血で贖え、水で贖え、その罪が擦り切れるまで 05

 まだ湿気の抜け切っていない絨毯を踏みつけながら、キリは牢と化した神子学研究室へと足早に向っていた。

 あの大雨から三日経ったものの、王都はまだ多過ぎた水の恵みに少々混乱気味だった。だが、アクアリウムも国の始まりから雨の受け皿として存在していた都だ。透過率の高い鉱石の敷き詰められた路面は驚くべき速度で雨水を地下の青命線デッドブルーへと貯蔵して、今ではすっかりいつもの町並みに戻っている。

「だが……そろそろ限界か」

 二日間雨が降らなかったという事実に城下の国民たちはそろそろ不審を抱いているはずだ。箝口令を敷いてはみたものの、城の内部は既に半恐慌状態になっている。今日も雨が降らなければ、いよいよ彼等も神子に何かあったのではと噂し出すに違いない。

「何としてでもあの賊から神子殿を奪還しなければ」

「キリ様、いらっしゃいましたか。アンバー様がお待ちですよ」

 檻の前で盆を抱えて立っていたマリベルが軽く会釈した。その顔は不機嫌そのものだ。

「そんな眉間に皺を寄せて、老けて見えますよ勿体無い」

「――人を呼びつけておいて、まず口の端からでるのは戯言か?」

 鉄格子の向こうで泰然自若とした笑いを浮かべているこの男。お気に入りの椅子に優雅に腰掛けてティーカップを傾けている。

「給湯室が閉鎖されて不便になりましたが、その分マリベルさんの煎れたお茶が飲み放題ならば願ってもないです。ふふっ」

 マリベルからの最上級の嫌味で熱めに入れられた茶に、息を吹きかけている。えらく上機嫌なのが長年の付き合いから見て取れて、そんな自分にまたキリはうんざりした。

「要件を言えアンバー。何がわかったんだ?」

「あれ、気付いていないのですが?ほら、あそこ」

 アンバーがキリの背後の窓を指差した。振り返ってキリが目を眇める。

「まさか……!?」

 思わず檻を掴んで詰め寄るキリ。

「見えるでしょう?暗い夜空に広がる美しい雨雲が――あれは……ハイリールの方角ですね」 

「良かった……生きておられるのか……」

 キリは胸を撫で下ろす。

「私も嬉しいです!!本当に、当代の神子は愉しませてくれる。あんな状態で城から出て、王族の庇護も無くどこで生きていけると思っているのでしょう?」

 アンバーを長い髪を揺らして哂う。その様子に、キリの感情が爆ぜた。

「お前たちが神子殿を追い詰めたのだろう!!何を笑っている!?箱に封じて生き神としようなど、浅ましい人の欲が結実した、なんと悍ましい願いか!……あの時、あの時私は」

「いっそ、あの偽りの王のように、神子を連れ去りたかったと?」

 キリの殺意すら込められた視線が、アンバーに向けられる。

「天秤にかけて、剣を抜かなかったのは貴方の意思でしょう?」

 キリの手が戦慄く。無遠慮に自分の心の後ろ暗いところに踏み込んでくる目の前の男への殺意に応じて、キリの身体から紫苑の霧が噴出した。

「アンバー様、その辺りでどうか」

「いつまでも母の気質は抜けませんかマリベル。為になりませんよ」

 アンバーは顕現するキリの敵意もどこ吹く風で、部屋と廊下を仕切る鉄格子へと歩み寄る。

「そんな清廉な空気を漂わせて、貴方もずるいですね――――結局、本当に彼のことを考える人間などいないのかもしれない」

 アンバーがすっと白く長い腕を突き出した。その手から零れ落ちる、床に届くほど長い羊皮紙の帯には何箇所かの地図が並び記されている。

「道標を、見つけました。今や忘れ去られた、巡礼の記録です」

 握れば崩れそうなほどに傷んだ古い巻物に、触れることもできずに見入るキリ。

「これは……?」

「遠い約束。定められた贖罪。神子という矯飾――――もし彼が、自分が生まれた意味を最初から知っていたとしたら、私は少しだけあれを、不幸に思ってしまう」

 アンバーの細い指はその地図達の一つ、国を囲む岩山の麓、廃墟庭園を指し示していた。

「すぐに出かけるぞマリベル。おい、そこの護衛、すぐに伝令に走れ!一小隊を連れて行くぞ」

「キリ様が直接行くよりハイリールの周辺に兵に向わせた方が早いのでは?」

「……いや、俺が神子殿を迎えに行く。砂鳥竜コッカトリスを使えばそう遠くない」

 砂鳥竜コッカトリスは4本の脚を持ち、三つ又の足は砂の上を沈まずに駆け抜ける。退化した羽は石のように硬い鱗に包まれ羽ばたく事すらできないが、その分暑さに強く、竜と同じ眼は夜目も利くので、今から夜通し走ることも可能だ。

「あの不届き者のコックは、必ずこの手で捕らえる。そして神子殿に心から許しを請い、この城へ――カルマの元に戻っていただく――もう、二度とあんな目には遭わせない。王からも、学者からも、私が必ず守って見せる」



「………」「………」「………」

 とても、気まずい。ばさばさと足に絡みつくマントを捌きながら、アリスは熱された砂の上を黙々と歩いていた。

 すでに女装は解いており、城から逃げ出した時の白い法衣に着替えている。とても目立つが人っ子一人居ない炎天下の砂漠で服装など気にして何になる。いや、それならあの女物の服でもいいじゃないいかという話になるが、それは流石に許せない。

 結局昨日は町から離れた砂丘の裏にあった、砂に埋もれてた大砂亀の甲羅の中で一夜を過ごした。今更地下水路に逃げ込む事はもうできない。万全の準備を整えた王兵達に逆に挟み撃ちにされる危険がある。これから向う先は青命線デッドブルーでいうと末端の毛細血管に当たる部分だから尚更だった。

 自分したことに後悔は無かった。だが、レオの不機嫌な表情と無言の糾弾を肌身に感じて、結局アリスは一睡もできなかった。薄く隈の浮いた顔を陰らせながら、それでもあれだけは譲れなかったのだと自分の心に言い聞かせていた。

『そんな顔しないで。贖罪の儀はもう目の前だ』

 揺らぐ熱気が紡ぐ蜃気楼の中に、幼いアリスの幻影が浮かび上がった。村にいた時の襤褸の服を着て、切り揃えられた黒髪の隙間から、白金の瞳がこちらを見つめている。

(――俺は、何なんだろうな?)

 黙々とレオの背を見て歩いているだけなので、思考は簡単に泡沫の幼い自分へと向けることができた。話しかけると、幼いアリスはにっこりと笑う。

『僕達は神子。魂で繋がる一族の終端。カルマの贖罪の代行者』

(あんな事を起こしてまで、俺達が贖罪を行うことに意味はあるのか?)

『あるよ!だって僕達はそのために生まれたんだから』

(それは理由にならないだろ。俺達の生きる意味と、皆の為にこうするべきかの議論は別だ)

『何が言いたいの――?』

 幼いアリスが眉を顰めた。

(お前、十年前にもうわかってたんだろ?先代が死んだ時に。あのまま贖罪の日まで逃げることは不可能だって)

『何のこと?』

(とぼけるなよ。カルマの贖罪の献呈が、解錠が可能になる程度に到達するまでに、あの段階で十年はかかるって、俺と同じ感覚があるのならわかってたはずだ)

『知らないよ!知らないよ!!母さんは何も言ってくれなかった!!』

 幼いアリスが怒鳴る。それは、穏やかなあの頃のアリスが見せたことの無い表情だ。

(そうだな。母さんは、あの後直ぐに逝っちまった。俺達に、何も指し示すことなく、ただ、祝福あれと印を切って)

『そう――だから僕は、一人で――考えて』

(違うだろう?お前は、考えなかったんだ)

『やめて……』

 幼いアリスが真っ青になって自らの喉を押さえた。恐ろしい事を話すアリスの喉を、自らの身体を通して潰そうとでもするかのように。

(十年も雨を降らさずにいることは端から無理だと判っていたはずだ。そんなことをしたらカルマを救う前にカルマが絶滅しちまう。元々神子無しには立ち行かないように設計されていた贖罪のシステムなんだ――だがそれでも、お前は姿を隠し続けた)

『違う――違う――』

 ふるふると首を振り、大粒の涙を浮かべ泣き出す幼いアリス。だが、夢幻の自分の涙では砂地を濡らすことも、雨を降らすこともない。

 いっそ自分もそっち側にいって、思いっきり泣きてえよ、とアリスは思う。

(思考を放棄して、夥しい数のカルマの命を代償に、お前は縋った。自分を導いて、守ってくれる存在に。国が枯れ果てても、親が死んでも、レオと離れたくなかったから)

『うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』

 幼いアリスが頭を抱えて絶叫した。顔は歪み老人のように皺だらけになり、土気色の頬を血の涙が流れ落ちる。自分の一番汚い部分が眼前に曝される。気分は最悪だ。

 何を呪って、何のせいにすればよかった?目の前の醜い自分に向かってアリスは問いかける。

 城に入ってから心を壊された?それは責任転嫁だろう。

(とっくのとうに、壊れてたんだよ)

 屍の上に築かれた、乾ききった仮初の楽園。それを選んだ、という心理的負荷がアリスの心を蝕んでいた。

 枯れた二年ラストダンスは文字通りアリスの幸せな、最後の舞踏だった。くるくると回る度に心は弾み罅割れた。大きくターンすると心の破片が撒き散った。そうやって二年間、アリスは心を喪っていった。

(それは、俺の罪だよ。神子だからじゃない、俺の、罪なんだ)

 もうやめよう。皺くちゃの醜く小さなアリスが消えていく。絶叫と共に、陽炎に溶けていく。

 十分、自分勝手に生きてきた。好きな人がいて、好きなものがあって、それと同じくらい嫌いな人と嫌いなものがあった。だから沢山間違えて、正しかった事なんてほとんどなかった。

「今さら、悩む余地もないだろう」

 視界が現実のみを映しだず。灼熱の太陽、レオの藍色の背中。

「もう間違えない。カルマの為に、俺は生きる」



「………」「………」「………」

 どのタイミングで謝ろう。背後のアリスを振り返ることもできずないままレオは歩き続けていた。

 持ってきた地図を見る限り、目的地の近くに本当に小さな集落があるようだ。ここを一度経由して、なんやかんやしてちょっと会話の糸口が掴めたところで、

「謝ろう…」

 なんて残念なヘタレ。なんと言う臆病者。自身の心の弱さに絶望すら感じながら、やんわりと進路をその集落へとずらす。地上に出れば神子も只の人。青命線デッドブルー内でしかあの異常な位置把握能力は発揮されないようで、進路の変更に気づかず素直にアリスは自分の背中の後をついてくる。

 そうして二人は、致命的なタイムロスを行う。

 破竹の勢いで目的地に一直線に駆けるキリの小隊が、二人に追いつくのは時間の問題だった。

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