小指に包帯
あさき
第1話 物音
深夜を少し回ったころ、隣の部屋がなんだか騒がしいことに気が付いた。目を通していた書類をテーブルに置き、玄関先へ出る。この狭く安いワンルームは、玄関先まで出れば、隣の音など丸聞こえなのだ。
「荷物はこれで最後です。お引越しお疲れさまでした」
威勢の良い男の声が聞こえると、扉の閉まる音が聞こえ、廊下に数人の足音が響く。
「佐伯さん、何もこんなところに身を隠すようにしなくてもよいのに。別に今回のミスだってあの人のせいじゃ」
「しっ、聞こえるぞ。佐伯さんにも立場があるんだ。俺たちがどうこう言う立場じゃねぇよ」
次第に、足音が遠のく。
「今時間に引っ越しねぇ……」
なんとも、穏やかじゃない状況は感じ取れた。とりあえず、こういうのは関わらないのが一番だ。
なんて、そう思いながらも、なんとなく隣の住人の顔を見てみたくて、この日からベランダに出て煙草を吸うようになった。隣との壁が低いこのベランダでは、互いがベランダに出れば、会話どころか、行き来も可能である。
隣の住人がベランダに出てくれる保証があるわけでもないが、たまたま自分がベランダにいて、相手が出てきてしまって顔を見たって状況を作り出せればなんてことない。サスペンスや人情物語を、テレビや小説で見るのが好きだった。けれど、自分が関わりあうなんて面倒なことはしたくない。
だからこそ、いろいろ想像して楽しみつつも、なんとなく深い事情がありそうなお隣さんを、自分から訪問して顔を見る勇気などなかった。
冬が近づいているこの頃、寒さに心折られそうになりながらも煙草の煙を燻らせた。このセキュリティ重視の時代にこんなにも甘々な物件。けれど、後先考えない独り身な俺からすれば、安くてありがたい家だった。
その日から、隣に人が住んでいる気配はわかるものの、話し声や外出する様子を見ることはなかった。ベランダで煙草を吸うのも寒さに負け、1週間で止めた。
今までと何も変わらない生活が続いた。それでも、ふとした物音に何の気なしに隣の住人のことを考えてしまう。いらぬ好奇心だと分かっていても、一度顔を見たいという衝動が増していた。
それから、中々隣の住人は姿を現さず、引っ越しから1か月が過ぎた。
ある日の早朝。インターフォンで目が覚めればいかにも怖そうな人たちが、ドアの前に立っていた。
「どちら様でしょう」
寝ぼけたまま応対したのが悪かった。ドアチェーンもつけず開いたドアに、すかさず腕が割り入って大きく引かれる。ドアノブを握ったままの俺は引かれるままに、目の前の男の胸にダイブをしてしまった。
「うわっ、すみません」
背の高い男。筋肉質でスーツを着ていてもその体格の良さがわかる。赤に近い茶の髪に、薄い黒のサングラス。耳元に幾つも付いたシルバーのピアスが特徴的だった。
男は強い力で、俺の両肩をつかむと体勢を直してくれる。しかし、その腕は中々肩から離れない。
「あの、いったい……」
「お前がこの部屋に住んでいるのか?」
低い声、10センチ程、俺より身長が高い男は、見下ろしながらそう言った。
「痛い目にあいたくなければ、正直に話せよ」
段々と男がつかむ腕に力が入り、腕がミシミシと音を鳴らすのがわかった。あまりの痛みに顔が歪み、痛みに耐えようと噛んだ唇からは血が滲んだ。
「あいつを、匿っているんだろう?」
「な、んのことです…か」
痛みと恐怖でのどが絞まり、上手く話せない。
「隠し通すというのなら、それでも構わんが、場合によっちゃあ、ただではおけんな」
そういうと、男は顎で合図をして、後ろに控えていた同じくスーツの男たちを部屋へと入れた。ばたばたと土足で割り入った男たちは、俺の部屋を物色していくのがわかる。
目の前の男は、俺から手を離さない。それほど力を入れているようには見えないのに、俺が抜け出せないのは、自分の日々の運動不足なのか、相手の圧倒的な力のせいなのか。
俺は散々に荒らされていく自分の部屋と、俺をつかむ怖い顔をした男とを交互に見ながら、その妙に静かな時間を過ごしていた。
「居たか?」
「いえ、見当たりません」
10分位経った頃だろう。男の言葉に、狭い部屋を荒らし終わった男たちの言葉が続く。目の前の男は、顔を歪めた。
「噂は本当なんだろうな」
「はい、この部屋に出入りしているのを、見かけたという情報が入っていたのですが……」
すまなそうに話す部屋を荒らしていた男達。何かの勘違いがあってなのか俺の部屋に探し物をしに来たのだろう。狙われるような変わったことがあっただろうかと、ここ数週間を巻き戻してみても、何もない退屈だった日々しか思い当たらない。
能天気に自分の過去を遡っていた時だ。
ガンッ、という音と共に、近くにあったごみ箱が、凹んで飛んでいくのが目の端に映る。
「どこにやった」
更に低い声で、男はそう俺に向かって放つと、腕の力を強めた。襟元が引っ張られ、喉が絞まる。次第にすーっと、血が通らず、自分の指先が冷たくなっていくのがわかった。
「っ…さっきから、貴方たちは何を」
「とぼけんじゃねぇ。俺から
鳩尾に鈍い痛み。今まで聞いたこともない鈍い音とともに、鉄臭い液がせりあがってくる。しかし、喉が絞められているのもあり、吐き出したいのか、息をしたいのか、自分で自分の体がどうなっているのかわからなくなっていた。
そんな状況の中でも、怒号にサングラスが下にずれ、男の鋭い眼光が俺に向けられているのがわかる。冷たい視線に自然に体が震える。
「なんか言ったらどうなんだ、あぁ?」
「羽柴さん、落ち着いてください」
そんな俺を、壁に打ち付けようとしたのか、力強く動いたところを、室内を捜索していた何人もの男たちが必死に止める。
「うるせぇ、止めんじゃねぇよ。それよりお前ら、湊人の捜索が先だろうが」
「で、でも、さすがにやばいですよ」
不意に、サイレンの音が聞こえた。それと同時にいくつもの声と足音。この騒ぎに近くの人が様子を見にでも来たのだろう。あちらからすれば、土足で入っている男たちに囲まれ、吊り上げられている俺が見えるはずだ。
「あーめんどくせぇな、いったん引き上げる。誰か、こいつの見張りしとけ。あと、あのサイレンも誰か止めてこい。残りの奴は俺と一緒に本部に戻るぞ」
ばたばたと玄関を出ていく男たちに、ひぃと小さな悲鳴が漏れ、住民がそそくさと面倒ごとにかかわりたくないかのように、去っていくのが見える。残ったのは、俺と、見張りに立候補した一人の青年だけだった。
体格の良い男が、俺を地面に下していった。急に自由になった喉に空気が入るが、上手く息ができずに何度もせき込んだ。
青年は部屋のドアを閉め、鍵を閉めると、そんな俺の背をなで、落ち着くと水分を進めてくれた。
「あの、お腹見せてもらってもよいですか?」
ほかの奴らと同じ、スーツを着た男。細身ながらも、その言葉に頷いた俺を抱き、奥のソファまで運び込んだ足取りは確かで、ゆっくりと俺をソファに座らせるとさっき殴られた腹を診る。
つられて俺もそこに視線を移せば、紫に変色していた。
「息は普通にできますか?」
「あぁ、横になれば」
「こうすると痛いですか?」
「っ、うっ」
男が腹に触れば、体が跳ねるほどの痛みが広がった。先ほどより落ち着いた状況のせいか、恐怖に引っ込んでいた痛みが戻ってくる。
「私は医師の資格を持っているので安心してください。薬も仲間に頼んでここに持ってきてもらいます。あなたは安静にしていく必要がありますね」
「あぁ、半端ない痛みだ」
冷汗が止まらず、だんだんとめまいが広がっていくのがわかる。
「あなたが逆らわない限り、私はあなたの味方です。よろしいですか」
そんな男の言葉に小さく頷いて、俺は痛みの奥に意識を落とした。
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