定です。ただ、ここでも大きな障害がたちふさがっておりました。

「く、暗いぞ! それに狭い!」

 そうでございます。旦那さまは不器用なうえに、暗所と閉所恐怖症なのです。さすがに気の毒に思ったわたくしでございますが、声楽家はまったく指導をゆるめません。がんがん、と容赦なくステッキでバケツを叩きました。

「ご自分の声と音程をしっかりと、自身の耳でお聴きなさい。音痴にはですね、自分がどれだけ音痴なのか自覚できないのも原因のひとつなのですよ」

「……僕、暗いのと狭いのが苦手なんだ。これは勘弁してくれないか」

 バケツを外しながら、旦那さまはそうおっしゃるのですが、強引に声楽家に被り直されました。それでも旦那さまは覚悟が決まらないのか、またもバケツを外されます。

 いらいらしてきたわたくしは――もちろん、顔は笑みですが、びしっと言ってやりました。

「そんな甘っちょろいことをおっしゃるから、オズボーン氏とやらに負けてしまうのでございませんか。ここはひとつ、死ぬ気になって音痴を克服していただきとうございます」

「おまえまでそう言うのか?」

「悔しくないのですか、旦那さま?」

「そりゃあ、まあ。でも」

「それともこのまま夜会で大恥をかかれますか?」

「それだけはいやだ」

「ではバケツを被ってくださいませ」

「……」

 しぶしぶ旦那さまがバケツを被られ、声楽家がピアノの鍵盤を叩き、奇妙なレッスンが再開いたしました。



 夜会まであと三日しか残されておりません。旦那さまは焦られ――いえ、心を入れ替えられたように、その後も発声練習に精を出されました。食事中も気になされて、ひどいときは寝ぼけたまま朝食の席でバケツを被られたことです。

「おい、前が見えないぞ」

 そうおっしゃる旦那さまのために、家政婦がバケツに二つ、小さな穴をキリで開けました。ちょうど眼のある位置にです。これでいつでもバケツを被られたまま、発声練習ができると旦那さまは大喜びでございました。

 しかし茶が飲めないからと、口の位置にまで穴を開けようとした家政婦をわたくしは咎めもしました。それでは発声練習の意味がないからと。

「僕はいい案だと思ったんだが。残念だった」

 不器用すぎる旦那さまらしい、発言でもございます……。

 そしてなんということでしょう。

 旦那さまはそのまま日課の散歩へとお出かけになりました。わたくしが止めるのもかまわずにです。

「表で発声練習をしたいんだ」

 たしかに庭園や森に知り合いが歩いていることも滅多にございませんが、園丁や森番、村の住人が目撃して噂を広めるに決まっておりますのに。

 無論、翌日から村のパブで「バケツ貴族プレストンくんご乱心」と、大いに盛りあがったそうですが、旦那さまにとって庶民の世界の噂など、痛くもかゆくもないのでございます。



 とうとう明日は夜会にございます。そんな午後、声楽家は大きなため息をつかれました。

「……大変、残念な結果ですが。まったく上達されませんでしたな」

 あまりにも残酷な声楽家の回答に、旦那さまは失望されました。無理もございません。あれだけ必死に練習されたにもかかわず、まったく成果が出なかったのですから。

 気まずいように空咳をひとつして、声楽家はこうもおっしゃいました。

「もちろん、私の指導が未熟だったことも大いにあります。一週間のレッスン代金は請求いたしません。交通費だけで結構です」

 ソファに沈まれた旦那さまの代わりに、わたくしが丁重にお断りいたしました。

「いいえ、うちのプレストンがあまりにも……いえ、それ以上は申しあげないことにいたしましょう。ばかばかしい計画に、辛抱強く付き合っていただけただけでもありがたいです。代金はお支払いいたしましょう」

「いえ、今回ばかりはいただけません」

「いえいえ、旦那さまの面目が立ちません」

「しかし」

「でもしかし」

 わたくしたちは二〇分ばかり譲歩し合って、三日分のレッスン代金を支払うことで折り合いがつきました。声楽家が帰られたあとも、旦那さまはうなだれたままです。あまりにもお気の毒で、声をかけるのもためらわれました。

「なんだよ、ちくしょー。僕だって好きで音痴に生まれたわけじゃない。どうせまた、オズボーンのやつがいいとこどりをして、夜会の華になるんだ。昔から何をやっても、僕はだめだ。それもこれもピアノなんかが存在するからだ。タイムマシンを作って、発明したやつをぶん殴って――。いや、そんなことしてもヴァイオリンがあるじゃないか。それにトランペットも! ああ、なんて僕は運がないんだろう」

 運のあるないは無関係なような気がいたしますが。それだけ旦那さまは困憊されていらっしゃったのございましょう。その場のなぐさめにと思い、わたくしは冗談まじりに申しあげました。

「さようですね。旦那さまがピアノに合わせるのではなくて、ピアノが旦那さまに合わせてくれたら、音痴など存在しないのですにねえ」

「それだ!」

「え?」

 ソファから飛び出した旦那さまの瞳は、いつになく輝いておりました。こんなに生き生きしたお姿を拝見したのは、ほんとうに何年ぶりでしょうか。

「でかしたぞ、ビクスビー。さすがお祖父さまの代から仕えているだけあるな。さらっと、名案を言ってくれるじゃないか。なるほど、その手があったじゃないか!」

 呆然とするわたくしを尻目に、旦那さまはこう命令されました。

「おい、ビクスビー。ロンドンで評判のピアノ奏者をひとり手配してくれ。大至急だぞっ!」



 その後は旦那さまからお聞きしたことをお話いたしましょうか。

 意気揚々と夜会に出席された旦那さまは、約束どおりプリチャード男爵令嬢が見守るなか、レッスンの成果を披露なさいました。ピアノを伴奏したW氏はさすが名手だけあり、旦那さまの曲がりくねった音程を見事に再現されたのです。わずか三時間の音合せにもかかわらず。

 J氏の厳しい声楽授業の甲斐もございまして、堂々とよく通る声で歌われました。あまりにも自信があるように見えたためでしょうか、夜会に出席された紳士淑女がたから、絶賛されたそうです。

「なんて斬新な歌なんだ!」

 そう、口々におっしゃられていました。どなたもお世辞じゃなかったとも。

 喜ばしいことに令嬢レイチェルも惜しみない拍手を送られたそうですが……。

「斬新すぎて、わたしにはむずかしいですわ。よろしければ、本格的に音楽をたしなまれている、従姉をご紹介しましょうか」

 遠まわしに友人宣言をされたようです。そしてその従姉さまは残念ながら、令嬢レイチェルにまったく似ていらっしゃらなかったとのこと。そもそも音楽に興味がなかったものですし、お話が合うはずもないのです。

 同じ日、さらに悲しいことに、令嬢がオズボーン氏と腕を組んで、男爵家の庭で散歩をされていたのを、目撃されたとも。プリチャード男爵夫妻は喜んで見守っておられたそうです。

 ここでお話がすめば、よくある社交界の失恋話で終わるのでしょう。

 ですが、旦那さまの披露なさった歌は、あまりにも斬新でした。

「おい、ビクスビー。『興味ない』とお断りしてくれ。これでもう、何度目だ!」

 旦那さまはいまいましげに、わたくしが銀盆に乗せた名刺を奪い、目を通されないまま放り投げられました。

 アーミン・プレストン卿が不思議な音楽をたしなまれるという噂が広まったのでございます。噂というものは尾ひれがついて大きくなるもの。いつのまにやら、新鋭の作曲家だというお話になってしまい、音楽をたしなまれる上流階級の方々が、お屋敷を訪問されるようになりました。雑誌の出版社が取材に来られ、ひどく狼狽もされました。

 もちろん、わたくしが代わりにお断りしました。ええ、丁重に。



 そんな日々が幾週か続いたころでしょうか。

 旦那さまを訪問する方々のなかに、ウィリアム・オズボーン氏がいらっしゃいました。旦那さまに名刺をお渡しすると、「僕をからかいにきたんだろう。体調がすぐれないから、会えないと伝えてくれ」とおっしゃったので、そのまま氏にお伝えしました。もちろん、後半の部分をです。

 するとオズボーン氏は、どうしても、数分でよいから、と懇願されるので、旦那さまに再度相談して、三分だけなら、という結論が下されました。

「やあ、久しぶりだね。例の斬新な歌がすっかり広まっちゃって、きみも鼻高々――だと思っていたのだが、その様子じゃあちがうみたいだ。パブリック・スクール一番の音痴だったきみが、うまく歌えるはずがないものなあ。伴奏を合わせてもらったんだろう?」

 面白くない顔をされたまま、旦那さまはそっけなく答えられました。

「それで?」

「どうやら図星らしい。これは災難だったな」

「冷やかしなら帰ってくれ。どうしてもときみがたのみこむから、顔を合わせてやったんだぞ」

「ごきげんななめだな。どうせお目当ての令嬢でもいたんだろう。プリチャード男爵令嬢とか?」

「だったら、どうだというんだ」

「いや、僕も失恋しちゃってね」

「へ? うまくいってるんじゃなかったのか?」

 オズボーン氏は苦笑しつつ、肩をすくめられました。

「うまくも何も、僕は罠にはめられたのさ。令嬢には初めから好きな御仁――商売人の息子がいてな、でも男爵夫妻に猛反対されていた。その隠れ蓑が僕だったというわけだ」

「あの令嬢が?」

「かわいい顔してなかなかやるよ。今ごろ、豪華客船のなかで恋人と逃避行しているだろう。僕の名前でチケットをとってるんだから、だれも直前まで疑わないよなあ。喜んで旅支度を手伝ったのが、ばからしすぎて泣けてくる……」

「独身主義のきみが、今度は本気だったというわけかい?」

「僕って自分で言うのもなんだが、女性の好みにうるさいだろう。やっと理想の令嬢にめぐり合えて、しかも向こうから歌を褒めちぎられたものから、すっかり舞いあがってしまったのさ」

「それは気の毒に。抜け目のないきみらしくないじゃないか」

 旦那さまは額に手を当てられ、さらにおっしゃいました。

「じゃああの奇妙なレッスンはなんだったんだ。夜会で音痴――じゃない、斬新な歌まで披露した意味がなさすぎる……」

「やられたな」

「きみこそ」

 しばらく青いため息をつかれる旦那さまたちでしたが、プリチャード男爵令嬢の愚痴で盛りあがると、そのまま意気投合されたようです。オズボーン氏の軽快なピアノが鳴り響き、音程が外れた歌を旦那さまが口ずさみ、どっと笑って、夕食を召しあがりました。

 そしてアーミン・プレストン卿とウィリアム・オズボーン氏の、奇妙な友情が始まったのでございます。

 美味しいポートワインとともに。


おわり

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