第5話乳頭

 目覚めてから、薬が無くなりかけていることに気づいた。

 仕事をしていたときとは違って、いつでも行けるからと油断していた。

 こっちが暇でも、医者のほうに都合がある。

 俺の通っているクリニックは日曜と水曜が休診日だった。木曜は隔週で来る医者が変わり、金曜は主治医じゃない医者が担当している。週に行ける日は少なかった。

 今日は火曜。

 今日を逃すと土曜まで待たなければならなくなる。その間に薬は切れる。

 時間を確かめると十時半だった。

 受付は十時四十五分までだったから、急げば間に合う。

 俺は素早く身支度を整えて、クリニックへ向かった。


 車を飛ばしたので、余裕で受付時間に間に合った。

 ガラスドアを開けて、清潔だが狭い待合室に入ると、中は閑散としていた。

 時間が遅いのもあるが、今日は空いていたらしい。俺の他には一人だ。中学生くらいに見える少女が、ソファに座って携帯ゲーム機をいじっている。

 このクリニックは心療内科と精神科だけだ。患者にしては若すぎる。もっと年上の患者の付き添いだろうか。

 そうだとすると、今診察室に入っている人が出てくれば、すぐ俺の番だ。

 診察券を受付箱に入れて、俺もソファに座る。


 しばらく静かに待っていると、隣の少女が声を上げた。

「あー、やられちゃったー」と言いながら、頭をこちら側にしてソファに寝転ぶ。

 顔をそちらに向けると、少女と目が合った。

 何か言いたげな目つきだったが、俺にはもちろん語りかける言葉などない。

 視線を移し、少女の襟元から胸の中を覗いた。

 膨らみかけの胸と、メラニン色素の沈着していないピンクの乳首が見えた。ブラジャーはしていない。この少女は背が高かったが、小学生なのかもしれない。


 いいものを見た。

 

 だが、嬉しい半面、暗い気持ちもこみ上げてきた。

 俺は女の外見から、おおよその年齢を推し量ることができなくなっていた。

 スーパーなどで、俺には小学生に見える女が結婚指輪をつけていたりする。

 男のほうはまだ区別がつく。小、中、高の見分けができた。

 そこへいくと、女は駄目だ。

 まるでわからない。

 それだけ女と接点のない生活を、長く送っているという証拠だった。それが暗澹たる気持ちにさせる。


 少女が身を起こし、胸が見えなくなったので、俺も正面に向き直った。

 数分後、診察室から中年の女が出てきた。

 やっぱり少女の母親だった。

 女は会計を済ませると、少女とともに出ていった。すぐに俺の名前が呼ばれる。俺は返事をして診察室へ入っていった。


 患者用の丸椅子に座ると、まず血圧が計られる。上が九十八。その値を聞いて、医者が口を開いた。

「まぁ、いいね。朝ごはんは食べた?」

「はい食べました。ただ、コーヒーも飲んだので……」

 低血圧というほどじゃないが、俺の血圧はいつも低めだった。常飲しているレギュラーコーヒーのせいだろうと考えていたので、俺はそう言った。医者は笑顔を見せた。

「コーヒーは身体にいいんだ」

 それからいつも通り、健康上の諸注意が始まる。

 野菜中心の食生活を心がけろ、とか。

 俺は野菜が嫌いじゃなかったし、できるだけ献立に取り入れようとしてきた。

 だが、母親が肉を食べたがった。

 高カロリーな食事を与えても、どんどん痩せていくばかりなのだが、崩壊していく身体を補うようにタンパク質を欲しがっているのかもしれない。

 二人別々のメニューを用意するのが理想だったが、それはずいぶん手間のかかる話だ。毎日そうするのはつらい。

 けっきょく、俺もけっこうな量の肉を食べていた。


 健康上の注意が終わると、精神科領域の話に移った。

「幻聴のほうはどう? ざわざわしたりとかしない?」

 医者の言葉に、クイーンドラゴンの囁きが被さる。

「大丈夫でしょ」


 その通り。

 大丈夫だった。


 俺は医者に答える。

「はい、聞こえません。大丈夫です」

「じゃあ、いつも通りの薬を出しておくから。あなたの薬の量は非常に少ないけども、今の状態を維持するのに必要だからね」

 診察は終わった。

 会計を済ませ、薬を受け取るとクリニックを出る。

 熱に炙られた通りの匂いが鼻に入ってきた。

 暑いが、もう八月末だった。

 さっき見た少女のピンクの乳首と、焼肉屋で見たグレーの生パンツ。

 それが四十二歳の夏の思い出になった。それぐらいしかない夏だった。


 九月に入っても気温は一向に下がらない。

 俺はクーラーの効いた部屋で、穏やかに過ごした。

 暑熱にさらされる外を眺めながら、つくづく今年に仕事を辞めてよかった、と思う。

 九月のイベントなんて一つしかない。

 失業給付金の貰える認定日だけだ。

 そう思っていたところへ、母方の祖父が倒れたとの連絡を受けた。

 大事には至らず、一日入院しただけで、もう家に戻っているという。母親は祖父に会いたがった。そういえば、リューマチが悪化して車の運転ができなくなってから、ずいぶん長いこと顔を合わせていないはずだ。

 米を貰いに行くついでに乗っけていけ、と言う。

 ウチは米を買ったことがない。

 農家で田んぼもやっている母の実家から、ただで分けてもらっていた。

 いつもは父親が運んできていたのだが、今は俺が暇だ。

 無職の状態で親戚に会うのは気が引けるが、断れる理由もなかった。


 次の日の午前中に、母親を乗せて祖父の家へ行く。

 五キロ程度しか離れていない場所なのに、俺ももう十年近く顔を出していなかった。

 車で乗り入れると、子供のころは広く感じた庭が、かなり狭く感じる。取り回しにギリギリだ。

 方向転換して車を停めると、母親が杖を二本使いながら、這うようにして表へ出た。

 そこへ祖父がうさうさと歩いてくる。

 腰も膝も曲がっているが、杖もついていない。

 遠目では、どっちのほうがより年寄りだかわからないくらい達者なものだった。

 祖父は母親に声をかけた。

「なんだぁー、歩けなくなっちまったのか」

「うーん、痛いんだよ」

「まあお茶でもしてけ」

 そう言うと祖父は畑に向かった。

 母親は縁側に腰を下ろす。

 俺は倉庫へ行き、あらかじめ叔父に教えられていた場所から米を運び出し、車のトランクに入れた。

 しばらくして祖父が戻ってきた。ぱんぱんに膨らんだレジ袋を持っている。それを俺に「もってけ」と差し出した。

 中にはナス、菜っ葉、いんげんが詰まっていた。

 それから祖父と母親が束の間会話しただけで、もう帰ることになった。


 祖父は一人暮らしではない。

 叔父夫婦と暮らしていた。

 俺とは二十歳も離れた従姉妹である孫も、まだ一緒だ。

 これだけ元気なら、何も問題ない。

 母親と祖父、どっちが先にくたばることになるだろうか。

 そう考えずにはいられない。

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