血で贖え、水で贖え、その罪が擦り切れるまで 03

 ふざけるな。

 安宿の立て付けの悪い椅子に乱暴に座り、アリスは行儀悪く足を組んだ――いや組もうとした。

 そして組めなかった。

「だぁぁぁぁ!クッソ!」

 地団駄を踏みそうになるのを堪えて立ち上がり部屋をうろうろ歩き回るアリス。何だ自分は、檻の中の熊か?ああそうだ、見世物という点では同じようなもんだ。

「そんなに怒るなよ」

 ベッドに行儀悪く腰掛けているレオはさっきからずっと顔を逸らしている。笑いを堪えているのは明らかだ。

「似合ってるって。ばれねえって」

 部屋の壁に掛けてある姿見に自分の姿が映る。反射的にその情けない姿にアリスは泣きそうになるが、最後の一握りのプライドだけでその感情を押し留めた。常に崩れかけのジェンガのような様相を見せるアリスの心がそれを成し遂げたのは奇跡だった。僅かにだがレオと再会してから心が衝撃に対して強くなったのは、決して気のせいでは無いようだ。

「う~~~~っ」

 そこに映っているのは、砂漠に咲く一輪の花だった。黒く長い髪を背中に垂らし、町娘の着る、高級さはないが風通しの良い機能的な服をさらりと着流している。群青色の布地が白い肌と黒い髪に良く似合っていた。

 そう、自分で言うのもなんだが、似合いすぎていた。腹立たしいほどに。

 鏡に顔を突きつけて半眼でその姿を射殺さんばかりにアリスは睨む。瞳の色だけは隠しようのない白金色。至近距離で見るとまるでガラス玉のようだ。

「……そう、コレは俺だ。これが俺だっ!!」

「落ち着け落ち着け、な」

 後ろから両肩を押さえられながら、アリスは怒りの成分が混じった荒い息をふーふーと吐く。

「ここからは僻地を進むから青命線デッドブルーも単純になる。そんな所を潜って進めば出口で待ち伏せされてすぐにお縄だって言ったのはお前だろ?」

「だからって……これは……」

 今にも泣きだしそうな顔になるアリス。気を散らさないと、と慌ててレオが話を進める。

「んで、俺達の目的地は、一体どこなんだ?」

 アリスに導かれるままに此処まで進んできたが、彼がどこに向かっているのかレオはまだ知らなかった。城を飛び出してもう三日。だらだらと気ままに逃げおおせられるとは思っていない。だが、何も成し得ないままアリスを奪還されることはもっとあってはならない。

「世界を救うなら、駆け足でいかねえと」

「……わかってるよ」

 白い頬を膨らませて、アリスが拗ねるような仕草をする。活き活きとしたその姿にレオは空気を漏らすように笑う。心を満たす穏やかな感情。三日前からレオの精神に明確な変化が起こっていた。

「ちょっと待て」

 アリスがそっと目を閉じて天を仰いだ。心を落ち着けて頭を紐解けば、それはアリスの額から抜け出し顕現する。まるで芽吹くように滑り出た祖字が、宙で組み合わさり意味のある形を成していく。汗が一筋白い頬を伝った。レオはその姿をじっと見つめている。

「こんなもん頭に仕舞い込んでたのか……!?」

 部屋の宙に、淡い桃色に光る地図が浮かび上がる。

「これは母さんの祖字。最期にくれた、遺言にも似た、餞だ」

 自身のものではない文字。それを皮膚に刻むならまだしも、体内、しかも脳に直接刻むなど正気の沙汰ではない。それをアリスの母親が、自分の息子にやってのけていたことにレオはぞっとした。

「お前が捕まることまで予想して、わざわざこんな手を打っていたのか……?」

「さあ、どうだろう」

 紙に記せば没収されただろう。記憶に残せば精神ごと砂上の楼閣と消えていただろう。彼の心とはまったく別個の情報として、彼の身体に刻む。結果から見れば、唯一無二の手段だった。

「ここ。此処に行きたいんだ」

 地図の一点が穿たれ明滅している。国の中央に据えられた王都から北西の、国境沿い。この街から五十キロほど離れた位置だが、地図が簡略過ぎて詳細がわからない。

「これじゃあちょっと何を指しているか分かんねえな……大まかな位置は把握したから、地図を買ってきて特定すっか」

「あ、俺も」

「お前はここで歩く練習でもしてろ」

「なっ……!」

「まだ明るくて人も多い。宿から出るならせめて夜――」

「ばっか野郎!!とっとと行って来いっ」

 スカートの裾を振り乱しながらアリスがレオの背中を蹴った部屋から押し出した。つんのめるように廊下に出ると同時に、バタンと背後でドアの閉まる音。レオは苦笑いしながら顔を上げる。

 そこには、真っ黒な棺が佇んでいる。そしてそこに納まったアリスが、涙と鼻水と血で顔を汚しながら、壮絶な表情でこちらを見ていた。

「……やめてくれよ」

 レオは幻覚の黒い箱をそっと閉じる。その次の瞬間にはもう、箱はその場から消えていた。

 二度や三度の事ではない。あの夜の黒い棺に納められたアリスの姿は網膜に焼き付いて、事あるごとにレオの眼前に甦る。

 あの絶望を、レオは恐怖していた。

「すくいたい」

 世界を救いたい。そうアリスは言った。

 俺も世界を救いたい。もちろんレオもそう思っている。ここまで来たらとことん付き合うつもりだ。

 だけど、もう一度あんなことになるくらいなら。あんな悲劇が起こる位なら。

「すくいたいんだ」

 俺は、アリスを殺す。必ず、この手で。

 あの地獄から、お前を守るために。



 鏡といつまで睨めっこをしていても、自分が凛々しくも男らしくもなるはずはない。レオを追い出した数十分後、諦めの境地に達したアリスは意を決して部屋を出る。確かに目深にフードを被っていた頃よりよっぽど視界は良いし、身体を覆っていたマントに比べてこの服の方が動き易い。この姿も捨てたものではない。そう思わないとやってられない。

 食堂に行くと女将が丁度給仕をしているところだったので、飲み物を出してもらう。頼む時もぶっきら棒な男言葉だが、女将はまったく気にも留めていない。どうやら周りからすると、自分が男である可能性より男勝りな低音ボイスの少女であるという方が思考に負担が掛からないらしい。

「何でだよ……」

 風花茶をすすりながら不機嫌な表情を隠しもしないアリスに流石に声を掛けてくるものはおらず、周りの話している内容に無意識に耳が傾く。

「王都で二日前に降った大雨、やっと水が捌けたらしいぞ」

「すごかったもんなあ、此処からでも真っ黒な雨雲が見えたじゃないか」

「在り難いことだ。これも当代の神子様の御力が強いお蔭だよ」

 王都からそう遠くない町だ、話題に上るのも当然だろう。アリスは初めて聞く民の声に耳が離せなくなっていた。

「だけど、昨日は雨が降っていないみたいだったなあ」

 ぽつりと呟かれた男の声にアリスの鼓動が跳ねる。どうやら、神子が城から消えたことを彼等は知らないようだ。考えてみれば町も平和そのものだった。城で箝口令が敷かれているに違いない。

「しょうがないだろ、前の日の水が捌けてないのにまた雨が降ったら城下町が流されちまう」

 陽気に酒を煽る男と対照的に、呟いた男は不安そうに眉を下げたままだ。

「そう……だよな。たった一日雨が降らないだけで不安になってしまうなんて、信仰心が足りないのかもしれない」

「お前は心配し過ぎなんだよ!……まあ枯れた二年(ラストダンス)でお前に辛いことがあったのは知ってるがな」

 弱々しく肩を落とす男の木杯に酒を並々と注ぐと、肩をたたいて陽気な男が乾杯を勧める。

「大丈夫だよ!今夜もざーっと恵みの雨は降るさ!さあ飲もう、神子様万歳ってな!」

 男達が掲げた杯を飲み干した時、もうアリスはその場から姿を消していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る