第八話 旅立ちの夜

 ギルディアの夜は長い。日没が早過ぎるためだ。

 その日の夜になってから、すでにどれくらいの時間が過ぎただろう。あとは鈍い日の出を待つだけの時間だけなのかもしれないが、一筋の切れ間なく厚い雲が敷き詰められているこの空には、まだ如何なる変化も見られない。

 全ての希望を妨げる、絶望の空だ。

 いつもそこには煮え立つ鍋のような雲が、不吉な黒さで渦巻いている。

 ギルディアに暮らす者にとってはしかし、何の事はない日常だ。夜空に瞬く星々どころか、月、果ては太陽さえまともに見た事がない者も珍しくはない。そして空の移ろいを何ら見る事なく、その人生に永遠の幕を閉じる者も、また。

 だが仮にバーンがその前者ではあったにしても、いまだ後者でない事だけは確かだった。バーンは変わらず意識もなく、苦しげに息を吐き出すばかりだったが、彼はまだ生きているから。

 あれから、二日。

 これからもバーンはこの灰色の世界を生き続けるだろう。

 死の峠は越えた。あとは生きたいという彼の意志だけが彼の運命を左右する。

 彼がそれを、の話ではあるが。

「ドウヤラ、持チ直セソウダナ」

 ノーベルスはバーンの頭上でふわふわと浮きながら、その容態を仮面越しに観察しているようだった。いや、彼が本当にバーンを見つめているのかどうかは定かではないが、少なくともその仮面だけはバーンの方を向いていた。

 とはいえ、いかにバーンが峠を越したとて、そんな亡霊が枕元に漂っているようでは精神衛生上よろしくない。無論本人にそんなつもりはないのだろうが、あからさまに縁起が悪いというか、嫌に不吉めいたものを感じさせるその様は、まるで死神が鎌を振り上げ、今か今かとその時を待ち望んでいるようにも見受けられる。

「お前がそこにいると、治るものも治らん。少し離れておけ」

 まさにその的を射るように、ガイスが愛想もなくそう言い放った。

 その日もガイスは何度目かのバーンの治療を終えてから、よほど疲労が溜まっていたのか、少し離れた場所でごろりと横になっていた。すっかり眠ってしまったものかと思っていたが、どうやらまだ起きていたらしい。ノーベルスに顔を向ける事もなく、腕を枕代わりに向こうを向いたまま、フンと鼻を鳴らしている。

「――見テモイナイノニ、失礼ナ奴ダ」

「見なくとも分かる。約束は約束だ、勝手に辺りをうろつくのは構わんが、間違っても人に取り憑くんじゃないぞ」

「フン、取リ憑クモノカ。横柄ナ人間メ」

 だがそう言ってからノーベルスは、バーンの隣に腰を降ろすクレイゾールへそそくさと仮面を向けた。

「……今ノ物言イ、イカニモ亡霊ラシイトハ思ワンカ?」

 その仮面はいつでも薄笑いのような表情を浮かべているが、今はノーベルスの心境もそれに近いものがあったようで、彼は妙に嬉しそうな様子で同意を求めている。

 亡霊らしいといえば、なるほど亡霊らしい。しかしノーベルスが依然として亡霊たる自覚のない、極めて亡霊らしからぬ亡霊である事も間違いはない。

 なにしろこういった自我を持ち、言葉を話すだけでも、亡霊としては他に類を見ないのだ。いかに彼が亡霊らしく振る舞おうと、その物腰に人間味が勝るのは明らかで、その落差は何度見ても見る側を困惑させた。

「私ニモ、ヨウヤク自覚ガ芽生エテキタラシイナ。亡霊カ、フフ」

 今夜こうしてガイスが苦虫を噛み潰したように口を尖らせるのも、そしてノーベルスが機嫌よく言葉を弾ませるのも、その理由は彼らの二人の出会いの夜にあった。

 あの日この亡霊は、確かにガイスとの約束を守った。その事実こそが、新たに生まれたこの奇妙な共生係性を物語るすべてだろう。何故ならバーンはノーベルスの善意によって、その消えかけた命を繋ぎ留められたと言っても過言ではないのだから。

 アロヤ草は、別名〈人皮草〉とも呼ばれる、寒冷地に自生する薬効植物だ。

 子供の頭ほどの大きな葉が外見の特徴で、その肉厚な葉肉の薄皮には強い消毒、解熱作用があるとされ、広く大陸全体に分布する。葉肉は糖を多く含み凍らず、豊富な水分を持つ事から食用や水分補給としても利用されるが、しかし群生する数の少なさや険しい自生地などの理由から大変貴重であり、ごく限られた者にしか用いられる事はない。そのため薬学に通じる者でもなければほとんどその存在を知られていないが、人皮草の名の通り、火傷の特効薬としてもその効果は極めて有用であり、一時的な代用皮膚としてバーンの容態はずいぶんと緩和されたように見えた。

 あの日ギルディアに連なる山々の一つ、キリンジの峰にまでその植物を採りに向かったノーベルスが彼らに掲示した唯一つの条件──それはこの旅への同行という、亡霊が提案するにあまりにも謙虚で似つかわしくない、実に奇怪な要求だった。

 前提として、それはあくまで亡霊側の希望的提案であり、それを拒否する権利も当然ガイスにはあった。しかし仮に断ったとしても、亡霊が勝手に付いて来たらそれで終いである。亡霊を追い払う術をガイスは知らず、それは表面上こそ下手からの発言であったが、全ての選択権はあちら側にあるという、実に不均衡な提案でもあった。ゆえにガイスは渋々ながらその要求を受け入れるほかなく、これによりノーベルスは正式に彼らの仲間として迎えられる事となったわけだ。

 とりわけ驚きだったのは、あの山までの道程を、亡霊がたったの三日でこなした事実だ。ギルディアを囲む山々でも、一際険しい山脈として知られるキリンジの峰。人の足ではどう見積もっても往復に二週間はかかる。最悪の場合は、帰ってくるどころか、行き倒れる可能性の方が少なくない危険な道程だ。

 けれどノーベルスに言わせれば、それらはまったく問題なく、それどころか大した苦でもなかったと言う。それを聞いたガイスは実に苦々しい顔で「騙された」と舌打ちを隠さなかった。

 何しろ亡霊には、睡眠という概念すら必要ないのだから。

 また亡霊である事の特権、空中浮遊という、地形や体力に影響されない利点の効果も絶大だったろう。ノーベルスとて鳥ほど高速で飛び回る事は出来ないらしいが、一定の速度で一日中行動し続ける事は可能らしい。さらには亡霊であるがゆえに魔物から襲われる心配もなく、その行程は極めて単調なものだったと言う。

 そんな亡霊の冒険譚を聞かされるガイスの表情は、真っ赤になったり目を瞑ってみたりと、自らの苛立つ感情を押し殺せず、よく動いたものだった。

「――アノ、ガイストカ言ウ男。ヨウヤク寝静マッタラシイナ。マッタク、ウルサイ男ダ」

 クレイゾールへそう囁くノーベルスの後ろから、ガイスの寝息が聞こえてきた。

 先程のガイスの言葉からまだそれほど時間も経っていなかったが、さすがに夜も遅い。ガイスは自分でも意識しない内に眠りへと落ちた様子だった。

 思えば今日、ガイスは早くから物漁りも再開し、日中は力仕事に歩き通しだった。日没後は軽めの休息を入れたとはいえ、その後もバーンの容態に付きっ切りだったわけで、ようやくひと眠りを入れたというところだろう。

「クレイゾール、オ前モ寝ルガイイ。火ノ番ハ任セテオケ」

 ノーベルスが手近な枝を放り、少し勢いの弱まった火を大きくする。

 ガイスが寝る間、火の番はクレイゾールの担当だ。バーンがいつ目を覚ましてもいいよう、明かりは絶やせない。しかし惚けて炎を見つめるばかりのクレイゾールは、火を消してしまう事がままあった。ならば夜通し起きているノーベルスに頼んだ方が理に適ってはいるのだが、そこはガイスが頑として態度を曲げないため、今は暗黙の番となっているのが現状だ。

「……眠レンノカ?」

 だが起床時間をずらし、今日は日没近くまで寝ていたクレイゾールはまだ眠気を覚えてないらしい。クレイゾールは特に返事を返す事もなく、やはり炎の揺らめきに目を奪われたままでいる。

「ギルディアノ夜ハ長イ。話シ相手ガイルノハ、大歓迎ダガ」

 ノーベルスは思わぬ相棒の存在に、今夜は特に機嫌が良さそうだ。しばらくは互いに並んで火を見つめ、枝を放るという安穏な時間が二人の間に流れる。けれどもノーベルスが黙っていられたのはほんの少しばかりの間だけで、彼はクレイゾールをしげしげと眺めると、やがて好奇心を抑えられないといった風に口を開いた。

「何ヲ考エテイルノダ?」

 先程から心ここにあらずといった面持ちのクレイゾールがどうにも気になるようだ。だがガイスに言わせれば、そんなものはいつもの事で、よくクレイゾールは焚き火を見つめたまま、どこかそれでないところを見つめているような節がある。

「炎ガ好キカ?」

「む……ら……」

「ムラ?」

「ぁ……」

 だがクレイゾールは何か口にしかけたように見えた瞬間、その言葉はあえなく霧散してしまう。亡霊の問いかけが早すぎたのかもしれない。

 しかし彼の瞳へ刹那的に揺らぐ何かの感情。

 その小さき魂の底から突き上げてくる、計り知れないもの。

 その骨と皮ばかりの肉体の内側に蠢く暗い先触れの気配を掬い取ったノーベルスは、うつむいて声を詰まらせるクレイゾールを推し量るように語りかけた。

「――オ前ノ中ニハ、何カ、別ノモノガ潜ンデイルヨウダナ」

 あたかもそれは、その殻をぶち壊し、這い出ようとする何かと、それを出すまいとする堰との攻防だ。いまこうして話しているクレイゾールは、その後者の方だろう。いわば外殻。元あったその名残りとでも言うべきもの。

 真なる魂の呼び声は恐らく──その前者だ。

 不意にノーベルスの脳裏へ、彼がキリンジから戻った際のクレイゾールの様子が甦った。

 ガイスへ向けられた、あの言葉。あの底抜けの闇のような瞳。

「何故、殺意ニ身ヲ焦ガス? エクセリアガ憎イノカ?」

 クレイゾールの内面を這い回るその正体は、まごうことなき殺意の塊にほかならない。その慟哭とも呼ぶべき黒い胎動が、時にクレイゾールを豹変させるのだ。

 炎を見つめるその瞳に走った、刹那の揺らぎ。その瞬間。

 内側から、少年の中に潜むもまた、闇に浮かぶ炎を見つめていた。

「ェク、セリア……」

 うわ言のようにノーベルスの言葉を反復するクレイゾールはいま、その言葉に対する理解さえ及んでいるかも怪しい。何もないところへ言葉を放るような空虚さだ。人格が固定されぬがゆえ、偶然その人格のいる場所に当たれば会話も成立するし、それがてんで成立しない場合もある。

「オ前ハ本当ニ興味深イ奴ダナ、クレイゾール──」

 クレイゾールの中には、二つの人格がある。

 何かをきっかけとして二つに弾け、今なおその殻の中で一つに形を成せずにいる。

 だがやはり、ノーベルスは確信する。

 魂の主は、ごうごうと猛りを上げるその奔流の方だ。このクレイゾールではない。いま目の前にいるこのクレイゾールこそ、偽りの人格者だと。

 本当のクレイゾールは深い闇の底に沈んだまま、今という時を、過去生きた亡骸に任せてひたすらにその時を待ち望んでいる。

 自らが目を覚ますに相応しい覚醒の時を。

 まるで蝶として羽ばたく前の、動かぬ蛹のように。

「――心ガ限リナイ憎シミヲ叫ンデイルノニ、遺サレタ理性ガソレヲ拒ンデイル。違ウカ?」

 そう、それはまさしく闇の蛹だ。

 その欲望が激し過ぎるがゆえに満たされる場所を知らず、心は行き場を失ったその獰猛な発露に消し飛んでしまう。激しく入れ替わり続ける人格に意識が追い付いていない。けれどこうしていま目の前にいるクレイゾールも、やはり一人のクレイゾールであった事も確かなのだ。

 万物それぞれには役割があり、それはこの白き人格もそう。いまは必要とされてそこにいる。だから無理に追い出したとて意味はない。

 すべては時が、そして彼の成長が、その時を告げてくれるから。

 誰の手を借りるでもなく少年は、少年自身の望む未来を創るだろう。

「番イノ取レタ扉ハ、一度放タレテシマエバ閉マル事ハナイ。オ前ハマダ……眠ッテイルノカモシレンナ。深イ心ノ奥底デ、壊レタ扉ヲ、閉ザシタママデ」

 だからそれまでは、心静かに眠るがいい。

 来るべきその時に備え、暗きまどろみの中を殻の小船に揺られて。

 その身を突き動かす黒の衝動に恋焦がれながら、開放の時を待て。

「オ前ノ過去ニ、何ガアッタノカハ知ラン。オ前モキット、安易ニ思イ出セハシナイダロウ。オ前自身ガ、ソレヲ拒ンデイルカラナ」

 クレイゾールからは、やはり相槌の言葉もない。

 しかしいまノーベルスは、その話を止める気はなかった。膝を抱え込むようにして座るクレイゾールの隣に高さを落とし、音もなく亡霊が降りてくる。彼の身体から漂う、得も言われぬ凍てつく冷気は、ただクレイゾールの身体を二度ほどぶるっと震わせた。

「ダガ、ソウシテオ前ガイツノ日カ、本当ノ自分ト向キ合エタ時、オ前ハ初メテ嘘偽リノナイ、真実ノ世界ニ目ヲ向ケル事ガ出来ルダロウ。ソシテ己ガ求メシ欲望ノ矛先ヲ知ル。自ラ蛹ノ殻ヲ食イ破リ、覚醒ノ時ヲ迎エルノダ」

 まるで不安を伴う寓話のように、そして占星術、あるいは呪術師の、ひどく抽象的な予言にも聞こえる囁き。けれど不思議とその語りは、空洞のような少年の内側によく響いた。そしてその奥底でそれを聞く、の耳にも。

「――ココ数日、私ナリニ考エテイタ事ガアル」

 するとノーベルスが、話が変わった事を意味するように、おもむろにクレイゾールから視線を外した。声の調子も感情を抑え、淡々と独白めいたものに変化する。

「私ガ思ウニナ。亡霊トハ、人間カラ生マレル強キ負ノ集合体ナノダ。水ト水ガ吸イ付クヨウニ、水ト油ガ互イヲ拒絶スルヨウニ、同ジ性質ノモノ同士ハ惹カレ合イ、異ナルモノ同士ハ反発スル。ソレガ自然ノ理ダ。故ニ亡霊ハ、人ノ悲シミヤ嘆キニ吸イ寄セラレ、暗キ生者ドモノ元ヘト集マッテクル」

 まずノーベルスは、亡霊についての持論をそう唱えた。

 根っからお喋り好きのノーベルスだが、彼とて押し黙り、内なる対話に心を向ける時がある。つまり亡霊とは何かという──自らも呆れるほど自覚がない──ひどく不確かなその存在についての定義だ。

 いつしか亡霊は熱心に手振りを交えながら、クレイゾールへとその弁を振るっていた。

「アノガイストカ言ウ男ハ、亡霊憑キニ関シテ、若干ノ誤解ヲ抱イテイルヨウダカラ訂正シヨウ。亡霊ハ、人ノ情ニ縋ッテ取リ憑ク訳デハナイ。他ノ誰カトソノ哀シミ、言ワバ負ノ感情ヲ、共有シタイノダ」

 それが彼が亡霊となって得た、亡霊としての気づきなのだろう。

 何故、寄り添いたいのか。何故、人を求めてしまうのか。

「一人デ苦シムノハ辛過ギル。人間トハ面白イ生物ダロウ? 生涯孤独ヲ恐レ、自分ト同ジヨウナ境遇ノ仲間ヲ求メテ止マナイ。互イニ群レナケレバ、死シテナオ立チ行カヌ存在、ソレガ人間ナノダ。実ニ、カ弱イ」

 ノーベルスは、己をせせら笑うかのように肩を揺らした。いかに俯瞰的な言葉を並べようと、彼とてそのか弱き一員という事実に変わりはない。だからこそノーベルスはガイスらへの仲間入りを望み、行動を共にしようとした。

 たとえ亡霊でも、一人でいる事は辛い。

 未来永劫を孤独でいるには辛すぎる。

 ゆえに亡霊はその仲間を求め、人にとっての亡霊憑きとなる。

 それは一方的な同情を求めてではなく、負の共有。無情の時を過ごすための伴侶の存在が、傍らに欲しいのだ。

 そしてそれは亡霊はもちろん、人間にも当てはまる。

 どれだけ孤高を謳っても、支えを失って生きていける人間はいない。人間とは直立した棒のような存在で、極めて不確かな状態の上に、必死で均衡を取りながら生きている。けれどそれだけではいくばくも持つまい。

 二本の棒ならば、互いに身体を寄せ合って立ってゆく事が出来る。それが三本なら尚更だ。数は多ければ多いほどいい。

 なまじ感情が豊かなだけに、心は心を求めてやまない。

 人間とは──つまりそういうものだ。

「ダカラコソギルディアニハ、大陸中ノ亡霊ドモガ集ッテクル。私モ亡霊トシテコノ大地ヲ彷徨イナガラ、同ジヨウナ亡霊ヲ幾度モ見タ。恐ラク、コノ土地ヲ越エ、世界ノドコヲ探シ回ッテモ、コノギルディアホド亡霊ガ群レ集ウ場所ハ他ニアルマイ。ソレホドコノ大地ニハ悲劇ガ渦巻イテイル。誰ガ呼ンダカ、マサニ不浄ノ大地ダナ」

 驚いた事に、亡霊はそんな事を言った。

 嘘かまことか、まるで他の世界でも見てきたかのような言いぶりは彼の生前の記憶によるものなのか。それともこうしてクレイゾールと出会う以前、彼は茫漠たる時間を放浪して過ごしてきたのか。

 次第に言を強めるノーベルスは、おもむろにクレイゾールへ向き直り、自らの眼球の代わりに少年の黒い瞳へしっかりと自分の仮面を映し込んだ。

「ソシテコノ不浄デ巡リ合イシ、負ノ子供。ソレガクレイゾール、オ前ダ。オ前ニハ、コンナ出来損ナイノ亡霊サエ惹キ付ケル、危険ナホドノ魅力ガアル。私ハオ前ト巡リ合ウタメダケニ、コノギルディアヲ彷徨ッテイタノダト確信スルホドニナ。アノガイスモマタ、オ前ノ悲劇的ナ因果ニヨッテ心惹カレタ者ノ一人ダロウ」

 ――因果。

 確かにそういった神の不文律は、見えずしてこの世界に存在しているのかも知れない。人の手などが決して及ばない、強大な力。人はそれを運命と呼び、その名の下で翻弄され、人生を移ろわせながら死んでゆく。

 けれどもそんな律の中にありながら、人の意思、それは必ずしも無力と言えるのだろうか? 運命、ひいては因果の糸さえも――それは神などではなく、こそが作り出した、ある種、必然とも呼べる律ではなかろうか?

 ノーベルスはそこまで語りはしなかったが、まるで自身を振り返るように、彼は少しクレイゾールから仮面を遠ざけた。その仮面に空いた、目の部分を示す切れ長の穴の奥には、夜の闇よりも深い、無限とも思える虚空が広がっている。

「――コウシテイザ亡霊ニナッテミテ実感スルガナ。亡霊トハ極メテ不確カデ、ヒドク曖昧ナ存在ダ。宙ヲ浮遊スル事ガ普通デアッテ、歩ク感覚ナドハトウニ忘レテイル。ソレドコロカ、亡霊ハ人間ト違イ、食事ヤ睡眠ヲトル必要ガナイト理解シタノモツイ最近ノ話ダ。ソレマデハ、ソンナ概念サエナカッタ。肉体ハアクマデ半透明デアッテ、実体ト虚無トノ狭間ヲ行キ来出来ル事ニサエ、何ノ違和感ヲ感ジル事モナカッタ」

 ノーベルスの言葉には嘲りにも似た、そんな奇妙な声の低さがあった。どこか影を帯びたその声は、夜によく親和して消えてゆく。まるで亡霊がその姿を溶かすように。

「亡霊トハナ、反吐ガ出ルホドニ、イイ加減ナ存在ダ。マルデ生キテイル、トイッタ実感ガナイ。ソシテソウ思エバ思ウホド、スデニ自分ガ人間デハナイノダト実感スル。ダガ、亡霊トハアクマデ曖昧ナダケデアッテ、万能ナ存在デハナイ。私ニ予知ナドトイウ気ノ利イタ能力ハナイガ、シカシコレダケハ言エヨウ。クレイゾール、オ前ノ元ニハコレカラモ沢山ノ人間、ハタマタソノ枠ニサエ収マラナイホドノ、多クノ者ガ集ッテクル」

 ノーベルスは再びクレイゾールへと仮面を戻すと、そう力強く告げた。

 それは憶測や推測、可能性を論じる声ではなく、ただ確信の声だった。

「コノ、バーントテ同ジ事ダ。オ前ノ絶対的ナ負ノチカラガ、結果的ニ、死ニカケタコノ少年ノ命ヲ救ッタ。アノ男ヤ私デハナイ。オ前ガ救ッタノダ」

 呼びかけに応じるように、バーンが刹那、微かな呻き声を漏らした。

 出会いの糸は断ち切られず、まだこの場所に繋ぎ留められている。

 か細い糸同士が、微かな暗き力場を拠り所として。

「物事ノ過程ナドハ問題デハナイ。ソンナモノハ単ナル惰性ダ。始マリサエアレバ、起コルベクシテ、全テノ事象ハ発生シ、何カシラノ結末ヲ迎エルダロウ。ダガ、物事ノ発端トナルモノダケハ、惰性ヤ必然デハ語レン。ソコニハ確カナ、始マリノ意思ガアルカラナ」

 ノーベルスの言葉はますます熱を帯びて、真剣なものになってゆく。

「――物事ノ発端、ソノ中心ニハ必ズオ前ガイル。全テハ、オ前ヲ中心ニ動イテイル。オ前ニハ、運命ニサエ抗ウチカラガ、秘メラレテイルノカモシレン」

 パチパチと爆ぜる火に照らされた、広大な夜に虫食う穴のようなちっぽけな空間。 しかしその場所に居合わせた四人、あるいは三人と一匹にとって、それは紛れもなく世界のすべてだった。

 そしてその中心で炎を見つめているのは、一人の少年。

 その暗示めいた光景は、確かに一つの律を物語っていた。

「イヤ、ソウ確信スル。スデニコノ私ガ、オ前ノ引キ寄セルチカラニヨッテ運命ヲ変エラレタ一人ナノダカラ。今ニシテ思エバ、オ前ト出会ッタ事デ、私ノ自我ハ確立サレタノダ」

 言いながら、その認識に自ら相槌を打つようにノーベルスが頷く。 

「アノ時、私ハ、絶エズ忘却トイウ奔流ノ最中ニイタ。私ニトッテ自己ノ確立トハ、己ガ死活問題ダ。自分ガ自分デアルカ、ソレトモ未来永劫ヲサ迷ウ亡霊トナルカ、ソノ二者択一ノナ。オ前ト出会ワナケレバ、私ハココニ存在シテイナカッタ」

 仮に亡霊に生の定義というものがあるならば、それはまさしく彼の言う自己認識にあるのだろう。自我を失う事こそが、亡霊にとっての死と言えるのかもしれない。

 思念の集合体である亡霊から思念が消えた時、そこには何が残る?

 全てが、消える。

 虚空の中に漂う自らの幻想だけを残し、亡霊の意識は完全に世の中から消滅する。

 ノーベルスがノーベルスとして、ここに在る事。それこそが彼にとっての生の定義なのだ。

「クレイゾール。オ前ガコノ亡霊ノ命サエ救ッタノダ。ガイストテ、ソノ例外デハナイ。アノ男ガ普段何ヲ考エテイルノカナド知ッタ事デハナイガ、オ前ト出会ッテカラ確カナ変化ヲソノ身ニ感ジテイルハズダ。ソレヲ認メルカ認メナイカハ、奴自身ノ問題ダガナ」

 少し離れたところで寝息を立てたままのガイス。僅か二日前は己が葛藤に苦しみ、クレイゾールの命を刈り取ろうとまでした。しかしそうした葛藤も変化ゆえにもたらされたものだという事に、彼は気づいているだろうか。 

「ダガ、ソウシテアノ男ニ何ラカノ変化ガアッタカラコソ、バーンモ救ワレタノデハナイカ? オ前コソガ全テノ始マリデアリ――ソシテ、終ワリナノダ。オ前トイウ、一ツノ物語ヲ綴ル発端デアリ、全テガ行キ着ク先、長キ夢ノ終着点デモアル」

 遠くから名を呼ばれた事に気づいたように、クレイゾールがその面をあげる。

「ソシテソレハ、オ前ダケノ物語デハ終ワラン。ガイスガ、バーンガ、ソシテコノ私ガオ前ノ元ニ集ウヨウニ、多クノ者ガ、オ前ヲ中心トシタ一ツノ渦トナル。同質ノモノ同士ガ互イニ惹カレ合ウヨウニ、オ前ノ負ノチカラガ、数多ノ悲劇ヲ引キ寄セル。ギルディアノ大地ニ澱リ重ナッタ、多クノ嘆キト悲シミガ、オ前ノ強大ナ、チカラトナル」

 夜はますます更けてゆく。

 焚き火の光が照らし出す小さな世界が、なおも色を濃くする闇に押されて少し取り巻きを濃くしたようだ。いや――単に炎の勢いが弱まったせいだろうか。周囲の暗闇が今にもこちらへ押し入ってこようと、光と闇の境界線でうずうずと手薬煉を引いているようにも感じられる。

 まるで闇というものが生きていて、不気味な胎動を周囲で繰り返しているかのような――それとも、そんな周囲の闇さえもが、クレイゾールの元に集おうと暗くひしめき合ってでもいるのだろうか。

「ヤガテ多クノ思念ヲ虜トシタオ前ノ歪ミハ、大渦トナリ、歴史サエモ動カス絶大ナチカラヲ手ニスルダロウ。マサニサエ変エテシマウホドニナ。ダカラコソ私ノ、オ前ニ対スル興味ハ尽キン。オ前ノ綴ル物語ガ、何ヲ求メ、何ヲ刻ミ――何ヲ導クノカ。ソレヲ、見テミタイ」

 いつしか枝を放る事も忘れられた火が、徐々に消えゆこうとしている。

 半ば闇と同化し始めたノーベルスとクレイゾールの目線が交錯する。

「――クレイゾール。オ前ノ魅力ハ、危険ナホドニ我ガ心ヲ奪ウ」

 隣りにいながらにして、少年の眼前に浮かび上がる白い仮面。

 果たしてノーベルスの身体はどうなっているのだろうか? ぬうと仮面をクレイゾールに寄せた彼の首だけがにょろりと伸び、それは虚ろの少年さえ驚きに目を丸くさせた。当の本人も、自分の首が伸びている事に対する自覚は特にないらしい。

「……何度も言わせるなよ、亡霊め。人に取り憑くなと言っておいたはずだが」

 すると不意に、そんなガイスの声が響いた。

 すっかりと寝てしまったものかと思っていたが、どうやらその声は寝起きの声ではない。先程から続くクレイゾールとノーベルスの話を彼は聞いていたのだろう。相変わらず彼の身体はこちらを向いていなかったが、しかし話が終わった事を確認し、少なくとも一度は二人の様子を確認したようで、ガイスの声にはいま見た光景に対する嫌悪感がこれでもかというほどに満ち溢れていた。

「――盗ミ聞キカ、趣味ノ悪イ奴ダ。ソレニ、マダ取リ憑イテハオランゾ」

「まだではない、取り憑くなと言っている。油断のならん奴だ」

 反射的にか、シュッと首の長さを元に戻し、こちらも若干の嫌悪感を持ってそれに答えるノーベルス。

 だがそうして亡霊がさも何事もなかった風を装っても、それでいま見た光景が帳消しになるかといえば、そうはならない。ガイスは改めてそれが亡霊であるという事実を再確認し、あれが取り憑く瞬間かとか、おぞましいだとかの文句をぶつぶつと口の中で呟いている。

「……っはぁ、はあッ!」

 途端、荒々しくパーンが目を覚ましたのもその時だった。

 さながら悪夢から解き放たれた瞬間、とでも言おうか。皆がはっとバーンを振り返る中、彼は手足をばたつかせ、熱気に喘ぐように激しく胸を上下させている。

 三日間も眠り続けていたのだ、まだ夢と現実とが混濁していて無理はない。

「意識を取り戻したか」

 それにいち早く反応したガイスが、毛布を跳ね除けて寝転んでいた姿勢から飛び上がった。つんのめる態勢から無理やり上体を起こし、短い距離を勢い込んで駆けてゆく。

 だがそこに例の亡霊まで来てしまったものだから、バーンの寝覚めは最悪だった。案の定、バーンはノーベルスを目の前にして今にも死にそうな悲鳴を上げる。

「ぼ、亡霊ッ!」

 死にかけた自分が目を覚ました先にこんな亡霊が漂っていたら、それこそ生きた心地はしないだろう。絶望的な表情でそれを見つめたのち、ここは地獄だろうかと動かない身体なりに顔だけで周囲を確認するバーン。ガイスはそんなバーンへ近寄ると、まだ起き上がれないであろうその肩に手を置き、努めて穏やかな口調で口を開いた。

「ああ、起きて早々に悪かったな。気味の悪い奴だが、死神ではないぞ。恐らく」

「――ヨク言ウ。イツカオ前ニ、取リ憑イテヤルカラナ」

 そんなガイスの物言いが気に入らなかったのか、ノーベルスが静かに憤慨する。ガイスはそんな亡霊を気にする風もなく、今度はバーンの額へと手を乗せた。

 大丈夫、熱はかなり下がったらしい。あとは痛みと苦しみだけだ。それさえ克服出来たのなら、かなりの確率でバーンは持ち直すだろう。そして今は眠っておけと手の平をバーンの瞼に乗せ、再びそれを閉じようとするガイス。

「はあッ、はあッ……う、ううッ! ううッ!」

 けれどバーンは、安易にそれを受け入れようとはしなかった。頭を振り、ガイスの手を振り解くと、悔しそうに瞳へ涙を滲ませながら、音の鳴るほどに歯を食い縛る。

 苦しい治療の最中、何度も気を失いながら、何度も目を覚ましている。そして時間も嫌というほど過ぎた。ここに来て自分を取り巻く現実に気付かぬバーンではない。

 バーンは声を大にして怨みの声を張り上げた。

「エクセリアめ! エクセリアめッ!! 全部奪ったんだ! あいつらは僕らの全部を奪ったッ! 何もかもッ!」

 その深い怒りと悲しみがいま濁流のように噴出し、バーンはそれを止める術を知らなかった。感情に任せて、赤い瞳に涙をいっぱい溜めながら、子供とも思えない怒声を張り上げる。

 だが、どうしてそれを止められよう。今のバーンには、己の声を張り上げる事くらいしか感情を発散する術がない。身体は動かないのだ。だからこそ、声には必要以上に力がこもり、彼は何度も己自身の声の大きさにむせ返り、苦しげに咳を吐いた。

「お前の命がある。身体は多少傷ついたが、お前の命だけは連中も奪い損ねていった」

 ガイスはそんなバーンを咎める事もなく、そう落ち着いた声をかけてやるだけだった。そこには飾った同情などはなく、事の事実だけが語られている。

 そう――少なくともバーンは命を取り留めた。それでいいではないか。その事実があれば、明日からは生きていける。たとえいくつかの指を失くし、肌を焼いても、これから続く未来を生きてはいけよう。

「だって、だって、こんな……ッ!」

「腕は見るな」

 自らの腕を見ようとするバーンの視界を、ガイスは遮った。いま悪戯に傷ついた身体を見た所で、何の解決にもなりはしない。バーンは堪え切れずに溢れ出した涙で目を瞬かせながら、ひどく感覚のない腕を握り締めた。ガイスの隣ではノーベルスがそれを見守り、クレイゾールもいまそんなバーンの近くへとやってきた。

「もう嫌だ……! 痛い……苦しい……ッ!!」

 吠えるようなバーンの叫びが、夜の闇に木霊する。

「だけど……死にたくないッ! まだ死にたくないよッ!!」

「オ前ハ死ナン。ドンナ理由デアレ、オ前自身ガ生キル事を放棄シナイ限リハナ」

 今度はガイスに代わり、ノーベルスがそう告げた。仮面の下から響くくぐもった声ではあったが、それはきっとバーンの耳にも届いただろう。気休めか、亡霊は一瞬手を差し出すような素振りも見せたが、先程のバーンの様子を思い出して自粛したようだ。膝をついたガイスの頭上からバーンの様子を見守っている。

「でも……!!」

「死神が、そう言ってる」

 すると今度は、なんとクレイゾールが口を開いた。

 いったい何を言っているのかと、揃ってクレイゾールへと目をやるガイスとノーベルス。だがそれがクレイゾールなりの冗談らしいという事が分かると、ガイスは一転、その意外さに堪りかねたように笑い出した。目の辺りを手で覆って肩を揺らし、歯を見せてくつくつと笑う。

 まさかクレイゾールからそんな言葉が飛び出てくるとは夢にも思わなかったに違いない。ノーベルスもやれやれといった様子で肩をすくめ、愉快そうな笑い声を漏らしている。

「――フン。オ前ノ場合ハ、許シテヤルカ」

 その場には、たとえ一瞬であれど懐かしく、とても温かな空気が訪れたような気がした。夜の孤独と身を切る寒さ、圧倒的な暗闇の中にも、そこには、それを忘れさせてくれる何かがあった。満更でもない、という風に鎌をもたげるノーベルスへ横目をくれ、ガイスは笑顔のままにバーンへと言うのだった。

「そう死神が言うのだ、間違いはない。お前は死なんよ」

 バーンも、すでに涙を流してはいなかった。その場の楽しげな空気に驚き、皆の顔を交互に見つめ返している。そうして自分が泣き叫んでいる事が、ひどく場違いな事に思えて――もう、何も言えなかった。

 ここギルディアで見る人の笑顔は、何者にも代え難い宝だ。ほんの刹那、瞬きの合間だけであっても、心に人の温もりが甦る。それをよく分かっているだけに、その奇妙な三人組の笑顔を、たとえ一瞬でも邪魔をしたくなかった。

 ただ――そうして起きた束の間の笑顔の中に、村での懐かしい記憶を呼び起こして、バーンはまた少しだけ目頭が熱くなった。

 ここルザルがルザルであった頃、いつもとは言わないが、バーンにも数え切れない笑顔の瞬間があった。人の笑顔とは、忘れがたき望郷の想いを、強く見る側の心へ投影する。

 自分は、これからも笑えるだろうか。

 今のバーンにとって、その笑顔はあまりにも眩しい。

「お前の故郷だ。最後の夜を、よく偲んで眠れ」

 もう一度バーンの瞳へと手をやり、今度は半ば強引にそれを閉じさせるガイス。

 どうせ開いていてもこの夜だ、何も見えやしない。また仮に見えたとしても、それはバーンの知る以前のルザルではないだろう。ならば目を閉じ、その瞼に焼きついた懐かしき想いを胸に、いまを眠ればいい。そうして故郷最後の夜を、決して忘れぬよう胸に刻め。これから始まる長き旅路の中で、挫けそうになった時は、それを支えとしろ。バーンに与えられたこれからの人生は、何よりも過酷なものなのだから。

「明日、ルザルを発つ」

 そしてガイスはいま、旅立ちの言葉を口にした。

 無論、誰一人置いていくつもりなどはない。明日の朝一番で、このルザルを発とう。ここには長く居過ぎた。そしてこれから始まる本格的な冬の到来を前に、あとは少しでも早く行動した方がいい。この二つの幼き命、そのどちらが欠ける事なく、この冬を乗り切るためには、一刻も早くに。

(――明日の朝一番で、ルザルを発とう)

 ガイスはもう一度、心の中で、晴れ晴れとそう呟いていた。

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