『編集』

矢口晃

第1話

編集者「先生、今日締切の原稿を頂きにあがりました」

小説家「今日締切の原稿? おかしいな。そんなものがあったっけ」

編集者「先生、いくらしらばっくれたって、今日という今日は原稿を頂きますからね。何しろ先生のために、こちらも雑誌の編集期間をぎりぎりまで延ばしているような次第なのですから」

小説家「まあそんな風に言われてもね、ないんだよ、ないものは」

編集者「え? 何とおっしゃいました? この期に及んで、書いてないとは言わせませんよ」

小説家「そう言われてもね、実際忙しくて手が回らなかったんだよ。すまない」

編集者「すまないの一言だけおっしゃられても、こちらとしても本当にすまないのです。先生、何かあるでしょう、未発表のまましまってある原稿のようなものが。本の少しでいいんですから、何か出して下さいよ。何にもないんじゃ、形にならないのですから」

小説家「そう言ってもね、つまらない原稿はみな他へ売ってしまって、手持ちは一つもないのだよ」

編集者「そんなことおっしゃって……」

小説家「何。そんなに落ち込まなくてもよろしい。最大に引き伸ばして、時間はあとどれくらいあるのだ」

編集者「精一杯延ばしても、あと一時間が限界です」

小説家「一時間? よろしい。一時間もあれば、きっと何かしら書けるだろう。君ちょっとそこで待っていてごらんなさい」

編集者「え? 今から書いて下さるのですか?」

小説家「君のそんな哀しそうな顔を見ていたらね、実際僕も何とかせねばという気持ちに駆り立てられたのだよ。私がこれから口述するから、君そこにある原稿用紙に書き取りなさい」

編集者「面目ございません。それではどうか、お願いいたします」

小説家「うん。こんな書き出しはどうだい?」

編集者「もう何か浮かんだのですか?」

小説家「まあそんなところだ。いいかい。ちょっと読んでみるから聞いてみていたまえ。『国境の長いトンネルを抜けると、そこには一面の雪景色が広がっていた』」

編集者「え? それはまさか、あの有名な小説の書き出しのことじゃ……」

小説家「何。確かに少し似ているがね。でも実際は大違いだ。何しろ向こうは『雪国だった』だろう? ところが僕のは『雪景色が広がっていた』というのだから。これだけでもずいぶん違っているじゃないか」

編集者「さて、先生がそうおっしゃられても、一般の読者がはたしてどう感じるか……」

小説家「それにね、もっと決定的に違う部分があるのだよ」

編集者「それはぜひとも伺いたいですね。いったい、どのように違うとおっしゃるのです?」

小説家「向こうの小説の乗り物は汽車だね。でも、僕の場合はバスなのだよ」

編集者「でも、どこにもそんなことは書いていなかったようですが……?」

小説家「書いているところだけ読んでいるようじゃだめだね。やはり書いていない部分も読む、読者は常にそういう態度で小説に臨むべきでないのかい?」

編集者「はい。先生のお説はごもっともかも知れません。が、やはり一般の読者の中には先生のお考えも汲み取れず早とちりして、先生が先人の作品を盗んだと思う者がいないとも限りません。そうなると先生のお名に傷がついてかえって先生ご自身のためによくありませんから、どうかこの書き出しはお取り下げ頂きたいのです」

小説家「まあ君がそこまで言うのなら、これはなしにしてもかまわない。でも小説家というのは実際つらい稼業だと思わないかい、君。あふれる才能をありのままに表現したのではかえって読者に反感を買う。せっかくの才能を出し惜しみしながら書かなくてはならない。つまらん生業だと思わないかね」

編集者「ごもっともです。先生のお話は全く胸に染み入ります。しかし、どうかそこを曲げてお願いいたします」

小説家「わかったよ。何、私も凡人ではないからね。こちらがだめならそちら、というのをちゃんと用意してある。また読んでみるから君聞いていたまえ」

編集者「はい。拝聴いたします」

小説家「こほん。よいか。『吾輩は犬である。名前はまだない』」

編集者「……え? それはひょっとして」

小説家「君はまた何か野暮なことを言おうとしているな?」

編集者「先生の前でこのようなことをもうしあげるのは甚だ失礼かとは思うのですが……」

小説家「つまり、あの偉大な漱石先生のものにそっくりだと言いたいのだろう?」

編集者「ええ、まあその通りで」

小説家「わかったわかった。どうせ君のことだ、そんなことを言うだろうと思っていたよ。何今度こそ誰のものにも似ていないから安心していたまえ」

編集者「本当に大丈夫ですか? 先ほどからもう十分経ちまして、まだなかなかはかどらないようですが……」

小説家「何。まあ聞いていたまえ。『私はバスに乗り合わせていた。そのバスは、真っ白な雪原の中の国道を、ひた走りに走っていた。タイヤに巻かれたチェーンの地を噛む音が、バスの床を通して私の耳に生々しく響いていた』」

編集者「お。今回のはなかなかいいようですね。その調子で、どうかお願いします」

小説家「『その時、私はある異変に気がついた。私の乗っているバスには、私の他に一人も乗客の姿が見えなかったのである。代わりにバスの中に乗っていたのは、空間を埋めつくさんばかりの夥しい量の犬である。しかもその犬のことごとくが、白い地に黒い斑点を体中に帯びた、ダルメシアンなのである。大量のダルメシアンが、座席、通路、網棚の上に至るまで、まさしくすし詰めの状態でこのバスを占領していたのである』」

編集者「なかなか好奇心をかきたてる内容ですね。その後は、一体どうなるのです?」

小説家「『私はこの車内の光景を、運転席の隣のわずかな空間に精一杯身を細くして立ちながら眺めていた。車内中に充満した獣臭さが私の鼻を絶えず襲った。私はこのバスに、はたして何匹のダルメシアンがいるのか知りたくなった。そこで左前列にいる犬から、一匹一匹数え始めた。どこを見ても白と黒との模様が続くので、私はともすれば勘定をしそこないそうになりながら、どうにかバスの左側にいる犬を全て数え終えた。その数は、ちょうど五十匹だった』」

編集者「おや? また何か嫌な予感がしてきたのは私だけでしょうか?」

小説家「『私は続けて、バスの右側にいる犬を数え始めた。数え終えると、はたしてその数は五十一匹だった』」

編集者「あ、やっぱり。これはあの、百一匹のダルメシアンの出てくる有名な話と同じじゃないですか!」

小説家「何。まずければ数などあとからいくらでも調整するさ。ここで重要なのは犬の頭数ではないのだ。続きを言うから、しっかり書き留めたまえ」

編集者「本当に、信用してよろしいのでしょうね? これまで駄目にされると、もう時間から言っても難しいので……」

小説家「こほん。『私は車内中の犬を数えることで、また一つ新たな発見をした。それは白と黒の模様とばかり思っていた犬の中に、時折赤い斑点を持つ犬が含まれていたという事実である。しかもその赤い斑を持つ犬は、バスの前列の方に集中して多いらしかった。私はこの時、ふと嫌な予感にかられた。そして今まで気にしなかった運転席の方にひょいと目を移して見ると――』。君、ここで行を改めたまえ」

編集者「はい。大丈夫です」

小説家「『目を移して見ると――なんとこともあろうにこのバスを運転していたのは、すでに全身が白骨化した人間なのであった』」

編集者「骸骨がバスを運転するのですか?」

小説家「『私は骨だらけの運転手を見ながら、頭のなかではすでにある理解をし始めていた。――理解? いや、それは覚悟と言っても差支えないらしかった。私が再びバスの座席の方へ視線を移すと、そこには白い牙を剥きながら低いうなり声をあげる、百一匹のダルメシアンがいたのである』。これで終わりだ」

編集者「なるほど、なかなか不気味な話ですね。それでもどことなく微笑ましさが漂うのは、この百一匹のダルメシアンという設定のせいでしょう」

小説家「まあ、そこはどうでも君の自由で直すさ。百二、三匹とでも書きなおしておいたらよかろう」

編集者「はい。それは社に戻ってから再度考え直すことにいたします。どうにか助かりました。これで私の首もつながりましたよ。この原稿は確かにお預かりします」

小説家「うん。早く社に戻るがよかろう」

編集者「(いそいそと帰り支度を始めて)しかし、実際はありそうもないですな。犬が人を食うというのは」

小説家「何。ありそうもないことが起こるのが小説というものさ」

編集者「いえ、全くです。それでは私はこれで失礼をいたします」

小説家「うん。また来たまえ」

編集者はいったん小説家の家を辞そうとしたが、玄関を一歩外へ踏み出したとたんに家の中に舞い戻った。そして玄関まで見送りに来ていた小説家に血の気の引いた青い顔を向けると、がちがちと上下の歯を打ち鳴らしながらこう言った。

編集者「先生、実際になさそうだなんて、とんでもないですよ……」

小説家「うん? どうかしたのかね?」

編集者「玄関の外にいる、野良犬を見て下さい」

小説家「野良犬くらいで、そんなに恐がらなくてもよかろう」

 小説家はそう言いながら、玄関の引き戸を薄めに開けた。するとそこから見えたのは、一匹の真っ白な野良犬である。しかしその野良犬は、確かに少し様子が違った。野良犬は、口の周りだけがやけに赤いのである。その口には、何か棒きれのようなものを咥えていた。小説家はさらに目を凝らしてその棒きれのようなものを見ると、たちまち玄関の戸をぴたりと閉めてしまった。そして玄関の内側でまだ震えている編集者と、恐ろしげに眼を合わせた。

 白い野良犬の口に咥えていたのは、紛れもない、人間の二の腕だったのである。


※  ※  ※


編集者「これですか、まだどこの雑誌社にも出していなかった原稿というのは」

小説家「まあそうだね。君のような編集者と、僕のような小説家がやりとりをしたという設定でずいぶん昔に書いたものだ」

編集者「しかしどうもあまり良い出来には見えませんなあ。本当にこれしかありませんか?」

小説家「まあ仕方がないと思ってあきらめたまえ。それでも、何もなかったよりはまだましじゃないか。これでどうにか雑誌の編集にも間に合うだろう」

編集者「せっかく先生のために今日まで編集期間を引き延ばしてお待ちしましたのに、これではあまり待った甲斐もありませんなあ」

小説家「まあそう言わずに持って帰りなさい。僕だってこんな駄作を喜んで世に出そうというのではないのだ。ただ君と、君のところの社長とからのたっての願いということで、やむなくこれだけの小品を泣く泣く提出しようというのだ。君も泣く泣く持って帰りたまえ」

編集者「まあとりあえず頂いていきますよ。もっとも、これじゃ雑誌に載るかどうかも保証できませんがね」

小説家「ところで君、最近我が家でも犬を飼い始めたんだが、一つ頭でも撫でてやってくれないか?」

編集者「え? 先生のご自宅で犬を? それはまた、どんな風の吹きまわしで」

小説家「何。どんな風も吹きはしないがね」

編集者「それでも先生は、元来そういうことはお嫌いじゃないですか。犬や猫の世話をしたりするのは」

小説家「時と共に人も変わるのだよ。そら、こっちだ」

編集者「あちらの庭にですね? おや、ああ本当だ。小説に出てきた通りのダルメシアンじゃないですか。しっぽを振って、かわいいかわいい」

小説家「うん。撫でてやってくれ。とても人が好きな犬なのだ」

編集者「おお、賢い犬だ。よしよし」

小説家「よしチビ公、噛め!」

 その声に反応して、大きなダルメシアンが編集者の首筋めがけて突然噛みついた。

編集者「ああ、痛い!」

小説家「チビ公、もっと噛め!」

編集者「何をさせるのです! 止めて下さい! 痛い、痛い」

小説家「貴様、散々人の小説を侮辱しやがって。ただでは済まさんぞ。噛め! 噛み殺せ!」

編集者「ああ、痛い! 死ぬ! 殺される!」

 ダルメシアンの鋭い牙から逃れられず、編集者の声は次第に小さく、細くなって行った。


※  ※  ※


編集者「ざっと拝見しましたが、それほど悪くはないようです。それではこちらの原稿を頂戴していきますよ?」

小説家「うん。遠慮せずに持って行ってくれ」

編集者「しかし、最後の編集者が犬に噛み殺される件はどうしても必要なのでしょうか? 私の目にはどうも蛇足のようにも見えるのですが……」

小説家「何? 君まで私の小説にケチをつけようというのか? ならばここに、お誂え向きにも千枚通しがあるぞ」

編集者「またまた、悪い御冗談を。……とにかく、これだけの原稿が出てきただけでも大助かりです。でも、来月こそはきっと都合を立てて、今回のように慌てて引出しの中の未発表原稿を引っ張り出すなんてことのないよう、お願いしますよ?」

小説家「どうだか」

編集者「どうだか、では頼りありませんなあ。ぜひ力強いお返事をお願いしますよ」

小説家「ところが、来月からちょいと関西の方へ用事が出来てね。また小説どころではなくなりそうなんだ」

編集者「それでは困りますよ。私の方でも、毎回こんなに締め切りを延ばせませんのでね」

小説家「何。分かっているさ。安心したまえ。来月君が来たら、また家中の引出しの中を、原稿がしまってないか改めて見ることにするから」

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『編集』 矢口晃 @yaguti

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