海が見たくて
黒猫くろすけ
第1話
突然、海が見たくなった。
「ねえ、海を見に行かない?」
毛繕いをしているクロを誘ってみたけれど、彼女は尻尾で軽くボ
クの誘いを断ると、大きな伸びをしてから自分の指定席で丸くなっ
た。
もう一度声をかけようかなと思ったが、これ以上続けると彼女の
機嫌が悪くなるのは目に見えているし、手の甲の傷が増えるのも、
もうイヤだ。
「いいけどね。本気で誘ったわけじゃなし」
まあ、そうだろうな。もし、ついてくわ、という話になっても、
途中で飽きて帰るのは必然だろうし、車の事故も心配だ。やっぱり
家でのんびりしているのが彼女の正解なんだろう。
自分をそう納得させてから、ボクはいつものように一人で出かけ
ることにした。ニットキャップを被り、ダウンジャケットを羽織っ
たら、冬場のお出かけスタイルの完成だ。
「じゃ、ちょっと行って来るね」
挨拶は大事だから、丸くなって眠りに入ろうとしているであろう
彼女にも声をかけた。彼女もそう信じている部分があるはずだ。猫
は礼儀を知っているから。
彼女のミャッ、という返事を背中で聞いてから、ボクはウォーク
マンのヘッドホンを耳にして、スニーカーを履いた。左腕のGショ
ックは九時ちょっと過ぎを示している。
玄関を開けると、日差しが目に眩しかった。まだ冬とは言え、も
う春も近いこの頃では、暖房がついてない部屋の中よりも、外の日
差しの中の方が温かい位だ。
こんな時の音楽は……やっぱりヴィバルディの四季、春が相応し
いかな?
曲を選んで、ウキウキ気分で顔を上げて歩く。しかし三分も経た
ずにすぐに気分は、違う曲にしなよとボクに命じる。やっぱりまだ
春は早かったのだろう。で、曲を変える事にした。季節に関係のな
い明るい曲が聞きたい。ジャズの方がいいかな? う~ん……
道の真ん中でひとり立ち止まってウォークマンの操作をしている
と、後ろから来た車にクラクションを鳴らされた。
ぺこりと頭を下げ、脇によるとすぐ横で車も止まる。ん? と思
い運転手の顔を見ると、幼馴染のペケがニカリと白い歯を見せて笑
っていた。かかっている音楽は、相変わらずの七十年代ロックだ。
もろに親父の影響を受けてって、前にペケが言っていたっけ。軽の
商バンに大音量のロック。
でも、この曲は……レッドツッペリンの天国への階段だった。ギ
ターの美しい旋律が、軽のバンから流れ出ていた。周りの空気も急
に色を帯び出したかのように感じられる。
「よう! 何してるのお前?」
ペケは昔から何一つ変わらない調子でボクにこう訊ねた。ペケ。
もちろん本名じゃない。何をしてもダメの×。つまりペケだ。でも、
とっても気持ちの優しい、いい奴だ。
「何してるって別に。あ、そうだ、海を見に行くんだ。ペケも行か
ない?」
そう言ったボクに
「お前は相変わらずだな。俺は今から一仕事。配達があるんだ。ま
たな」
そう言うとエンジンをふかして車は行ってしまった。天国への階
段のメロディと共に。
相変わらずか。ふふ、どういう意味なんだろうな。そうだ、そん
な事よりも曲の選曲だったな。季節に関係なく、明るい曲調で今の
気分に合うジャズは?
ちょっと考えてからサッチモの聖者の行進を選んだ。多分、さっ
きの天国への階段に影響を受けたのかもしれない。でも、うん!こ
れこれ、いいね。
ボクはまた顔を上げて道なりに歩いてゆく。
ああ、母国語が日本語で良かった。この歌の歌詞は物悲しいもの
だから。ボクは一人で海までの道を行進している。聖者はいないね。
はは、当たり前だ。
暫く歩いていると、大きな木の下、陽だまりで、白い猫が気持ち
良さそうに香箱を組んでいた。白い毛が午前中の陽を浴びて、虹色
に光って見える。
曲は、聖者の行進が終わり、シャッフルで、ショパンのノクター
ン第二番に変わっていた。ああ、同じショパンでもエチュード二十
三番の木枯らしじゃなくて良かった。
「こんにちは。白猫さん。ご機嫌いかが?」
白猫はチラッと僕を見たけれど、また目を閉じてしまう。
ああ、やっぱりみんな忙しいんだな。でも、尻尾をちょこちょこ、
と振ってくれたのは、やっぱり挨拶を大切に思っているからなんだ
ろう。距離感、そして挨拶。猫はやっぱり大したものだ。そんなコ
トを思っていると
「その子、ちーちゃんっていうのよ」
そう、後ろから声をかけられた。ヘッドホンを片方外してから振
り返ると、小学生、それも低学年らしき女の子が、白猫を指差して
満面の笑顔で立っていた。
ボクは一瞬、現実と空想が交じり合ってしまったのかと思った。
だって、こんなタイミングで、こんな出会い。いつもボクが想像し
ていた天使様の笑顔と彼女のそれが、リンクしてしまったんだから。
「天使様……じゃないよね? あ、これは失礼。こんにちは、お嬢
さん」
ボクは自分の意識をしっかり保つように、お腹に力を入れてから
そう挨拶をした。
そう、突然現われた女の子。紺のブレザーとスカート、ベレー帽。
背中にはオリーブ色の鞄を背負ってる。胸元の臙脂のネクタイが洒
落ている。
確か、駅の向こうの、私立の某有名女学館の制服だ。それにして
も、もう授業は始まっている頃なのにな。堂々と遅刻かな? そん
なコトを思いながらもその少女にもう一度会釈をすると、彼女も紺
のスカートの裾をつまんでから軽くお辞儀をした。
それからその白猫に近づき、撫でながら
「このコね、もう十六歳になるの。人間で言ったら八十歳を過ぎて
るんですって」
ちーちゃんは、目をシバシバさせてから一言にゃ~と言った。
「あ、ごめんなさい。そんなつもりは無いの。ただ、長生きで健康
なのは素晴らしいって思うの。だから」
少女は慌ててちーちゃんの目を見て謝った。
ふむ。彼女もやっぱり猫の言葉が理解出来るし、礼儀もわきまえ
ているんだな。
「ふふっ、そうだね。長生きで健康なのは、生き物として最高の喜
びさ。でも、女性に齢の話題は相応しくなかったね」
ボクが敢えて言葉に出してそう言うと、彼女はもう一度ぺこりと
頭を下げた。
それからボク達は、二人並んで歩いてゆくことにした。進行方向
がどうやら同じみたいだったからだ。
「で、おじさんは、いや、お兄さんかな? お兄さんはこれからど
こに行くのですか?」
少女は自分の足元を見つめながらそう言った。
「ハハ、好きなように呼んでくれればいいよ。でも、出来ればマイ
って呼んでくれれば嬉しいかな」
「マイさん?」
少女は視線を足元からやっと上げてボクの顔を見た。
「ああ、ボクはいつもマイペースだからマイって呼ばれてるんだよ。
だから、プリーズ・コール・ミー・マイ。OK?」
そう答えたボクに少女も
「あ、わたしは少女Aって呼んでください。まだ初対面ですから。
そんなに安い女でもないですし」
と、すまし顔で言った。
ボクは了解の返事のかわりにもう一度頭を下げた。それからさっ
きの彼女の質問に
「ボクは今から海を見に行くんだ。で? 少女Aさんは?」
ボクの問いかけに、彼女はほんの少し眉をしかめると
「わたしは……そう、今日は開校記念日で休みなんです。だか
ら……」
視線はまた足元に戻ってしまう。
「ふうん、そうなんだ。じゃ、少女Aさんはきっと散歩中なんだね」
たぶん彼女は嘘をついてる。それは分る。けれど彼女にはそう答
えるそれなりの理由があるんだろう。そこには立ち入らない。それ
が礼儀というものだ。そうだよね、クロ?
家に居るクロが、にゃぁ、と返事をしたような気がしたけれど、
それはあくまでもボクの想像だ。
彼女はもう一度視線を上げると少し微笑んだ。それから
「マイさんって、優しいのね」
と言った。そして少し目を伏せながら続けた。
「マイさん、わたしもお供していいですか? その、わたしも海を
見たい気分なんです」
「もちろん! 旅は道連れ……って、旅って言う程でもないよね。
でも喜んで!」
そう言ったボクに彼女はもう一度微笑んだのだ。
そういう訳でボクたち二人は並んで海までの道を歩いてゆく。ヘ
ッドホンはもちろん外していた。このまま川沿いの道に出て、暫く
行けばそこには海があるはずだ。
川沿いの道に出ると雰囲気が一変した。川の両側には桜並木がキ
レイに並んでいる。
「あ! なんだか桜餅のにおいがする。ね? そうじゃない?」
少女Aの言う通りだった。桜の木に花はまだ無い。けれど、今は
まだ堅く小さい蕾がその為の準備をしているのだろう、辺りには桜
の匂いが立ち込めているのだった。
「ねえ、マイさん、マイさんは桜の花が好き?」
少女Aが突然こんな質問をした。視線は足元。ん? ボクは慎重
に考えながら言葉を選ぶ。
「うん。桜の花は好きだよ。だって、桜の花にはそれだけじゃない
ものがあるからね」
「どういうことですか?」
「つまりね、桜の花は花自体キレイで好きだけれど、桜の花を見る
とこれまでの色んな思い出が同時に湧き上がるからさ」
「ふうん……」
少女Aはちょっと考えてから
「わたしは桜の花はあまり好きじゃありません。確かに満開の時は
美しいと思います。けれど、咲いたそばから散り始めるでしょ?
その花びらが路脇の側溝なんかに溜まってるのを見ると何だか悲し
くなるんです。それに……」
「それに?」
「桜の花言葉を知ってますか? 優れた美人、豊かな教養、淡白、
気紛れ、なんですって。だから桜の花って、総てを計算しつくした
したたかな女性って気がするんです」
彼女は少し怒ったような顔をした。
「ふうん。じゃ少女Aさんが好きな花はなに?」
今度は顔を上げて嬉しそうに答える彼女。
「わたしはやっぱり梅が好きです。痛いほどの冷たい空気の中で、
灰色の世界にぽっと紅を差す梅。早春を告げる清清しく甘い香り。
それでいてわたしを見てよ! わたしはここよ! って感じがしな
いのがいいですよね。友達にも小梅ちゃんて子がいるんですけど、
この子が可愛くて。あ、ちなみに花言葉は、澄んだ心、独立、高潔、
なんですよ」
「なるほど……」
「あ、でも、さくらの匂いは好きなんです」
「桜餅の匂いが好きなんでしょ?」
そう言ったボクに少女Aは恥ずかしそうにうなずいた。
ボク達はその香りを充分堪能しながら進んでゆく。
「あ! 今度は潮の香りがする!」
少女Aが急ぎ足になった。川の幅も広がり、河口という感じがし
ている。それから少し歩くと、河口の先に海が見えた。
「海だ!」
少女Aが振り返って笑った。ボクも思わず足早になり、自然と笑
顔になる。
ここから見える海は真っ青と言える程青くはないけれど、それで
も海は海。
「ねえ、マイさん、この海は遠い世界に続いているのかな?」
唐突に、彼女が真剣な目をしてそう言った。
小型の漁船が割りと近くを通ってゆく。エンジンの音が静かな空
間に響いている。ボクは彼女に言う。
「うん。きっとそうだね。でも」
「でも?」
ボクはちょっと考えてから言うのをやめた。彼女はまだ幼いのだ。
『遠い世界は巡り巡ると、自分の今いる場所に戻って来るんだよ』
それが分るようになるのはまだ先でもいい。
「ううん、なんでもない……それより、知ってるかい? 桜の花言
葉って、君が言った他に、もうひとつあるんだよ」
「え?」
「あのね、心の美。そういう意味もあるんだ」
ボクがこう言うと、少女Aは薔薇色の頬を更に染めながら少し何
やら考えているようだった。それからポッと口を開く。
「あのね、わたし今から学校に行こうと思う。だから……」
「そうなんだ。じゃ、途中までまた一緒に行く?」
ボクの提案に
「ううん、いいの。一人で行きたいから。マイさんはまだ海を見て
らっしゃいよ」
少女Aは目を輝かせながらそう言った。
「うん、そうだね。それじゃさよなら、またね」
彼女の心地良い距離感、そして挨拶。にゃあと、また想像上のク
ロが短く答えた。
それからボクは小さく手を振る。
「はい。あ、それからわたし、本当の名前は……」
彼女の声は、もう一隻現われた小型漁船のエンジン音によってか
き消された。でも、ボクにはそれが分っていた。彼女の名前は多
分……
彼女の後姿を見送りながら、ボクは考える。
季節は冬から春を迎える。そしてやがては夏へと続くのだ。
海の青さも次第に増していくに違いない。
今はまだ曖昧な海の青さの中に、天国への階段のメロディが流れ込んでゆくような気がした。
海が見たくて 黒猫くろすけ @kuro207
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