第2話
「しっかりと閉じ込めて来てくれたかい?」
「そりゃ、もう!」
ピッと親指をを立てる助手。
「この屋敷の一番陽当りのいい部屋で、ふかふかのソファ。お気に入りのクッションを並べて、モチロン足元にはカルベール焼の花柄のお皿にささみのお肉をこんもりと盛って来たからね! これでひとまず機嫌が直るといいけど。それにしても――」
「散々な目にあったね、
笑いを噛み殺し、最大限優しい声で慰める。
「でもまあ、被害を被ったのが依頼人から預かった〈猫〉でなくて良かったね? 流石、興梠さんだ! 身を挺して護るとは! 責任感が違う!」
「いや、ハナから、あいつは僕を狙ってたからね」
(そう、俺だけを狙っていた……)
ストップモーションのように鮮明に思い起こすことができる。抱いている猫から両手を離せないのを知って一直線に顔面に飛びついた黒猫……!
「ところで、一体全体、その猫、どうしたのさ?」
「名前はアート。女の子だそうだよ」
今現在、傷の手当てを続けている最中も――そもそも志儀が探偵の顔面から黒猫を
「うむ、それがね……」
「へええ! そりゃまた奇妙な依頼だな!」
助手に絆創膏を貼るのを手伝ってもらって
「ふう! こんなもんかな?」
救急箱の蓋を閉め、痛々しい探偵の顔から腕時計に目を移す。
「で、どうするのさ? 今日は、この興梠探偵社にしては〝珍しく〟予約が入っていたよね?」
それ故、中学から帰るや早々にノアローの散歩を終えて来た志儀なのだ。
「数少ない、
「行くとも!」
探偵はきっぱりと――但し絆創膏のせいでくぐもった声になったが――言い切った。
「何しろ、
日頃冷静な探偵にしては珍しく興奮を隠しきれない。肩が小刻みに震えている。
「その邸内に一歩足を踏み入れることができるだけでも光栄の極みだ! こんなチャンスを逃してたまるものか!」
「でもさ、その猫はどうするの? 膝の上から動きそうにないけど」
試しに志儀が抱き下ろそうと手を伸ばした途端――
「シャア!」
威嚇された。
優美なだけに迫力がある。
「ブルル……」
雪の女王に凍える息を吹きかけられたごとく身震いして志儀は呟いた。
「奇妙なこともあるなぁ。どうやらこの猫、興梠さんのこと好いてるみたいだ! もしくは、物凄く信頼してる?」
少年は唇を舐めつつ、
「ノアローがあんなだから、僕、興梠さんてば、世界中の猫に嫌われてるのかと思ってたよ」
「イタタ。フシギ君。君の爪も相当なものだよ」
助手は探偵のシニカルなジョークを無視した。
「じゃさ、直接、興梠さんが命じてみるのはどうかな?」
裏返るコントラバス。
「な、な、な、なにをだい?」
「『これから仕事だから膝から降りておとなしく待っていなさい』ってさ」
「ううむ、猫が……この美しい猫が……僕の言うことを聞くだろうか? 自慢じゃないが、自分の飼い猫すら僕の言葉に従ったことはないのに」
「物は試しさ。ほら! ちゃあんと名を呼んで話しかけてみなよ」
「コホン、……アート。僕は仕事に行くよ。いい子だから……」
なんと!
白猫は初雪のようにふうわりと膝を飛び降りて、ソファに丸まった。
「泣いてるの、興梠さん?」
「馬鹿を言いたまえ、フシギ君」
「ふううん? 絆創膏も役に立つんだね! 大丈夫、喜びの涙は脱脂綿に吸い取られて全然見えてないからね」
「いやぁ! 探偵とは聞きしに勝る大変なお仕事のようですね!」
その、絆創膏に覆われた探偵を見た依頼人の第一声である。
こんな身を押してまでも探偵が来たかった山浦邸とは?
帝大で美学を修め、芸術をこよなく愛す興梠響にとって、そこは文字通り〈憧れの御殿〉〈夢の城〉だった!
つい数年前完成なった新邸は、屋上の一部に三階を設けた鉄筋コンクリート二階建て。
まず外観からして素晴らしい。ほとんど装飾を廃しシンプルに徹している。
一方、内装はA・ラパン、R・ラリック……層々たるアーティストが担当した。
これぞ、現在欧州で大流行の〈近代建築〉、模倣ではない、
この邸を建てた
蓄えた財産は言うまでもないが、何より重要なのは、日本を代表する美術品コレクターとして知られていること。
前当主・山浦邦臣氏は洋の東西の名画を買い集め、所有しているのだ。
帝都のM方氏、倉敷のO原氏、そしてK市の山浦氏……
昭和のコレクター〈御三家〉として美術愛好家の間では名を馳せていた。
《前》当主と断ったのは、最近、亡くなったからだ。
「本日は怪我を押して……そのようなお身体で……我が邸まで足をお運びくださり、感謝いたします」
新当主・
年齢は30歳前後。中肉中背で何処と言って特徴がない。眼光鋭く荒鷲のように精悍だった前代の容貌は受け継がなかったようだ。
「お気遣い無く」
「そうです。お気遣いなく! だって、これはギャングと格闘したとか、チンピラとヒトモメしたとかいう
「君は黙っていたまえ、フシギ君」
少年の膝を抓ってから、興梠は改めて向き直る。
「失礼。こちらは僕の仕事を手伝ってくれている助手の
「よろしく! 新当主、山浦さん! お見知りおきのほどを!」
「ふむ?」
ここでノックの音とともにドアが開き、年配の執事がお茶の盆を掲げた若いメイドを引き連れて入って来た。
メイドがテーブルにお茶を置いて行く間に当主、
「これが
老執事が探偵たちに頭を下げるのを待たず英和は舌打ちした。
「おい、小諸。他にメイドはいなかったのか? こいつは今朝、朝食の席で大失態を演じたろう? ったく、手を滑らせて我が山浦家の高価な茶器を割るとは! 勿論、その分、給金から差し引くように」
お茶を出し終えるのを待って祓うようにサッと手を振った。
「こっちはもういい。小諸、おまえも呼ぶまで外してくれ。ここからは僕たちだけで話したいことがある」
「かしこまりました、旦那様」
使用人たちが退出するのを待って若き当主は切り出した。
「では、即急に本題に入らせてもらいます。奇妙な依頼をすると思われるかも知れませんが――」
「ご安心ください。探偵への依頼は大体において奇妙なものですから」
「うん。特にウチはね」
「父が先日亡くなったのはご存知でしょう?」
探偵が何か言う前に英和は片手を挙げた。
「何、今回の依頼は遺言状に
グッと胸を逸らす。
「この家屋敷はもちろん、全不動産、全財産、そして、所有する美術品の一切は一人息子の僕が譲り受けました」
「それは、素晴らしい……」
「だが、しかし」
一瞬、当主は言い淀んだ。さっきの誇らしげな様子と打って変わってキョロキョロと視線を
「父は、臨終の際、腑に落ちない不思議な言葉を口にしたんです」
「?」
前夜からほとんど昏睡状態だった
「芸術に訊け!」
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