第6話 〈職員室〉

「ファイトッ!ファイトッ!」

  部活動中の運動部の声が途切れもなく窓の外から入りこんで来て、穂積玲子が思わずクラスから集めた小テスト用紙から目を離し、窓の外を覗いてみた。今日はこれで五回目になる。特に理由など見つからないけど、作業にうんざりしたり、もしくは単純に脳が疲れたりする時、玲子はとりあえず窓の外の景色を眺めたり、生徒たちの声を聞きたくなったりする。

  人間観察が好きなわけでもなければ、そうしてより作業が進めるわけでもない。だけど玲子は、仕事中にこれより贅沢なリラックス法はないと思ったし、机が窓際の隣りにあるのは本当にラッキーと感じる。嫌な作業を気にすることなく、その上生徒たちの微妙に複雑な人間関係に巻き込むこともなく、ただただ可愛い生徒たちの青春している姿を眺められるんだから。最近となっては、陸上部がウォーミングアップにコートを何周走るか、野球部は一日何回バッティングの素振りをするか、今学期から練習場を外に移ったチアリーダー部の部長の子は週に大体何回ポニーテールにするかしないかなど、些細なところまでわかってきたような気がする。

  玲子自身と言えば、演劇部の顧問をやっている。仕事の傍らに部活の面倒まで見なければならないというのは確かに少し疲れるが、それで生徒たちが勉強以外のことに夢中になっている姿を拝見できるのも折り合いが着くと感じているから、玲子は顧問の仕事の範疇内のことであれば、道具の準備や演技の指導、時には脚本の修正まで、なんでも怠らないつもりだが、たまたま生徒に頼られ過ぎるではないか、と玲子自身も少し心配になる。そもそも、今日のように作業が大量にたまっている状態も、根本的に言えば、彼女は演劇部の手伝いをしすぎた結果である。

  「あっ」

  野球部のバッターが外したのを見て、玲子はつい声を漏らしてしまい、そして自分は自分が思った以上に仕事以外のことに集中していたことに気付き、自分の机に視線を戻す。

  「はぁ」

  玲子はため息をする。ここ最近、心身ともに非常に疲れている気がする。

  「穂積先生、お疲れ様」

  気が付けば、玲子の席まで近寄ってきて、優しそうにニッコリとコーヒーを差し出す中年男性がいた。

  「檜山先生、お疲れ様です」

  玲子は慌てて返事をしながら、檜山の差し出した左手から教員用のマグカップをもらい、淡い湯気が立つコーヒーに息を吹きかけてから、軽く一口を啜る。

  檜山先生も右手に持つ金属製のマグカップから飲み物を啜って、玲子に尋ねる。

  「生徒たちの成績で悩んでいるのかい?」

  「ええ、まぁ」

  苦笑交じりに返答して、玲子はもう一口コーヒーを啜る。

  玲子の担当科目は英語。大学時代、アメリカに留学した経験を持つ彼女から見れば、祖国の高校の英語教育は絶望的に低レベルである。今日クラスでやった小テストも、玲子はなるべく簡単な問題を出したつもりだったけど、それなりに悪くもない成績を取れた生徒は人数的に大まか三割しかいない事実は、教師として結構落ち込ませる結果である。

  なので、檜山先生の優しい気遣いに対する自分の返答には誤魔化しの成分が入っているものの、生徒たちの成績で悩んでいる、というのも嘘ではなかったけれど、今はこの国の未来より、玲子はもっと身内的なことに悩んでいる本心は、檜山先生に明かさなかった。

  「ハハハ、まぁ二年生はそういう感じなんだよ、穂積先生。一年生のように何事にもやるき満々の感じでもなければ、三年生のように受験に必死の感じでもない。彼らにとって、今まで過ごしてきた人生の中で一番将来について無駄にいろいろ考える時期だろう。そんな中でまだいい成績を保てるって人は、よほど頭がいいのか、それくらい将来に余裕があるのか、または将来を考えてない子なんだろう。大丈夫、先生がそこまで責任を感じることはないよ」

  「そうですね。すみません、心配させてしまいまして」

  教師としては、自分の生徒が悪い成績をとったことに責任を感じないというのもどうかと思うけど、やはりここは素直に自分のことを心配してくれた先輩に礼を言う。

  バンッ!

  窓の外から、今度はとても澄んだ打撃音が聞こえる。

(バッターがうまく決めた。ホームランまでにはいかないけど、これはなかなかいいバッティングだ)

と玲子が思ったと同時に、檜山も窓のそとを眺めた。座っている自分に比べたら、立っている状態の檜山はもっと全体的な眺めをしているだろう、と思ったら、玲子は少しイラッとする。

「にしても、学生っていいよね」

冷静な様子を必死に装うけど、檜山の年齢のわりにあまりに常識外れの発言に、玲子がコーヒーを噴出しそうになる。檜山は玲子の動揺を気付くこともなく喋り続ける。

「僕たちのように社会人になるとね、仕事がダメだったら存在価値もダメになっちゃうよ。でも、学生は違うんだよな。勉強ができなくても、何かしらの分野で誰かの憧れになれちゃう。勉強ができない子が、野球部のエースになれるかもしれないし、サッカー部のエースも。ピアノが上手な子もいれば、自分で短編映画を撮れる子だっている。取り柄さえあれば、周りからそれなりに評価されるよな」

空か部活動中の生徒か、どっちを見ているのかはわからないけど、夕日に顔をオレンジ色に染められる檜山は延々と語る。その発言に玲子はどうしても納得がいかない部分があるように感じるけど、いざ反論をしたくなったらうまく言葉に出ない。生徒たちを窓から眺めるなど、本来窓際に坐る自分の特権であるべきようなことが容易く奪われるのも何だか不服である。

「そういうものですかね?」

手に待つマグカップの中に凪ぐコーヒーを見つめながら、玲子が言う。

「そういうものだよ」

檜山は苦笑とも微笑みとも、どちらともいえない笑みを顔に浮んで、玲子に振り返って言う。

「お疲れ様です」

女の子たちが元気よく一斉に挨拶する声が聞こえる。チアリーダー部の練習が終わったそうだ。檜山はマグカップに残る飲み物をもう一口飲む。

「穂積先生はまだ帰らないのかい?」

「はい、これが終わってから帰るつもりです。持ち帰ることもできますが、どうも家では集中がつけなくて」

「ハハハ、わかるなその気持ち。じゃ、僕はお先に失礼しますね。鍵しめるのよろしく」

「はい、お疲れ様です」

檜山が職員室を去るのを見送り、玲子はまた大々にため息をついた。家に仕事を持ち帰りたくないのも本当だけど、今日学校に遅く居残るのは別の理由があるから、と正直に言ったらまた檜山の演説が続いてしまいそうから、玲子はそれを言わなかった。実はこのあと、人と飲む約束をした。玲子も結構楽しみにしていた。

「もうちょい頑張ろう」

自分にカツを入れて、玲子がコーヒーをもう一口飲もうとする。熱い液体が喉に沿って体に流れ込んでいく。

「お疲れ様です」

今度聞こえたのは、野太い男子の声だった。野球部の練習も終わったそうだ。生徒の声がまだ聞こえているものの、さっきまで賑やかだったコートが一気に静かになった気がして、玲子はようやくあることに気付く。

「そういえば、今日はいないね」

一週間ぐらい前から、玲子はほぼ毎日教棟の屋上から何かしらのものを朗読する女子の声が聞こえるようになった。玲子は朗読する内容についてはそれこそハッキリ聞き取れないものの、その子は会話と語りの部分をいつも違うトーンで読む上、違う登場人物によって読む声も変化するから、玲子の頭にはついストーリーを展開したりもする。

こんな部活って学校にあったっけ?ってつい気になったけど、わざわざそれについてほかの先生に尋ねる機会もなかったし、よくよく考えたら聞こえたのは彼女一人の声だけだったから、ほかの部員は余程レイジーではない限り、一人で活動している部活はとっくに廃部を余儀なくされたはずである。

玲子はさりげなく屋上に見に行く気もあったけど、その子はいつも玲子の仕事が終わる少し前に帰ってしまうから、どんな子なのかもわからない。

他にその子のことを気にしているように見える先生はほかにいない、と玲子は思う。そして、自分だけが気にし過ぎている理由は、玲子自身もハッキリと自覚している。

「お疲れ様です」

サッカー部の声が聞こえ、玲子はついに仕事に戻って来る。


二時間後、いったん家に帰って着替えてきた玲子は新宿駅の南口に立っていた。手前のフェンスの前にストリートライブをやっているバンドがいて、その周りには十五人ぐらいの若い女性が輪になって座り、曲と曲の合間に拍手をする。真ん中に立つギターを抱えるボーカルの男性は、MCの時に冗談まじりにライブやCDの宣伝をする。

二十代後半のように見える彼は、自分自身のMCによるとアルバイトだけしているらしい。歌もそれこそ上手ではないものの、とても楽しそうに歌っているように見えるし、聴衆たちは必ず熱い拍手をした。

フリーターで、MCによればデビューもしてなくて、決してロクな生活をしているようにとはとても思えないが、周りの女性たちにチヤホヤされる彼を見て、檜山先生が言っていた、勉強がダメでも何らかの取り柄があって周りに好かれる生徒のことと繋がった。自分も、その男性のこと少しかっこいいと思う。

(なんだ、仕事がダメでも好かれるキャラっているじゃん)

檜山先生の詭弁の前に何の反論もしなかった自分が情けなく思う。

「玲子さん」

改札の方から声が聞こえたのはその時。スーツ姿の男性は玲子の方へ小走りでやって来る。外見も表情も仕草も、爽やかさそのものだ、と思わせざるを得ない男性である。こんな男性がこれから自分とディナーをすると思ったら、玲子はとても自慢したくなる。

「遅いよ、篠原くん」

何度も時間をチェックしたせいでスマホをポケットに入れ、隣まで来る男性にくちびるを尖らせる。ちょうど玲子がそれをするのと同一タイミングで、バンドが次の曲を演奏し始めた。

いきなりスピーカーから激しいギターのイントロに度肝を抜かれたようで、何かを言いそうになった篠原も、一瞬肩を震わせるが、やはり顔を少し近づいてから左耳を遮り、右手が手刀を切る。

「お待たせしました。すみません、ちょっと残業が多くて」

篠原は年下なので、玲子にはいつも敬語で話す。

「もう、お腹めっちゃ空いたからね」

「いや、本当にごめんなさい。でも、この後行くレストランは、玲子さん絶対気に入りますよ」

口では拗ねてるように聞こえるけど、玲子は、目の前にいる自分が恋をした男にたまに駄々をこねるのは、何よりの幸せだと思っているのだ。

玲子が生まれた三年目に、妹が出来た。その更に二年後、長男も生まれた。玲子が物事を覚えるようになってから、両親に甘やかすことはほとんどできなかった。そのせいなのか、玲子は小さい頃から勉強に凄く努力するようになった。そして皮肉なことに、妹も弟も勉強が下手だった。母は二人によく、お姉ちゃんに学びなさい、と言っていたが、それでかえって早々と両親に大人扱いされのか、小四に上がったら、自分の弁当からパンダのキャラ弁が見事になくなった。それが、玲子にとってなぜかすごく寂しかった。

その時、唯一自分が甘やかせる人は、従姉の帆乃花さんだった。帆乃花さんは母側の叔母さんの娘で、自分より15歳も年上だけど、玲子は彼女からあまり距離感を感じたことはなかった。その頃、玲子は千葉、帆乃花さんは結婚して鳥取に住んでいたけど、二人は毎日のようにメールのやりとりをしていたし、電話もよくしていた。玲子がテストでいい点数を取れて、そのことをメールで帆乃花さんに報告したら、いつも可愛い絵文字付きの「おめでとう」を返してくれた。電話で悩み事を相談する時、帆乃花さんは玲子の悩みを熱心に聞くし、自分の悩み事もよく玲子に打ち明けていた。長電話をしたところで、悩み事が本格的に解決されるわけでもないけど、帆乃花さんと話すと、凄く気が楽なった。

帆乃花さんがたまに仕事で東京に来るとき、二人は必ず連絡を取って、池袋や渋谷とかで遊んだり、喫茶店で長い時間おしゃべりしたり、ごはんをたべたりをしていた。玲子の家族たちへの手土産の他、帆乃花さんは毎回手作りのストラップや小さい縫いぐるみをくれた。勉強以外の取り柄がほとんどない玲子にとって、そのどれもが魔法のアイテムのように見えた。

「玲子ちゃん、学校に好きな人いる?」、と帆乃花さんがよく聞いていた。その頃、勉強に手一杯だった玲子には、恋愛する余裕はなかった。

「いないよ、そんなの。いたら、お母さんが怒りそうだし」、と玲子がテーブルに突っ伏して返事をした。

「そうね。忍さん、そういうの厳しそうだしね」

忍さんこと、玲子の母。

「でもね、玲子ちゃん」、帆乃花さんがコーヒーを上品に混ぜながら言った。

「恋って気持ちはね、他人が決めつけることじゃないの。だって、玲子ちゃんが好きな人が出来た時、それが忍さんが、妹と弟のお手本になるからこの人のことを好きになりなさい、と言われたから好きになるわけじゃないでしょ。好きな人が出来たら、怖がらずに好きになってね。例えば、その人のことが好きじゃなくなっても、バカだったな、と言える資格があるのは、結局玲子ちゃん自身よ。私も、いつでも玲子ちゃんの味方になるから」

と帆乃花さんがそう言った時、玲子は彼女のことを話せるお姉さんだけでなく、この上ない憧れを持つようになった。

だから、高校生の時、帆乃花さんがよその男と浮気をし、夫、息子、幼い娘を捨て、浮気相手と駆け落ちしたって話を聞いた時、玲子もまたこの上ないショックを受けた。

その後、帆乃花さんとは自然的に疎遠になった。帆乃花さんのような、自分が甘やかせる相手も、その後現れなかった。そのせいなのか、年下だけど、自分のことを妹のように大事にしてくれそうな篠原と出会ったのは、玲子はとても嬉しかった。

新宿駅で合流し、そこから10分歩いたところ辿り着いたのは、篠原が予め予約した、ブラジル焼肉のお店だ。ブラジルと言えば、玲子はカーニバルやサッカーぐらいしか思い浮かばないけど、店内の雰囲気は意外と穏やかである。受付の若い女性店員が予約を確認したあと、玲子と篠原を赤レンガの壁に隣り合わせの席まで案内してくれた。柔和な光と優美な音楽に包まれ、とても居心地が良いと、玲子が感じる。騒々しい場所でデートするより、玲子がこういう静かで、好きな人とゆっくり話せる場所が好きなんだ。

「ここ来たことありますか、玲子さん?」

「うんん、はじめてだけど、本当に素敵なところね」

と玲子が微笑みを見せながら、本心を言う。

「良かった、気に入ってくれて」

篠原は安堵しそうな表情を見せる。その意味を、玲子はなんとなくわかるような気がする。この間二人で行ったレストランは、どっちかというと騒がしい方だったので、玲子は終始、篠原くんともっといたい、と、帰りたい、の二種の感情に挟まれて、あまり気分のいいデートができなかった気がした。その不自然さに気がづいたらしく、篠原はその時何回か、玲子さん大丈夫ですか、と聞いてくれたけど、内心、玲子さんがこういう場所が好きじゃないんだ、とわかったかもしれない。だから今回、玲子が、来週一緒にごはん食べないか、と聞いた時、真っ先に場所選びの役を担って、玲子が気に入りそうな場所を取ってくれた、と玲子がそう感じた。

自分のそういうちょっと自己中な部分は好きではないけど、篠原が自分に気を配ってくれたのは単純に嬉しかった。

そこから二人は他愛のない会話を交わしつつ、美味しい肉料理を楽しんでいた。

「そういえば玲子さん、さっきのあんな感じのバンド好きなんですか」

不意にそれを聞かれて、なんのことか、と玲子が一瞬戸惑ったけど、すぐに駅前で歌っていた、あのフリーターボーカルとそのバンドのことだとわかった。

「別に、なんで?」

「いや、なんか玲子さん、すごいじーと見ていました」

「そう?」

同僚の中年男性の屁理屈を論破できなかったことに悔しがっていた、とかは流石に言える気がしない。

「そうなんですよ。なんか、意味有り気な顔で見てました」

  「そんなことないわよ。ただ、ちょっと考えごとをしてただけ」

  「やっぱなんかあるじゃん」

  「大したことじゃないわよ。なんか、学生もいいけど、大人も別に悪くないじゃんって考えただけ」

  「また生徒のことでお悩みですか。玲子さんは本当に教え子思いなんですね」

  生徒たちの絶望的な成績と、演劇部の活動など、確かに玲子は生徒のことについて色々心配事はある。

  「そういえば、玲子さんの姪っ子さんは元気ですか?」

  篠原はさり気なくそのことを提起したけど、玲子は心が一瞬ギュッとなったような気がする。

  姪っ子というのは、言うまでもなく帆乃花さんの娘である。名前は橋本佳乃。帆乃花さんに引き取られたとは言え、苗字は去年まで一緒に生活していた父のままである。彼女は、今年から玲子の高校に入学した一年生である。

  篠原が知っているのはそこまでだ。帆乃花さんの事情も、佳乃ちゃんの事情も、玲子は篠原に教えていなかった。だから、篠原がそのことを提起している時のさりげなさに、玲子は余計に緊張しそうになる。

  「あの子ね。上手くやってるよ。なんか前は田舎の方のに住んでたんだし、大丈夫かな、と心配しちゃったけど、あの子クラスに溶け込むの結構早くて」

  「そうですか。あの子って」

  篠原がまた何か言いそうになったが、手に独楽のような形の肉の塊を持つ外人の店員がやって来て紳士的に微笑みながら肉を食べやすい形を切ってくれたので、会話はそれで打ち切られる。店員が去ったあと、篠原が佳乃ちゃんの話をまた持ち出さないよう、玲子は真っ先に別の話題を勝手に進めた。

  その後も結局佳乃ちゃんの話をしていなかったが、玲子は二人で店を出るまで、生徒の悪い成績も、檜山先生の詭弁も、考えることはなかったのだ。

  篠原とは新宿駅で別れた。ストリートライブをしていたバンドはさすがにもういなかった。

  

帰りの電車にはあまり乗客はいない。隣りに座っている若い中国人の女性の会話を聞きながら、玲子はふと母から帆乃花さんの浮気事情を聞いた日ことを思い返した。その日のことを玲子はまだ昨日の出来事のように、ハッキリと覚えている。

その日にちょうど中間テストの成績発表があった。玲子は案の定学年トップとなった。とりわけ母から称賛されたいわけでもなかったけど、玲子はいつもよりもちょっと早く帰宅することにした。母にそれを伝うのは、なんとなく事務的な行為であると感じたけど、いち早く帆乃花さんにも報告したかった。

  玄関に入って、ただいま、と言ったのと同時に、キッチンの方から母の声が聞こえた。「おかえり」ではない言葉を結構大きい声で早口で喋っていたけど、内容は上手く聞き取れなかった。

  玄関から居間に入ると、真っ先に見えたのはキッチンで電話をしている母だった。カウンタートップの上には半分をみじん切りにした玉ねぎが置いてあった。

  「おかえり」

  と母はやっと玲子が帰ってきたのを気付いたと言わんばかりの口調で言ったら、またすぐ電話の話に戻った。

  「うん、玲子が帰ってきた。うん」

  (自分の名前も出てきたということは、電話の向こうは親戚の人でしょう)

  玲子は自分の中で推測しながら、冷蔵庫を開けて麦茶を取出し、豪快に飲み始めた。普段の母なら、やめなさいお行儀悪い、と注意するが、今日はまるで玲子を見る気もなかった。

  「うん、わかった。こっちに何か連絡来たらまた知らせる。うん、うん。心配しないで。帆乃花ちゃんのことだし、そのうちすぐ帰ってくると思うわ。うん、じゃ。何かあったらすぐに私に教えてね。うん」

  自分の部屋に戻ろうとした玲子は、「帆乃花」という三文字を耳にしたとたん、居間の入口で足を止まった。振り向くと、丁度母が電話を切ったところだった。

  「帆乃花さんになんかあったの?」

  「あっ、あんたおかえり」

  「帆乃花さんになんかあったの?」

  改めておかえりと言った母に、玲子がつい苛立たしくなり、母に二回も質問を殴りかけた。

  「今のはめぐみおばさんからだったけど」

  めぐみおばさんこと、帆乃花さんのお母さん。

  「驚かないでね。おばさんがね、まだわからないし、何か間違いだった可能性もあるけどね。帆乃花ちゃんがね。。。家出したらしいの」

  「いえで」という表現が出てくる前に置かれた言葉の間に、玲子は気味の悪い違和感を覚えざるを得なかった。母は必死にその表現を探ろうとしたようだった。玲子が自分の中に込み上げるショッキングな感情を辛うじて抑え、八つ当たりのようにまた母に質問を投げ込んだ。

  「なんで。なんでよ。家出ってどういうことなんだよ」

  「落ち着いて玲子。このあと、また隆宏さんたちに連絡してみる。まだ確実に家出とも限らない。またなんかわかったら教えるから、今はとりあえず。。。」

  「いま知りたいのよ!お願いお母さん。帆乃花さんに何があったのか、知ってることを全部話してよ」

  声量がドンドンエスカレートしているのをさすがに気がづいたが、自分と母の間に存在する空気が固まって見えざる壁になったようで、叫ばないと母に伝えないような気がした。

  「あんたが気にすることではないと言ってるのよ。あんたはまだ子供だから、わからないことだってあるのっ!」

  (あーあ)

  「なんで。なんでよ。あたし、中間テストで学年トップとってきたよ。お母さんがいないときも、晩ご飯を作れるようになったよ。洗濯だってできるようになったし。智代と智明の可愛いお弁当にもゼンゼン羨ましくないよ。お母さんたちに通ってほしい学校にも入ったし、大学の志望もちゃんと考えてるよ。この前、智代にも勉強教えたよ。留守番もちゃんとできたし、昔好きだったマンガもちゃんと好きじゃなくなって智代にあげたよ。お母さんが病気の時ガマンしたりするのも、お父さんがいつも必死に働いて家のローンを返してるのも、全部わかってるんだよ。なのに、なんで子供子供って誤魔化すのよ。私だって我慢してるんだよ。私のことを中途半端な大人としか見られないくせに、こういう時だけ子供扱いしないで」

  必死に抑えようとしていた感情は、激しく揺さぶられた缶コーラのように嘔吐された。口が四つあればいいのに、と玲子は思った。

  母はしばらく呆然と立ち尽くしたが、また何か言おうとした時、玲子は先に自分の部屋に逃げた。玲子、と母は自分の名を呼んだが、その声量をかき消すよう、玲子は階段をなるべく強く踏んだ。

  部屋に逃げ込んだ玲子は、最後の力を振り絞ってベッドに倒れた。泣き止む力もなくなったようだった。

  そのまま玲子が寝てしまった。起きた時は、もう既に夜だった。

  下に置きっぱなしとなった鞄を取りにいこうと、玲子がベッドから降りた。ドアの下の隙間から入れられる紙を見かけた。

  「起きたら下においてごはんを食べてね。 母」

  とだけ書かれた。

  部屋から出ると、居間の明かりがまだついているのを気付いた。こんな時間に智代も智明もきっと寝ているので、きっと父か母だ、と玲子が思った。かすかに二人の話も聞こえた。

  玲子がコソコソと階段を降り、二人に気づかれないように、下の方の階段にそっと座った。帆乃花さんが家出した原因は男との駆け落ちだったと知ったのもその時だった。

  途中までしか聞けなかったが、二日前、帆乃花さんの夫の隆宏さんが、玄関に帆乃花さんが残したメッセージを見つけた。最初は妻の冗談かと思って電話をかけたが、どうかけても帆乃花さんが出なかったという。その日は深夜過ぎても帆乃花さんが帰ってこなかったから、隆宏さんはめぐみさんに確認しようと、電話をかけた。めぐみさんも事情を知らないみたいだったので、隆宏さんははじめてことの深刻さを認識した。

  玲子の話も何回か会話の中で出てきた。私玲子に酷いことをしたのかも、と母が自分のことを責めたり、玲子なら心配ないさ、と父が母を慰めたり。

  結局玲子は、ごはんも食べずにそのまま無言で部屋に戻った。取ろうと思った鞄も、両親が居間にいるから取れなかった。再び潜りこんだベッドにはまだ予熱が残っていた。玲子はその時初めて、枕がびしょ濡れになっているのを気付いた。

  ポケットから携帯を取出し、玲子さんの番号にかけてみた。

  「もしもし、玲子ちゃん?元気にしてた?私も元気だよ。ごめんね、心配かけちゃって。今家の中で噂流されてるみたいんだけど、嘘だからね。私は大丈夫よ、すぐ玲子ちゃんにも会いに行くから。信じてね」

  などと玲子は期待したが、電話の向こうから伝わってきたのは無機質なアナウンスの声だけだった。

  「おかけになった電話番号への通話はおつなぎ出来ません」

  無数の問題が玲子の頭の中をよぎった。だって、帆乃花さんがどうなるの。逢う度いつも文句を言っていたけど、隆宏さんがどうなるの。将大くんがどうなるの。まだ赤ん坊の佳乃ちゃんがどうなるの。帆乃花さんを憧れていた、私がどうなるの。私が帆乃花さんのことを勝手に味方だと解釈したが、帆乃花さんにとって、私も結局新しい恋人が出来ると簡単にブロックできる人だったの。

  「ズルいよ、大人って」

  顔を半分枕に埋まった玲子が湿気帯びた声で呟いた。帆乃花さんが、玲子に教えた通り、周りの人のことを気にせず、人を愛した。家族たちにとって最悪の結果になってしまったが、変に説得された玲子が帆乃花さんに責められそうになかった。結局のところ、自分はただの大人になり損ねた中途半端な人間だけだった、と玲子は思った。

  翌日、玲子がまた帆乃花に電話してみたが、金輪際出る人はいなかった。自分と帆乃花さんとの間の絆が断ち切られたのはあっさり過ぎて玲子が絶望を通り越し、一種の釈然のような気持ちになり、それに漠然とした自分がいたと気がついた。そのモヤモヤが晴れると、玲子が自分でも驚く程に現実を受け入れた。

  母とはそれ以上揉めなかったが、お互いに謝ることもなかった。まるであの会話が起こらなかったようだった。

  それ以来、玲子の生活にこれといった変化はなかったが、時々疑問を持つようになった。自分は今まで誰のため、何のために大人になろうとしたのか。大人は目指していい目標なのか。大人になったら、次は何になればいいのか。

  自分に色々と問いかけてみたのだが、結局そのどれも解決するなく、玲子が高校を卒業し、奨学金もらってアメリカへ留学まで行った。


ふと気がつくと、電車はもう玲子家近くの駅に着いている。玲子は慌てて電車を降り、隣に座っている中国人女性に怪訝そうな目で見られる。プラットフォームから降りると、そこには高校生らしき女の子二人が、壁に靠れて何やら楽しそうに話している。制服こそ着てはないものの、外見から見れば自分の学生とはそう変わっていない。玲子はつい衝動に駆られ、早く家に帰りなさい、と注意を入れようとしたが、あのババァのくせにうっざー、と言われそうでやめた。

定期券を改札機にぽちっと鳴らすと、玲子が何気なく自分が教師という職業を選んだ理由を思い出す。

本当ならば、どこの大手企業に入ってもおかしくないくらい凄いレジメを持っていたが、アメリカから帰国した翌年に、玲子が都内にあるごく普通の公立高校に就職し、英語の教師になった。

その理由に、玲子がなんとなく自覚しているつもりだった。今までずっと大人を演じてきた子供が、本物の大人グループにその偽装が通せる自信もないから、いっそのこと子供相手にした方が楽で素の自分でいられそうだし、必死に大人ぶっている高校生の姿は自分と重ねる部分があると感じて愛らしく感じた、というのが、玲子の一連の供述だった。自分でもそれで納得できた。

自分の生徒に対しての心配性が重くなりつつあるのも、ある意味それのせいだと、玲子が勝手に解釈する。今更自分自身の不器用さにも認めるし、自分より不器用な生徒を見るとほっどけなくなってしまい、成績にも、部活にも、進路にも、玲子が他の先生より関心を示した。だから帆乃(・・)花(・)さん(・・)の(・)お願い(・・・)に断れなかったと思う。

改札口を出ると、後ろから女子高生のゲラゲラと笑う声が聞こえる。

「あのババァちょーうるさくない」

「あんなんであたしらにキレるなんてチョー受けるわ本当」

ババァと聞こえて一瞬背筋がゾッとする。自分のことではないと分かっているものの、何故かそう言い切る自信がなく、玲子が二人に振り返りもせずに早足で家まで歩く。

  交差点を渡ると、玲子が毎日家帰る前に寄るコンビニに入った。店員さんの自動ドアの効果音と同化しそうくらい無機質な「いらっしゃいませ」を無視し、店の奥にある冷蔵棚に脇目も振らずに歩き、野菜ジュースを取り、レジへ持っていく。店員さんから袋を断ったあと、片手に野菜ジュースを持って店を出た玲子が、あの二人がまだ家に帰っていないか、と気になりはじめる自分に気付く。自分の生徒ではないものの、やはりこんな遅くまで外にいて欲しくない、かといって今から戻って注意するのも流石にも億劫である。明日の朝、朝食を食べながら、女子高生二名が行方不明になった、というような旨の報道がニュースで流されたら、自分はきっと責任感を感じざるを得ない、と玲子が一瞬左手に握っている野菜ジュースがひんやりとした冷たさにとげとげしく感じる。

  恐らく明日になると、そういう報道は流されないし、万が一流されたとしても玲子はもう助けてあげることができないが、現に自分が助けられる子は一人いる。

「よしっ」

と自分にガッツを入れてみる。携帯を取り出し、画面に指先を滑らせ、連絡先は「は行」まで下される。一つの名前に指がとまり、玲子が電話をかける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る