エピローグ

「伯父上! ヴァイハルト伯父上!」

 夏の王宮に、よく通る少年の声が響き渡る。


 短めの木刀を手に持って、王族の衣装を身にまとった少年だ。

 髪は燃えるような夕日の色。それを短く刈り込んでいる。

 それはもちろん、彼の母から譲り受けた色である。


 そしてその瞳の色は、彼の父譲りだった。

 まっすぐに輝く印象的な、黒曜石のその瞳。

 髪色さえ父と同じなら、彼はもう、かの異界の青年と瓜二つであるに違いない。



 今でさえ、時折り眉をしかめるときなど、かの男を彷彿とさせるのだ。

 気質も相当、その父よりもあの男に似ているようなのは何故なのだろう。

 生真面目でまっすぐで我慢強く、曲がったことが大嫌いな王太子。

 異界から来たあの男そのものはまったく可愛いとは思わなかったが、不思議と目の前の少年は、そのあたりがひどく可愛く思えた。


「どうしたんだい? ムネユキ殿下」

 執務室の扉から飛び込んできた我が甥を、ヴァイハルトは優しく見つめて微笑んだ。

 今では自分はあの義理の弟でもある国王から天将を拝命する身になっている。

 階級が上がるごとに、次々に事務方の仕事は増えて、使う部下たちも増えていく。いい加減気をつけていなければ、体もなまろうかというものだ。


 そんな自分のところへ、今年で五歳になるこの王太子殿下は、何かといえばこんな風に、しょっちゅうやってきては剣の稽古を迫るのだ。

 今は扉のこちら側で立ち尽くし、執務机の向こうで座っている伯父を見上げて、可愛らしい唇を引き結んでいる。


「まだ、お暇ではありませんか?」

 多少は遠慮というものを学ぶ年齢になってきたらしく、ちょっと逡巡する風が見える。

 伯父の周囲に立って仕事中だった武官や文官らは、彼に対して当然頭を下げて迎えているが、実のところ、その心の声は「この忙しいのに」であるに相違ないのだ。

 今日はあいにくと、多忙な彼の父王はいつにも増して重要な案件のため、この王宮を不在にしている。


「いや。ちょうど一区切りついたところだよ。では、気晴らしがてら、殿下のお相手を賜ろうかな?」

 にっこり笑って、自分も稽古用の木刀を手にして立ち上がる。傍に控えていた補佐の文官や武官らが「またですか」という目になるのには気づいているが、まったく気づかぬ振りをするのもいつものことだ。

 少年の目が、それを聞いて嬉しげにきらっと輝くのを確認して、ヴァイハルトは満足する。

 普段なら、このはあの「武辺の鬼」の父王が拝命するところだからだ。自分はこの王太子の中で、この点では飽くまでも「二番手」でしかないのは悲しいところではあるのだが。


(まあ、に勝つのは、まず無理だしな――)


 ちょっと自嘲の笑みがこぼれる。

 決して「負け」はしないのだが、それかと言って、あの男からはっきりと「勝ち」をもぎとるのは至難の業だ。そればかりは彼と稽古で刃を合わせてこの方、残念ながら一向に変わる気配がない。


 二人で木刀を手に、稽古場である中庭に向かって歩きながら、ふとヴァイハルトは王宮の廊下脇から、巨大な円柱ごしに見張らせる、晴れた夏の空を見上げた。

 相変わらず、かの「兄星」は雲の向こうに、白々と巨大な姿でご健在だ。


(……いよいよ、今夜か。)


 今宵、あの空には大きな火花が上がる。

 それは、この惑星ほしの歴史が始まって以来の、大きな出来事になるだろう。


 あの、義弟であり国王であり、いまや自分の盟友と呼んでもよい仲にまでなってしまった男の悲願が、ついに今日、この日に果たされるというわけだ。

 この少年が五歳になった暁に、それは行われることになっていた。

 それは、喪われたと思われていたこの少年が、この世に戻ってきたその年に、かの国との間で取り決められた約定である。


「どうされたのですか? 伯父上」

 少し立ち止まって空を見上げてしまった伯父を見つめて、少年が変な顔になっている。

「ああ、……いや。行こうか」

 優しく笑って、まだ自分の腰の辺りまでしかない、その橙色の小さな頭をぽすぽすと軽く叩く。


 かの国王陛下から、このことはぎりぎりまで、この王太子に知らせるなとの命令が下りている。もちろん、王宮じゅうの皆にも、厳しい緘口令が敷かれている。

 大体の時間は知らされているので、その刻限になれば彼をつれて、王宮のあの尖塔へ上がって欲しいというのが、父王からのお達しだった。


「そこからぜひとも、王太子ムネユキにそれを見せて欲しい」と。

 それが、国王の願いだった。


 軽く頭をたたかれて、王太子はちょっとくすぐったそうな顔になったが、すぐにその表情を引き締めた。

「……今日は、負けませんからね」

「おやおや。大した鼻息だね」

 五歳でこの気概は、素晴らしいというべきなのかどうなのか。

 末恐ろしいとはこのことだ。


「伯父上も、どうか手加減はご容赦ください」

「…………」

 これが五歳の吐く台詞か。

 ヴァイハルトはちょっと呆れて、苦笑しながら「はいはい」と軽くいらえを返す。いくらなんでも、五歳の少年に本気で当たって負けるほど、腕は錆び付いていないつもりだ。

 とはいえ、彼がこの調子で鍛錬を積んでいき、もしも本当にその才能が、その父や異界のあの青年と同等であったなら。


(あと十年、もつかどうか。)


 少し寂しいが、そんなことも考える今日この頃なのだった。


 遠くで、小鳥のさえずる声がする。

 中庭の低木が、さやさやとその葉を揺らしている。

 空も、王宮も、この国も、今は平和そのものだ。


 赤みを帯びた太陽も、じりじりと夏の日差しを届けてはいるものの、平和を求めて模索を続けるこの大地にある人々をじっと見下ろしているようだ。

 いまや戦争の恐れのなくなった北の大国との国交も正常になりつつあり、かの異界の青年らの援助のもと、互いに協力しあいながら、両国は互いの国を繋ぐための交通手段の更なる開発にも余念がない。

 近頃では王家や貴族のみならず、一般の国民の間でも、様々に交流が生まれつつあるやに聞いている。


(……未来が、来ようとしているのだな。)


 あの、絶望の淵にあったはずの王宮に。


(あの子は、もういないとしても――。)


 今ではこの自分ですら、たかだか十三年前にあったあの悲劇のすべてが、夢だったのではないかと思うほどに。


 ヴァイハルトはそっと目を閉じた。


(だから……生きなくては。)


 少年の肩を抱いた手に思わず力をこめながら、

 湧き上がるようにしてそう思う。


 どんな悲惨なことのあとにも、子供たちは生まれてくる。

 だから、彼らの前に立つ自分たちは、

 やはり生きなくてはならないのだ。


 彼らの前に、まっとうな道筋をひくために。



 やがて、いつも稽古に使っている小さめの中庭に辿りつくと、ふたりは上着を脱いで木刀を持ち、場に立って互いに一礼した。

 向き合って木刀を構え、しばし目を閉じ、静かに呼吸を整える。


 さらさらと、風の吹き渡る音だけがする。


(……見ているか、レオノーラ。)


 思った瞬間、

 ふわりと風の匂いが変わった。


(お前の息子は、もうこんなに大きくなったぞ。)


 さあっと一瞬、涼しい一陣の風が吹き、

 どこか瞼のずっと遠くに、

 あの人の明るい微笑みがひらめいたように思われた。



 目を開け、少年にひと声かける。


「参りますぞ、ムネユキ殿下」

「いつでもどうぞ! 伯父上どの」



 かん、と高い夏の空に、剣戟の音が冴えわたった。



                               完

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白き鎧 黒き鎧 外伝 《黒焔の王》 つづれ しういち @marumariko508312

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