第九話 対極の狭間に生きる者

 ――神聖エクセリア歴、四八〇年、一の月。

 世界は薄暗い灰色の景色から、銀世界へとその様相を変えていた。今日は風が穏やかなせいもあり、しんしんと音もなく降り積もる雪は、ただ静寂であり穢れがない。それは荒廃したギルディアに見る、ただ一つの芸術と言ってさえいいだろう。

 そう、あくまで見た目だけに限って言えば。

 実際にその上を歩かされる身となると、だがそう悠長な事ばかりは言っていられなかった。足首が埋まるほどに降り積もった雪は歩きづらい事この上なく、まるで泥の海を渡るような消耗を強いられる。すっかり感覚が麻痺した四肢の末端は、いまや冷たさに赤黒く腫れ上がり、目の前で瞬く間に結晶と化す吐く息は、きらきらとせせら笑うかのような美しさを残しながら顔の脇をすり抜けて行く。

 一面の雪景色に点々とした足跡の小道を作りながら、一向は過酷な旅の最中にいた。

 目指す目的地は――難民村〈ワンダ〉。バリスティック大陸最北端に位置するギルディア地方、そのさらに東側に位置する険しき山々の中腹だ。彼らが長らく滞在していた中央と違い、東の土地の環境はさらに厳しい。地面に土と呼べるものはすでになく、あるのは粉々に割れた岩盤のみ。これでは作物が育つはずもない。

 また東に進むにつれて高くなる標高のせいで、少し動くだけでも息が切れてくる。肌を刺す冷たさも比較にさえならないくらいで、果たしてこんな場所に人が暮らしているのかどうか、ともすれば疑えてくるのも当然の話だろう。

 ――しかし、確実に人はいるはずなのだ。

 まるで荒らされた形跡もなく、人間だけが消失した中央の村々。冬の到来が目前に迫るにも関わらず、顕著な広がりを見せるその風潮にガイスは確信する。

 ここ半年間におけるエクセリアの聖戦は、これまでの歴史の中でも、最も熾烈なものだったと言っていい。それこそ、手当たり次第に村が壊滅させられた。これ以上の惨劇はない、と思えても、次にそのような光景を見る時には、確実にその上をゆく惨劇が用意されている。

 行く先々で目にする村の光景は、日を追うごとに悪化した。まるで冬の訪れと歩調を合わせるかのように、容赦なく、冷え冷えと、常軌を逸するほどに。

 だからギルディアの人々は村を捨てた。熾烈極まる聖戦を前に、生きるために村を捨てて逃げ出す事しか選択肢は残されていなかった。これまでよほどの事がない限り足を踏み入れなかった、険しき山々の向こう側へと――。

(最後の村を後にして、時間が経ちすぎた)

 だがルザルを経ち、その後も聖戦漁りに奔走したガイスらが、未だ見ぬワンダへと旅立ったのはもう二週間も前の事だ。なのにいまだワンダは見つけられず、険しい旅路はいつ終わりが見えてくるかも分からない。

(これ以上はもう持たん)

 東の土地へ渡るためのキリンジ越えの際は、そのあまりに過酷さにもう駄目かと腹をくくった事もあった。今回はそれに続く二度目だ。

 すでに皮袋には携帯用の食料もなく、ここ四日間、雪以外は何も食べていない。足を支える膝には力が入らず、軽く気を抜いただけで目の前が眩み、白いはずの世界が真っ暗に暗転してしまいそうになる。

 これ以上の放浪は危険過ぎた。

 予定していた到着日程を遥かに越えてしまう大誤算だ。

 行き倒れの危険性は日を見るごとに高まって、今ではすぐ隣りに死神でも引き連れて歩いているような、そんな感覚さえ受けている。

「……ガイスヨ。人ノ話ヲ聞イテイルノカ」

「聞いておらん。そしてお前は人ではない。離れろ」

 だがそれに似ているものならば、先程からガイスの隣りを大きな鎌をぶら下げて漂っている。

 忌々しげにそれを睨みつけ、つっけんどんに言い返すガイス。今はそんな亡霊に、一瞬たりとも構ってやりたくはなかった。

 このノーベルスとかいう亡霊は、先程から何事かガイスに話しかけていたようだったが、それが何を言っていたのか、ガイスはほとんど覚えていない。いやむしろ頭がまるで働いてくれず、故意ならずとも亡霊の話が耳から耳へ抜けてゆく。この瞬間考えられる事といえば、温かい焚き火とスープ付きの肉以外にない。

 だがその他にも一つだけ、さしたる苦労もなく働く思考はあった。

 こうして自分が過酷な旅を続ける中、ふわふわと気楽に宙を漂っているノーベルスに対しての、八つ当たりにも似た腹立たしさだ。

 この亡霊に関しては、食事も睡眠も必要なく、何の苦労もせず要らん話ばかりに精を出している。いまはそんな亡霊が心底憎らしく、ガイスはそう声に棘を持たせずにはいられなかった。

「少しは黙っていられんのか」

「クレイゾールガ、遅レテイル。ココニ置イテユクツモリカ」

 だがそんなガイスの態度を、ノーベルスは気にした風もない。こうしてガイスに当たられるのも一度や二度の事ではなく、すでにこの亡霊も慣れたものだ。

 ガイスが苛々としながら振り返った先には、彼の言葉通り、彼らのやや後方でクレイゾールが動かなくなって倒れていた。

「またか」

 半ばうんざりして眉間に皺を寄せるガイス。今日だけで何度目だ。

 しかしそれもこれもが使えなくなった事がそもそもの原因だ。

 これまでは馬に跨り、長い旅路を苦もなく続けてこられた。だがその馬が、ルザルを離れた直後辺りに死んだ。それはまるで老衰のような安らかな馬の最後だった。

 なに、たかが馬畜生だ。それに対する愛着もなければ、さしたる感慨もなく、あるのはただ「死んだのか」という気のない事実の肯定だけだ。それに最近では餌もなく、ずいぶんと衰弱していたのは知っている。たとえいつ死んだとしても何の不思議もなかった。

 だが馬畜生であれ馬は馬、ガイスの旅には欠かせない移動手段だった事も事実だ。それをみすみす失う羽目になった理由はなんだ? 何故、旅の足を失う必要があった?

 ――考えるまでもない。

 あのルザルで必要以上に時を浪費したのが、分かり過ぎたその答えだ。

 馬が使える間はバーンを馬に乗せ、旅路を続ける事も出来たが、馬を失ってからは牛歩だ。ただでさえ貧弱なクレイゾールに加え、バーンにまだ長距離を歩く体力は戻らなず、ガイスは結局また長い足止めを食らう事となった。

 死んだ馬はそのまま解体し、食料としたため、無駄にはしていない。その新鮮な肉が手元にある期間、ガイスらは生きる上では困らず、それどころか日頃よりもよほど贅沢な暮らしが出来た。

 別に、それはそれでいい。あの馬の味は美味だった。

 しかしそれで失ってしまった財産の損失は、あまりに大きかった。その後数日ほどでバーンは旅に耐えうる程度にまで回復したが、その時から旅は完全な徒歩に置き変わった。だからこそその後の一ヵ月半という期間を費しても、ろくに廃村は回れず、さらには真冬の山脈越えという自殺行為までもを余儀なくされた。

 すべては要らん荷物ばかりを抱え込んだためだ。

 すべては、自分の足ばかりを引っ張る、あの――!

(いや、自分で決めた道だ。後悔はすまい)

 だがガイスは、無理矢理にでも己が言葉を飲み込んだ。

 それを他人のせいにしたところで結果は変わらない。余計に心が荒むだけだろう。人の責任を問う前に、まずは己にこそその是非を問いかけるべきだ。

 自分には、本当に、何の非もないのか?

 ないはずはない。

 こうして難民村への旅路を決意したのは、他ならぬ自分自身なのだ。

 二週間にも及ぶ、険しき山脈をゆく真冬の旅路。その末路がこれだ。この危険を冒してでも、自分はワンダ行きを強行し、そしていまに至る。

 皆、よくやってくれている。バーンはひどい火傷を負った身体にも関わらず懸命に後をついてくるし、クレイゾールとてそれは同様だ。逆に文句一つ言わないあまり、あわば行き倒れといった事態もこれで何度目かだが、それを責めるのは筋違いだろう。

 それにこの亡霊にしたところで、役に立っていないわけではない。ガイスらの荷物を肩から目一杯にぶら下げて、亡霊なりにも運搬の役目は十分にこなしている。ある時ノーベルスの肩に雪が降り積もっているのを発見してから、亡霊はずっとその役目だ。

 誰一人、文句は言わない。

 文句を言うのはいつも自分一人だけだ。

 だからガイスは、せめて自分の決断に責任を持つ事を密かに誓った。後悔はすまいと。いかに状況が困難であっても、簡単にそれを破り捨てるようでは過去の自分と何も変わらない。

 自分は変わるのだ。もう少しだけ、クレイゾールやバーンを受け止められる器量を持つ男へと。あの懺悔の日以来、健気に生きようとする二人の少年を見るうち、自分はそうした決意と呼ぶにはむず痒い願望をその胸に抱くようになっていた。

 それが弱くなったのか、それとも強くなったのかなどという陳腐な問いは、この際どうでもいいだろう。ともかく自分は、いまはそう、願えるのだから。

「……バーン。クレイゾールに手を貸してやれ」

 愛想はないが、落ち着いた口調で声をかけるガイス。

 こちらから手を貸してやれればしているが、あいにくガイスの両手は荷物で塞がっている。ノーベルスに大部分の荷物を任せてはいるが、亡霊の肩幅は馬の比にあらず、すべてをまかないきれるわけでもない。

 何といっても、いまや大人一人に子供二人、挙句亡霊一匹の大所帯だ。一人の時と比べて、荷物は比較にもならないほどに多く、そして重くなった。

 ゆえにガイスらで補い切れない荷物以外の不足分は、当人同士、少しでも助け合ってもらうしかない。ただしとはいっても大概の場合、結局はバーンがクレイゾールの面倒を見るという姿が、今ではすっかり定着した光景になってしまっていたが。

「大丈夫? 僕の肩に掴まっていればいい」

 ガイスの指示通り、クレイゾールの少し前を歩いていたバーンが後ろを振り返って腰を下ろす。いつからバーンがこうしてクレイゾールの面倒をみる側へと回ったのかと思い返すが、それはごくごく自然な流れであって記憶にもなく、いつしか違和感もなくなっていた。

 つくづく驚異的な子供の回復能力には驚かされたものだ。

 バーンの骨格はクレイゾールと比べて大きく、筋肉も多かった。ルザルを経ってからおよそふた月の時を経て、バーンの肉体は見違えるほどに癒え、二度と元に戻らない傷を除けばほぼ完全に本来の機能を取り戻したと言っていい。だからこそ、そんなバーンと見比べて、今では感覚がとうに麻痺して見過ごしていたその異常さが実に気味が悪くも感じられるのだ。

 クレイゾールの身体は、まるで人形だった。

 バーンと出会い、あれから二ヶ月が経ったいまも、何の変化もなく、体重はもとより身長もまったく伸びた様子がない。成長を忘れた子供ようにその面影は変わらず、まるでをそのまま映している感さえある。

 例えるなら、それは時に縛られた子供だ。

 過ぎゆく時に捨て置かれ、過去の姿という呪縛にその身を磔にされた子供。

 その少年は狭間の世界を漂ったままでいて、灰色のままにこの灰色の世界を生きている。白にも黒にもなれず――いつでも死にかけた、あの時の姿のままで。

 本格的な冬がギルディアに到来して以降、クレイゾールはしょっちゅう風邪を引いた。一時は肺炎にもなりかけて、危機的な生死の境をさ迷った事もあった。

 ――けれど、それでもまだ、死に切れていない。

 クレイゾールは生きたままだ。

 辛うじてではあるが、いまでもこうしてこの世界を生き続けている。

 生と死との狭間の世界から抜け出す事が出来ずに、生きているのか死んでいるのかという根源の摂理さえ曖昧なまま、その判断を灰の海へ溶かしたままで。

 その存在意義は、ノーベルスという亡霊以上に不確かであり、まるでこの世のものとは思えないような虚無感に満ちている。

 ふっとその身へ手を伸ばせば、何事もなくその肉体をすり抜けていってしまいそうな実体のない儚さ。

 クレイゾールは──本当に生きているのだろうか。

 時にガイスは思い出したように、そうした呟きを己の胸に問いかけている。

「……信じられるかい? 今度の村は滅びていないんだ。まだ生きている人がいるんだ」

 クレイゾールの風邪はまだ尾を引いているようで、その息は荒く、瞳の焦点はどこか別の場所をさ迷っている。そんなクレイゾールを気遣ってか、指のない腕でぎこちなくその身体を抱き起こしたバーンが不意にそんな事を言った。

 あれほどの悲劇に見舞われたにも関わらず、バーンの精神は驚くほど健全だった。

 まるで悲劇を引きずる事もなく、あの時見せた最後の慟哭以来、感情の爆発もない。まさか本気でそれを忘れ去ったわけではなく、努めて己を抑制しているのだろうが、それだけに彼の精神は健気な成長を果たしている。

 クレイゾールより歳が上だったのかもしれない。自分の生きる世界というものを認識し、受け止め、割り切るだけの器量がバーンにはあった。ギルディアに生きる者として、それはまずはじめに身に着けておくべき諦めであると言っていい。

 しかし不幸にもクレイゾールには、それがなかった。

 ガイスは思う。だからこそクレイゾールは、今もまだ壊れた状態のままでいられるのだろう。この世界を受け入れられず、ゆえに世界からも見放されている。

「僕はルザルの村しか知らないんだ。ワンダがどんな村なのか、早く見てみたい」

 バーンが抱え起こした骨のようなその身体は、小刻みに震えて雪のように白かった。そのあまりの冷たさにバーンは一瞬はっと息を呑んだようだが、すぐに表情を取り繕って笑顔を見せる。あいにくクレイゾールがそれに反応する様子はなく、彼は忘れていたかのように、ふうう、と嫌に長い息を吐き出しただけだった。

「――少シ休ンダ方ガイイノデハナイカ」

「薄気味の悪い亡霊が知った風な口を挟むなと言っている」

 ノーベルスの提案は、今回もやはり却下された。

 何枚も厚く着込んだ外套を揺らし、いつの間にか肩に積もっていた雪を手で払いながら、ガイスはすぐさま前進の合図を告げる。

 無論、本音を言えば、休めるものならば休みたい。自分たちが亡霊で、食事や睡眠の心配がないのなら。だが実体を有する人間はそうはいかない。ここでいつまでも足を止めている時間はないのだ。

 明日自分たちが断食五日目を迎えてなお健全に歩き続けられるという自信は、正直なところ、もうない。何としても今日中に目的の難民村まで辿り着かねばならない。たとえその見通しが決して生易しいものではなかったとしても。

「もう近いはずだ。この辺りにはある」

 誰に告げるでもなく、切なる希望を口にするガイス。

 それを何より言い聞かせたいのは自分のためかもしれない。

 その存在は確かなれど、未だその場所が定かではない難民村ワンダ。地図のようなものは存在せず、目的地となる場所が特定出来ていないがために、こうして悪戯に時間と労力ばかりが磨り減っていく。

 目指す場所さえ手探りの状態で、冬の雪山をゆく。それが一体どれほど無謀な行為か、知らぬガイスではない。しかし今回そういった賭けを余儀なくされたのは、前述した足止めのほか、ワンダ特有の成り立ちが深く関わっている。

 難民村ワンダは、難民によって産み落とされた落ち村だ。

 エクセリアの聖戦で村を焼かれ、行き場を失った人々が、迫害の手を免れるため、逃げ延びた東部の山岳地帯で小さな集落を形成したもの。それが難民村の始まりだ。ゆえに出来てからの日が浅く、村の名称がワンダとして呼ばれるようになったのもつい最近の話で、彼らが聖戦を極度に恐れるあまり、その存在さえ箝口令を敷いてきた理由もあるだろう。

 だがここ数ヶ月の聖戦の激化に伴って、中央に存在した多くの村が焼き払われたいま、ワンダは噂の難民村として徐々に人々の間で認知されるに至る。 村を失った人間は皆、決まってワンダを目指し、打ちひしがれた身体に最後の希望を抱いて東の山を越えた。難民の規模を考えれば、いまやワンダは単なる難民村ではなく、ギルディアでも有数の村として大きく成長したに違いない。

 だからこそガイスは越冬の地をワンダに定めたのだ。

 聖戦後の廃村巡りも、すべてはその越冬のための準備だった。

 これまでに収集した物資を、冬越えのための食料や備品と交換する。食料の自給が叶わないギルディアの民は、物々交換で厳しい冬を越える。多くの人々が集うワンダであれば、それに事欠く事もないだろう。その見込みは正しいはずだと、その確信は今もある。

 しかし難民村であるというその特徴から、はっきりとした所在が掴めない。人々の往来が少なく、正確な所在が伝わらないのだ。加えて土地勘のない東の地という事もあり、方向感覚もすでに怪しい。

 だがガイスらがこの冬を越すために、この試練は避けては通れない。

 仮にその場所が広く中央に知れ渡ったなら、民族浄化に狂奔するエクセリアがそれを見過すはずはないだろう。どれほどの僻地であっても、遠征隊を組んで息の根を止めに来る。ワンダは万一のための、人々の最後の希望なのだ。そこさえ滅びたなら、難民の逃げ込む場所すらなくなってしまう。

 ゆえに伝え聞き程度の知識だけを頼りに、あとは己の力でそれを探し出すしか方法がない。

 それがワンダを目指す者への等しい試練なのだ。

(果たしてそれを越えられるかどうか。日没までが勝負の分かれ目だな)

 馬は失くし、季節はずれ込み、余計な荷物まで増えた。この道程にどれほどの覚悟で望んだとしても、それは決して口で足るような代物ではないだろう。もはや万策尽き、引き返す事も出来ぬ以上、あとは運を天に任せて往くしかない。

 ガイスはノーベルスを無視するようにして、再びその一歩を深い雪の中に踏み出した。

「フン、強情ナ奴ダ。ドウナッテモ知ランゾ」

 背後から呼びかけられるそんな声にも構わず、ガイスは黙々と歩を進める。

 だが不安と焦りを帯びたその歩調とは裏腹に、どちらへ進んでゆけばいいものか、依然としてガイスの思考は混乱したままだ。辺り一面の雪景色に加え、降り積もる雪は自らが歩いた軌跡さえ、ひっそりとした静寂の中に掻き消してしまう。ふと足を休めただけで、自分がどこから歩いてきたのか、それがまるで分からなくなるのだ。この場所で悪戯に歩を止める事、それはすなわち死を意味する。

 雪とは、夜の闇以上に人を奥深く惑わせ、その美しさと裏腹に、どれほどの容赦も知らぬ厄介な存在だ。銀色の原野に舞い踊る白き妖精は、道行く旅人へ優雅に手を差し伸べては、弱き生命の芽を摘み取り、それを奈落に導いてゆく。

 極限の白と黒。もしかするとそれは、人を破滅させる災いの色なのかもしれない。

「──ク、クレイゾールッ? ガイス、クレイゾールがッ!」

 だが不意にそんな声が銀世界に響き渡った。バーンの声だ。

 そのただならぬ様子に驚いて振り返り、彼の周囲へと視界を巡らせるガイス。しかしそこに彼が叫ぶクレイゾールの姿はない。それは肩を貸し、彼らが共に歩き出そうとした矢先の出来事だった。

 だから一瞬では、そこで何が起こっているのかわからなかった。

 クレイゾールは――どこへ消えた?

 ガイスがそうして困惑して周囲へ視線を泳がせる内、それは間もなく発見出来た。

 大声を上げて、バーンがある方向を示す先、その緩やかな斜面の上をクレイゾールは転がっていた。粉雪を大きく巻き上げながら、四肢を紐のようにぶらぶらとさせ、なおも勢いづいて斜面を滑ってゆく。

 ガイスは眉間に深い皺を寄せると、度重なる面倒に顔をしかめながら、その場に両の手の荷物を放り出した。

「あの馬鹿がッ!」

「ご、ごめんなさい! しっかりと掴めなくて……ッ!」

「お前のせいではない!」

 おろおろとするバーンを押しのけるように、自らもその坂を駆け下りてゆく。

 しかし自分でも驚くくらいに、疲弊した身体は瞬発的な運動についていかなかった。数歩も走らないうちに腰が砕け、先程のクレイゾールと同様、自らも斜面の雪に足を取られそうになってしまう。

 一度転がりだしたそれを、自力で立て直すのは容易ではない。これで自分まで滑落したなら本末転倒もいいところだ。だがそれでも、止まるわけにはいかない。いかにここで体力を消耗しようと、身体が悪路に蝕まれようと、膝までありそうな雪を掻き分け、ガイスは必死に身体を奮い立たせるしかなかった。

 何故ならここは、ただの坂道とは違うから。

 走り出してからすぐに分かった。ガイスの瞳は、クレイゾールの転がるその先に、白い大地へと影を落とす、細く切れ長な崖の存在を捉えていた。

「立てッ、クレイゾールッ!!」

 声の限りの怒声を張り上げ、クレイゾールの意識に呼びかける。

 無理なのは百も承知している。もはやクレイゾールの体力は尽きている。だが少しでもいい、少しでももがいて、彼の手足が雪との抵抗を増してくれればと思った。あるいは、崖の淵を掴んでくれればと期待もした。

 だがガイスの必死の呼び声も空しく、クレイゾールはその崖に行き着くまで、態勢を立て直す事はなかった。身体は力を失ったまま、転げ落ちる反動以外に動く様子がない。

 だからそれは実にあっという間の出来事だった。それ以上の声をかける暇もなく、クレイゾールはあえなく崖の口へ身を投げ出した。痩せこけた人形のようなその身体が、すっぽりと崖の狭間に吸い込まれてゆく。ガイスは唖然として声も出せない。

 ――けれど。

 不思議とクレイゾールの身体はいつまでも崖の合間に寝そべったまま、その底に落ちてゆく事はなかった。崖の淵でうつ伏せの身体がぽっかりと浮いていて、まるで雪に身を埋めているようにしか見えない。

 しかし何度も目を擦り、改めてその状況を確認してみるにつれ、あまりに陳腐なその状況は徐々に浮き彫りになってきた。咄嗟の事に気が動転していたが、精神が落ち着くつれ、我ながら呆れを痛感する。

 何の事はない。それはまさに見たままの光景であって、クレイゾールを迎えたのは崖でも何でもなく、ただ雪が凹凸に乱され、その陰影によって見えただけのものだった。クレイゾールは人の気も知らず、凹んだ雪に身体を埋めて、今もゆっくりと小さな背中を上下させている。

 何を勘違いしたのか、あんな影を本気で崖と見間違うなど、自分でも馬鹿らしく思えて仕方がなかった。そこまで疲労は蓄積され、視覚的に幻覚が見えていたのだろうか。そして安堵とともに、今更ながらどっとした疲れが身体を襲い、今にもその場に崩れ落ちそうになってしまう。

「――クレイゾールニ、感謝シナケレバナランナ」

 突然ガイスのそばで失笑めいた声が聞こえ、亡霊がその横を通り過ぎていった。

 今頃になってふわふわと、いちいち癇に障る亡霊だ。自分が雪塗れで棒立ちしている様がひどく滑稽に感じられる。

 しかしクレイゾールの元へ降りてゆくノーベルスが、一体何を意味してそんな言葉を発したのか、無視出来ぬ違和感を覚えたのも同時だった。

 クレイゾールにを?

 命が助かったのは、ただ崖のように見えたものが崖でなかっただけで、感謝をするならその偶然に対してだろう。あれほど注意しろと言ってやったにも関わらず、クレイゾールの馬鹿はまた足を滑らせて無様に坂を転がっただけだ。感謝の理由など一つもない。亡霊はそんなガイスの訝しげな視線を敏感に感じ取ったのか、首だけで後ろを振り返ると、クレイゾールの倒れている辺りを顎で指し示して見せた。

 焦れた苛立ちが、ガイスの腹の奥でチリッと音を立てた。

 まったくいけ好かない亡霊だ。普段あれほど無駄口ばかりを叩いているのに、こちらが気になる事は、ああして妙に気を持たせるふりをする。言いたい事があるなら、はっきり言え。ガイスがあからさまな不快感をその表情に浮かべ、ノーベルスに食って掛かろうとしたその時だ。

 ガイスはクレイゾールを受け止めたその影の本当の正体に気付き、そして見落としていた事実の大きさを目の当たりにし、思わずその口を噤んでいた。

 沸き上がる興奮に脳が血流を求め、急激に鼓動が早くなる。

「崖デハナイニシロ、オ前ニハ、コノ痕跡ノ意味ガ分カランノカ」

 そう、それは崖でも単なる雪が作り出した陰影でもなく、明らかに何らかのだった。

 つまり、何者かがその場に残した跡。

 誰かがこの道を通ったという、紛れもない行動の軌跡。

 それでなければこうして直線的に雪が埋没して続く理由が分からない。

 また、よくよく見れば大小で様々な足跡らしき形も残っており、明らかにそれが人間の歩いた跡だという事を証明している。道幅、六人から七人くらいはあるだろうか。かなりの大人数がこの道を通ったらしい。降り積もった雪は、この場所だけ踏み荒らされ、淡い青みを帯びた影を落としている。

 そして、その痕跡が示す何よりの特徴。

 それはその道が示すある一定の規則性だろう。

 何を迷う事もなく、ただ一直線に、延々と彼方まで伸びる無数の足跡。それが意味するかは説明に難くない。

 つまり、知っているのだ。目的地の存在を。難民村ワンダの所在地を。

 その約束の地への道筋を、この足跡は何より雄弁に物語っている。

「放浪民か! ハハッ、なんたる幸運だ! ここにきてこんな足跡と出食わすとは!」

「幸イ、雪ノ勢イモ穏ヤカナモノダ。目指スナラ、今ヲ置イテ他ニアルマイ」

 ノーベルスは、その影を一目見た瞬間からそれを察していたのだろう。クレイゾールが斜面を転がり落ちる様には多少なりとも驚きは見せたものの、ガイスほど慌てた様子もなく、とても落ち着いている。そしてガイスもまた、自らの言わんとする意味を悟ったと見て、ノーベルスはゆっくりとそれに賛同の意を告げた。

 今ようやくにして、長らく求め続けていたその難民村の存在が、単なる噂や幻ではなく実感として伝わってくる。

 やっと辿り着く事が出来るのだ。

 冬を越すための希望が、もうすぐそこにある。

「さあ、クレイゾール。起きろ。呑気に寝ている暇などないぞ」

 自力では起き上がる気力さえもないようなクレイゾールの手を取り、その場へと起き上がらせるガイス。知らず声は高ぶり、身体には忘れかけていた活力が漲った。

 身体とは現金なものだ。もたもたとするクレイゾールを、もういいとばかりにその背に背負い、すぐにでも歩き出そうとするのだから。

 けれど先程自分が放り出した荷物を忘れていた事に気がついて、ガイスはもどかしそうにいま来た斜面をまた登って行った。バーンもよろよろと雪の中を懸命に近寄ってきて、いくつかの荷物を拾う手伝いをする。

「もう少しの辛抱だ。村に着いたら、腹一杯に飯を食わせてやる」

 ノーベルスがそんなバーンを見守るようにして傍についた事を確認し、改めてワンダへの一歩を雪の中に標すガイス。感覚を失った足も、手の平の焼けるような冷たさも、今ならば喜んで耐え忍ぼう。足取りは軽い。

 だがきっとそんなガイスの心境も、そうしてワンダへ至る道を発見出来ただけで語られるものではなかった。これまで延々と続けてきた廃村巡りの暮らしから、一時的とはいえ、ようやくにも解放されるのだ。生きている人間に、会う事が出来る。死にかけ、「助けてくれ」と馬鹿のように口にする人間ではなく、健全と生きた人間だ。

 果たしてそれがどれほど我が身の救いとなるか、もはや語るべくもない。

 孤独はあまりにも冷たく、何の情動も生み出さない。どれほど孤独を装おうとも、人の心はやはり、人の心を求めるものだ。

 だからこそ、自分は元よりその触れ合いを、クレイゾールやバーンにも味わせてやりたいと、ガイスは思った。

 共に聖戦孤児として村を失い、親もなくただ一人、こんな世界に取り残された子供だ。なのにそんな子供が自分と出会い、いくらかの旅を続けた事で、どれだけその心を満せたというのだろう。

 満たされはするまい。来る日も来る日も過酷な旅の中で、聖戦後の村々を訪れては人の骸を漁る毎日だ。そんなものに価値はない。むしろ傷を深めてゆくだけとも言えよう。こうして生きた村を訪れる数少ない機会にこそ、人として、何よりの拠り所があるとガイスは思う。そこには人の温度があるから。自分以外に、感じられる熱がある。生きた熱だ。

 たとえそれが難民たちの落ち村であったとしても、人がいれば、そこには必然として温度が宿る。肌と肌とが触れ合うあの温もりは、一方的な熱を押し付ける炎では決して味わえぬ安らぎに満ちている。孤独でいたガイスだからこそ、それが分かるのだ。あの日、クレイゾールの手を握った時の事を。あの骨張った少年の指でさえ、温かいと思えた驚きを。

 ここで放浪民の足跡と出くわしたのは、僥倖とも呼べる巡り合わせだ。この分ならワンダでは、きっと面白いものが見られるに違いない。、という言葉が、まだいくらかその胸に引っかかるが――ガイスはそれを努めて忘れる事にした。

 とにかく、いまは、往くのだ。

 難民村へと続くこの青い軌跡が、雪の中に埋もれる前に。

 狭間の少年が指し示したその道の先を、ただ往こう。

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