黒い森の奥で君と

@mitihisa

第1話

夜。 星明りさえない、夜のことだった。


黒い画用紙の上に、黒いインクで絵を描いたような、

何処までも暗い景色の中、一つの小さな白い点が見えた。 それは、明り。


鬱蒼とした森に建つ一軒の家の、小さな窓明かりだった。

丸いその窓からは、沈んだ面持ちの女が見える。


石造りの部屋の中で、暖炉は火花を散らし、カンテラは赤々と灯り、

室内に明るさを保っていたが、その女の眼差しに落ちる影と落胆の色を消すことは出来なかった。


頭に白い頭巾を巻き、質素なコットを身に纏った女は、

強張った唇から、やっと一声搾り出した。


「…旦那様」


女の沈んだ眼差しの先には、一人の男が蹲っている。

刺繍の施されたシャツを着た身なりの良い男が、

白いシーツが敷かれた寝台の淵に額を擦りつけ、肩を震わせていた。


寝台の上には、もう息をしていない女が一人、眠るように横たわっている。


男は、押し殺したような声で呟いた。


「子供は?」


白頭巾の女は、いよいよ鉄の錘でも付けられたかのように俯いて、

「残念ですが、恐らく……」と答えた。


その途端、男は堰を切ったように嗚咽を漏らし、「一人にしてくれ」と呻いた。

女は痛む胸を押さえながら、蹲る背中へ会釈する。

そうして、音を立てぬよう、部屋を後にした。


「お可哀想な旦那様」


沈痛な面持ちで、頭巾の女は主人の心中を想う。

奥方の腹から取り上げた子は、産声を上げることはなかった。

産科医が診ているが、見込みは薄い。 死産で間違いはないだろう。


その確信に改めて胸を詰まらせながら、女は産科医の居る部屋へ向かった。

扉を開くと、ひゅうと風が吹いてきた。 突然の冷たい夜風に、女は身を縮める。


「先生?」


部屋に備えられている蜀台は全て消えており、

女が手に持つカンテラだけが、唯一の光源だった。


ゆらゆらとほの赤い灯りが部屋の壁を滑り、闇に霞む室内を確かにしていく。

産科医の男が椅子に腰掛けて、部屋の中央に備えられた木製の簡素なテーブルに頭を伏しているのが見えた。

赤子の声が聞こえないということは、やはり無理だったのだろう。


だが、この状況で眠りこけるとは呆れてものが言えない。

女は憤りを感じ、些か乱暴な足取りで男へ歩み寄る。


そうして、ぎょっと目を見張った。

テーブルの上には、赤子を包んでいたお包みが広げられている。

しかし、赤子がいたのは其処ではない。


テーブルに突っ伏す男の首元に、人形のような何かが、確りとしがみ付いていた。

もみじのような小さな手は、明らかに生きた赤子のもので。


産毛の生えた大きな頭も、やわらかそうな曲線を描く背も、

先程取り上げた子に相違ない。 様に見えた。


誰が開いたのか、開け放たれた窓から強い風が吹き込み、

薄いカーテンがカンテラの灯りの中で赤く翻る。


寒いのか、赤子はしきりに男の首元に頭を擦り付けて、否。


否。否。女の眼は見た。

男の襟元が徐々に黒く染まるのを。


声もあげずただ蠢くだけの幼児を見つめ、女は声にならない悲鳴を上げた。


「悪魔!」


言うが早いか、女は床にカンテラを放り出し、赤子の身体を乱暴に掴み引き剥がす。

ぬるりと湿ったソレの身体は、見た目に反して氷のように冷たく、女は自分の直感に確信を得る。戦慄いて総毛立ち、半ば衝動のままに窓に駆け寄ると、女は力いっぱいソレを放り投げた。 真黒な夜闇の奥底へ。


小さなソレは呆気なく手を離れ、

下の方で何かが地面にぶつかる音がした。


後は、何の音も聞こえない。


ただ、女の荒い息遣いだけが、やや不規則に響いている。

女は窓から身を乗り出し、ソレが落ちていった闇の底を食い入る様に凝視した。


早鐘を打つ心臓が、何か間違った行いをしたのではないかと訴えている。


「朝になったら」 荒い息で、女は呟いた。


「神父様を、呼ばなくては」


葬儀と、それから。


「朝になったら」


考えも纏まらぬまま、興奮しきった頭で女は同じ言葉を呟いた、祈るように。


「朝になったら、朝になったら」


窓枠から手を離し、女は自分の両手を見る。

そして、アレの身体のぬるりとした湿りの正体を、知って。


そっと、


意識を手放した。

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