ここは壊される君のなか

瓦礫

nanimonai

プールサイドは夏の太陽に照射され、熱を帯びていた。足元から伝わる夏の温度は焼けるように熱く、僕の足の裏の感覚を麻痺させた。

それでも僕はそんなことなど忘れたかのように動かなかった。いや動けなかったんだ。

僕の視線は一人のスク水少女をとらえている。

水泳帽の中にはよくそれだけ入ったなと思わせるほど、すっぽりと髪の毛が収められていた。そのおかげでふだん隠れているうなじが露わになっている。

ああ、あれが僕の好きな女の子のうなじ。

浅香(あさか)水鳥(みずとり)のうなじ。

ちろちろと生えている産毛がまた健気に僕の劣情を高ぶらせる。

僕は彼女の笑った姿を見たことがなかった。

彼女は人と話すことはあっても必要以上に人との距離を縮めたりしない、いつもどこか自分の殻に閉じこもっているような感じの子だった。

僕はいつしか彼女の笑顔が見たい、と思うようになった。彼女が笑えば、それはもう本当に美しそうだったから。

そんなことを暢気に考えていると、あろうことか浅香水鳥は僕のほうを振り返ったのだ。

僕は反射的に目をそらす。別に目をそらす必要などなかったのだけれども。つい僕は目をそらしてしまった。

その一瞬、僕の視界の端に何かが写ったのを認識した。

(ん? 今何か……?)

それは一瞬ではあっても、明らかな違和感を抱かずにはいられない異物。

違和感の正体はプールの中にあった。

僕はもう一度プールを見た。今度はゆっくりとしっかりと違和感の正体を探るように見つめた。

プールの底に、影があった。真っ黒な影があったのだ!

水面が揺れる。それにともなって影も揺れる。

みんな気付いていないのか。

平気な顔をして泳いでいるやつさえいる。

僕はもっとよく覗き込もうとして身を乗り出した。すると、濡れたプールサイドに足が滑り、僕の体はすこしばかり宙に浮いた。次の瞬間に僕は激しい水しぶきとともにプールのなかへと沈んでいった。

ゴボボと口から空気が漏れる音がする。それ以外の音は一切届かなかった。

……。

ゆっくりと目を開ける。ゴーグルをしていないから周囲がぼやけて見えた。しかし塩素入りの水に視力を奪われても、目の前にあるもののおぼろげな輪郭くらいは何となく理解できた。

影だ。

いや。

それは明らかな人の形をしていた。それも女の子のようだった。長い髪が波の動きにそってなびいている。さらさらとそれ自体に命が宿ったかのように。

僕の体はどんどん影に近づいていく。

ふと僕は影のなかに光るものを見つけた。

二つ赤い水晶玉のようなもの。目だ。僕は驚いてしまい、口からすべての酸素を出し切った。

瞬間、それがぎょろりとこちらを向いたのだ。

僕は本能的に思った。

逃げなければ――。

僕は身を翻し、できるだけ上へ上へと足をばたつかせた。水の中にいても汗をかいているような気がした。体温は急激にさがっている。息が苦しい。たかだかプールなのに深海のように水面は遠く感じた。どんなに足をばたつかせても進んでいる感じがない。

やばいやばいやばい。

僕が懸命に手を伸ばしたとき、世界が割れたみたいに水面がひび割れた。その割れ目から白く細い腕がにゅいっと伸びてきた。

僕はそれにすがりつこうと手を動かすが、掴むのは液体の感覚ばかり。

やがて僕はぷっつりと糸が切れたみたいに、意識の空白へと呑み込まれていった。




「……大丈夫?とか聞いてみる」

目を開けて一番に飛び込んできたのは、真っ白な世界と浅香水鳥の顔だった。いつもの制服を着ていて、髪は下ろしている。

しかしここは天国か何かだろうか。まさにハッピーヘブン。

「ここは保健室だよとか言ってみる」

そうか、天国は保健室だったのか。ってそんなわけはない。

ここはどう見ても学校の保健室だ。体調の悪い人や怪我した人が運ばれる場所だ。

でもどうして?

僕の間抜け面に気付いたのか、彼女は不安げな表情で言った。

「君は溺れたんだよ? 覚えていないの? とか聞いてみる」

「……ああ、そういえば」僕はなんとなしに思い出した。あの水中でのこと、影のこと、赤い二つの眼のこと。思い出しただけで軽くショック。

果たしてあれは現実だったのだろうか?

「影を見たんだねとか言ってみる」

僕は驚いた。彼女は僕の心を透視したみたいに影のことを言い当てたのだ。

「どうしてそれを?」

僕がたずねると、彼女は天井を見上げながら言った。

「この世界では私にわからないことなどないんだよ、とか言ってみたり」

「この世界では」

「ねえ」と浅香水鳥は僕の名前を呼んできた。

「どうしたんだ?」

「君に頼みたいことがあるんだよ、いいかな?とか聞いてみたり」

「……頼みたいこと?」

「私を助けてほしい、とか言ってみる」

「……浅香を助ける? 一体どうして?」

「私はもうすぐ呑み込まれてしまうんだ」

全く話が見えてこなかった。

助ける? 

呑み込まれる?

そんなことどうしてわかるんだろう。

「言ったよね、この世界では私にわからないことなどないのだよとか言ってみる」

さきほどの言っていたことはどうやら本当だったみたいだ。彼女は僕の心を読んでいるようにしか見えなかった。

彼女は超能力者なのだろうか。ええ、僕はそれでも大丈夫ですけど。

「でも助けるといったってどこから助ければいいんだ」

「それは君が知っているとか言ってみる」

「僕が……?」

「この世界から私を救い出して、とか言ってみる」

彼女はまっすぐに僕のほうを見ていた。

それは懇願するような眼差し、でもどこか諦観みたいなのも漂わせているみたいだった。僕は彼女のこんな目を幾度となく見てきた。彼女はたまにこんな目をする。

ふと彼女はスカートのポケットをまさぐりだした。彼女がポケットから何かを取り出したか思うと、それははさみだった。

はて、どうするんだろうと僕は眺めていると、彼女は彼女の制服の袖にはさみを入れただしたのだ。「何をしているんだ?」僕が聞いても彼女は無言のまま、はさみを入れ続けた。それは異様な光景だった。

ジョキジョキジョキ。

夏服の輝かしい白い袖が螺旋をつくっている。もちろん作り手は彼女、浅香水鳥。彼女は腕を動かしながら器用に切っていく。やがてそれはひとつづきの布になった。

「体を起こして」

僕は彼女に言われるがままに、お腹に力をいれながらおもむろに体を起こした。

彼女は僕のほうに体を寄せてくる。

「浅香・・・・・・?」

「はずしちゃだめ。はずすなら私がいなくなってからだよ、とか言ってみる」「どこを見たってこの世界は惨劇なの、少しの間だけでも忘れてとか言ってみる」

浅香水鳥はさきほどの制服だった布を僕の目に覆いかぶせ、後頭部で結んだ。暗闇が僕の視界を支配する。

「最後にいいか?」

「……なに? と試しに聞いてみる」

「どうして僕なんだい?」

「……別に意味はないよとか言ってみる」

彼女の声は冷たかった。彼女はまた諦観を漂わせたあの目をしているんだなと僕は彼女の姿を想像する。期待していたわけではないが、なんとなく寂しい気持ちになった。

そのとき僕の体に温度をもった物質がもたれかかる感覚があった。その温度は彼女の体温だとわかり、僕の心臓は高鳴る。

「ねえお願い」耳元で声がした。彼女の吐息を間近に感じる。「この世界を壊してよとか言ってみる」

その声はわずかに震えているようだった。

ゆっくりと彼女の体温が僕から離れていくのがわかる。僕は何か言おうとしたけれど声が出なかった。いや出せなかったのだ。

ああ離れていく! 彼女が僕の体から離れていく!

その言葉自体がまるで頭のブレーキみたいに働いて、僕の思考は停止した。

しばらくすると浅香の体温は僕の周囲から跡形もなく消えていた。

僕はゆっくり目隠しをはずして、ベッドのカーテンを開けてみる。でもそこにもう浅香水鳥の姿はなかった。

あたりを見回す。

世界は暗かった。窓の外に広がるのは、真っ暗な世界。

ここは一体……?

とにかく僕は保健室を出てみた。廊下にはだれもいなく、薄暗い照明が一本、ただ真下だけを照らしている。

「すいませーん、だれかいませんかー」

僕は見えない廊下のさきへ叫んでみたけれど応答はなかった。

僕は誰かを探そうと、教室に行ってみることにした。

僕は胸ポケットにはさみがあることに気付いた。彼女の使っていたはさみだ。彼女がいれたのだろう。僕はそれを強く握りしめ、ズボンのポケットに押し込み、階段をかけのぼって、廊下に出た。そこもやはりほの暗く、だれの影も見当たらなかった。ただ僕の走る足音だけが響いている。

ふと視界の端にプールが映った。僕は立ち止まり、見下ろした。プールはこの世界を反映してるかのごとく真っ黒だった。すべてを呑み込んでしまいそうなくらいに。

影が肥大していっているのだと考えた。いずれプールをはみ出てしまうのかもしれないとも思った。

そんなとき、声がしたんだ。

「お前はなぜ、まわりに溶け込もうとしないんだ」

僕は声のするほうに進んでみる、そこは僕たちの教室だった。そっとドアの窓から覗いてみると、そこには二人の影が見えた。

暗くてよく見えないが一人は声と風貌から察するに僕らの担任のようでもう一人は……。

「浅香!」僕は思わず声をあげてしまった。間違いない、あれは浅香水鳥だ。僕が言うんだ。間違えるはずがない。でも、中の二人はこちらに気づく様子はなかった。あんなに声を出したのに、まるで僕は存在していないみたいに。

「……」

「はっきり言って浮いているんだぞ。お前がいるだけで空気が悪くなる」

担任は言う。普段そんなこと言うような先生ではなかった、むしろ生徒の人気は高いほうだったはずなのに。僕は驚きを隠せないで、ごくりと唾を飲みこんだ。

「……」

「おい!」

突然、担任が声を荒げた。彼は浅香水鳥の髪の毛を掴むと、思いっきり引っ張った。でも浅香はただそれを受け入れるように無抵抗をきめこんでいる。彼女は知っているのだ。抵抗など無意味なことを。これもやがて終わることを。彼女はきっとまたあの目をしているんだろうな、と僕は揺れる彼女の影を見ながら思った。

「何も言わないとわかんねえだろ」

担任は何も言わない浅香にしびれを切らしたのか、浅香の体を突き飛ばした。浅香の体は床に転がる。担任は浅香へと詰め寄り、浅香のシャツの襟を掴むと手を大きく振り上げた。

そこで僕は思わず、両手で目を塞いだんだ。

「やめろやめろやめろ」

それでも僕の心は収まりがつかなくて再び目を開けると、そこにはもう二人の姿はなんてなくてあるのはただの教室だけだった。

僕があっけにとられていると、すぐそばで声がしたんだ。

「ここは私の世界、現実とも夢とも異なる世界」

その声がしたほうを向こうとしたとき、突然廊下が揺れだした。僕は思わず体のバランスを崩してしまう。と同時に窓ガラスが割れ、そこから黒い影が侵入してきたのだ。その影はまるで波みたいになって僕を襲おうとしている。

とっさに僕は走り出した。わけもわからず、足が絡まりそうになるのを必死でもちなおす。背後から影はこっちを追いかけてきている。

けれども廊下の先は行き止まりだった。逃げ道はない。

そこで僕は体を捻らせ、床を思いっきり蹴った。僕の体は窓ガラスを突き破り、夜の空に飛び出したのだった。ふわっと僕の体は宙に浮く。

空がきれいだ。

空をじっくりと見れたのも一瞬で、僕は重力に従って落ちていった。

僕の眼下にはプールが広がる。

それはプールというよりは深い深い闇の中、あるいは大きな穴だという表現のほうが正しいような気がする。

ああ、僕はこのまま死んでしまうのかななんてことを考える。

僕はこんなとこで何をしているのだろう。

なんで僕はこの闇に向かっているのだろう。

浅香はどこにいるんだろう。出てきてよ、浅香。

僕はどうしようもなく浅香水鳥に会いたいんだ。

僕は再度下をのぞいた。

やはりそこは闇であり、影であって決して浅香水鳥には見えなかった。

僕はプールとかいう闇の中で光る赤い水晶玉みたいなものを目にした。

――この世界から私を救い出して。

ふと彼女の声がよみがえる。

僕はこのときはっきりと理解したんだ。

あの中に彼女、浅香水鳥はいる。ここは彼女のなかで、彼女はあのプールの底でだれかが来るのをじっと待っているんだ。でもそれも限界が近づいている。だれかが彼女を助け出さなければならない。

確かに、本当に浅香水鳥がいるのかはわからない。

もしいたとしても僕が彼女を助け出せるかもわからない。

それでも――。

「僕は彼女を助けに行きたいんだ……、とか言ってみる」僕は彼女の口グセを真似してみる。そりゃあんまり似ていないけどさ。

僕は水面にぶつかっていった。ほとんど衝突に近く、水しぶきを撒き散らしながら暗がりに落ちていく。

水中では不思議と目が見えた。でもそこにあったのは異様な光景だった。

多くの人間が漂っていた。その中には僕の見知った顔さえあった。

あの隣の席の子や僕の友達、先ほどの担任だっていた。そして、めいめいがそれぞれに言葉を発している。それはこの水中で反響して、僕の鼓膜を刺激するんだ。ああ、うるさい。

みんなみんな暗い暗い底へと沈んでいっている。

どこへいくんだろうか。

この世界が浅香水鳥の世界なのだろうか。こんなに暗くて、こんなにうるさい。とても一人の少女の世界とは思えなかった。僕は彼女を勘違いしていたのかもしれないと思った。

ふと影が僕の皮膚に触れた。それはさらさらと繊維状をしていた。これはあの髪の毛なんじゃないかと僕は気づいた。それを辿ればあの赤い目の少女がいるとこへ行けるかもしれないということも思いついたのだ。

しかし髪の毛が絡まりあってなかなか前に進むことができなかった。

僕はあのはさみの存在を思い出して、あわててズボンのポケットから取り出した。

浅香水鳥が残したはさみ。これを切るために彼女がはさみを渡したかどうかはわからない。けれど、使えるものは使わせてもらおう。

そのはさみで邪魔な髪の毛を切り落としていく。はさみは水中でもよく切れた。

ジョキジョキジョキ。

髪の毛を切り分けながらどんどん僕は降下していく。切り落とした髪の毛はまるで煙みたいに僕と反対に上昇していく。

やがて赤い目玉が見えたんだ。

でももう恐怖心はなかった。

というよりむしろ僕はあと少しまで来たんだという気負いのほうが大きかった。僕ははさみを入れようと、髪を掴んだ。

そのとき急に水の流れが変化し、一瞬激しい流れが僕を襲った。僕は髪を掴んで、波を何とか耐えきったのだけれども、持っていたはさみは手をはなれて、上空へと消えていってしまったみたいだった。

このままでは進むことができないじゃないか。ふと、手元にある髪の毛を見て、思いついた。

髪の毛を掴んだまま僕はごめん、と少女へ謝罪をする。

ふんっ。

そして僕が思いっきり髪をうしろへ引っ張ると、少女の体がぎゅいんとこちらに向かってきた。

僕は少女の顔をがっしりと両手で受け止めた。片方の手で少女の髪をやさしく掻き分け、顔をしっかりと見えるようにする。

真っ黒な皮膚に赤い二つの目がじっとこちらを見ている。

しかし、助けるってどうやって助けよう?

僕の頭に、ある考えが浮かぶ。

自分で考えといてあれだけど、僕はひどく躊躇した。

それはとても勇気がいることで、恥ずかしいことだ。

いや、これは助けるためなんだ。

仕方がないんだと、僕は自分に言い聞かせるんだ。

ごくり。

僕はその影を抱き寄せて、額にそっと口をつけたんだ。

その瞬間、影から光が放たれた。みるみる周囲の闇は光へと変わり、伸びた髪は元の長さに収束していく。

あたりを漂っていた人間達はぽんぽんと針を刺された風船みたいにはじけ散っていった。

世界が壊れていっているのを目の当たりにしているようだった。

少女にまとわりついていた影もまるでメッキが剥がれ落ちていくみたいにとれていった。そこから姿をあらわしたのは、浅香水鳥だ。

浅香、と僕は彼女の体を抱きかかえた。浅香の体重はまるで紙でできているみたいに軽かった。

彼女はすやすやと寝息をたてて眠っているようだ。

帰ろう、浅香と僕は言う。

けれども、そこにも問題があった。地上にあがるまでの酸素量が僕にはもうほとんど残されていない。

でも行くしかない。彼女にもうあんな目をさせるもんか。

僕は全力で足をばたつかせながら上を目指した。光は差している、いけ。あとすこし。それでも、やはり僕の呼吸はとてももちそうにはなかった。急激に動きが鈍くなっていく。意識も朦朧とする。

ああ、もうだめかもしれないと僕はなんとなしに考えた。

せっかくここまできたのに!

ようやく彼女を救い出せそうだったのに!

くそっ!

そんなとき、水面が割れたんだ。それはどこかで見た光景とよく似ていた。

白くて細い手がにゅいっと伸びてくる。

ああ、あの手は君だったんだ。

あのときは掴めなかった手の平を今度はがっちりと掴む。決して離さないくらい力強く。ぎゅっと。

僕の世界も誰かによって壊されるんだ、と僕は思った。

そして僕自身も誰かの世界を――。

水面から出ると夏の太陽が眩しい。僕は手をかざし、陽光をさえぎる。

目の前には彼女の顔があった。初めて間近で彼女の顔を見たような気がする。でも恥ずかしさはない。

「壊してくれたんだね、とか言ってみる」

「君こそ僕の世界を壊してくれた」

すると、彼女は笑ったんだ。

思ったとおり。

その笑顔は夏の太陽なんかよりずっと眩しかったんだ。 (了) 

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