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 ☆ ☆ ☆

 

 その日の放課後、あたしは一人でグラウンドに出た。昇降口の少し先に、校舎と体育館の連絡通路があって、そこからはグラウンドを見渡すことができる。通学に使っていたリュックを横において、あたしはそこに座った。

 少し風のある日で、風が吹くたびに、校舎からの喧騒、グラウンドからの運動部の足音や物音に混ざって葉擦れの音が聞こえ、パラパラと、赤や茶色に色づき始めた葉が落ちてきた。

 サッカー部の人たちは、学年ごとに色の違うハーフパンツに、体育着を着ている。まだ練習は始まっていないのか、一年生が何人か集まってリフティングをしたり、長いボールを蹴り合ったりしている。

 健一は他の一年生と、三十メートルくらいの距離をおいてパス交換をしていた。ふたりとも、ボールにバックスピンをかけるような、緩やかなロングボールを蹴っていた。

 その様子を、あたしはぼんやりと眺めていた。すると、健一がトラップをミスり、ボールが後ろに逸れ、あたしのところまで転がってきた。健一は小走りに、それを追って走ってきた。

 途中で健一がこちらを見た。目が合うと健一は「あ」という感じの表情をした。

「何してんの?」と、声が届く距離にくると彼は言った。


「何も。今から帰るところなんだけど、気が向いたから、ちょっと練習見てたの。さっきのダサいトラップミスもばっちり見たよ」


 からかうようにそう言ってみると、健一は「うっせぇ」と、わりと本気でうるさそうに言った。それから、ボールを拾うと、すぐにグラウンドの方へ戻っていった。

 たったそれだけの短いやりとりだったけれど、健一と話すのは久しぶりだったから、その感覚は懐かしく感じた。

 グラウンドに戻っていく健一の後ろ姿を見ていると、みんながいるところから、あたしはもう遠く隔たってしまったような気がして、かすかに寂しい気持ちがした。

 立ちあがり、スカートについた埃を払い、通路に置いておいたリュックを背負って、あたしは校門の方へ向かって歩き出した。


 ☆ ☆ ☆


 あたしにとって中学生らしくなることは、女子っぽくなっていくことだった。小学生のころは、特にこれといった理由もなく、スカートをはくことに抵抗があったけれど、中学に入ってから、制服で毎日はいていると、自然にそれもなくなっていった。ショートだった髪も、少し伸ばしてみた。人並みに着飾ることに対する興味も湧いてきて、休日には友達と買い物へいったりするようにもなった。

 サッカーをしていたころ、いつも小麦色だった肌が白くなっていくのにつれて、あたしは過去の自分から離れていくのを感じた。

 健一や元チームメイトの男の子たちとは、学校で会えば普通に話をしたけれど、空白の時間のせいか、以前は感じていなかった話しにくさを感じたし、向こうの様子もどこかぎこちなかった。

 そうしているうちに、すぐに一年が経った。

 春先の休日のことだった。午後、部屋で雑誌を読んでいたら、お母さんに、スーパーまでおつかいにいってきてほしいと頼まれた。暇だったし、気持ちよく晴れた日だったから、あたしはそれを引き受け、近所のスーパーまでの十五分ほどの道のりを歩いていくことにした。

 七分丈のパンツにパーカーという動きやすい格好で、あたしは家を出た。桜の花が散って、木々には新しい葉が繁っていた。まだ芽吹いたばかりの葉の緑色は鮮やかで、午後の陽射しをチラチラと弾くように浴びていた。

 そしてその道の途中、あたしは見覚えのある三つの人影を見つけた。スーパーの少し前にある公園で、健一とおじさん、それから大学生のお兄さんの隆一君が、ボールを蹴っていた。

 おじさんは上下黒のジャージ、健一は半袖、ハーフパンツにサッカーソックス、隆一君はインナータイツにショートパンツを合わせて、上にフードつきのウインドブレーカーを羽織っていた。

 あたしは公園に入り、三人に近づいていった。公園には、サッカーゴール一組の他、隅の方に遊具や花壇があり、フェンスの近くには木々が植えられている。あたしが歩いていくと、ボールの近くにいた、隆一君と健一があたしに気づいた。

「こんちは」と三人に向けて言うと、健一は、少しびっくりした様子ながら、「おう」という感じに片手を上げた。隆一君は明るい笑顔を浮かべながら、「ひさしぶりー」と、顔の横でチャラく手を振ってきた。

 隆一君は、大人しい健一とは違って派手で友達も多い。その上顔もよく、さらにはこの地域で一番の進学校から名門大学に現役合格もしてしまったという、チャラいという他は非の打ち所のない人だ。

 ゴールの前にいたおじさんも、あたしのところまで歩いてきて、「久しぶりだな」と声をかけてくれた。


「元気だったか?」


「はい。おじさんは?」と聞くと、

「あんまり元気じゃないな」と、苦笑いをした。

 うっかりしていた。それを聞いて、おじさんが陥っている状況を思い出し、慌てた。

 話を変な方向にむかせてしまったと思ったけれど、あたしの横にいた隆一君が、「由梨子ちゃん、髪伸ばした?」と、軽い調子で尋ねてきて、すぐに空気を換えてくれた。目をやると、隆一君は、ドンマイ、というように、口元だけで苦笑を浮かべていた。あたしは隆一君の高いコミュ力に内心で感謝しながら、おじさんたちと少しの間立ち話をした。その後、休憩するらしい隆一君と一緒に、グラウンドの隅にあるベンチに歩いていった。

 ベンチに座ると、隆一君はその近くに置かれていたバッグからペットボトルを取り出して、ごくりと一口飲んだ。あたしはその横に座った。そして世間話をしながら、健一とおじさんが二人でボールを蹴っているところを眺めていた。

 今は健一がキーパーをやっていて、ゴールから二十メートルほど離れた場所から、おじさんがシュートを打っている。

 車の走る音や、犬の吠え声なんかに混ざって、ボールを蹴る音があたりに響く。おじさんのシュートを、キーパーは経験したことがない健一が、ぎこちなく防いでいる。

 その様子を見ていると、「親父も衰えたなぁ」と、隆一君がふと呟いた。


「そうかな?」

「ああ。俺が教わってたころは、もうちょっとボールに勢いあったと思ったけど。もう五十だし、年なんだろうな」


 よく見てみれば、たしかにそうかもしれないと思った。おじさんのシュートにはボールに勢いがない上に、押えも効いていなくて、バーを超してしまうものも多かった。

 逆に、健一の方は、以前よりも迫力が増していた。インパクトのときの音もいい。変化にもキレがあるし、スピードもある。小学校のときよりも身体が大きくなって、キック力もついたのだろう。


「……おじさん、最近大変らしいね」


 あたしは低い声で言った。


「ああ。哲学者っていっても、ずっと大学の中で専門的なことばっかりやってた地味な人で、表に立つタイプじゃなかったのに」


 そう言ったとき、隆一君は、苛立ちと困惑が混ざったような表情を浮かべていた。

 おじさんは、少し前に一度テレビに出てから、世間で意見が大きく割れて揉めている社会問題について発言を続けているみたいだった。

 うちで取っている新聞にもおじさんの意見が載っていたし、この二カ月ほどの間、テレビやネット端末の画面でよく名前や顔を見た。写真で見るおじさんの顔は、あたしたちとサッカーをしているときとは全く違う、厳しく引き締まった表情をしていたし、発言しているときの硬い口調も、あたしが知っているものとはまったく違っていた。

 重い話題に、あたしが黙ってしまうと、隆一君はため息を吐いて、それから、

「でも、親父とボール蹴るのなんて、何年ぶりだろう」と、いつもの明るい口調に戻って続けた。あたしも、その流れに乗った。


「そんなに久しぶりだったの?」

「うん。親父と会うこと自体久しぶりだったんだ。俺も大学入ってからはバイトやらその他諸々の事情があって、あんまり家にいなかったし」

「ふーん」


 チャラい隆一君のことだから、だいたいどういう事情かは推測できる。けど別に隆一君のプライベートなんかあたしの知ったこっちゃないので、その話には触れなかった。

 むしろ、ほとんど会っていなかった、というところで、頭からはしばらく離れていたあることをふいに思いだしてしまった。健一のことが気になると言っていた絵里ちゃんのことだ。彼女とは、二年生では別クラスになった。だからその後、彼女があの件をどうしているのか全くわからなかった。

 それであたしは隆一君に、半ば無意識的に、こんな質問を投げかけてしまっていた。


「隆一君は、好きじゃない女の子にコクられたりしたら、どうする?」

「え、由梨子ちゃん誰かにコクるの?」


 隆一君の返しに、そんなつもりも予定もないのに、なぜか反射的にどきりとしてしまった。けれどその動揺は、外には出さなかったと思う。あたしはいつも通りの口調で、話を続けた。


「んなわけないじゃん。最近友達に、そういう類の相談受けたから、何となく聞いてみただけ」


 ふーん、と隆一君は少し残念そうに言った。それから、「ホントに?」とニヤニヤしながら聞いてきた。

「ホントだよ」とあたしは、意識的にうざそうな口調を作って答えた。この人は、ただ頭がいいだけじゃなくて、そういう方面の経験も豊富だから、あたしの内心の動揺も、もしかしたら感づかれてしまっていたのかもしれない。けれど彼は、軽い笑みを浮かべながら、答えを返してくれた。


「そうだな。好みな感じだったら、とりあえずキープ。こいつはねーわ、って感じだったら、後腐れないように断る」

「うわ最低」


 正直なのか、冗談なのかわからないはぐらされた感じのする回答だったけど、あたしは後者に受け取って、じとっと隆一君を見た。彼は、ケラケラと笑っていた。

「隆一君に対するあたしの評価がガクッと下がった」


「え? まじ? じゃあ訂正するよ」

「もう遅いわ」


 そう突っ込むと、彼はわざとらしく「まじかー」と後悔していた。絵里ちゃんとの話以来、あたしの抱えているモヤモヤには、良くも悪くもまったく作用しない回答だった。けど、その軽いやりとりをして、ちょっとだけ気分が良くなった。

「じゃあ、あたしもういくね。お母さんにおつかい頼まれたんだ」

「あ、うん。またね」

 隆一君はそう言って、手を振った。あたしもにこっとしながら手を小さく振り、立ち上がると、ちょうど健一がボールを蹴るところだった。低い音が、あたりの空気を瞬間的に震わせた。グローブをつけたおじさんが、健一の蹴った鋭いボールに手を伸ばすけど、その手を弾き飛ばすようにして、勢いのあるボールはネットに突き刺さった。

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