鳥の聲、空の唄
東条
ある平凡な日。
町と森の境には、とあるカフェが一軒建っている。一階部分はカフェで二階部分が居住スペースとなっているこの一軒家は昼前からの営業の為、朝早いこの時間はまだ眠りについていた。一階部分に人影はなく、まだカーテンが閉まったままの扉には「準備中」と書かれた小さな看板がかかっている。普段は店の前の道路に置かれている看板も玄関の屋根の下にしまわれていた。その上には小鳥は二羽ほど止まり、身を寄せ合って眠っている。
そんなこの場所に朝を持ってきたのは、森の方角から飛んできた一話の鴉だった。それは二階の窓枠に止まり、こんこんと嘴で窓をノックする。
こんこん、という音に二階の寝室で眠っていた青年は眠りから浮上した。少しうなって寝返りを打つが、窓を打つ音は止まない。それに完全に目を覚ました青年は布団から抜け出し、その窓を覆っているカーテンを開いた。すぐ外に居た鴉は青年を見ると窓を叩くのを止め、青年はそれに苦笑して窓を開く。
「おはようさん。せっかく起こしてくれたけど今日俺大学だから、カフェは午後からだぞ」
鴉の頭を撫でながら言うと、その鴉は少し首をかしげて二度鳴いた。「ごめんごめん」と笑い、近くの棚に置かれていた瓶からクルミを取り出して差し出す。
「お詫び」
鴉は一声鳴くとそれを咥え、そして再び森の方へと飛んでいった。青年はそれを見送ってから時計を見上げ、二度寝するには短いことを把握して少し大きく伸びをした。寝巻を着替え、タンスから出した新しい服に着替える。そして鏡を見てその黒髪に寝癖がない事を確認してから、彼は自室を出た。階段を降り、普段はカフェとして客を迎え入れる空間に入る。複数のテーブルとイスが汚れていないことを確認してから掃除機を持ってきて床を掃除すると、ちょうどいつも起きている時間になった。掃除機を物置にしまい、厨房で簡単な朝食を作る。昨晩の残りのオニオンスープとバターを塗ったトーストだ。そこまで用意して、青年はふと手を止める。
「そういえば…」
小さく呟いた彼は厨房を出るとカフェスペースにある大きな窓を覆うカーテンを開いた。そして鍵を開け、窓を開ける。すぐそこは庭になっていて、いくつかのテラス席と広い花壇があった。サンダルをつっかけて庭に出た彼は花壇の一角にあるキイチゴをいくつか捥ぐ。赤く熟れた実に少し笑みを浮かべながら店内に戻り、それを軽く洗ってから小さな皿に乗せれば、それで青年の朝食は揃った。机に座り、手を合わせてからトーストを頬張る。
「やっぱ、駅前のパンは美味い…」
少し嬉しそうにつぶやきながら、青年はその朝食を完食した。キイチゴは彼の思った通り完熟で、思い出せてよかったと少し安堵している。皿を流しに持って行ってから、青年は籠を持って再び庭に出た。キイチゴを収穫しながら周囲に植わっているハーブをいくつか収穫する。ようやく太陽によって気温が上がり始め、鳥の声があちこちから聞こえた。肩に乗って来たムクドリに声をかける。
「いいだろ、ジャムにするんだ」
その青年の言葉にムクドリは抗議するように一声鳴いた。しかし青年は引くわけにはいかないようで、籠の中から余分な葉っぱなどを取り除きながら「だめ」と言う。
「友達に食わせてやるんだよ、お前らは駄目」
再び抗議するようなムクドリの声は先ほどよりかは少し落ち込んでいた。青年はそれに笑いながら店内へと歩き出す。
「森の中にキイチゴくらいたくさんあるだろ!自分で探せ」
ムクドリを肩に乗せたまま青年は店の中に入った。ボウルを取り出して流しに置き、その上に籠を置いて弱く水をかける。潰さないように優しい手つきで洗う青年にムクドリは何度か話しかけるように鳴き、青年もキイチゴに集中しながらそれに答えた。キイチゴを洗い終えるとハーブと共に小さな鍋に入れ、蓋をした。それから皿やボウルを洗い、横の網に立てかけて手を拭く。時計を見上げると、そろそろ家を出る時間だった。
「ほら、俺大学行くから。来るなら午後な」
ムクドリはそれに答えるように鳴き、開けたままだった窓から出ていった。青年はそれを見送ってから窓を閉め、鍵をかけてカーテンを閉める。そして二階に上がって教材や財布の入ったリュックを背負うと充電器から携帯を抜いてポケットに入れた。階段を降り、店の入り口から外に出る。鍵をかけると店の看板に止まっていた二羽の小鳥が青年を見て鳴いた。青年は鍵をポケットに仕舞いながら小さく笑う。
「おう、ちょっと行ってくる。午後には帰ってくるから」
ぴぃぴぃと鳴く小鳥に笑って、青年は店の前の階段を降りて行った。表の道路に沿って歩き、少し先にあるバス停でバスを待つ。いつもの時間にやって来たバスに乗ると、いつも通り人は誰もいなかった。二十分ほどバスに揺られ、大学前のバス停で降りる。既に人がちらほらといる中、正門に立つ友人を見て青年はそちらに歩を向けた。
正門の前に立っている友人はいつも車椅子に乗っていることが多いのだが、今日は代わりに白杖を持っていた。目は伏せられたままで、普段より近い位置にある顔に、そういえば本来この身長だったかと少し新鮮な気持ちになる。
「ナツ」
名前を呼ぶと、友人は顔を上げた。そして少し首を傾げる。
「リト? おはよう」
「あぁ、おはよう」
青年が答えると、友人はほっとしたような表情になった。杖を突きながら少し手を伸ばし、青年の腕に触れると「ここにいた」と言って笑みを浮かべる。そんな友人に青年は首を傾げた。
「今日は車椅子じゃないんだな」
「え、あ、うん。たまには足を使わないと筋肉落ちちゃうから、たまに歩くんだ」
友人はそう言い、「そうか」と青年は答えて歩き出す。友人は杖で前方の様子を確認しながら歩くので、青年もそれに速度を合わせた。いつもよりゆっくりと歩き、エレベーターで教室へ向かう。その間も二人は身近な会話を交わし、教室について席に座ると友人は深く息を吐いた。青年は教材を出しながら彼に問いかける。
「やっぱり、疲れるのか?」
「ん? まぁね。最近歩いてなかったから、ちょっと疲れちゃった」
友人は照れ臭そうに笑う。それから慌てて青年のいる方向へ顔を向け、眉尻を下げた。
「ごめんね、僕歩くの遅くて。合わせてくれてたでしょ、ありがとう」
「あぁ、いや…気にするな」
青年は少し照れたようにそっぽを向いた。それから思い出したように友人の方を向く。
「そういえばナツ、今日はこの後空いてるか」
「うん、空いてるよ。どうしたの?」
「庭でキイチゴが採れたからジャムにしようと思って。まだうち来たことないだろ」
「あ、いいなぁ。行っていいの?」
「もちろんだ。味見頼んだ」
「はーい」
友人はにこにこと笑い、青年もそれにつられて少しだけ笑った。教室に入って来た他の生徒たちがめったに見ない青年の笑みに二度見をするが、二人はそれには全く気付かなかった。
青年、倉木理人は大学に通いながらカフェを営んでいる青年である。元々は両親がカフェを経営していたのだが、諸事情により彼が継いだのだ。幸いなことに大学までバスで二十分という距離だったので学業と両立できている。そんな彼には、他の誰かにはない特技があった。
いや、特技と言うよりかは特性と言う方が正しいかもしれない。彼は、鳥類と話をすることが出来た。ドリトル先生のように全ての動物を話が出来るわけではないが、鳥類ならば今のところペンギンまでとなら話をすることに成功している。しかし彼或いは彼女は日本語が分からなかったので英語だった。恐らくたくさんの言語を覚えたなら他の国の鳥とも話が出来るだろうと彼は考えている。
その特性からか、彼は昔から友達がいなかった。少なかったどころの話ではない。いなかった。友達は鳥だけで、全ての学生生活で彼は一人を多く経験した。実際は彼の顔立ちが整っていたために話しかけたくても話しかけられない女子が多かったことと口下手なので必要なこと以外話さなかったために慣れあいを好まないと判断されていたのだが、彼はそれを知らない。
そんな彼に出来た初めての友達が大学の入学式で出会った青年、六条那月。通称ナツである。車椅子に乗った彼が入学式を行う大きな体育館の段差で困っていたのを理人が見つけ、声をかけてから親しくなった。穏やかな性格の那月は目が見えないものの頭が良く、勉強するためにこの大学に来たという真面目な学生である。それはただ学歴を持っていると就職に有利だからと言う学生を嫌う理人にとって大変好ましいものであり、こうして待ち合わせて一緒に行動することが多くなった。那月一人だと不自由が多いことも理由の一つではある。
理人は出会って一か月ほどで那月に自分の特性を告白したが、結果は不思議に思われるのでもなく距離を置かれるのでもなく、ただ屈託のない笑顔と「毎日賑やかで楽しそうだね!」という言葉だった。それから早くも二年の付き合いである。お互い未だ彼女は居ない。大体は理人が継続して周囲から誤解されていることと那月がどんなに色仕掛けしようとしても見えなくて効果がないためなので、実は女性から狙われていることを二人は知らない。
そしていつも通り講義を真面目に受けた後、二人はバスに乗って理人のカフェへとやって来ていた。扉の鍵を開けて大きく開きながら、理人はきょろきょろと周囲を気にしている那月に声をかける。
「玄関で靴を脱いでくれ。すぐ一歩先にスリッパがある。手伝うか」
「ううん、大体の位置が分かれば平気だよ。杖は使わない方がいいかな」
那月は杖を壁にたてかけ、手探りでスリッパを探すと靴を脱いで段差を上がった。しっかりと靴の向きを揃えている辺り、ちゃんと育てられたのだろうと理人は思う。立ち上がって手をふらふらと伸ばす那月はすぐに壁を見つけ、きょろきょろと首を動かした。
「リト、どっち?」
「もう少し右に進むと扉がある。そこから…あぁ、いや、掴まれ」
説明しようとして難しいことに気付いた理人が那月の腕を掴むと、彼は「ありがとー」と言いながら理人の二の腕を掴んだ。目の見えない人間にとって手を繋ぐよりこの触れ方の方が歩きやすいと以前教わっていたのである。理人はゆっくりとした足取りで進み、たまにテーブルや椅子に当たらないように確認しながら店内を歩き、一つのテーブルの前で止まった。するとすぐに那月は手を離し、手探りで椅子を見つけてそれに座る。
「ありがとー、リト」
「別にいい。珈琲でも淹れる」
「やったー。ミルクだけ入れてほしいな」
那月はにこにこと笑って言った。理人は頷き、厨房へ行って水を入れたヤカンを火にかけると道具を持って戻ってくる。焙煎済みの豆を瓶から取り出してミルに入れ、ゴリゴリと挽き始めると那月は首を傾げた。
「コーヒーの匂いするけど、何してるの?」
「挽いてる」
「ひく?」
「豆を砕く。珈琲豆を焙煎して、挽いて、お湯を入れてコーヒーになる」
理人が説明すると、那月は何故かパチパチと拍手をした。どうやらコーヒー関係の話には詳しくないらしい。少しの優越感に浸りながら挽き方の説明をして、更にネルで淹れたコーヒーの美味さについて語っているとお湯の沸いた音がした。理人は一度話を中断し、お湯を持って戻ってくる。
「で、普通は紙で入れるのが多いんだけど布の方が格段に美味い」
「リトは詳しいんだねぇ」
那月はゆらゆらと体を動かしながら言った。ネルに挽いた豆を入れ、ポットの上でお湯を注ぐと途端に濃くなるコーヒーの香りに二人はほぼ同時に息を吐く。
「いい匂いだね」
「だろ。ネルドリップが一番美味い」
「楽しみだなぁ」
蒸らしながら少しずつ抽出をするこの時間は理人にとってとても楽しい時間だった。お湯を注ぎ終わり、ネルを脇の皿に置く。ポットからカップにコーヒーを移し、自分の物には何もいれずもう一つにはミルクを入れてから那月の前に置いた。
「ほら。気をつけろよ」
「わーい、いただきます」
那月はゆっくりとテーブルに手を滑らせ、カップを見つけて持ち上げた。そして口を近づけて、不思議そうに問いかける。
「あんまり熱くないんだね?」
「熱すぎると味覚が鈍るから」
「へぇ、そうなんだ…」
那月は数度息を吹きかけ、そして口をつけた。そのまま二口ほど飲み、神妙そうに見守っていた理人に笑みを向ける。
「とっても美味しいね、リトはすごいや」
「本当か、よかった。本当に美味いコーヒーは熱くても冷めても美味いんだ。まだたくさんあるから飲んでけ」
「ありがとう。君ってコーヒーの話題の時饒舌だね」
「…」
ついテンションが上がってしまっていたことに気が付いた理人は口をつぐむが、それに那月は小さく笑った。そして周囲を見回すように首を動かし、理人に問いかける。
「ところで、さっきから窓を叩く音がしてるけど、風強い?」
「え?」
理人はそれを聞いて立ち上がり、そしてカーテンを開いた。そこにはムクドリが三羽ほどいて、抗議するように何度も窓をつついている。そういえば午後から店をやるって言ったな、と思いながら理人は窓を開け、ムクドリたちに話しかけた。
「悪い、コーヒー淹れてたんだ」
『コーヒーまめくれるの?』
「いや、お前らじゃなくて友達に。どうせ苦くて食えないだろ」
『たべたことなーい』
「どうせ食えないから辞めとけ」
ムクドリたちは少し抗議するように鳴いたが、理人は慣れたように適当にあしらう。と、座ってコーヒーを飲んでいた那月が問いかけてきた。
「リトー?」
「なんだ」
「お話してるけど、ことりさん?」
理人はその言葉に那月の前で話したことがない事を思いだした。ムクドリを手に乗せ、先ほどまで座っていた椅子に座る。ムクドリはテーブルの上に降りると可愛らしく鳴いた。
「わ、可愛い声」
「ムクドリ三兄妹」
「へぇ、ムクドリか。ちっちゃい?」
コーヒーを飲み干した那月が手を伸ばすと、一羽のムクドリがその手に乗った。「わ」と声を漏らしてあたふたする那月に理人は笑い、他の一羽の頭を撫でる。
「わ、わ、あったかい」
「こいつらに埋もれて寝てみたいよな」
『つぶされるのはいやー』
『このひとがおともだち?』
「そう」
『おともだちいたんだねー』
「失礼なこと言うな」
ぺし、と失礼な事を言ったムクドリの頭を軽く指先で押さえると那月は首を傾げた。自分の手の上に乗っている鳥の頭を撫でながら問いかける。
「その子なんて言ってたの?」
「俺に友達いたんだねってさ」
理人が少し不機嫌な声で言うと、那月は声を上げて笑った。
「笑うなよ」
「あはは…ずけずけ言うんだね。面白い」
『このひといいひとーおててきもちー』
那月に撫でられているムクドリは気持ちよさそうに目を細めて小さく鳴いた。見えないので撫で方も慎重なのだろう。理人は自分のコーヒーを飲みながらそう思った。
この店に、あまり客は来ない。場所が町から離れているからか、ご近所さんが散歩がてらやって来る程度で同年代の誰かが来ることは今までなかった。しかし大学で出来た初めての友人が今は目の前に居る。自分の淹れたコーヒーに美味しそうに笑うのは胸が暖かくなり、いいもんだな、と理人は思った。
「ナツ」
「ん、なぁに?」
声をかけると、すぐに那月は顔をあげて首を傾げた。理人はてくてくと寄って来たムクドリの頭を人差し指で撫でながら、少し小さな声で言う。
「また誘ったら、来てくれるか」
理人の言葉は、他の誰かよりも視覚以外の優れた那月にはちゃんと聞こえたようだった。柔らかく微笑んで、一つ頷く。
「誘ってくれなくても、一人で来ちゃうよ」
「いや、それは危ないからやめて」
「君って結構優しいよね」
すぐに言った理人に那月は笑う。にこにことしている彼に少し調子が狂い、理人は照れ臭そうに口をとがらせてカップにコーヒーを注いだ。そして口に運ぶ。まだそれは暖かく、そしていつもよりも美味しいような気がした。口元に浮かぶ笑みに、ムクドリが小さく飛び跳ねる。
『おともだちといっしょ、たのしいね』
歌うように言ったムクドリの声は、柔らかくその空間に響いた。
鳥の聲、空の唄 東条 @tojonemu
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