Sのフラグメント
咲倉露人
第1話〈坂道〉
電車に乗ること自体はそれこそないことは決してないが、銀色の車両が徐々に速度を落ち、プラットフォームに停車するのを見て、佳乃は振り向いて、灰色がかった天井にぶら下がる看板にちゃんと見慣れた駅名が書いているかどうかを確認せずにいられなかった。
家からの最寄り駅の名前がちゃんと書かれている。
よし、ちゃんと正しい駅まで来てます、と安心しながらも、佳乃の中には未だまだ、自分はこれから「学校」という場所に行き、これから毎日通うという既成事実に対して呆れるに近い、かといってそれとははっきりと区別がつくある種の不思議感が、自分のこれまでの人生に未練を語るように薄々と残っている。
そもそも先週は四回も電車でお出かけしましたし、登校くらいいまさら自分でできるもの。
と、佳乃は何度も自分に言い聞かせてきた、まるで魔法の呪文をきごちなく必死にとなえる初心者の魔法使いみたいに。
それでも佳乃は他人に勘違いしてほしくないことがある。自分は絶対に登校すること怖さを覚えたわけではない。今の心境はどちらかというと、嵐の海に飲みこまれて死ぬことに対して怖くなっておののいてるではなく、なるほど地球ってまるいんだね、という何億年もちゃんと実在した事実をやっと気づいた瞬間の驚愕さに近い。自分たちの今まで信じてきていたことって何だったんでしょ、と新しい発見が出来、それをちゃんと飲みこめるより先に、自分たちの存在性を疑ってしまい、すこし恍惚してる。
電車の自動ドアの開く音がすると、佳乃が自意識で足を運べる前に、後ろの人がすでにノロノロと動きはじめて、彼女を車内に押していく。
朝こんな早く電車で出掛けることがほとんどない佳乃が、この人間の大群をもの珍しい目でのぞく。
働きアリ。
佳乃の中になんとなくその単語が出てきた。
昔テレビでやった外国のドキュメンタリー番組に働きアリの行進を見たことがある。アリには思考ができる頭脳が付けられてなくて、本能に駆使されて働き、王女たる一匹に仕えることがすべてらしい。超群体と呼ぶらしい、こういう現象は。それか集合精神か、集合的無意識か。どれについても詳しく知らないが、こうやって知ってる単語を並べると、どれかが当てはまれる気がする。
小さい男の子がよく公園とかでアリ観察とかするらしいが、もちろん佳乃にはそんなチャイルドフッドはなかったので、この人の塊を見て、なるほどアリとはこんな感じですね、と佳乃は軽く感心する。
佳乃はその中にほかの人のペースを合わせて、たしかに前へ歩くのではなく、ただ押されて動かざるを得ない、そんな自分は働きアリの一員か、ただの運ばれる葉の切れ端なのか、佳乃は自分でもよくわからない。
まぁ経過はどうであれ、佳乃は電車に入れた。
自動ドア前にスペースが出来、佳乃はそこにある座席とそのスペースを仕切る板にもたれるが、背中全体が板にしっかりと貼りついてるんじゃなくて、肩甲骨以下が明らかに浮いてる感じだ。
右肩に担ぐバッグの帯に右手を置きながら、右手にすこし力を入れて制服のスカートのすそを握る。この格好で出歩くのが初めてだ。周りからはどんな目で見られるでしょう。変じゃないかしら。
そもそも制服を着た女子高校生が電車に乗る時、どこかに背をもたれたりしていいでしょうか。よくなかったら、ならどんなことをすればいいでしょうか。手をどこに置けばいい。バッグにつっこむか。つり革をつかむか。なんだか優雅そうに肩に置くか。腕を組むべきか。それとも適当にぶらさがるべきか。バッグにアクセサリーをつけた方がいいのかな。付けるとしたらなにがいい。こネコのストラップがいい。それともこイヌ。うさぎ。テレビで見た微妙なデザインのご当地キャラ。普通のスクールバッグの方がよかったかしら。やはりリュックサックがよかったかしら。
疑問が次から次へと出そろい、頭にたくさんのコンセントにグルグルと縛られて麻痺になりそうだから、佳乃はいっそのこと考えるのをあきらめて、目の前にいる女性の方をまねることにした。
見た感じ若そうな女性の方が反対側の板に背中をもたれてる。若いといって、絶対に私より年上ですよね、と佳乃はなんとなくそう感ずる。学生服も着ていないし、なにより雰囲気が佳乃と明白に異なりすぎる。派手なパーマをかけた薄い茶色がかった髪に、佳乃は自分が想像しがたい自由奔放さを感じ、今朝お母さんに丁寧に手入れしてもらった髪型より、そっちのほうがよっぽどこだわりがあると思った。
両耳にピカっと電灯の光を反射するピアスに不意に見つめる。こういうピアスを付けるのに、事前に耳たぶに穴を開けれなければならない、と佳乃は伺った。そうやって自分をいためるまで目立ちたい心境は佳乃にはわかりようがないが、少なくともベーシックな学生服をぎこちなく着るだけで精いっぱいの佳乃より、彼女の方がずっと車内の風景と釣り合う気がした。
電車どころか、彼女ならきっと社会そのものに投げ出されてもなんの違和感も、居心地悪さも自分から感じ取れないでしょ。自分から周りのペースを必死に合わせるのではなく、自分のペースに周りの人々が無意識のうちに巻き込まれて、そういうのって普通じゃない、と思ってもらうようにできる。
年上とはいえ、年齢こそそれほど大した差はあるわけがないけど、精神的には私が追いつけないほど成熟してるんでしょうね、と佳乃は思う。
ずっとスマホを見ていなかったら、女性はひょっとしたら目の前の女子高生にちょいちょい見られてるのを気付くだろう。気づかれたらどう反応するのでしょ。やはり別の位置に移動する。そよ風に吹かれたようにスッと顔をそらす。もしかしたら睨み返してくれるかもしれない。怒られるのは嫌けど、そうしたらこの女性とこれ以上のかかわりができると思ったら、ちょっと刺激感すら覚えた。けれど実際にそういうことが起ったとしても、佳乃は所詮その刺激感を楽しめるほどの心の余裕がない。
だから、佳乃は視線を強引に窓外の景色にそらした。これ以上見つめていたら、モモがしびれて電車に降りれない恐れがある。
それからなにがあったか、佳乃はほとんど印象はなかった。とにかく学校に着くまで、佳乃は指名手配中の犯人のように、コソコソ歩いていた覚えがほのぼのしく残っている。
駅から学校までは長い坂道をのぼらなければならない。それに登りはじめるのにつれ、佳乃の周りに同じ制服を着る人の姿は急に餌に釣られるスズメのように出現し、佳乃の視界を占めつくす。
こんなところで立ち止まるのもきっと変だし、佳乃は登校する学生の波にさらわれつつ、急に昨夜お母さんが行ってくれた言葉を思い出す。
いい、佳乃?周りのみんなはね、クラスメートとか、同級生とか、あとはまぁ先輩の人とか、いろんな人いるけどね。でもね、みんな佳乃と同じだよ。これから始まる新しい生活にちょっぴり怖いの。ね。佳乃と同じだから。むしろ佳乃のほうこそ、みんなよりずっと、ずぅぅと期待できる物事が多いんだから。
と、お母さんは佳乃にパジャマを着せながら、そう言ってくれた。右手は赤ちゃんのあたまを撫でるように、そっと優しく佳乃の右肩にふれた。
その言葉は、どれほど佳乃の力になったのか、おそらく言い出したお母さん自身も予想しなかっただろう。それを聞かなかったら、佳乃はそのまま駅に戻って帰りの電車にのってしまったかもしれない。
女子生徒は学年の違いによってリボンの色が異なる。佳乃たち一年生は初々しい黄色、二年生は赤、そして三年生は見るからに大人っぽくおっとりとした青。男子はみんな学ラン一色だし、第一佳乃には男子と上手く会話ができるつもりはないし、目を合わせる覚悟すらないだろう。
佳乃は周りに歩いてる生徒たちを覗きながら、なるべく同じ色のリボンが付いてる女子と歩幅あわせて同じペースを歩く。できることなら、同じく黄リボンの子に話しかけて一緒に教室まで歩いてもらいたいところだ。無論、佳乃にはそんなことができない。
困りましたね。
校門はすぐ目の前にある。疲れたよ、とか、これ毎日歩くの、とか、周りから不満の声がいろいろ聞こえるけど、佳乃にはそれを聞くたび、これからクラスメートになる人から宣戦布告をされてるようで、坂をのぼる苦労さなんて全然頭に入らなかった。
スクールバッグから、佳乃は新入生案内を取りだした。指先から冷たさが伝わる。帯を握りすぎて手のひらに汗が出てしまったのに、佳乃は両手から冷たさしか感じ取れない。
(だれか。)
佳乃は無言で助けを求めた。その時だった。二人の生徒が佳乃に通りすぎて、坂道を走りのぼった。
なんだかフラフラしはじめた気がして、佳乃は他人に気付かれない程度で、少し道端の木に身を寄る。このまま木の影にしゃがみこめればどれほど楽になれるでしょうか、と佳乃は思うものの、そんなことしたら周りから変な目で見られるあげく、余計な気遣いされてもしようがないから、佳乃は少しうつむくことにした。
そこには、ハルジオンが咲いていあった。佳乃はこんなところで下を向いてなかったら、きっと見つけることができないだろう。だけど、ハルジオンはそこにあった。見てて悲しくなるほど必死に目立ちたがるのでもなく、いっそのこと穴を開いて自分を埋めようと存在を隠してるでもなく、ただそこに静かに咲いて、誰かに見つけられるのをそっと待っているだけの存在。
きれいですね。
と佳乃は感嘆する。
「うわぁ、ハルジオンだ。こんなところにある」
人の声がした。女の子だ。気づいたらいつの間にか、女の子一人が隣で屈み込んで、ハルジオンを見つめている。
「きれいだね。」
きれい。
女の子の顔を全然見えないけど、佳乃はなぜか見とれてしまった。
女の子は立ち上がり、佳乃に微笑みを見せた。
「私は鷲尾七海。あなたも新入生でしょ。名前はなんていうの」
「橋本佳乃、といいます」
意識がまだうっとりとしているのに、なぜか佳乃は素直に女の子に従った。
「橋本さんね。私、新入生案内を家に忘れて困ってるところなの。あなた持ってるでしょ、新入生案内。一緒に入学式まで行ってもいい。」
佳乃はうなずくことしかできなかった。
「本当?ありがとう。じゃあ、行こう」
鷲尾七海は、佳乃の空いてる手を優しく掴んで、校門まで小走りはじめた。
その時周りの人にどんな目線で見られたか、入学式に校長先生はなにを言ったか、体育館から教室までどうやって行ったか、佳乃はあんまり覚えていない。覚えていたのは、はじめて学校に行った日に、佳乃が目に見るものは、道端で発見した小さなハルジオンと、鷲尾七海の後ろ姿だけだった。
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