カメライフ
みんなもともと生死
第1話
極彩色の蜃気楼。
ネオンサインから色の粒が夜の街に降り注ぐ。
無数の亀が気だるそうに川を泳いでいて、僕は夜中の川に飛び込んで亀になる。黒い水面に反射したネオンがゆらめいてぐにゃぐにゃだ。急に川の汚さが気になってきて、興醒めした。同時に酔いも醒めた。本気で川に飛び込みたくなる夏ではなく、今が秋という事もあってか、熱を奪う川の水も影響している。
道行く人々に気付かれる前に、早く川を出てしまおうと泳いで岸に上がり、人々のざわめき声をかわしてそう遠くないアパートに着いた僕はわっしゃあと勢い良くシャワーを出す。「うわっ、冷たい」ソリッドな冷気が水の上に乗って、芯から冷えた身体に追い討ちをかける。
しかし、右手の辺りは奇妙に温かいままで、不思議という言葉がパンク寸前な程に頭にぎっしり詰まっていく。激しい揺れに襲われ、右手を覆う温もりは揺れと同時に消えた。すっと裸の僕と浴室は遠のく。
目を開けると、豊かな胸が視界に飛び込んできた。酒を割るために買った水のペットボトルを持った町原純がのぞき込むようにしている。彼女はニコリと意地悪な笑みを浮かべたまま悪びれず言った。「酔いつぶれたまま、ずっと離してくれないから水かけちゃった」
「君のせいで変な夢を見たよ。そうか、僕の手がほわほわと温かかったのは君か。いやー、ごめんごめん。垂らすくらいで良いのに、水をかけすぎだと思うんだけど」
布団は水でびしょ濡れだった。シンセサイザーの近くに文男さんが酔いつぶれ、寝言を言っている。
「八百八個の饅頭潰したらもったいないなぁ。うわぁ餡子の海」
文男さんの寝言を聞きながら、僕は慌ててタオルを探す。いつもの惨事が起きていないか不安になったのだ。酒を飲みすぎると文男さんは小水を漏らす。普段、僕の部屋には箪笥が無いので洋服を平積みにしているのだが、酒をふんだんに買い今日のように三人で飲もうと集まった、ある夜に文男さんが例のごとく泥酔し、洋服に向かって放尿し始めたのであちゃあ、買ったばかりの服だったのにと呟きながら僕は一部始終を見守った。生暖かい、もわっと独特な匂いを発するTシャツやジーンズを覚悟を決めて鷲掴みにすると、浴室である程度洗って置いといて、朝一番にコインランドリーに持って行った。服は洗えば何とか綺麗になるが、楽器は尿臭がいつまで経っても取れないし、耐えかねて洗ったらバチバチで感電だ。沈黙の鍵盤に火花が散る。見慣れた水溜りは文男さんの周りに無く、ぐっすり眠っている様子でむっくり起き上がり用を足し始める恐れは無さそうだ。
振り返って純に話しかけようとすると、右目に赤、黄、紫色の万華鏡独特の模様が幾重にループして広がっていく。自由な左目からはケラケラと笑う純の姿を捉えた。「酔いが回って、一瞬視覚がどうかしたのかと思った。今君酔ってない?」「まだモスコミュール残ってたから飲んじゃった。あはは、何で顔濡れてるの?」「君が水かけたんだろー」「嘘、覚えてない」眠そうな溜息をつくと、万華鏡を楽器の反対側にある段ボール箱の上に置き、彼女はすぐに可愛げもなくいびきをかき始めた。来客用の掛け布団が残っていたので、純にかけた。まだ布団に余裕は無いか、ミニマムな押入れを探したがタオルケットしか無かった。我慢してくださいと言いながらそれを文男さんにかける。さっきの水害で掛け布団や枕も濡れてしまったので、文男さんの尿にまみれることも無く今日は無事だった洋服を腰から下にかけて覆うようにして目を閉じた。
心地よい休息はどこからともなく漂う猛烈な臭気によって壊された。腹の上に誰が吐いたのかわからない吐瀉物が乗っていて絶叫する。不幸なもらいものは寝返りを打った際に畳にも付着していて、乾いて容易には取れそうにない。よく例えられる酸っぱいという形容詞が他の酸っぱいに失礼だと思う。しかし、言い得て妙と思うくらい、実際嗅いでみるとその形容詞は当てはまった。臭いのインパクトはカリスマ級。誰だと叫びながら、冷静に汚れた服を洗い、身体に染み付いた酸っぱいを洗い流し、新しい服に着替え外へ出た。
丸いクリーム色の光がじわじわと降り注ぐ。数十個のビー玉が歩道に転がっている。子供たちが大人を転ばそうとふざけてばら撒いたのだろうか。どうしようもなく暇だった僕は一つ一つ数えてみた。たまに通り行く人々が不審な目をしたが、正確な数字を知るまでビー玉ロードを離れることはできなかった。全部で六十六個あった。昨日の文男さんの寝言ではないが、少しもったいないと思った。同じ場面に純が出くわしたら、五・七・五の形式を遥かに字数を破った、でたらめな短歌と呼べるか怪しい代物を即興で読むだろうし、文男さんはおおーっと嬉しそうな悲鳴をあげ小説のネタにするだろう。
少し進むと急な坂があったので、はあはあ苦しい息を吐きながら坂を越えると、小さな雑貨屋があった。癒し系と銘打たれたコーナーの商品に偏屈な自分を癒す事ができるかなと毒づきつつ、暗闇で桜や銀杏、ライラック、チューリップの模様を壁に投射する猫の家族があった。癒されるし、幻想的だ。ファンシーなその猫たちを買った後、さらに進み大きなデパートに寄った。カレーのレトルトや即席めんを一週間分、酒のつまみにたこわさ、焼いたホタテのひもを買って、本屋で文庫本と可愛らしい少女が残酷な遊びを行っていく漫画を買い、CD屋でクラフトワークというドイツのテクノポップユニットのCDを買う。
酔いの宵を過ごす部屋を一回ずつ変えている。飽きにくいし、良いんじゃないと皆で話しながら。今日は左隣の一○一号室、文男さんの部屋で飲むことになっている。僕が住んでいるのは築三十年くらいの、そこそこに古くせこせことした大きさの木造アパートだ。部屋は八つあるけれど、明かりがつくのは三部屋。シンセサイザーの一つにTB303というものがある。それはミョンミョンといった音が特徴的で、変わった音を出すから僕は好きだ。このアパートが三階建てだったら、三○三号室を選んでいただろうと言えるくらい。呼び鈴を押しても反応しないので、ドアをノックする。それでも反応しないので僕が音楽に夢中になって気付かない時彼らがそうするように部屋の中に入ると文男さんはうたた寝していた。起こすのも悪いなと思って文男さんの寝顔を見ていた。五分くらい経って、鼻ちょうちんを破裂させた文男さんは何だー、居たんだと言った。さっそく今朝からの疑問を文男さんにぶつけた。「すいません、朝吐きました?」「ええっ、二日酔いはしてたけど吐いてないよ」「おかしいな、確かに腹の上に乗ってたんですけど」「自分で吐いて忘れたんじゃないの?そうそう、この前さ本屋のバイト終わってからさ駅前歩いてたらさ、女の子が突っ伏していて。戻してたんだよ。オレンジ色だったなぁ。女の子ってさ、バイトで客と接している時とか声を作ってるじゃん。普段作っている声ではなくてディストーションが効いた声でおえーって言っててさ、苦しむ表情がなんかツボで。匂いがキツくてすぐに帰ったけど」「僕も前に飲食店でバイトしてたら、よく店の前にゲロありましたね」「吐いた後にキスしたらヤバそうだよなぁ。初恋の味はゲロの味」
ピンポーンと呼び鈴。純が仕事を終え、やってきたようだ。男二人のむさ苦しい空気に華がある。紅一点。紅でなければいけないのか。彼女は紫な感じだから紫一点。つまみ取ってくると言って僕は一旦自分の部屋から昼に買ったつまみを持ってきて、純が持ってきた酒を飲み合うことにした。
「今日はナース服を着てプレイしたの。早漏であっという間だった。味気ない茄子、やるせなす」笑いながら文男さんはノリノリだ。「ははは、せわしなすぎたんじゃないの、腰の動きが」「乳房にむしゃぶりついてくるおっさんの口が臭い。禿げ頭をピシャリと叩いてたけど、本当に光るもんなんだね。カツラを前後逆につけてやりたかった」「俺だったらわざと街中で取って、人々の反応を見てみたいな。下の毛まで禿げてた?」「いや、ふさふさだったよ」「あーあ、移植しちゃえば良いのに。ちぢれ毛だけど」酔いが回ってきたらしく、文男さんの顔は茹でダコのように赤い。僕はおどけて聞いた。「今朝俺の上にゲロかけたのだーれだ?」「もう酒飲んでるのにー、あたしよ。急いでたから拭く暇なかった、ごめん」目の焦点が合わなくなってきた文男さんが悪ノリした。「どうしてくれる、
俺にもかかってたぞ。ゲラゲラ」「じゃあ、今度かけてあげるよ」「君から贈られた半固形の吐寫物」「私が贈った半固形の吐寫物」酔っ払った二人は俺にも朗読のようなものをしろと言う目で見るので仕方がなく「腹上に半固形の吐寫物」と読んでみたら、興冷めした純に舌打ちされる。
色の反転した世界。顔色は青黒く真っ白な髪のピープル。音楽が具現化して鋭く尖った音楽の刃、ジャンルで言えばヘビメタやパンク辺りだろうか。それらがぎゅんぎゅんと飛んできて三等分になった僕は泣き笑い、感情も三等分。夢の中だからだろうか、痛覚は感じない。首だけの僕は歓喜、嘲笑、饒舌。紋切り型の小説の話、当たり障りの無い歌しか知らないつまらない女、色が反転して、女は余計に不細工になったもので、女の最近読んだ恋愛小説の話は悶郎というヒモ男がセレブな爪子に「あなたの存在は不渡り手形、マイナスしか生まない男だわ。でも愛してる愛してる人身御供になる程愛してる」なるほど、陳腐な恋愛小説だ。僕は君を嘲笑い、反感を酒の肴にするよ。
手と腹が特徴的な上半身の僕は傍観、決心、不平。手をこまねいているかと思えば、突拍子もなく何かひらめく。そんな形の決心。たまに背水の陣となけなしの金で風俗通い。排水口に風俗嬢の小水。腰から足までの僕は憤怒、断念、楽観だったり。尻切れ蜻蛉にどんなバイトも中途半端。三年会社に勤め続けたけれども、コサックダンスを踊りながら退職。八百屋の親父に腐りかけの野菜を売られて地団駄。三分の一の僕。LOOPと書かれたボタンを押したら、無限に増殖する僕。首だけの僕はパンティを逆さに被り瞑想。かっと目を見開き、この世にあるだけの表情をする。苦悶の自分、作り笑いの自分、左側は怒りで右側は泣き顔な変顔の自分。上半身の僕は世界中のジェスチャーを網羅して。
下半身の僕は様々な踊りをして、盆踊りを踊っていたら車にはねられぺちゃんこになってしまった。平面になった三分の一を噛み砕き嚥下すると、頭上に元下半身が生えてくる。滅茶苦茶な身体になってしまったものだと呟いて思案している内に、大きな光が破裂。
パシーン。パシパシーンと手拍子代わりにビンタの音。僕が純に頼んで頬を叩かせたものだ。純と一緒に画材店に行き、マーブリングという、歪んだ色彩の渦が白い紙にサイケな感触を残した絵を描く際に必要な用紙とインク、渦をかき回し、模様を作るのに必要な楊枝をビンタしてもらう条件としておごり「Mなの?」とからかわれつつ、自らの頬を犠牲にして録ったビンタ。さっそくマーブリングに取りかかりピンクと緑の可愛らしげなサイケを描く純の様子を呆けた顔で眺めてたら、やってみなと道具を差し出され、インクを足して調合できた色は黄土色と抹茶色で渋い老年カップルのような渦。
純に音の素材を提供してもらうには、何かしらの条件が必要だった。すすり泣く音には特上寿司、あえぎ声には三万の炬燵を買わされた。マイクに向かってあえぐ演技をする純を見て五千円くらいだったら割に合うなと思った。パソコンの音楽編集ソフトでそれらの音にエコーを加えたりディレイをかけて遅らせたりしていく。純の声が粘土のようにくにゃりと形を変えていく。道端で文男さんと出会い、居酒屋で軽く一杯飲み、ほろ酔い状態で楽器店に立ち寄り買った木琴が鳴っている。そこにふっと加工した純の声が入る。シンセサイザーが光の帯のように広がって。ヘッドホンを耳に当て音に意識を集中させると、青色LEDと星の光が最初はバラバラなんだけれど、だんだんと集まって融合。踊れるような、軽快なリズムの曲を作ろうとしたらキラキラした大人しい曲になってしまった。普段から曲を作る前と後ではシャンデリアを描こうとしたのに行灯を描いてしまったという具合にイメージとかけ離れたものが出来上がるのだが、僕は面白がっていた。作業が少し煮詰まって別の作り終えた曲を聞き返すと頭上に砂漠の蜃気楼。ピンクの色紙にその写真は貼られているが、ピントがぼけていてぼやけた砂漠だ。
文男さんの部屋に入るとサソリの着ぐるみを着た人と、顔と股間に天狗のお面をつけた謎の大男が立っていた。謎の大男はサソリの背後に回ると羽交い絞めにした。さあ、君も一緒にと言わんばかりに大男はおいでおいでをしている。しかし、僕は誘いに乗らず呆気に取られぼーっと見ていた。男が技を解くと同時に、サソリがこちらに向かってくる。スコーピオンがハサミの手で僕の頭を叩こうとするのを、僕はピオンと悲鳴をあげながら避け、尻尾の部分を持って引っ張るとバランスを崩し、よろめくサソリ。サソリは両手を首根っこに当てて本当の顔を出そうとするが、僕はサソリの頭のてっぺんを押さえつけて邪魔をする。三分程、妨害工作を繰り返してぱっと手を離すと文男さんの顔が出てきた。
「話が違うじゃないか、憲正くん」「お前の指示に従ってたらつまらないよ。こいつじゃなくてお前を羽交い絞めにしたらどう反応するかなって」「あー、苦しかった。お前もドッキリに大して反応してくれないし」「文男さん、着ぐるみどこで手に入れたんですか」
「あ、あれね、遊園地でバイトしてた訳だよサソリ着て。そしたらさっきのお前みたいに尻尾を引っ張る奴、すんませんと声かけては首の部分をこじ開け生卵を投入する奴がいて、殻が刺さって痛いし、生卵はぬるぬるだし」「お前好きじゃんそういうプレイ」「せめて殻は取ってくれって思ったな。って違う違う。生卵のぬるぬるで脳までが気色悪くなってきて、視界までが黄色と白に染まってきそうでさ。気違いのように卵が卵がって言いながらもうバイトが終わる時間だったし、一度街を着ぐるみのまま歩いたらみんなどう反応するかなって思って着たまま帰ったんだ。次の日テレビ見てたらその遊園地が廃園したってニュースでやってて、ははは、返せねえ」「いやあ、お前気違いだわ。余ったから持ってきたんだけどさ、これ」
文男さんと肩を抱くようにして話している大男は海野憲正と名乗った。103号室に住んでいる旨を聞かされ、でも普段あまり見かけませんが、あれっ、仕事は何を?と尋ねると海野さんは町中の電信柱に味噌を塗りたくる仕事と答えはぐらかす。味噌男が差し出した菓子折りを開けると、モンブランが出てきた。海野さんはただ黙ってニヤニヤしている。マロンクリームの代わりに味噌をベースに牛乳や砂糖を加え甘くしたものがクリーム状に塗られており、頂上には栗ではなく雲丹が乗っている。おちょくっているのか、雲丹をこんな所に乗せてと半ば憤りながら食す。美味さに浮かび上がる雲丹のメロディーと言葉。演歌のような、トロイカのような、タンゴのような、判然としない混沌とした音楽性と文体。
雲丹富士超えて 紡ぐ味
草見つめ 鉄集めては 二日酔い
脳味噌に吹く 未納の福 服の実
のう、昨日無能にのうのうと生きた自分に懊悩
味噌がこびり付いた原稿用紙。文男さんは小説家を目指していて滝に打たれる、山へ出かけ楮を調達し自力で紙を拵え、時には息抜きに必ず富士山へ赴き、富士山と絶叫してストレスを発散。なぜ山は掃いて捨てるほどあるのに富士山に固執するのか。日本で一番標高が高く、音楽で言えばビートルズ並にメジャーだし、そのビッグな名声にあやかりたいという思考からだ。バイト先に藤さんという優美な女性に熱を上げていて、苗字とかの山をかけているとも言える。文男さん曰く、彼女が言葉を発すると短歌のようで、足跡に百合が残っているように見えるらしい。執筆中、押しつぶされそうな重圧に耐えかね、富士山に三十七回行ったという渾身の作「だいたい橙」を渡され目を通す。だいたい味噌。
ごく普通の部屋だ。レトロな白黒テレビ、闇夜に血を垂らしたような燭台、紫の机、机の上には藤が描かれた白いマグカップとパソコン。私は部屋に飽きてしまった。ホームセンターで買ってきたオレンジのペンキの一缶目を左から右へぶちまけた。だいたい一文字に広がった橙のそれは次第に垂れ落ちて漢字を崩してしまう。何で綺麗な一文字のままじゃないのと声を張り上げ、そして荒々しく二缶目を開けると汚れた橙の手のひらで手をパソコンの画面に残していく。四人分の手のひらが残った画面を筆で塗りつぶすと、マグカップを橙の中へ漬ける。藤はすぐに隠れて見えなくなってしまったので、愛着があった私には寂しく感じた。でも、私を変えるにはオレンジの夕陽の部屋が必要なの。根拠は何もないけれど、柿坂夕と名前に柿と夕陽と二つも橙色を連想させる名詞が入っているからか。いや、単純にオレンジ一色の部屋に憧れていたのだ。
三日程かけて、橙の部屋は完成した。オレンジのチューリップの造花を飾る。三週間後には蜜柑、柿をへたを抜いて飾った。三ヶ月後にふと天井を見上げて、私は驚いた。涙が伝って、頭の線が切れて橙色どころか顔を赤くして憤怒した。一点の黒い染みが天井にできていて、ペンキが剥落している箇所もあって元の木阿弥だ。雨漏りの野郎と橙色のマグカップを粉砕。破片で手を深く切り、だらだらとだらしなく流れる赤い血と、マグカップの破片の白で橙一色が乱れていく。ペンキで文字の見えないキーボードを叩き付け、取れたボタンを口へ押し込む。噛み砕いて痛んだ口中から噴き出る血と共に吐き捨てる。私に誰かが狂気を入力している。それは私なのかもしれないし、神なのかもしれない。私は死後に七福神の弁天になりたい。文字化けして本来の役割を失った文字が新しい意味を持って私の頭に入る。じわりじわりと狂っていく私にはお似合いだ、もはや世界が文字化けしている。食べかけの茶碗蒸しから嫌いな海老を取り出すと、けけけと笑いながら私は体中の力を振り絞ってジャンプ。やたら高い位置にある不便な窓から海老を投げ捨てた。路傍に転がった海老は土にまみれて還っていく。
酒臭い息をまき散らして、文男さんは最初に読んだ純に尋ねる。「訳がわからないけど面白いよ?」「シュールで狂った感じが好きです、身近にいたら怖いけど。あの、藤のマグカップは藤さんを花の絵に転換させて登場させてますよね」と文男さんに聞くと顔を赤らめて頷く。「ごめん、文ちゃん。卵こぼしちゃった」視線をちゃぶ台に向けると、ぐつぐつ煮えたすきやきの横にこぼれた卵液。へべれけになった海野さんが卵を鍋で煮て半熟のような状態にして食べようとしたのだが、へべれけなものだから手元を狂わせた。卵液の下にある原稿用紙に広がるオレンジの染みは少しだけ小説の世界観を反映していた。「またこぼしたのかっ!ああ、俺の富士山……」「パソコンとかにバックアップは」と僕は聞くが、文男さんは精神統一いっぱいしたのに、俺の富士山参りの賜物がと言って目をうるうるさせている。「お詫びに今度お前が欲しがってた、何だっけ、バンド名忘れたけどCD名は半分人間とかいったような気がする。店員に聞いてみるよ。そして今の俺は半分すきやきだ」「半分藤さん、良いじゃないの。俺は藤さんで夢想している」と元の調子に戻る文男さん。卵液を吸い取り橙色を手に入れた布巾が心なしか山のような形。
心臓は高鳴っている。緊張で客席をとてもじゃないが見られない。一時代前のCDラジカセのボタンを押す。逆再生したピアノのほわーんとした音。俯きながら懐から木魚を取り出すと、客席の方向からまばらなざわめきが聞こえてくる。木魚のダンスビート。手は疲れるが、叩きつつ歌う。間奏に入ってチャックを降ろす音を何度も繰り返して生成されるリズム。そこに純のあえぎ声が乗って淫靡だ。百八の煩悩は振り切れなさそうだと思った所に、ピアノと同じように逆再生した尺八の音。
道端で良かったらぜひと言いながらチケットを配るものの、胡乱な目をして苦々しい表情を浮かべる人ばかり。もらってくれる人も少しはいたが、なんだか吹っ切れて緊張が治まった今、見回す限りでは来ていないようだ。最前列に文男さんや純、海野さんとそれぞれの知人がいて歌詞を忘れ折れかける心に眩しいくらいの光。LEDが少し強め。思いつくがまま口ずさむ言葉。
味噌くさい文字 そして全面敗訴
新橋紳士 チャックの修理が上手い
浮輪さんの浮名と闇討ち姉さん
まきびしごはん 秘密の出席簿
冷凍炬燵 息絶えた善人
そこの姉さん 手遅れの善人暖めてくれ、言うことを聞くのだ
ライブ終了後、文男さんが近寄ってきて「そこの姉さん、はあはあ、言うことを聞くのだ」とふざけるので「そこの藤さん、はあはあ」と返すと怒られた。ライブハウスを出る前に清算を済ましたがノルマには半額ほど届かず、財布の中身と心の面積が減る。経験は増えるのだけど、お金は減るのだ。
夜道を歩きながら二人してはあはあ言ってふざけ続けていたら海野さんも加わって三人。知人は面白がった目をちらちらさせつつも、話し合っている。純だけがはあはあ言って気色が悪いとツッコミを入れていた。裏声で文男さんがはあはあ、僕は地声で1オクターブ低くテノール気味にはあはあ。海野さんが心地よいバスではあはあ。歌うのをやめて女性コーラスはいないのかと純にけしかけるとえーっと不服そうに言いつつも、綺麗なアルトではあはあ。ロードバイクで走っていく人がぶはははと声をあげて笑っていた。文男さんは一人ツールドフランスと言って、立ち漕ぎの物真似を始めるので三人で腹を抱えて笑った。
もう五年程、音楽をやっている。最初はシンプルにアコースティックギターで弾き語りをしていたが、変化と刺激を図りパソコンで色々な音を加工し、愛の歌とか励ましの歌は使い古された感じがして、うめき声と悲しげなピアノをバックにあなたの骨を食べたいと淀んだ目で歌ったり、墓をひたすら描写する歌を歌ったりするなどしたが、困惑した表情の観客を見回すうちに作風をライトにしようと決心し考えた末にコミカルで訳の分からない歌になった。のん気に、だけど時には芽が出ない自分に悩みつつ二年ほどどこにも勤めず、音楽をやった。オーディションに参加してみたり、クラブ志向だと言いながらレコードを百枚ほど作って、馴染みの店に置かせてもらったりしたが全く売れず、今ではフリスビーだよ、くるくる。十六万九百九円という預金残高を見て、そろそろあかんなと呟く。家賃は二万でCDや小説に三万、食費に二万でだいたい七万。切り詰めて一日一食にして月五千円、CDと小説の費用を一万に減らして三万五千円といったところか。半額だ。冴えない人生だ。盗まれた蟹寿司、腐った雲丹とでも例えようか。ああ、僕はなんて駄目な人間なんだ。んな事は最初からわかっている、ど阿呆が。知る人ぞ知るといった表現はあるけれど、わずかな交友関係の自分には感想をくれる人など文男さんと純のみだ。範囲が限られすぎていないか。売れないのだから仕方がないが。多くの人に作品を見られないということは罵詈雑言に傷つく事も無ければ賞賛も無いということだ。名声欲は無い、しかし、知る人ぞ知るくらいのネームバリュー、名声は望んでも良いではないか。謙遜を装い、一方で貪欲な、せせこましい名声欲が脳から指令されて。路面を眺め、失敗続きの人生を振り返っているとたちまち暗い気分に捕われ、当たり障りの無い歌に呪詛を唱えていた。もう二歩でアパートの自室の前に辿り着く所で頭の上にしっとりとした感触。
手を伸ばし、布らしきものをつまみ、広げてみるとパンティだった。黒い布地の上を舞う黒揚羽。一匹で彷徨っている蝶に狂人の手が襲いかかり握りつぶす妄想。羽根をむしり取られ、びくびくと震える黒揚羽はついには食べられてしまう。狂人の口中を黒い破片が満たしていく。首を左右に振り、残酷な妄想を振り払い二階のベランダを見上げると純はからかった笑みを浮かべて手を振る。
招かれるままに二○二号室の純の部屋に入る。一年ぶりに純の部屋に入り、変貌ぶりに驚いた。鰤の塩焼。以前は愛想笑いを浮かべた猫のぬいぐるみが鎮座して、少女漫画がぎっしりと並んだ本棚が印象的な部屋だったが、難しい哲学の本やドイツ語の辞典が本棚を埋めているし、二匹の黒猫が鳴いていて可愛いのだがうるさく感じられる。上からにゃあにゃあ聞こえてくるのでまさかとは思っていたが、猫でしたか。
「びっくりしたじゃないか」と純にパンティを渡しながら言う。
「いやだ……。何であたしのパンティ持ってるの?はしご使って大胆に登るの見たんだからね」上から故意に下着を落として笑っていたのに、なぜとぼけるのだ。暗い気分は硯を洗おうと墨汁に水を入れて黒から透明になるように、僕のダークな気分は平常へ薄まってきているが、さっきのパンティ投下で代わりに桃色のむらむらとしたものがこみ上げる。純の爪には黒いマニキュアが塗布されていて、銀の星が光っている。星の観察をやめ、向き直ると「君の手には乗らない。これ以上からかうと奪い取って頭にかぶるぞ」と言うと純はからかいを諦めて笑い、僕の頭にパンティ帽子をかぶせようとするので参った。結局黒揚羽が頭に舞った。黒猫のイカスミとノリに膝をひっかかれ、黒い気持ちがこみ上げたが、純の手当てで再び桃色。「エルンテってどういう意味か知ってる?」と突然純がクイズを出してきた。僕は洒落を交えて「得るんて、ああ、わかったよ、収入って意味かな」と答えると純は目を見開き驚いた様子でけっこう惜しいよと言うので「獲得、利益、入手、拝受」とまくしたてるが首を横に振るばかり。いつまでも正解を掘り当てず言葉を量産する僕に音を上げた純が正解を発表した。エルンテとはドイツ語で収穫という意味らしい。いつまで経っても不作だよと再び落ち込み始め、何か気分を変えてくれるものはないかと部屋を眺め回していると、本棚に本を背にするようにして立て掛けられた絵を見つけた。指差して「あの絵って君が描いたの?」と聞くと、「ちょっと待って」と純が絵を持ってきて「ううん、これは親戚の子が描いたものなの」と言った。色鉛筆で描かれていて、アイボリーの背景に柔和な笑みを浮かべた少女。そこだけを見ればほのぼのとした牧歌的な作品だが、左手にベタなドクロマークが描かれた毒薬を持ち、右手にその毒薬を盛った匙が握られていて、彼女の妹と見られる小さな女の子が食べているシチューに匙から毒薬の紫色の粉が落ちていく。小さな女の子は満面の笑みで美味しそうに食べている。自らの身に降りかかる惨状も知らずに。「うふふ、ごめんね。苦しむ表情が知りたかっただけなの、ふふっ、破滅していく」と毒薬少女になりきって台詞を吐くと、「気色が悪いよ、頭大丈夫?」と純に優しく、しかし毒を含んだ一言で切り捨てられ、僕は半分人間。残りの半分はガムかもしれないと思うほど粘着性がある僕は諦めない。「毒が効いてこないのかしら、おかしいわ。おかしいね、こっち来なさい。丸ごと飲ませてやる」「あらら、景色が断絶していく、壊れかけのテレビみたいだわ」純は呆れながらもわずかに小さな女の子を演じ、エンジの解毒剤と言って僕の頭をはたいた。
芸術戦争。直接武力を行使するのではなく、音楽や詩、小説、絵画、映画、ダンスや演劇を用いて平和的に争っている未来。地球と同じ環境を持ったとある星を治める若い王は戦争についてどう思うか聞かれ、おざなりに答えた。「俺ちょっとグロいの駄目なんだよ。うん、軍事費でどれくらい女を買えるかな。血とかマジ怖いんすよ、ホラー映画とかで首が上に飛んでくのとか目覆っちゃうしね。うん、武器の代わりにさぁ、ペンとか握ったらいいじゃん。綺麗な女の子に股間握られたいけど。俺ラブアンドピースを大切にしていきたいしぃ」まさか、こんな軽い男の軽い発言で気が遠くなるくらい昔から続いてきた派手な殺し合いが無くなってしまうとは誰もが思わなかっただろう。マジ驚いた。滅びていった国の国旗を復元し、これらを掲揚し、その下で失われた言語が用いられた歌を歌う者。また、同じように亡国の踊りを踊る者もいた。銃器物や刀剣を取り扱う企業からは大ブーイングだったが、怒った王が刃向かった懲罰として多額の賠償金、会社ビルの接収などをちらつかせ、従わない者は流刑に処された。画材店、電器店、楽器店は大繁盛であった。後世に王は芸術の神として人々から崇められたとさ。とは行かず、領土や物を欲す心を捨て切れなかった王は侵略を繰り返した。陰で人々は彼を嘘吐き大王と称した。戦争は面倒くさいし、王が再び派手な喧嘩を吹っかけ始めた事で侵略された民族からは反感を買い、それまで音楽スタジオでセッションをしたり、合作の映画を作るなど交流を重ねていたのに全ての芸術がおじゃんになり人々は王を憎み、クーデターを企み始めた。しかし、意外にも王は無敵で誰も打ち倒すことはできず、熱いおでんを全身に押し付けられる、満杯に貯まったゲロのプールに重しをつけられ沈められ溺死するなど敗者には滑稽で酷刑な末路が待っていた。
「まだまだだな」と文男さんは読み終えたワープロ原稿を純に渡して言った。
「頑張って書いたのに、文男さんに触発されてね」悔しそうな顔をした後、純がそう言った途端、文男さんは嬉しそうな表情をして「発想は奇抜で良いけどね。あと、もうちょいって感じかな」評価が甘くなった。わかりやすい人だ。文男さんはシンセサイザーに電源を入れ、弾いて遊んでいる。電子音に混じって、ピンポンとドアホンの音が階上から聞こえてくる。「君に用があるのかもよ、お客さんが」からかい気味に来訪者の存在を知らせると、純は確かめに行った。どことなく悲しげなメロディを弾いて優麗な幽霊と歌声を響かせる文男さん。
「カルデアの奴隷が笹かまを作らされてるわ。でも、作り方を知らなくてただのかまぼこなの」などと酔っ払い、訳の分からぬ事を言っているのは先程の来訪者で純の親戚であり、毒薬少女の絵を描いた女の子で牛尾侑といった。このアパートに転居してきたのは母親が大家で、純を慕って来たという。アルコールを摂取して戯言を吐き出す前は、内気で口数も少なく、今日が誕生日だと言うので祝い会を開いた際も気恥ずかしそうにしており、だからこそギャップがあった。純が饒舌に侑を紹介していく中で、色鉛筆画の事を話し興味津々に文男さんに「良かったら見せてよ」と言われ、やはり恥ずかしがりながらも侑はトートバッグから二つ折りにされた紙を取り出した。文男さんは侑から絵を渡され、しばらく見入って言った。「こりゃいいねぇ。むむ、君ぶっ飛んでるね」しかし、ぐでんぐでんな侑は「言葉のあや。マヤ、まやかしの生贄に難儀して」とまた戯言を言って会話が成立しない。言葉が麺だとしたら、平ざるが破れていてすっぽ抜けている状態だ。言葉のあやもマヤも無い。文男さんから絵を受け取り眺める。珍奇な世界が広がって。
甲骨文字が描かれた大地の上を、頭にチューリップを咲かせた埴輪が立っていて屈強な身体を持ったモアイと抱き合っている。時代を超えたハグの国際親善。彼方にテオティワカンと東京タワーが建っている。反対側にバビロンの空中庭園と高層マンション。近代的な建築物と古代の遺跡を対比させることによって、歴史の変遷を描くことに成功している。混沌と矛盾が渾然一体となっていた。細かい事を指摘し始めれば、甲骨文字は本来は亀甲や獣骨に描かれているものなのに、大地だしね。はっきり言って滅茶苦茶だった。しかし、大地の甲骨文字がこの時空が混ざり合って混沌とした絵の世界に奇妙な魅力を付加させているのも確かだ。僕の中で奇人を見た時に生まれる興奮の卵が孵化しそうだ。
余りにも気になって、もっと侑の絵を知りたくなってしまった。純が文男の小説に触発され、書き上げた「芸術戦争」に既に自分が思っていた事を半分ほど書かれてしまっていて、しみじみと思うのだけど、芸術なんて高尚で気障な匂いがする言葉は苦手だから、何かだとして、何かを創作しようとする人間が好きだという事に僕は気がついた。やみくもに爆撃機が市街地に爆撃を繰り返すよりは、芸術戦争が現実世界で発生し、こぞって芸術家が造った奇怪なオブジェが建ち並ぶというのは不気味だが微笑ましいピースフルな光景だ。結局何度も芸術という言葉を使っているよね。思考が上手くまとまらず崩れた饒舌になっているのは初めて人の部屋を訪問する緊張によるものだ。ところがさっき、箪笥の抽斗から牛の覆面を発見し、ミノタウロスに扮装すればユーモラスな精神と緊張を隠すことが同時にできるではないかとこれを着用した。斧は無いけれど心はミノタウロス。人によっては牛頭をイメージする場合もあるだろう。冷静になって再考すると部屋の扉の前に牛頭が待ち構えているというのは不気味である。地獄の鬼の出現に気の弱い彼女が卒倒してしまわないだろうかとドアホンを押した後に思った。再考した。しまったあ。出てきた彼女は怯える様子もなく「牛さん、か、かわいい」と撫でてくる。肩透かしを食らった。似顔絵描いてもらえるかなと低い声で頼み、一拍置いて牛らしくもうと付け加える。二十分程待って、完成した絵を見るべく覆面を脱いだら、強烈な牛のゾンビ。腐敗によって溶け出し半ば崩れ落ちている顔。牛は紫色の空中を遊泳している。泳ぐ方向の先にある雲はぎざぎざに尖っている。「おどろおどろしくなったけど、どうかな」「腐りかけって感じが良いよね。死体が好きなんだ」と聞くと、一瞬たじろいで「……好きかって言われると困ります。ホラーとかミステリーをたまに見てたからかな。遺跡とミイラって似てません?朽ちていくものの、その、退廃をくい止めて現代まで保存してる部分が」へぇと相槌を打って、何気なく床を触っていると小さな感触。オレンジ色の色鉛筆でだいたい5cmの、極端に短い使い古されたものだ。侑に聞くと八年くらい前から使っていて、オレンジと黒と黄色の三色が残ったらしい。そして他の色は限界まで使い切ってしまったようで、新しい色鉛筆で描いているという。八年を共にした相棒を記念に残しているといったところか。帰り際、侑に今日の扮装を見てミノタウロスと牛頭のどっちに見えたかと聞くと牛頭って何?と聞き返されたから、僕は牛頭とは丑の刻のみに現る化け物で、丑というのは十二支獣の牛のことを指している。さて、丑の刻に茣蓙に座って牛肉を食べると出現し、自分の仲間である牛を食す者を食べてしまう地獄の鬼なのだ、怖いよねとひどく出鱈目な嘘を吐いて帰った。
道をふと歩いて思う。何故コンクリートなんだろうか。左に曲がってもアスファルト、右に曲がってもアスファルト。たまにカラフルなタイル。ほぼアスファルトばかりで飽きてくる。砂漠や溶岩ではないだけマシか。俺ん家さ、裏に溶岩あってさ、迷い込んだ犬が落ちて陰惨無残だったよ。ああ、怖い怖い。しばし思案し、お菓子でちゅねと幼児言語で呟く。童話のようにお菓子、例えばゼリーでできた道はいかがなものか。ズボズボ靴がめり込むばかりで前に進めず、絶望に嗚咽を漏らす近所のおばさん。ゼリーを掬い、口に含んでも砂まみれのガリガリで不快なことこの上ない。数メートル下にはゼリーに埋もれた死体。それでは飴ならば雨が降らない限り、溶けることも無いし強度の面では問題が無いように思われる。しかし、蝿がたかってきてブンブンだし、飴は雨によって侵食され少しずつ溶解していく。大雨が降った日なんて玄関を出て歩き出した途端に二メートルほど磨り減った道に転落し、痛いんだなこれが。頭はべとべとするし。じゃあ、と閃いたのが巨大な俎板で出来た大地の上に山葵が塗られている。四つんばいになって進む人々。獣じみた姿勢に最初は恥辱的な気分になっていた者も悪く見れば幼児退行していると言えるけれど、ナチュラルで新鮮な感じが良いと言った結論になった。実際、無防備な姿をあえて取って往来を這うことで以前よりフレンドリーになった気がする。また、身長差を感じていた人の悩みが解消されたとも聞く。一部の動物愛好家は犬や猫と同じ目線で進むことができ良かったと嬉し涙をこぼしてたしね。しかし、匍匐前進だけはやめておいた方が良い。人とぶつかった際、山葵が鼻や目に入り悶絶すること必至だからだ。そして、犬や猫の糞、たまに人糞が間近に見えるのにはいだだけない。
暇だからたわけた事を考えてしまうのだろうか。家に帰ると四つんばいになって、読み散らかした数冊の文庫本や拍子木、侑からもらった土偶のぬいぐるみを押し退けつつ動き回って三周した後みゃおと鳴いた。
絵空事とは言うけれど、現実に絵から人間が出てきてしまったのだから仕方が無い。人類という存在が絵空事のようなスケールで戦争をしたり、車や電車などの乗り物でシュッと移動したりしてしまうのだから、動物から見たらきっと人間は絵空事を素で行くようなものだ。身体を進化をさせずに道具を進化させることによって深海や前人未到の宇宙にまで行ってしまうのだから。
侑の部屋で酒宴を開いていると、「茄子蚊の痴女、餓え」と侑の戯言。痴女が現れた訳ではない。何かが割れる音が聞こえ、女性が叫んでいる声が響き渡る。野次馬根性が特に強い僕と文男さんが二つ隣の二○一号室へ行くと空室のはずなのにドアは開いていて、暗闇の中で謎の女性は唸っている。スイッチを探り当て光をつけると、明らかになった女の姿。服装が変てこりんで全身オレンジに統一されている感じで髪もオレンジ。髪の先は黒みがかっている。目に痛い。ボロボロの長袖Tシャツと派手に転んだ後のようなスパッツを履いている。オレンジ女は著しく破損して柄の部分だけになった右手のマグカップを僕らに突きつけて言った。「悲しみを壊すんどす。ドスの柄のデザイン、ハートマークがな粉々に割れてな、中から蛆虫が湧いて出てくるからな、潰すのよ。ええ、それで私は虫を潰した手をよく見ました。すると、肉を突き破って体の中に入って復讐しているように思えたんです。本当の心臓はハートマークとは違うの、違うのよ」と言ってマグカップの残骸をビュンと投げた。僕や文男さんの間を通過し、戻ってこない僕らを心配し出てきた純の肩に当たった。「痛い、ごっつう痛い」「大丈夫ですか」と恐怖で酔いが醒めた侑が聞く。これ以上女は動けない。文男さんが羽交い絞めをして牽制している。駆け出す足。心臓が久々に激しく鳴っている、ヘビメタのように。虎の足で自室に向かい、取ってきたガムテープで女の手をぐるぐる巻きだ。「ああ、また傷つけてしまったな、悔恨の霧。反省の自意識。ひっく。か、悲しみは壊れない、すはーっ、増幅、ぐすっ、するだけなのよ」としゃくりあげつつ女は言った。文男さんと純さんの姿が消えている。病院へ行ったのかもしれない。侑の姿もなかったから付き添っているのかもしれない。肩を叩かれ、振り向くと海野さんがいた。「久しぶりだね、あの子は誰だい。蜜柑の皮みたいな髪してるけど」「大変なんですよ、腐った蜜柑ですよ、ホント。マグカップ投げるし」「お前股間に当てられて参ってるんだろ」「そんなんじゃないですよ、海野さん。純が肩怪我しちゃって」「ああ、阿武里選手肩故障したんだよ。今季は絶望的だな」ふざけてる場合じゃないですよと言いかけた時、文男さんが「おお、海野いつの間に来たんだ」と声をかけた。「憲ちゃん、よろしく頼むよ」と女の方を見て文男さんが言うと「おう、任せとけ」と言い、海野さんは女の方に歩み寄ると優しげに声をかけ、滅多に灯の点らない自室に連れて行った。何が行われるのか想像がつかない、何故に女性たちではなく海野さんなんだろうか。腕っ節が強いからか?喧嘩したことなど無いけれど。
しばらくの間、得体の知れない女に海野さんが襲われ惨殺されているのではないか、寝首を掻かれてはいないかと心配する余り、部屋を訪問しようとしたが鍵は閉まっていて時折呻き声や叫び声が聞こえるのだからたまったものではない。悪夢を見るどころか寝付けず睡眠不足になっている。文男さんに聞いてもあいつのことだから大丈夫と言うばかりで、純も大丈夫のコーラスを重ね、心配しているのは僕と侑のみだった。僕よりも顔色が悪く口数は減り寡黙な彼女が気がかりだった。ある日、文男さんに誘われ宴に参加すると、海野さんとオレンジ女を見つけ驚愕する。肩幅の広い体に思わず抱きつき無事で良かったと言ってしまうくらいだった。くすくす横で笑っていたオレンジ女が口を開いた。「柿坂夕と申します。あの時は迷惑をかけすみませんでした」はて、どこかで聞いた覚えがある名前だと思考を巡らしている僕に、文男さんは「世の中信じられないこともあるんだな」と遠くを見つめながら言った。「どういうことです」「お前わからないのかよ、小説だよ小説」「新作できたんですか」「だーかーら、小説のキャラだよ」気が触れたのかと思った。侑がおずおずと喋り始めた。「文男さんの小説読んでみて、不気味だけど面白いなって。あの古い色鉛筆を使って描いてみたんです。最初に出てきた時その絵探したらどこにも無くて。その……もしかしたら具現化したんじゃないかって」「描いた通りなんでしょ。君が付け加えたYELLOWって描かれたリストバンドも二○一号室の片隅に落ちてたし」どういうことか全く飲み込めないのは柔軟な発想が僕には苦手だからだろうか。なぞなぞ苦手だったなあ。柿坂の手首の辺りにそのリストバンドははめられているが、それにしても信じ難い話だ。「もう、みんな嫌だなあ。ドッキリでしょ、手が込んでるよね。文男さん、冗談ですよね」馬鹿野郎と怒声が聞こえ、僕は吹っ飛ぶ。海野さんのビンタは体格に比例して、物凄く痛い。「確かに、信じられないのはよくわかる。俺らも最初は信じられなかったよ。納得させてやろう」そう言うと、柿坂に何かを取りに行かせた。
少し経って、彼女が持ってきたのはボロボロの服だった。気のせいか前より裂けた箇所が増えているように見えた。破いてみろと言われ、なるべく傷ついていない箇所ならば服の脆さのせいにはならないから良いだろうと引っ張ると紙のような手触りで、ビリッという紙の破れる独特な音もした。「へ、へぇー。こんな仕様の服があるんですか、進歩したものですね」と言うと海野さんは青筋を立て「この野郎っ!夕ちゃん、痛いだろうけどアレ見せてやって。このうすのろ」こんなに言葉遣いの悪い海野さんを見るのは初めてだ。壊れてしまったのだろうか。柿坂は震える手でなんとかカッターナイフを指先に当て、そっと引くとオレンジの血が流れた。きっとこれは手品の一種だと思いたかったが、体内にオレンジの色水を仕込む手品があるだろうか。何だ、タネは刃先だと閃いた僕はカッターナイフを借り、今度は自分の指先を切る。赤い血だ、人間で良かった。少しも信じようとしない僕にショックを受けた柿坂はいつの間にか嗚咽していた。素早く僕の手からカッターナイフをひったくると、手首にあてがい思い切り刃を横に引いた。「ああ、こんなにヘモグロビン。貧血気味のカナリア。血尿垂らした中年男性」と叫びながら。それでもオレンジの血が大量に飛び散り、倒れこみ反応しない彼女の姿を見て僕はついにそれが手品ではない事を思い知った。
体張りすぎだ、柿崎は。上には上がいてマヤ文明なんて心臓を捧げるけれど。侑はレトロ好きを通り越して考古学の学者並に遺産や亡国に詳しいけれど、げんなりするどころか忘れられた古の時間に向き合ってるようで面白い。「お父さん、マヤにプレゼント買ってきたんだ」「えー本当、ねえそれって本当?見せて見せて」「じゃーん、心臓だよ」「ぴくぴくして可愛い、あれお父さん?」事切れたお父さんをミイラにして保存する娘。まだ小4なんだぜ、すごくない?夏休みの自由研究はミイラだ。って訳の分からない妄想をやめて、シュールな妄想に引けを取らない現実を見ると柿坂はぴんぴんしていた。オレンジが滲んだ包帯に巻かれた手は温かいし、服は紙っぽいけれど体は肉でできていると思う。うわ、私より柔らかいと純が柿坂の胸を揉んでいるのを見て童貞のように興奮した。「手当てありがとう」「私じゃなくて海野さんが教えてくれたからかな」純は照れ臭そうに頭を掻くと、最近色を染め直したという金色の髪が揺れた。「ごめん。なかなか信じられなくてさ、でも体は大事にしろよ。生きたアートなんだから」「信じられないのが辛くってさ、オレンジの血なのに。地動説みたいだけど」「なかなか認められないところ似てるね、でも何で絵の中から……」と新しい睡眠不足のタネになった疑問を柿坂にぶつける。「わかんない。部屋には戻れないから不法占拠よ」「お母さん、かんかんだったな。その、壊さない程度にソフトに。あれじゃ暴動だよ」侑は後半まで不機嫌そうに言って、あれじゃの部分で一転して茶目っ気を出した。「私ったらやりすぎちゃうの。やりすぎ夕ちゃんってあだ名だったしな。すっぽんを月に集団移住させたり」もう眠れと言いながら、皆で夕の部屋を後にした。染み込んだオレンジが脳裏にこびりついて離れなかった。
太っ腹な海野さんが二○一号室を借りることにして、今では皆の物置兼夕の部屋だ。その海野さんはタランチュラのブリーダーになると言い出し、どこかへ出かけめっきり姿を見かけない。コンビニでかにかまとビールを買おうとしたら一円玉が足らんちゅら。絵から人が出てきても平凡な日々だ。今日の宴はその二○一号室で開くことになっていて、歌声が聞こえるドアを開くと真っ暗闇。訝りながら電気をつける。瞬間の沈黙の後、人工の光が降り注ぐ。「電気つけないでよ、暗闇が好きなのに」アルトで歌うのをやめた純は隣に眠るオレンジの頭を撫でている。夕は寝息をたてている。「びっくりしたじゃないか、夜這いかけるぞ」「ふん、噛み切ってやる。小さい頃から暗闇が好きでさ」「妖怪みたいだな」「何よ。それで薄暗い風呂場に街灯が指し込んでくる感じが幻想的で」「ふうん。僕は子供の頃暗闇が怖くて豆電球にしてたくらいだな」と感慨にふける純の幻想的なムードを破壊するとこのチキンがと罵られた。「嫌なことあったし、暗闇と一体化したかったんだ」「お前でも落ち込むことあるんだ」「あーあ、傷ついた。仕事の話なんだけど客が強引に口の中に出してきて、私って精液の臭いが駄目なのね。で、吐いてしまって飲めよ売女って言われて」「失敬な奴だな。結局買っているというのに」そう言う純の頬に涙が伝って、泣いてやんのと言いながら指で拭うと頬を膨らました。しばらくして泣き止んだ彼女のどこか清々とした表情を見て「もしかして仕事辞めてきたのか」と聞いたら明るく作った声で「あったりー」と言った。「飽きた。それに抱ければ誰でも良いのかななんて、私はただのセックス・オブジェクトなんじゃないかって。仕事なのにね。ひもじくなっても馬鹿にされても夢を追いかけたいんだ。損なのはわかっているけど」一気に鬱憤と決意を吐き出すと、夕をそっと置いていきなり部屋を出て行く。戻ってくると、絵らしきものを裏にして隠しながら言った。「クイズです、何が描かれてるでしょう」「怖いな、また具現化したりしないかな。うーん、少女の頃のお前」「ええっ、何でわかるの」彼女が絵を表にすると、ポニーテールの少女が夕陽をキャンバスに描いている。絵を描いている様子を絵にするとは何か純らしい。「回帰願望ってやつ?俗っぽくて嫌だなと思いつつ、たまにラブソングとか真っ直ぐすぎる歌とかを聴きたくなるし」「ふふ、後でご褒美あげるね」言葉は淫靡な妄想に変わって。純の表情に再び翳りが見え始めたので月並みな言葉で励ましてその場を凌いだ。その後下ネタをやたらと連発して無理に明るく装った。もう酒を飲んで憂鬱を忘れてしまおうとした。文男さんが来たので下ネタとダジャレの合体技が予想される。「あたし、マラ辞めないぞ」下劣なダジャレを吐く文男さんをはたくと純も「浴場で欲情したミセスが開脚して見せす」と乗っかるので僕もエロダジャレを繰り出す。「愛欲ですが取り扱ってません」生憎と愛欲をかけたけれど、失笑されて侑の戯言に逃げ込む。茄子蚊の痴女、餓え。
酔いつぶれ、寝静まった頃。文男さんの下腹部の周りにあった水溜りを二人で拭いた。これしきの苦行も今夜は苦ではなかった。「一旦外に出ましょ」甘い声で囁いた。目を閉じてと言われ、破裂寸前の本能。図書館でなんとなく見た春画が瞼の裏で動き回る。鼻腔に走る痛覚。ツーンとした感触に慌てて目を開ける。隠し持っていたペースト状の山葵を鼻の穴に入れられた。「下心見え三重県。おいでませ山口県」意地悪に笑ってダジャレを捨て台詞に言い残すと純は自室に戻っていった。
イカ墨オムレツなんて珍妙。イカ墨でお習字して右手の小指の付け根辺りがイカ臭い私は烏賊子。嫌だわ、恋人もいないのにこれじゃ男根しごいてきた後みたい。ふふっ、私ったらスーパーでイカと卵を買い物カゴに入れくだらない妄想してる。現実と妄想を写した画面がどこかにあって、私は烏賊子になってイカ臭い手を嗅いで顔をしかめている。モノクロのスーパーでパックの上からイカを愛撫していたら気のおかしい人と思われ病院へ連れてかれた。半年かけてシャバに出た僕は実家の自室でミセス風の女装、銀の貫頭衣を着たりしてイカを頭に乗せて踊る。イカに魂を移らせた烏賊子と共に。妄想は膨らんで画面のほぼ全域を支配して、現実を映した小さな枠に俯いた僕。物語は曖昧なまま「如何?イカミセス」のタイトルが大きく出て、漆黒がぴゅっ。
現実が大きくフィードバック。目の前に現れた人物に驚愕。おひゃあとへたり込んで失禁すると足元に暖かな雨。割れた卵とイカが混じり合って仲良くしてる。「あらら、漏らすほど嬉しいなんて」「ひぃい、メツに会えるなんて」メツは切ない幻覚を感じるほどペーソスの効いた物悲しい曲をハンドベルとトライアングル、三味線という異色の組み合わせで奏でるバンド「仰天摩天楼」のコーラス兼語りを担当している。彼女の美声に、中毒症状を起こすファンもいると聞く。小便をひたしたふんどしを客席に投げるパフォーマンスは一部で大人気だ。「臭いなあ。ライブで投げるはずだったけど、しゃーねえ。予備のふんどしやるから履いてこい」人々は「失禁野郎」とハゲワシの目で責めてくるし、買い物をあきらめてメツをトイレの前に待たせ着替えた。
「あなたの性器をもぎ取ったら悲壮な曲が作れそうだわ」物騒なことをさらりと言うと、僕の手を引き路地裏に連れて行った。「口は災いの元」そう言って、僕の鼻の穴に舌を入れ始めた。くすぐったくて思わず笑いながら冗談でしょと聞いた。「良いの?あなたの憧れなのよね。私流のディープキスよ」メツは本気だった。私のバンドに参加したいかと聞かれ、二つ返事で承諾の旨を伝えると参加したいのならば私の要求に応えろと言う。抵抗感はあったが、憧れが遠ざかることに恐れメツの鼻孔に舌を入れた。精神が摩滅していく思いだった。塩辛い人の鼻孔内を舐めるという奇妙なこの行為に嫌悪感を覚えていたものの、慣れてくるともう片方の鼻孔に舌を入れる余裕を見せることで、メツから失望され見放されないようにした。もしかしたら世界のどこかにこのような奇習を持った民族がいるかもしれないと思いながら。
白い外壁の下半分に交互に打たれた黄色と緑のドット。それは五センチ程の大きさで見てると目がチカチカして痛くなる。家までが奇抜なのは今までに無かった。メツの家は持ち主同様、ぶっ飛んだ、建てられた場所によっては景観に悪影響があると言われてもおかしくないサイケなものだった。「入りな。もたもたしてるとあそこもぎ取るよ」じろじろ見ていつまで経っても入ろうとしないことにメツにむかつかれ、ここでバンド加入の話を反古にされてはたまらないので「おじゃましマンドリル」と寒いダジャレをかまして入った。メツが饅頭を象ったボタンを押す。キッチンの冷蔵庫が下にレールでも敷いてあるのかスムーズに右に退くと、階段が現れた。降りている途中、メツが後ろから押してくるので背中に意識を集中させていると右足を踏み外し走る衝撃。さっきまで舐めてた鼻で笑われ、憤死しそうになるが耐える。鼻舐めても、人舐めるなと言ってビンタしてメツをお仕置きしたい。折檻に鼻フックは欠かせない。
埃臭い灰色の部屋。壁紙はなく無機質なコンクリートがむきだしのまま。ハンドベルとトライアングルを担当するヌナが不快感を露にして唾を吐き捨て言った。「私には見えない。貴様は幻影だ。メツをたぶらかしている邪悪め」憤り、なぜか僕の存在そのものを否定するヌナを凄腕三味線ニストのアノがなだめる。バンド内で唯一の男性だからか。「無駄な憤怒はやめなさい。血圧に響きます。自尊心は無いのですか、手討ちにしますよ」ヌナは強気な態度で突っぱねてしまうのかと思いきや、怯えた表情になって答える。「や、やめてください。沈黙します、アノ様」先ほどの面影はどこにもなく、アノに対しては爪を失った猫のようだった。「君、バンジョーね」ばんじょー、と言ってアノに手渡されたバンジョーと電気ドリルを構える。何でもドリル奏法といって、ピックをドリルの先に装着し演奏すると人間離れした速度で弾けて面白いからだとか。メツは発声練習をしている、逆立ちで。一時間ほどライブで十八番の曲を披露してもらった。「理不尽婦人」「諦念定年」「無様ブザー」そしてラストに必ず歌われる「不満ウーマン」で感涙。
世迷い言吐くために生まれてきたんか、ボケ
九畳埋める苦情、欲望木偶の坊
お前ら、吐寫物と変わらねえよ
排泄してしまえよ、不満
今生根性なしのままか、ええこら、どつくぞ
芯が痛んで、異端が死んで
「不満ウーマン」を歌い終わり体力を尽かしたバンドは三十分ほど休み、それから自分も参加してセッションをすることになった。「君の演奏に合わせるから」とアノ。弦の上を適当になぞる。トライアングルが高速で入って、小刻みに入ったり、速度を落とし静かに金属音を響かせたりしている。三味線が僕の半分ぐらいのスピードで絡んでく。調子に乗ってドリルのスイッチを切り、機械ではなく人力だと喧しくかき鳴らしてみたり振り回したりしたら「このノイズ野郎」とメツに唾をかけられほっぽり出された。もはや不満マン。
乞食の排泄物にまみれた病み犬が足早に通り過ぎようとする貴婦人の高貴そうな雌犬にふらつきながらも近づいて、最期の力を振り絞り陰茎の先を膣に入れた。その様子を見た貴婦人はきいっと憤怒し、尖ったヒールの先が病み犬の背中を踏みつぶす。子種を残す望みは果たされないまま力尽きた。
つまらない近所の公園を暇でなんとなく歩いてると、犬の死体を見かけて不憫な気持ちになって、白い野花をもぎ取って力尽きた孤独な犬の上に散らした。まばらな紙吹雪みたいで、なぜだか散らし寿司が頭に浮かんだ。酢飯の上に卵や海鮮を散らしていくけれども、逆転の発想で具の上に米を撒いているような。にちゃにちゃと指に貼り付いて悲しく鬱陶しい気持ちになるのだけれど、諦めず一粒一粒丁寧に乗せていく。負けんぞ、僕は。大学生の頃、同じサークル、またたび研究会の女の子を何回か逢瀬を重ね家に誘った。逢瀬川にも行った、嘘だけど。どんな研究会かというと、ふざけた阿呆のようなもので、またたびを猫に嗅がせ、くにゃくにゃになる様子を観察して猫になりきって真似しようとするものだった。床に寝転びながら、またたびに酔う雌猫を無垢に熱演する彼女。彼女が無意識に取るポーズは俗に言うM字開脚で、僕をサカリのついた雄猫に変身させるものだから屹立した股間を隠すのが大変だったにゃ。夕食の時間に、米粒で海老の上に「惚れた」を描いて渡したら抱腹絶倒という位爆笑した。もう少しで童貞卒業だとぬか喜びをした。次の日から彼女はよそよそしい態度で、さらにサークルから抜けもちろんメールも返さない。結局負けたのである。ユーモアのわからない女だ。あの時、猫騙しを仕掛けひるんだ隙に押し倒して雄猫になってしまえば良かったのだろうか。しかし、本能に身を任せては人間社会の場合、ブタ箱の異名で知られる刑務所行きになってしまうので世知辛い。
部屋でドローンと呼ばれる、ひたすら長い時間をメロディの変化は無く単音が鳴る不思議な音楽を聴きながら思う。半ばトランス状態になりつつ珍しくシリアスな気分に。一つの作品がどれくらいの年月の間続くのだろう。有名な曲や小説は五百年以上続いている。クラシックや万葉集とか。かなり低い確率だけれど、この瞬間突然死などしたら作った音楽はどうなるのだろう。皆が余ったレコードを保存していてくれるかもしれないが、子や孫は何だこれはと言って僕のレコードは廃棄されてしまうかもしれない。七十年ほど経って犬の糞にまみれる僕のレコード。嫌だ、陰惨無残な光景だ。他人からすれば滑稽かもしれないが。埋もれることで儚い美しさを放っていると言えるかもしれないが、長く続いた方が作者としては冥利につきるものではないか。とんでもない愚作を残し、後世まで酷評される形で残るよりはマシかもしれないが自分の作品が埋もれてくのかと思うと寂しい。しかし、物が溢れかえった結果パンクしないように形ある物は滅びるのかもしれない。もしも、そんじょそこらに古墳があったら有り難味は無いし、希少性も薄れるだろう。誰かが掘り当てるのを期待し、公園にレコードを埋めたらどうなるだろう。二十年ほど経って老朽化が進んだ公園を改築、或いは取り壊す際に工事屋のおっさんが発見しやはり廃棄されてしまう運命か。
頑張るのが嫌になった時、コンコンと扉を叩く音が聞こえ、すぐに勝手に開けられダッと柿坂が走り寄ってきた。鍵かけとけば良かった。「この人形で遊びましょう」亀と蛇の人形だった。亀は紫色で蛇は黒色だし、まるで憂鬱を色彩化したような暗い色使いだった。そして柿坂の血走った目が怖い。「ええっと、どっち使えばいいかな」と聞くと黙って亀の人形の方をよこしてきた。のんべんだらりと生きてる僕の化身みたいだった。「お前の臓物を引きずり出して食べてやる。食物連鎖に飲み込まれろ」柿坂が突然蛇になって襲いかかってくる。必死に頭突きをして蛇を吹っ飛ばす。「国に残してきた妻と子供がいるんです、勘弁してください。まだ家のローンが残ってるんです」「ならぬ、ならんぞ。亀の肉を食べれば精力がつくと言うしな」黒い曲線が亀にからみついて離れない。「ぐああ、珠江、陽太待っていてくれ、父さんは長いものには巻かれないぞ」亀の平次はたまの休日に河川で夫婦水入らずでザリガニ食べる。ミディアムレアに焼いてね、お腹を壊すといけないから。亀の人形に異様に人間臭い設定を拵え、かなり感情移入してる僕は一体何だろう。いきなり蛇の人形を放り捨てると、柿坂は両手を乗せて亀の甲羅へ重圧をかける。圧死しそうだ。「うおお、五百万程残っている東京郊外の一戸建てのローンが。珠江を最後に抱きたかった。っておい、お前卑怯だぞ」人形を放り投げ、人間の自分がしゃしゃり出てきて亀の僕を倒そうとする柿坂の卑怯さを責めようとしたが、何だか様子が変である。元から少し気のおかしい人だけど。文男さんの書く小説はいつも奇人しか出てこない。「なあ、お前は本当はお前じゃないんだよ。お前は人形で糸が上から伸びていて自我も何も無いんだよ。私はな、操作を否定するんだ」苛立たしく言うと蛇の頭を食いちぎり、折れた歯を吐き捨てると蛇の胴体をこねくり回し黒い布に変わった。それで血を拭くと、今度はレコードに変えてみせた。得体の知れない力でレコードを宙に浮かせると、今度は小指をレコード針に変えて再生し始めた。老婆のしわがれた歌声。滅亡の歌が流れ始め、まず物欲を戒めている。札束の海の中に、殺された娼婦。偽りの世界で繰り返される破壊。ビル群は遺跡と化して。資源も人格も破壊されている。バランスが崩れた世界で、慎重を知らない人々は発狂している。廃墟の街で高そうなダイヤモンドを指に嵌め、動物の死体から剥ぎ取った毛皮を着た女は自分の排泄物を頬張りながら病んだ笑顔で首を掻き切る。鉛の弾が無限に力を持って、愛は意味を成さない。滅亡の歌を聞いていると空虚な空間が迫ってくるようで、重苦しい気分になった。
闇夜の黒に半熟卵。不安の繭が紡がれて挫折の糸を引く。落ち込んでいるような、でも、ふざけてしまいたい複雑な気分だ。自分は天邪鬼な人間で、無名、または一部で人気なB級なものを趣味に取り入れ偏屈に生きてきた。辛気くさいのは嫌だから、葬式はパーティーのようにパイ投げをして欲しい。偏屈に生き、偏屈に逝く。頼んだぞ、君。って、誰に話しかけてるんだ僕はと独り言をぼやく。何の縁もない赤の他人が喪主をやっていたら面白い。「軸山歪男といわれても私は知りません。ただのラーメン屋の店主でさあ。あー早く帰りてえ。客待たせてるんでさあ、麺がのびちまう」死にたくもないのに、死ぬ事を考えてるでさあ。生きていたいですよ。まだ童貞だし。
大抵、夜は宴を開きどんちゃん騒ぎになるのだが、今夜は時間を持て余している。人恋しくなった僕は山葵を鼻に注入されて以来会っていなかった純の部屋を訪ねることにした。純と侑が仲良く絵を描いている。猫たちは遊びつかれたのか眠っている。純は蕎麦を食べる狐を朗らかに描いて、侑は雪原に姫路城があり、無数の猿が手を合わせ何かに祈っている絵をサルバドール・ダリのようなタッチで描いていた。頭の中がとろけそうになって、こんな絵は脳がいくらあっても自分には描けないと思った。「私が侑に教わることになるなんてね」「昔絵を見せ合ってまた一緒に描けて、その」もじもじする侑の顔から火どころかレーザーが出そうだ。「うわっ、怖い。いつの間にいたの?あんた袋ラーメンの調味油みたいな存在感ね」何とも言えない微妙な存在感だけど、スープくらいにしてくれても良いじゃないか。「話に入りづらくて、じっと聞き入ってたら背後霊みたいになってた」「まっ、いいわ。あなたの言うテーマに沿って描いてあげるわ。言ってみ言ってみ」突然の純の発言に侑は困惑した表情を浮かべたが、こくんとうなずいた。僕はテーマを出題した。「耄碌少女」老いと若さの、それぞれ相反する言葉を合体させたこの想像しがたいテーマを彼女たちはどう描写するのだろうか。純は髪を金に染めた老婆が女子高生のようなブレザー姿でギターを振り回しつつ、口ずさむ歌詞は「ヒビだらけの縁側、あれ、ヒビだけの、ヒビだけの……」と喉まで出掛かって、言葉を紡ごうとするが、しかし肝心の詞が浮かんでこない「もうロック」な老婆ロッカーの苦悩を描いていた。侑はダジャレで構想を膨らます事には頼らず、この老婆は通りすがりの少女から生気を吸い取り、被害者への当て付けのように少女になるのだけれど、肉体は若返っても精神は老化が進むばかりで、耄碌した元老婆の少女が本を炊飯器に入れて炊こうとするシュールな絵だった。
「一生懸命描いたのに。老婆も永遠の少女よ」使い古されたフレーズで純は責めてくるけれど、侑の絵には勧善懲悪と、また、少女から生気を奪う、そんな人を蹴落とす行為では幸せにはなれませんよといった教訓的な部分があってブラックかつキャッチーな作風が気に入ったのだから仕方ない。拗ねた純をなだめようと妙案を思いついた僕が耳元でアイデアを囁く。数十分後、顔を赤らめて戯言を吐く。「象の頭が実は鰯で飛散して真紅。鰯の頭が泣いている。私にはわかるよ、あなたの痛苦。路地裏に肝臓専門店」いつになく意味不明で、エグさが増している。さっき、純の耳元で侑の酔言をヒントにして絵を描いてみたらと提案した僕に「面白そうだね、何を言うかな」と彼女は跳ねた嬉しそうなウイスパーボイスで賛同した。泥酔してついに言ったヒント。しかし、絵のモチーフにするには難易度の高い妄想を言葉にすると、侑は眠ってしまった。「あまりにシュールな酔言で再現できない。路地裏の肝臓専門店?何だか怖いわ、昔からこんな感じだったけど。可愛い寝顔、この子が言ってた鰯ってどんな魚だっけ」魚嫌いという純は自分なりに想像した鰯を描いたが、鮪みたいだった。ジャンボイワシが泣いている。
暇でやはり人恋しく、昨夜と同じく、今日は昼前に純の部屋を訪れた。純に侑と一緒に画材店行くけど来る?と聞かれ、「いや、猫みてたいかな」と言うと留守番頼んだと言われ、猫と一緒にご主人の帰りを待つことになった。日なたぼっこをする。オルガンのような優しい音が流れているみたいだ。暖かい陽光に心地良さそうに猫はあくびをする。ゆったりとして、ほのぼのとした平和な時間が流れている。イカスミはこんな名前だけど女の子だ、まだ烏賊子の方が良いのではないか。ノリは俯いて陰気な男子だ。隙間からそっとのぞいて、広すぎる世界を確認している。しきりにイカスミが終始フォルテの強さで声を発して、ノリは怯え気味にデクレッシェンドに答える。「もう、あんたったら怖がりすぎなのよ」「怖いんだもん。奥は危険すぎて、例えばだよ?押入れに迷い込んでミイラになっちゃたら」「心配性なんだから。ノリの惚れてる二丁目のスズランちゃん合コンに誘おうかな」「そんな、ひどいよやめてよいやだよ」「ぬるいコーヒーの海を渡ったらタンスの山を登って、って私もたまに踏み外すけど。頂上のにぼし欲しいな。合コンの中止がにぼしにかかってるよ、ノリ」「うわーん、わ、わかったよ。この前もその条件で公園のボス猫と戦わせた癖に」たぶん、そんな風に黒猫姉弟で話している。猫らしく平仮名で「にぼし」を取りに行った後、押入れの奥、ダンボールの要塞を登りきった先にある玩具も取りに行かされたりするんだろう。本当は正確な性別を知らないけれど。ノリ、可哀想な猫だなと頭を撫でてやろうとしたら隅へ逃げてしまった。
コンコンコン、コン、コンコンとリズミカルなノックの音。「町原の兄です」と野太い声が聞こえ、純に兄なんていただろうかと訝りながら開けると海野さんだった。「どうしたんですか、タランチュラは?」「ん、鱈なら最近食べたけど」相変わらず海野さんの生活は謎のままだ。煙に巻き続けて煙が切れないのか。海野さんの足元には黒猫が必死に背を伸ばして彼に触れようとしていた。隙間か隅に居たはずのノリまでスリスリしていて、ショックだった。「猫いたのー、かわいいじゃん」座った海野さんの膝の上で踊るイカスミ。ピンポンと今度はドアホンの音がし、ご主人の帰宅と思ったら文男さんだった。「お前ら何で男二人で猫とじゃれ合ってるんだ。俺も混ぜてくれ」文男さんも意外と寂しがり屋のようだ。おはぎみたいに丸まって「よ、呼んだ?」と時折ぱっと顔を見せるノリを、可愛いなとにやけきった文男さんは撫でる。はぐれ猫の僕は体を丸めて純か侑が撫でてくれるのを待った。
ピンポン玉みたいな夕陽が沈んでいく。弾みそうな心になっている、何の意味も無く。無数のピンポン玉に寝転がり、オレンジの波にどこまでも流されていくような。滝があって、急に落ちていく。景色がブラックアウトして、意識を取り戻すと果てしなく緑色。僕は巨大な卓球台の上に立って、三時間程延々と歩き続け景色は変わらないまま、緑色。赤色や黒色の影が遥か遠くに見えて僕は背中に強い衝撃を感じ、打たれて初めてラケットだと認識する。玉になってバウンドする僕は本物のそれのようにしっかりと浮く。何十メートルも飛んで自分がどの地点に存在するのか迷子になる。ラケットで打たれるととても痛いから逃げるのだけど、いとも簡単に捕まえてやはり打たれる。パコーンと。ほらね、文男さんが叩いた。「さっきからピンポン玉、僕はふわふわ。って、お前どうした?意識がふわふわしてるぞ、薄目開けてうとうとしてたし。寂しいんだろ、孤独中枢が敏感なんだ」
返事の代わりに呼び鈴が鳴る。純たちだった。画材だけ買って帰るつもりだったのだが、ドーナツを見つけたのでみんなで食べようとこれを購入してきた。さあ食えと言うので礼を言って五人で食べた。和気藹々とした、琥珀色の空気が流れた。バラードを歌いたい、そんな気分だった。
しんなり三日月。へべれけ若人になって前後不覚。どこか作り物めいたプラスチックの月に煤の夜空。鉛筆の髪を長く垂らして、妖艶な女盗賊は気弱な男におぶらせている。苦しげな息を吐き、男はピタッと止まった。「進みなさいよ、根性なし」「そんなこと言ったって姉さん重いよ疲れたよやるせないよ」「姉さんが悪漢に見えて良い人そうで、やはりえげつない悪漢に襲われても良いのね」僕の視線に気付くと苦笑し「言わないでね」と言ってウインクする。彼女の手に銀色に光るにぼしがちらりと見えた。再び彼女が微笑みかけると意識は闇に溶けていった。「ノリをこき使わずに堂々とねだれば良いじゃないか、イカスミ」と朝起きて黒猫を抱え上げて言うと三本の筋が頬に残った。苛立った彼女に引っ掻かれたのだった。
瞬間、力が爆発する錯覚。漲った気持ちは行き場が無いと気がおかしくなりそう。わあと叫んで、轟音でギターをかき鳴らしたい衝動。唐突にくだらない事がしたくなって、自動販売機で全種類の飲料を買うというセコい贅沢がしてみたかった。二十種類のジュースやコーヒー、お茶を買った。孤独に光る夜の自販機は指名がつかない風俗嬢のようだ。紙袋に入れたが、重みに耐えかねたのかアパートの前で破れてしまった、あちゃあ。口汚く紙袋を罵っていると「もらっとくよ」と海野さんと純がセコい贅沢を持っていく。純はそれぞれ一本ずつ持っているのに対し、海野さんは両手で抱え込むようにして五、六本程持って行こうとするので「欲張りが」と体当たりを食らわすとボディプレスのお釣りが返ってきた。拾い終わりそうな頃に、侑が来て、手伝ってくれた。うわあ、この子は天使だ、天女やわあ。ほんまにええ子やわ、侑ちゃん。もう少し来るのが早ければビーナスだったかしらね。ありがとうございますると土下座をして礼を申し、コーヒーとスポーツドリンクをさしあげた。天女は何枚かビニール袋をくださり、そのまま部屋へ帰られた。快適好調な僕は残りの贅沢をビニール袋に入れ、自室へ向かおうとした途端、逆方向に不思議な力が働いてくるりと動かされた。快適好調な僕を睨み付ける柿坂。なして?どうして?「この贅沢者めが、こんなものはな」僕のビニール袋に触れるとどこかに消してしまった。「ふふ、貧しい国に送ってやったわ」「極端な節制をあなたは強制させるが、そのアティチュードは苛酷ではないか」しかし、彼女は答えず鋭い目つきをやめない。アパートの近くに街灯が無ければ睨まれてもわからないのに。「私の世界に伝わる飲み物をあげますわ」ふっと表情を変え、優しげな表情を作ると柿坂は猫撫で声で言った。人差し指を真ッピンクのけばけばしい色の管に変え僕の口へ咥えさせた。恐怖に震えながら言われたままに吸い上げ液体を飲んでいく。廃油のような味がし、殺意を感じた。吐気がこみ上げてきたが、何とか管の真ッピンクが無くなるまで飲み干す。「偉いわね、あまりの不味さにみんな一口飲んで勘弁と言っていたけど」「こんな得体の知れないもの、他の人にも飲ませたのかっ!」怒鳴っても不気味な笑みを絶やさない柿坂。小指といい、人差し指といい、色々な物に形を変えられるのがそもそもおかしいことだが、きっと皆、何も考えない事にしたのだろう。身体中がほわほわとした暖かい繭に包まれているような、また心の内にもほわほわは侵食し、多幸感が押し寄せてくる。三十人のハーレムを侍らせている、無数の蟹を食すことができるといった即物的なものではなく、桃源郷に辿り着いてしまったような前人未到の極楽といった具合だろうか。うねる景色、色の一つ一つが存在感を圧倒的に強める。わしゃわしゃと身体の中をくすぐっている馬鹿がどこかに。どこかにいる、くふふ、怒らないから出てきてよ。内側から破壊されて、黒の花火。女性のコーラスが四方から聞こえてきて恍惚とした気分。僕の瞳孔は甲骨文字。記号が連なって。言葉を失って。光に溶けた僕は街灯が作り出した偽りの虹へ吸い込まれて。
インスタントの苺ラテの封を開け、マグカップに入れる。乳桃色の液体を飲み下し、ふと夢中で作業をしている侑の様子を見て驚愕する。これは侑が極めて優れたヤバい作品を描いたのではなく、完成したばかりの絵そのものが消滅していくのだ。絵の消失に気付いた今も侑の絵がみるみるうちに白紙に返っていく。この前も純が風呂から出てきたと思ったら、純の周りに立ち上っていた湯気はすぐに消え、ドライヤーもかけていないのに髪も身体も完全に乾いている。風呂に入ってたよねと聞くと、「ええっ、入ってないよ。のぞくつもりなんでしょ?」とからかい気味に否定され狐に抓まれた気分だ。確かに聞こえたシャワーの音は嘘なのだろうか。混乱しつつも僕はスッと消えた絵の行方を侑に聞いた。「君さ、今ネオンの街を飛び回るカニクリームコロッケ描いてなかった」「面白いアイデアですね。ネオンの街はアイデアにあったんですけど、何を登場させたら面白くなるだろうって考えてて。心の中を読まれたみたい」「まあ、そうかな。僕くらいになれば手に取るように分かるのさ」けけ、と狐が嘲笑った。
二ヶ月程経って、映像を逆再生した様子に似ていると思ったがその頃には文男さんの口からビールがきれいな状態で戻ったり、左を見ると柿坂がごみ箱にティッシュを丸めて捨てようとして、リバースの放物線を描いて、やはり手元には皺一つ無い真新しいティッシュがあったりするなどの奇妙な現象は無くなった。しかし、柿坂までもが逆再生の餌食になっているのが腑に落ちなかった。常に不可解な現象で翻弄してきたのだ。僕の目を欺こうと一芝居打っているに違いないと疑った。リバースの放物線を見た直後に思わず彼女を問い質した。「柿坂、いつも不可解なことばかりするけど、今起きた現象も君の仕業か」「まだこの前の飲み物の影響が残ってるのかしら。どうしたの」「しらばっくれるな。時間を巻き戻しているのは君だろ。何の為に訳の分からない計略を働くのだ」「私、訳の分からない存在じゃないわ。人間そのものが不可解じゃない。偽りを真にしている」「下手な猿芝居しやがって。お前のせいで侑の絵は消えちまったんだ、聞かせてくれよ」肩を揺さぶって、混乱している様子の柿坂に追い討ちをかけた。「わ、わからないわ。奇禍が錯綜してぐちゃぐちゃに崩れてくの、時間枠なんて関係ない。今が本当は過ぎ去った時で時間の亡骸に封印されてる私、踊るの」「頼む、教えてくれよ。なあ、その馬鹿面はたくぞ」焦った僕は語気を荒げた。頬をはたかれる衝撃と、その手は侑のもので怒りに震えるか細い声が沁みた。「おい、女の子泣かせて恥ずかしく、うう、ないんか、お前。ひくっ、そうだよ、阿呆面下げた此畜生が」純が仲裁に入ったが、収まらない怒りを乱暴な言葉にしてぶつけてくる。普段、物静かで穏和な彼女の面影はそこになかった。「不快無視してまで何が真実だ、ボケ。私の絵は消えも腐りもしないけど、さっきから頭がおかしいんじゃないの」「待ってくれ、誰かが時間を巻き戻しているんだ」「怖い、どうしちゃったのよ。休んで休んで。疲れてるんでしょ。はーい、いい子いい子」純に抱きしめられ、落ち着いていく心。日常に紛れ込んだ異変もどうでも良くなった。文男さんが横から俺も俺もと言ってせがんで、純にかわされていた。
ふふっ、逆再生は口内炎のようにいつのまにか無くなったのだった。もやもやも無くなり侑や柿坂とも仲直りしてよかった、よかったぁと喜んでいた。ぐわははと快活に笑い、昨日の宴では文男さんと海野さんと一緒に裸で出鱈目なフラメンコを踊った。タンゴのCDをかけてフラメンコを踊る矛盾。純だけが無礼講に耐え、侑や柿坂はあわわと言ってそっぽを向いた。脈打つ逸物。もやもやして気分が鬱屈していた時に誘われても、愉快な宴に行かず部屋にこもって暗闇の中で陰気な歌を歌って、飽きたらクラゲの舞を静かに舞っていただろう。十五分くらいかけ、部屋の隅でわずかに動く。嫌なことがあったら君もやってみると良いよと純に薦めてみたが、阿呆と一言で切り捨てられた。半身のクラゲが無念そうにピクピク。
人間輪投げがしたくってね。腕をわっかのように組んで、飛び込む。最初は酔っ払って皆に輪投げを仕掛けきゃっきゃっ笑い合ってたのが、だんだん本格的になり適当なものを賭けて得点を競うまでになった。普通、輪投げはあくまで止まった台の棒に向かって投げる遊びだ。しかし、この人間輪投げ、棒となる人間は動く。部屋のそこらを歩く得点をぶら下げた人間にタイミングを合わせ飛び込む。外れたら無得点で、二回ミスをするとゲームオーバーになる。また、得点の値が大きい人ほど動きにフェイントをかけたり振りほどこうとしたりすることができる。その得点の値は賭けるものの価値によって決まった。海野さんが雲丹や鮑、伊勢海老といった、やたらと豪勢な景品を賭けるものだから盛り上がった。一番大きい得点をぶら下げた海野さんは男同士ならば容赦なく泥試合に持ち込んだし、女性に対しては面白いダジャレを言えればOKにするという対応で甘かった。僕や文男さんも女性には手加減をしてゆっくり歩いたり後ずさりしてわざと捕まったりして、結局景品は女性陣の手に渡るのだった。張り合いが無いと怒った純に本気でやってと言われ、手加減抜きでやったら柿坂が三連覇した。中指を本物のわっかに変えて、ぐいと身体を締め付けてくるのだから苦しくてたまらない。やってられんよ。驚くどころか、興味深そうにみんなはそのわっかを触っていた。
狂宴は終わらない。みたらし酒という珍しい酒を海野さんが持ってきた。みたらし団子ってあるけど、これは日本酒と上の砂糖醤油たれを足した印象の変テコな酒だ。飲んでみると、僕の命日は何月何日なんだろうと思うような味。酔って元々まともではない思考がさらに変になっている。はあ、やっぱり自分の部屋は落ち着くね。侑が神妙な顔してシンセサイザーをいじっている。ピアノは子供の頃に習っていて実家にもあるが、シンセサイザーに触れるのは初めてだという。パソコンとシンセサイザーの間に壁がある。しかし、様子が妙である。壁の下部に薄汚れた黄色の渦が巻いている。十五センチメートル程の大きさでうにょうにょと蠕動している。指を入れると、掃除機の吸込口のように吸い付いてくる。泥のような感触が気色悪い。渦と触れ合っている際に、頭の中に奇妙な旋律が流れてきた。発狂した女性が豚を切り裂き、全身に内臓と血を浴びているといった光景が浮かぶ。チューニングの狂った楽器で弾いているみたいだ。しかし、楽器のような声だという事が判明する。「鱧がハモるん、牙城の無明」たわけた歌は次第に奇妙なハーモニーを重ねていく。鱧の混声四部合唱。渦から目を背けて忘れる事にして、みたらし酒を煽り、クラゲの舞を少しだけ踊って、酔いで平衡感覚が狂っていたせいかバタンと倒れそのまま眠ってしまった。
黒板を高速で引っ掻いたような音。途切れ途切れに鳴って少しずつ音量も弱まり止むかと思うと、喧しくハウリングのように鳴るのだから不快が頂点にまで達して吐きそうだ。十分経てば止むのではないかと目を瞑っていたが耐えかねて起き上がると、部屋の様子が一変していた。赤備の兜、蓄音機、土偶、動物の骨でできた怪しげな腕輪、極めつけに髑髏。ぎひゃあと悲鳴をあげ、誰でもいいから声をかけ眠っている間に起きた異変を聞こうと思ったが、誰もいない。朝になり皆が帰るまで酔いつぶれたまま雑魚寝をするのに。いくつかの文庫本や木魚、マウスは残っていたがパソコンの位置にはマンモスの牙が置かれている。ズボンのポケットにある携帯を取り出そうとしたら茶筅。海野さんと文男さんがたまに仕掛けるドッキリではなさそうだ。南無三だと叫びながら外へ出た。往来の光景にもはや口から発する南無三が止まらない。もう、オーライではない有様だった。小豆を煮たような匂いが立ち込め、空は真ッピンク。ぐしゃっ。緑色に染まったアスファルトの上を歩いていると何かを踏み潰した。拾い上げるとミニチュアサイズのマチュピチュだった。石の建物の部分が粉々になっている、僕は再び南無三を唱えた。南無スリー、首席や次席を狙うのではなく、私風情は三番目くらいで良いです、ええ、とんでもございませんと謙遜しているといった風情だろうか。
往来には怪物がのんびりと悠然たる面持ちで歩いていた。メデューサは子と思わしき河童を引き連れている。胡瓜型の飴をちろちろ舐めている、洟を垂らした馬鹿河童。牛頭馬頭はイチャイチャしていて、馬頭の方は女のようで牛頭の腕にしがみついている。しな垂れかかっている。舌を絡ませてディープキスをしているが、どつき回したい衝動にかられるのを堪える。ブチュブチュやってる横で馬刺しとユッケでも食べてやろうか。建物は茅葺き屋根の下に薄いアルミ一枚が貼られたもの、中国の宮殿と古代ギリシャの神殿を合体させたようなもの、茶碗の形状をした家と珍奇なものばかりだ。好奇心が起こり、茶碗の家の中に入ってみようとしたが、扉には鍵がかかっている。興醒めだ。唾を扉に吐きかけて、悪態をつきつつ先を行くことにした。
河原を歩く。少年たちがキャッチボールをしている。野球ボールくらいの大きさのそれは丸めた生肉で、泥にまみれた赤色のボールが見えた。しばらく歩くと、河があるべき場所にカラシのような黄色の液体が流れている。服を勢い良く脱いで、訳の分からない世界に迷い込んでしまったと捨て鉢な気分でカラシの河に飛び込んでみると肌がピリピリ痛む。電気風呂を倍の倍ぐらいに激しくしたといった感じだ。すぐに岸へ上がり、着替えているとき、リンボーダンスをして凄い執念で女が近寄ってくる。河に飛び込む前には無かったはずだが、十箇所に仕掛けられた棒をうおおお言いながら潜って迫り来るが怖い。不条理じゃないか。ろくなことになりゃあしねえ、韋駄天になって逃げた。徒競走ビリだけどね。 再び往来に戻ってみると、頭が独楽の男が甲冑を着た女と西洋の鎧を着た女を侍らせている。両手に花な独楽男。「前に買ってくれた刀なんだけどー、飽きちゃった。いらなーい」まだ使える刀をそう言って甲冑女は打ち捨てた。「私も、これはね予算が貯まってからでいいんだけど、城リフォームしたいな」「よしよし、きくにはプラチナ刀を買ってあげるよ。ジョセフィーヌ、リフォームとかそんなけち臭いこと言わないで増築してやるよ」頭の線がいくつか切れ、このブルジョア野郎と捨てられた刀を拾い切りかかろうとしたその時だった。黒いエキゾチックな女性が独楽男に駆け寄る。「何であたしを捨てるの、盲愛してくれたはずよね」「寄るな、てめえには飽きたんだ。無聊な女よ、退け」エキゾチックな女は呪文を唱えると独楽男の身体は炎に包まれ始めた。はっ、すけこましが。まるで独楽を取り替える感覚で女性を翻弄し、捨て駒にするから火刑に合うのだ。いい気味だ。悲鳴をあげ、取り巻きの女どもは走り散っていく。燃えた後には黒ずんだ独楽が残っていた。男の本体だったのだろうか。女は涙を流しながら独楽を撫でさすっていた。しかし、憎んでも憎みきれず愛してしまっている因果な自分に嫌気がさしたのか、或いは男の所業を思い出したのか苛立たしげに舌打ちして、腐れ男めと叫びありったけの力で未練を振り切るように遠投した。
近所の公園によく似た公園。牛頭馬頭カップルも焼殺女もいない、閑散とした公園、錆びてペンキが剥落し半分シルバーなブランコとすべり台。ぽつんと一つだけ生えた枯木の下に侑に似た女性が立っている。ようやく会えた、良かった、良かったぁ。私はもう一人じゃない、独りじゃないのです、わずかな希望は残ってました、ありがとう、カミサン。いや、カミサマ。間近まで来てみると侑だという確信が持てました。安堵感を味わい、彼女に声をかけます。「探したんだよ、他のみんなはいないのかな」「あなたは誰ですか、存じ上げませんが」「知人に似ていたので間違えました、鰤木と申します」なんとなく偽名を名乗ったところ「嘘はいけませんよ、軸山と言うのでしょう。舌を抜かれたいのですか。壊れたブリキの心で」と咄嗟の偽称を女に見破られた。「な、何でわかったんだ。あなたは一体」「無礼な態度を取っておきながら謝らないとは。私は吐寫物の世界に絶望し、ここで黄昏ていたのです。しかし、あなたのような下衆が来て安住の場所は奪われた。失敬する」女の軽蔑しきった感じ。汚らわしいものを見るような目で僕を見て、三歩ほど歩いたと思ったら女は消滅してしまった。やはり何かが狂っている。
木に寄りかかって、背中にでこぼことした感触。木の幹の、幹の中央よりやや下にカラフルな色合いでびっしりと建物が建っていた。色とりどりの街をまたぐ二筋の灰色の道。その道らしきものの上をうねうねした豆粒が走り、光を放っている。純が高速道路をやはりドイツ語でアウトバーンと呼んでいたのを思い出す。木の幹に張り付いた大都市からは、極小の人々の喧騒がか細く聞こえてくる。ああ、そういえば。先程のマチュピチュはもしかするとこの極小の人々のものかもしれない。ごめんなさいと謝ったが彼らは無反応だった。アウトバーンを何万という車が走っている。突然爆発が起きて、アウトバーンの一部がもげ落ちた。アウトバーンの一部は持ってみると意外と重い。こぶし大の石を持っているような感覚だ。喧騒は悲鳴に変わり、悲鳴は喧騒の何十倍も大きく聞こえた。じっと眺めて続けていると大都市は見る影も無い廃墟に変わっていった。平和が壊れました。裏切られた繁栄。欲のブレーキが利かず、悪意がクラッシュしている。世界に。僕なんかは、ほのぼのとした和気藹々、チャーミングな人間だから銃は持たずに烏賊持って踊る。武器はピコピコハンマーしか認めない。家で一人盆踊りして放屁しつつ、るいちゃんに会いにいくのを楽しみにしている。「おひょっ、ええ乳してるね。触っちゃダメですか、ははあー。るいちゃんに会えるの楽しみにしてるからね、今夜も来ちゃった。るいちゃんもさ、やっぱり戦争は怖いと思うよね。うんうん、安寧秩序が一番なんだよ、全人類が乳を揉め、これにつきるね。ごめん、怒らないで。良いこと言ったつもりなのになあ。鼓腹撃壌ですよ。えっ、四字熟語の意味がわからない?僕もわかってないから大丈夫、うふふ。ってことで、その、揉んでもいいかな」街の残骸が手に触れ、妄想から覚め我に返る。あらかた壊しきって、極小のお前らは瓦礫を前に恬然として「ミスっちゃった」などと嘯いて済ますのか。銃の代わりに平和の男根を握れ。零れる白濁液は悪しき心を洗い流す。冗談も平和もわからないやつだ、そんな銃では誰も笑いませんよ。紙よりも薄い人命とほざいて、腐った銃で僕を撃ち殺すというのか。無抵抗な市民を殺して、その肉を屠る狂人。屈折した感情が殺意に変わっているのだろうか。愛の使者が現れ、兵士を抱擁する。愛撫されるうち兵士は身を任せる。熱いハグを交わし、情事の後に仲良く踊る。平和のダンス。ピロートークは反戦歌。おいおい泣きながら二人は別れる。兵士は争いを捨て、愛の悦びを知る。抗議の敵前逃亡。一人の思惑は到底届かないまま、巨大な武力によってねじ伏せられていく。きっと僕は馬鹿で臆病だから銃弾の代わりに冗談を取る。情熱と古墳が作られる前から人類は戦争をやめられない。病められない時代は無い。迷い込んだ奇妙な世界にも戦争はあって、木の幹に発展していた大都市は滅亡していくし、元の世界に戻れない。い、嫌だ。皆で人間輪投げしたい。酒宴を開いて裸でフラメンコ踊ろう。ふと、侑や純の笑顔が浮かんでじんわりと沁み渡るものがあった。かすむ。不明瞭な視界と明瞭になっていく本音。ふわふわした、感情の奥がくにゅくにゅと柔らかくなって安らぎを覚える、暖かな部屋。琥珀色の空気が優しく満たしていたはずなんだ、猫と僕らの中を。両手で持った、アウトバーンの一部の重みが増していく。小さな世界の犠牲を持ち帰ろう、戻れるかすらわからないが。怪物蠢く世界が終点なのか、いや、違うよ、違う。こんな、首をもがれた亀の死体が無念そうに痙攣しているような世界にじっとしていたくない。死に物狂いの狂気をぐっと凝縮した、まるで麻薬中毒者の視点をさらに変にした空間で野垂れ死ぬ図式が成り立つなんておかしい。おかしいわ、怒るわよ。ふふふ、どこなの。ノブはあるよね、元の世界に戻るドアがあってぱかっと開けてはい元通り、海野さん怒ってるけど私の頭撫でてくれる。浮かべる安堵の表情。私も安堵の表情どころか感泣するの。いつかのどかなアパートへ帰りたい。しらみつぶしに街中のドアを開けて回ろうかしら。砂漠に花を咲かせる気合、無政府状態に秩序を確立していくような、わずかな確率にかけてみるしかない。
さあ、と立ち上がり伸びをした。悲愴なオーケストラの音がどこからか聞こえる。街のどこかで演奏されているのだろうか。この奇妙な世界から抜け出す術を探そうと歩き出して動けなくなった。比喩ではなく一歩も身動きできなくなってしまった。バグを起こした世界と自分。耳元ではオーケストラの音が音飛びしたCDのように同じ音をずっと鳴らしている。「何だこの世界は何だこの世界は何だこの世界は何だこの世界は何だこの世界は何だこの世界は」思念が永遠にぐるぐるとループして。
カメライフ みんなもともと生死 @minamialpen360
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