閻浮

和紀河

第1話

僕は静かに狂ってゆく。

それはきっと、闇に淡く浮かぶ桜の花びらが風に舞い、

そして、

儚くそっと、地に落ちてゆくように---------。

ゆっくりと、内から沸き上がってくる炎が、

僕の肉体を焼き尽くして行くように---------。



少年は花を愛していた。何よりも大切に大切に。

少年は花をあのコと云っていた。

そう、彼にとって花は人であり、人は花であった。

ただ、それだけのことだったのだ。

少年の周囲の人々によれば、彼は何よりも植物を愛する、とても心根の優しい少年だったという。



 そこは無機質に彩られた灰色の冷たい部屋だった。

 コンクリートを四角くくりぬいただけの小さな窓から、微かに透明な月影がゆっくりと部屋の中へ流れ込んでいた。

 月影が差した灰色の椅子には、少年が独り、背中を丸めて俯いて座っている。その少年の対面には、初老の男が沈痛な面持ちでゆっくりとたばこをふかせていた。


 男は眉間にしわを寄せたまま、短くなった煙草を灰皿に強く擦り付けた。

 まだ素直で幼い面立ちの少年は、静かにその重い口を開き始めた。


「僕は少し疲れていた。ただ、それだけだったんだ---------。」

 男は顔を上げ、捌くような眼差しを少年に向けた。

「・・・・」

「あの日。・・・そう、あれは放課後。」



少年・証言1


 真っ赤に焼け付いた大きな太陽が、灰色の教室を茜色に染めていた。

 教室の扉の曇りガラスも、茜色に染まっていて…僕はそっとノブに手を伸ばして、引いた。

 教室に入った僕は、赤焼けた夕日に眼が眩んで瞬いた。


 そう、確かにあの時。


 匂い立つような女の何か激しい息遣いらしきものが僕の脳裏を刺激して…僕はゆっくりと教室の中を見渡した。


 ガランとした人気のない教室。

 隅っこの方でかすかに動く二つの折り重なった人影---------。


 何より大切に想っていたあの子が・・・。あの子が、男にすがりついている。

 あの子の二本の白く長い、しなやかな腕、桜の花びらのように上気した面。

 痛切に、残酷に、僕の脳裏へ焼き付いていた。


 薄く響くあえぐような声。

 熱い二つの息づかい。


・・・僕は固く眼を瞑って教室を走り去った。

 息がつけないほど喉元がぎゅっと痛んで、それが胸にまで広まって詰まるような苦しみが押し寄せた。


「あれは違う・・・違うんだ!!」

 少年は両腕で頭を抱えこむように顔を覆った。


少年・回想


「ねぇ。」

 呼びかけられてはっとしたように少年は振り返った。

 鉢植えの白い花を大事そうに抱えた長い髪の色白の少女が立っていた。彼女は、柔らかく口角を上げ、つややかなふっくらとした唇で微笑むその姿は白い百合の花のようだった。


 少女は少年のクラスメートだった。

 そう、少年の憧れの、あの子だった。


 少年ははにかむように俯いて、耳を赤く染めた。彼女に紅潮した自分を悟られまいと、努めて素っ気なく呟いた。

「おはよう。」

「ねぇ、」

 唐突に、少女は人懐っこい笑顔で少年に近づいた。

「こんな朝早くから学校?」

「・・・うん。」

 間近に少女の白い笑顔がある。

「ここ、私の家なの。今水やりをしていたのよ。」

 少女が左手を上げて指差した。見事な花に囲まれて無秩序でいて秩序のある緑が溢れたその大きな庭は、妖精が住まいそうなサンクチュアリのようだった。

「ここ、ウチ。」

 少年の胸は壊れそうなほど激しく高鳴る。

「お庭からあなたの姿が見えたから。ね。」

 少女はそんな少年の心の内を見透かすように悪戯っぽい微笑みを投げかけ、軽やかな天使のようなそぶりで、少年の顔をのぞき込んだ。はっとして顔を上げた少年の目の前に、白い花を突き出した。

「ねぇ、かわいいでしょ?今朝最初の花が咲いたわ。」

 少年はいとおしそうに白い花を見つめた。

「うん。このコ、シャスタデージーだろ?」

 少女は怪訝そうな顔をした。

「このコ?あ、うん、そう。シャスタデージー。」

「汚れを知らない、清純な白…。」

「良く知ってるのね。男の子なんて花になんて興味ないものだと思ってたわ。」

 少年は気恥ずかしさに彼女から視線を外し、彼女が突き出した花を見つめた。

「ねぇ、花を見るときのあなたって、すごく優しい顔、するんだね。」

「え・・・?」

 少女は少し考えてからぱっと明るい笑顔を浮かべ、声のトーンを少し上げて、

「あげる。」

「何?」

「このコ、あなたにあげるよ。」

 突然の申し出に少年はうろたえ、

「なに?」

 少年の反応に、少女はつまらなさそうな、寂しげな表情を漏らし、上目使いに少年を見つめた。

「いらない?」

「う、ううん。ありがとう。大事するよ。」

 少年はこの上ない優しい笑顔・・・幸せな微笑みを、白い花の少女に向け、そっと鉢ごと抱き締めた。少女はそれを見届けると小躍りしながら家の中へ消えた。


 時間の止まったような灰色の部屋の冷たい窓へと少年は瞳を泳がせた。

 凍りついた月。それは形骸。

「汚れを知らない、清純な花。」

 少年の心は今、ここにはない。

「僕にとってまさにそれは彼女だった。あの、デージーのように清らかで美しい人・・・」

 男は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。

「・・・・・」

「あれは彼女じゃない。彼女じゃなかったんだ。あれは・・・。だから、だから僕は彼女をこの手で・・・!」

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