『波音』

矢口晃

第1話

「総勢八十八名の花嫁候補の皆様、本日はお忙しい中、ようこそこのたびの企画にお集まり下さいました。主催者を代表して、心より御礼申し上げます。さっそくですが、これより競技の方に移らせていただきたいと思います。ルールは簡単です。今から私の投げるエンゲージリングを誰よりも早く取ってきた方が、こちらにお出での世界有数の大企業の次期社長になられる方へ嫁ぐことができるというものです。ただしこのリングを投げるのは深さ十メートルの海の中、もちろん皆さんには酸素ボンベやゴーグルなど一切持たずに、海水着のまま海に潜っていただきます。途中で一度でも海面に顔を出したらその型は失格になります。よろしいですね。それでは、始めます」

 そう言い終わるとこの催しの主催者であるらしい男は、八十八人の貪欲な眼差しの見つめる中、たった一つの指輪を波立つ海の中に投げ入れた。その直後、ピストルの音が空中に鳴り渡るのと機を同じくして、八十八人の女たちが次々と岩場から海中へ飛び込んで行った。

 南風の強いこの日、海上は普段よりも波が荒れているらしかった。その上まだ三月であったこの日の水温は、女たちの海底目指して潜るのをさらに困難にした。勢いよく飛び込んだものの、多くの女たちはものの数秒と立たないうちにことごとく海面に顔を出してしまうのだった。命の危険を感じいち早く海岸に戻ってきた者は、唇を真っ青に変色させ、体中を痙攣するように震わせながら毛布の中に身を包んだ。

 しかし地位と財産とに目を眩ませた数名の女たちは、そのような過酷な状況の下、さらに果敢に海底を目指してもぐり続けるのだった。それでも大抵は五メートルと潜らない内に酸欠に陥り、慌てて海面へ戻ろうとするのだった。中には海面に戻ろうとする内に手足の動きがばらつきだし、もがけばもがくほど海底に沈みそうになる体を必死に海面へ押し戻そうとする危険な光景もあった。

 競技が始まってから五分と経たない内に、八十八名いた競技者の内、実に八十七名までが悔しい気持ちをこらえながら海岸に再び舞い戻っていた。もちろんその中に見事指輪を拾ってきた者などいるはずもなかった。

「あと一人ですね」

 海岸に設置されたテントの下で、競技の主催者たちが数名固まって、寒そうにバケツの焚火を囲みながらそんな話をしていた。この日のためだけに簡略に建てられたテントは、折からの強風に煽られてばたばたとすさまじい音を彼らの上に降らせていた。

「まだ一人潜っていますか。……頑張っていますね」

「ええ。意外に頑張りますね」

 彼らは時折笑声を交えながら、白いしぶきを海岸の岩に打ち付ける海を眩しそうな目つきで眺めていた。

 しかしそれから十分が経過しても、最後の一人の女性は海面に姿を現さなかった。と、テントの下から双眼鏡を使ってあたりの海上を見回していた主催者の男が、何かに気づいたらしく遠くの方を指差した。そこにいた四、五名の男たちは、代わる代わるその一つの双眼鏡を奪い合うようにしながら、最初の男の指差した方向に注意を走らせた。すると、双眼鏡の視界の中に映ったのは、はたして海面に漂う、一人の水着姿の女性だった。女性はすでに意識を失っているらしく、押し寄せてくる波に何の抵抗すらせず、ただ波の力に任せて海面を上下しながら浮かんでいるのだった。そしてその姿は徐々に、海岸を離れる引き潮の力によって沖へ向かって流されているようだった。

「あれが、最後の一人ですね」

 テントの下では、男の一人がたばこを口にくわえながらそんなことを話していた。

「ええ。とうとう息が切れて死んでしまったようです」

「ははは」

 誰かが可笑しそうに笑いながら言った。

「――まったく、金に目がくらんで命まで落とすとはね」

「ははは……まったく」

 テントの下の男たちに、一頻り低い笑いの波が立った。

 その後、また別の誰かがぼそりとこう言った。

「しかし、気持もわかりますよ。実際、そういう世の中ですからな。――金さえあれば命など……」

 まだ男が言い終わらないうちに、別の一人がその語尾に続けて言った。

「――さようですな。また逆に、命があっても金がなければ……」

 この時彼らの前の岩場に打ち付けた一際大きな波の音が、男の語尾をかき消した。

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『波音』 矢口晃 @yaguti

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