おとだま

みんなもともと生死

第1話

 ウイスパーボイスの歌声がぼんやり漂っていた。長い黒髪の女性がステージに立って、ピアノとギターとベースの奏でる、切ない旋律に合わせて、ハミングしている。

 鉢本春哉はコーラと日本酒を均等に割って、青リンゴのリキュールを加えたものを飲みながら、誰かきれいな女の子はいないものだろうかと眺め回した。

 右から二番目のテーブルにショートボブの女の子が茶髪のシニヨンの子としゃべり合っているのが見えた。まぁ、春哉には彼女たちに声をかけず、遠くから眺めることしかできないのだが。内心は話しかけたくて仕方がなかった。ぽんと口ずさむだけで異性と親しくなれる歌でもあればいいのに。

 春哉がそんなことを考えているうちに、ステージの出演者は変わっていて日本人離れした大男と下唇の下にちょび髭を生やした男の二人組みになっていた。ちょび髭がシンセサイザーを演奏し、大男はグルグル踊りつつ叫んでいた。

 春哉は先程の女性ボーカルの声を聞き逃してしまったのを悔やんだ。

 間奏で大男の姿がふっと消えた。一曲終え、次に演奏され始めたインストの曲の途中で大男の代わりに着物姿にその上にエプロンを付けた赤毛のイギリス人女性が現れた。

 さらっとした顔で立っていた大男はふらっとどこかに消えてしまったのであった。ライブが終了するまで楽屋で漫画を読んだり、PSPで遊んだりしているのかもしれないと春哉は思った。

 意外なまでにイギリス人女性は美声だった。まだ曲の途中だったが、酒をおかわりしたくなった春哉はカウンターへ行った。

 きりりっとした眉にくりりっとした目の女性店員に梅酒を注文しようとしたところ、長髪のおっさんが話しかけてきた。

「兄ちゃん、なんかええ酒あらへんか?」

 普段なら、何だこの怪しげなおっさんはと無視を決め込んでしまう春哉であったが、どこか憎めない雰囲気に呑まれ答えていた。

「栗焼酎なんかどうでっか」

 おっさんにつられ、春哉はおぼろげな大阪弁を使ってみた。

「ほな、それもらおうやないけ。栗焼酎一つ。君は何がええんや」

 春哉が梅酒と答えると、おっさんは栗焼酎と梅酒を注文し、春哉の酒までおごってくれた。テーブルにグラスを置き、ちびちび飲む春哉とぐいぐい行くおっさん。門島昭と名乗った。高円寺にバーを開いているらしい。ライブハウスのある中野からはスキップで行けてしまう近さだ。たてつづけに十杯飲んでも全く酔わない門島の酒豪っぷりに春哉は驚いていた。

 門島は君も音楽をやっとるのかと春哉に唐突に聞いた。

 まず彼は「よくわかりましたねー」と驚き、それから溜息をついて「音楽やっててもずっとあかんねん」とぼやいた。ライブのチケットを捌こうにもさっぱりだったことや最近はギターを弾こうとしてもおてもやんが浮かんで笑って集中できない。なんとか気を取り直して再び練習に取り掛かろうとしても、松山のおたた人形が頭に乗せた桶から魚やミカンやケータイをこぼす光景が脳裏に浮かんで、爆笑してしまう。実際は魚の行商をするのに、なぜかハイテク機器。そうやってギャグな想像を働かせて、まともにギターが弾けないと春哉が言ったら、門島はげほげほ酒を詰まらせむせつつも笑い、言った。

「おもろいやっちゃねー、どや。景気付けに一杯」

「おっさん、そんなに飲んで大丈夫なんか」

「俺はいくら飲んでも平気なんや」

 店を出て、人の少ない裏通りを選びながら門島が歩いていく先を春哉はついていった。暗闇に外灯を点す家々は隠れ家が並んでいるようであった。

 バーに着いて、するするドアを開け、先に入ればええよと言われ、そのまま春哉はつまらない生活から新鮮な展開が始まりつつあるのに感謝しながら入った。

 白と黒のモノトーンなテーブルが並んでいて、ガラスのカウンターは真っ白にキラキラ輝いていた。光るカウンター、すげえと春哉はしばらくそれに魅入っていたが、右奥の方に座っている女性に視線が向かった。ぐわぐわな人だと春哉は思った。荒々しくグラスを掴み、しかし表情は弱弱しく、苦い薬を飲むかのような顔をしながら酒を飲んでいる様子からそんな擬音を彼女の印象に重ねた。

 門島はその女性の所まで行き、挨拶した。

「春哉くん、この子は軸子ちゅうんや。祟り神やね。手厚く祀らないと気難しさを発揮してねちねち絡んでくる。しっかし美味しい酒を献上しておけば大人しくかわいいもんや」

「ひどい言いようですね。優雅な安酒場なここが好きなのに」

「タダで飲ませてやってるのに、安いもへったくれもあるかい。店開いてる時に来たってええんやぞ」

 それには答えず、黙って女性は門島にグラスを差し出した。にやにやしながら門島は冷蔵庫からシードルを用意して注いでやる。春哉は門島に何か飲むか聞かれ、おまかせしますと言ったら、ペリーを注いだ。リンゴと梨で似たもの同士だ。門島が部屋の左隅にある檻に向かい、亀を手に乗せて隣のテーブルに座った。ふらふら盆踊りを踊るような動きをする亀に気を取られそうになりつつ、春哉は女性に話しかけてみた。

「料理とか作るの好きですか」

「あんまり作らないかな。食べるのもよくわからない。味がわかれば良いんだけど」

「僕なんかちょっと味オンチ気味ですし、大丈夫ですよ」

「料理を作るのは食材だけでなくて、言葉でもできると思うわ。はっきり味がわかったら、美しくくっきりと描けるだろうね」

「あっ、わかりましたよ。料理評論家なんでしょう」

「惜しいね、惜しい。薬飲んでると味が迷子になっちゃうの」

「迷子といえば、僕なんか原宿行こうとして逆方向の明大前に行っちゃいましたよ」

 春哉はそうおちゃらけて、ぎこちない手つきでペリーを飲んだ。

 糠餅軸子は抗うつ剤や精神安定剤の副作用による味覚障害を負っていたが、失った味や食わず嫌いをしてまだ未知のままである味を想像に任せて詩にしたためようとしていた。

 けれど、無味な現実が横たわるのみで、風味のある言葉は一切浮かんでこなかった。暗闇に猫の形をしたカラフルな照明を点しても、花咲か爺さん気取りでランタナの花をちぎって散らしつつ、高級スイーツを食べてみても軸子の心はシーンと静まりっぱなしで、詩的な気持ちに震えなかった。

 軸子は、やる気のないカフェの店員がおざなりに新商品を宣伝するような口調で自分が詩を書いていることを伝えた。

 すると、春哉は少し頼み込むような声で「よかったら読んでみたいです」と言った。スーパーの特売日が一日違いだった時に浮かべてしまうような苦笑いをしつつ、軸子は「うん、持ってくる」と答えた。亀を左と右の手のひらの上に乗せて行ったり来たりさせつつ、門島は二人の会話に割って入った。

「紙面に香辛料をすりこませてるかもしれない。それか野菜に直接文字を刻み込んでいるとか」

「なんていうかベタですよね。どこか二番煎じになりそう」

「じゃあ野菜を文字の形に切って、床に並べていくのはどうだ」

「うふふふっ、あははっ」

 軸子は笑ってから、グァーガムとつぶやき続け、だんだん悲しいメロディーをつけていった。どこか滑稽な生き物の鳴き声みたいだった。

 その夜は意味も無くペンライトを振りかざしてみたり、チラシを使ってちぎり絵にしようとして糊がないことに呆然としたりした。帯状に橙色の夜明けの太陽が広がる中を歩いて帰った。


 花屋と金物屋とすみれ荘という名のアパートが並ぶ通りに春哉は立っていた。

 唇を突き出したようなアフリカのお面を被った、七、八歳くらいの少年がポップコーンを食べていた。時折、足元を歩く鳩にばらまく。

 その時、反対側のインド料理屋の方から旅行かばんを持った女が進んできて、少年にぶつかった。散らばる表情、崩れるポップコーン。女は舌打ちして何事もなかったように去っていった。春哉のすぐ後ろにいたプードルを連れた眼鏡の男が少年を助け起こした。少年はすりむいた膝の砂を手で払い、それから身を屈め、パラパラこぼれたポップコーンを拾い、男はそれを手伝う。横でプードルがポップコーンをクンクン匂いを嗅ぎつつ食べる。礼を言う少年に困惑した笑みを浮かべ、気恥ずかしそうな横顔を残して男はごみごみした路地へ曲がった。

 春哉は各商店街で配られるくじを集めていた。なぜか無料でくじをもらうことができた。

 なんとか引き当てようと、貯金も充分あることだし、と働かずに熱中するほどだった。どの商店街の賞品にも一等に不思議な音を出す柔らかい玉が選ばれていた。それは触ったり叩いたり突付いたり転がしたりして、どの動作にもそれぞれ異なった音を出すのだ。

 今日は最初に菓成町のくじを手に入れに行こうとしていた。

 ところが、方向を間違えでたらめに歩くうちに窪牛に着いてしまった。目に入る店名どれもに牛がつく、やや不思議な町だ。三ヶ月前から行われ始めたくじの無料配布はされておらず、仕方なく買い物をした。二回抽選をして、手に入れたのは四等のギターピックと五等のふ菓子だった。

 三つの町に行き、光る粘土と徳利の形をした貯金箱とかぼすのフェイスマスク五枚分、それに障子紙が当たったが春哉の住むワンルームの洋室には使い道が無かった。

 人並みの戦利品を持ち、まずまずの気分で春哉はバーを訪れた。門島の左隣の席に昼間の男が座って歓談しているのを見つけ、春哉は驚いた。男はなんで犬には秋田や甲斐など地名がつく種類があるのに、猫には一切無いのかと門島に質問をし、なんでやろうねと返していた。門島たちから二つ右のテーブルに見知らぬ男、そのすぐ前のテーブルに軸子が座っていた。見知らぬ男だけがビールを飲んでいた。

 門島の親友であるという壺増さんがこぶうどんを作り、全員に振舞った。とろろ昆布とふんわりとしたかき卵が乗っている。梅のさっぱりした香りが辺りに漂った。渡す際に「たんとお食べ、たんとお食べ、たんとお食べ」と三度繰り返し、門島が「はは、何度も言いすぎや」とツッこんでいた。壺増さんははうどん屋で働いているらしい。一行はうどんを食べながら、蜂蜜酒で乾杯をして、だんだん雰囲気が打ち解け、盛り上がってきた。

 特に物欲がない春哉は気前良く賞品を渡すことにした。

 まず、光る粘土を見知らぬ男に渡すと、男はすごく喜び、その喜びようは尋常でなかった。暮井と名乗った男はさっそく粘土を袋から取り出すと、こね始めた。猫がバケツを頭にかぶり、フラフラとレコードプレーヤーの上に半身ほど乗っかりかけている姿を作ってみせた。軸子は残った粘土を暮井からもらい、適当にこねて梅の花にして、猫のそばに飾ると言った。

「頭にティッシュ箱とかサザエとかかぶせたらどう?」

「うん、今度笠でもかぶせてみるよ」

 暮井が答える前に、そう門島が若々しい声で茶々を入れる。軸子は冷笑して、食用花を散りばめたケーキをヤケ食いしたいような衝動に駆られながら、ツンとした口調で言った。

「ビニール袋でもかぶっててください」

「どうせなら油揚げの皮つなげてかぶったるわ」

 今度は暮井が門島の代わりにギャグを放った。律儀に大阪弁まで使って。途端に爆笑が起きる。みんなヘラヘラ笑い、軸子も十秒ほどポカンとしていたが、クスッと微笑した。

「君は面白いね、わいの分持ってかれるとは思わへんかった」

 暮井の肩に手を置いて、門島が喋った。

 徳利貯金箱を門島に渡すと「おおきに」、軸子にフェイスマスクを渡し、壺増に障子紙を渡した。しかし、障子紙が欲しかった軸子は壺増に話しかけ、交換してもらった。

 それから一時間ほど、春哉は門島と壺増さんと何十個もの黄色い箱に家中のものをしまう変な花屋の女性の話、泥酔した状態でしょっつる鍋にえいひれと天かすを入れて食べ、全てをたいらげた後、飼っていたアメリカザリガニの殻が鍋から出てきた話、クレープとトムヤムクンととこぶしなんてセンスのメチャクチャな組み合わせで料理を出してくる飯屋の話をした。

 軸子と暮井はクレマカタラーナというスペインの菓子や暮井の地元の奇祭、這泥宴の話題でそこそこ盛り上がったりした。

 五十人ほど入れる、いくつもの渦巻きが祭りの会場に置かれている。中は泥でびちゃびちゃになっていて、不快なのをこらえて、這っていく内にだんだんどうでもよくなっていく。

 ただ一つ正しい渦巻きに入ると、泥を落とす青い水があり、身体をさっぱりさせることができ、しばらく這って行くとハッカの香りが漂い始める。緑と白の道の所々にオコジョやモグラの砂糖細工が置かれ、薄緑の座布団が人数分置かれている。そこに座り、何か何かと待っていると突如渦巻きをぶち破って、七色のドレスを着た七人のおばはんがサラダ油に浸したなめこをかけてくる。

 この際、逃げ惑ったり、怒り出してしまったりしたら退場させられる。なんとか耐え切ったら、次に似合わないサングラスをかけた青年たちが登場する。「叔父が亡くなったので」と言い出すような、悲愴な表情をしながらファンシーな主張をし始める。

「特技はトイレットペーパーの三角折りですね」

「三角のトイレですね、トライアングル叩きたい」

「三角折りのトライアングルですね、トイレ叩きたい」

 意味不明なギャグなのか、正気を失った春先の人のような言葉を青年たちは執拗に繰り返してやめない。ただでさえなめこをかけられて、顔や体中ヌタヌタになり、不快で苛立っている参加者の心は爆発寸前だろう。大半の参加者はなめこを張り付かせたまま、強く足を踏みながら自棄な態度丸出しに帰ったり、でんぐり返りをしながら砂糖細工に突っ込み、滅茶苦茶に破壊したりしている。

 最後まで残っていた、冷静沈着な大学生の男と無邪気な少女が賞品の輪島塗の箸をもらう。もっと豪華で若年層にもわかりやすい、キャッチーな物を得られると思っていた二人は落ち込む。大学生は商品券を、少女は虹色に輝くガラスの熊の置物かなんかを望んでいたのに、渋い賞品だったから。

 どこまでも地味で祭らしい華やかさなどないのに、回を増すごとに参加者は増えているらしい。

 春哉はトイレットペーパーの三角折りのくだりから、彼らの会話の内容が気になってしまった。

 しかし、門島たちの飯屋の話も面白く、内装は床屋風で一人で鏡に向かい合うようにして食べる仕組みの不思議さを語っていた。

「普段物を食べる姿なんか見ないせいか、なんか食べづらい。自分の食べ方とか物が口に入っていくのを意識しすぎて、もうねあかんわ」

「床屋風ってのがまたけったいやね」

「店内には砂時計がずらずら並べてあるんだけど、どれもこれも中身は泥だから何も起きない。役に立たない」

 いつのまにか、春哉は暮井の話を追いかけ始めていた。そんなふざけた祭に参加したいと思ったが、いきなり話に割り込むのもどうかと思い、話に加わる糸口を探っているうちに這泥宴の話題自体終わってしまった。

 さんざん酒を飲んでみんなドロドロに酔っ払っていた。壺増さんが自作の歌を歌い始めた。


 あのように麺を蕩かすのは

 野球中継に夢中になりすぎたから

 徒労なトロッコ 目をつぶって乗ろう

 大阪新世界までマルティニあおって

 猫の眼差しに心が練られて三段重ね

 黒猫にきつねうどんを 秋田犬に月見うどんを

 渦巻かせよう たいらげさせよう


 安楽な男の安楽な空気の安楽な歌声が全ての感情が発酵したような酒場に響いた。

 軸子だけがまるで禅問答を考えているギャルのような真面目な顔で聞き入っていた。他は笑いながら、拍手していた。

 門島がもどかしい顔を浮かべつつ言った。

「屋根裏にとっておきあるのに、壺やん」

「何や、何があるんや」

「まあ、行こ行こ」

 門島と壺増さんが店の奥に行きかけ、春哉たちの方に振り返り手招きをする。白い階段の横にもう一つ黒い階段があって、そこを登っていくと屋根裏である。

 レンガ模様の壁紙、天窓から見える夜空。ガムランやカリンバ、シタール、ウードなどの民族楽器がベッドに置かれている。

 春哉はそれらの物珍しい楽器を弾きたくなったが、門島たちの顔を見てギョッとなった。フェイスマスクを着け、ゆらゆら踊りながらこちらを見つめている四人の姿は異様で、春哉はマー油を頭からかぶりモッシュしたい気分になった。

 しかし、同時に焼きリンゴのタルトを食べながらミルクに桜のリキュールを入れたものを飲んで優しいムードに一人酔いしれたかった。

 壺増さんが春哉の分のマスクをいっぱいに広げて、彼ににじり寄る。とりあえず春哉は大人しくマスクを着けさせてもらう。スチャッ。暮井はガムランを叩き、門島はカリンバを弾きんば。壺増は音楽をバックに即席の都都逸を吟じ始めた。軸子はただ突っ立って、年金のこととか癇癪玉の音がイグアナの鳴き声みたいだったらどうだろうとか考えている。酔っているせいか、発想がおかしげな方向に向かっている。春哉は壺増が自分にしたように、自分のかぶっているマスクをぺりぺり剥がしてふざけて軸子に貼りつけようとした。 しかし、当然ながらさほど親しくない男のマスクなど身につけたくない軸子は永久凍土の目つきをし、機械的な動作で首を横に振った。素早く春哉は背を向け、いったん諦めたフリをする。軸子は酒類を取り扱えない喫茶店でビールを頼まれ、困惑する店員みたいな表情で立ち尽くしている。

 すっと春哉は軸子の横に移動し、さっとマスクを彼女の顔に貼りつけた。泣き上戸の気がある軸子は悲しくさせるアルコールの上に屈辱も混じって、涙をこぼしかけた。しかしなんとか平静を保つのに必死で、マスクを取るのも忘れてしまった。暮井はガムランでまぬけな雰囲気のするメロディーを鳴らしていたが、虚しい顔をした軸子を見つけ、駆け寄った。

 急に冷静になった軸子はそのまま落ち着こうとしたが、詩を現代詩の雑誌に投稿しても落ち続けていることを突然思い出し、余計に憂鬱な気分は深まって、結局泣いてしまった。

 門島と壺増さんが軸子と春哉の間に立ち、「いっけないんだー、いけないんだー。先生に言ってやろう」と童心に返ってからかう。うっかり吹き出し、泣き笑いをしながら軸子は二枚のマスクを取って、暮井の顔にペタペタつけた。

 酔っ払っていて、軸子のマスクのみだと思っている暮井は春哉のマスクも重なっていることに気付かず、能天気に喜ぶ。誰かが軸子に泣いた理由を特に詮索するわけでもなく、ゲラゲラ笑いあった。男たちは白目をむいてふざけあった。


 門島は昼の三時に目を覚まし、色々なものを見て内側と外側、あらゆるものの中身が皮や殻、ケースが包まれているように思えた。

 店内の酒や食材を玉ネギの皮で包んだらどうだろうかなどと他愛のない想像をした。

 暮井はガム工場のバイトを終え、三角形のガラスにセグウェイに乗った猫とその隣に竹馬に乗ったシマウマを描いたものを好きな苗字の家の塀の上に置いた。なんとなく好きになれなかった高校時代の同級生と同じ苗字の家には気色の悪い、ジャンボタニシの卵のような乳桃色とカビのような緑の、三センチほどの丸いスポンジを置いた。ぽこすこと、ふぬけた効果音が暮井の頭の中で流れた。

 軸子はせっかくの休みだからと公園に散歩に出かけたが、抹茶色とエンジ色の着物を着た黒髪の少女に飴をもらい、開けようとしたら中には腐った納豆が入っていたり、近所の蒸肘さんに毎週木曜日の夕方に出くわすと、だみ声で「ざくろのマカロン」と言って、手を差し出してねだってくるが、そんなマカロンを作る約束をした覚えはない軸子は困惑して、首をフリフリさせ早歩きで逃げる。ぐちゃぐちゃした黒いゲルが首に付着しているような気分の一日だった。

 春哉は街角でショートボブの髪型の女性を数えた。


 翌週、春哉と門島はとんぼ玉の体験教室にて、手先が不器用な春哉は普段使わない手で絵を描いたような、頼りない黒い線が赤いガラス玉の上に入ったものを作ってしまった。何度か作りなれている門島は亀の形に見事に作ってみせた。

 一時間ほど費やしたところで、小腹の空いた彼らは変わったぜんざいを出す店に行った。

 果物をめいっぱいすりおろした特製ぜんざい。黄色のぜんざいは柚子で、赤色のぜんざいはアセロラを豪華に皮一枚残らないまでに使い切っている。食紅もふんだんに使っている。

 春哉は柚子ぜんざいを、門島はアセロラぜんざいを食べて二人とも三秒でまずいと感じた。柚子の香りが強く主張して、砂糖をケチっているのか甘味が全く無く、柚子をただぶち込んだお湯を飲んでいるようだった。

 もし、女性と二人で会う機会があったとしても、ここを薦めたら、次から誘いには乗ってくれなくなると春哉は思った。

 門島はぜんざいのイメージを覆す甘酸っぱさとまずさ、つまりはバランスを考えない無鉄砲さに感動すら覚えていた。すばらしい店主がぜんざいだけではなく、ありとあらゆる菓子に挑戦したら、どんな名物メニューが誕生するのだろうと胸を躍らせた。

 その店の向かいにある南国カフェ「エキゾティカ」でカクテルのchichiや、白あんとココナッツミルクを混ぜたココナツ饅頭を食べもせず、猫を模ったドーナツ屋「猫を誂える」で耳の部分がチョコを練りこんだ生地、まんなかにはシナモンを加えたコーヒーヌガー味やキャラメル味、味噌味の三種類の遊び心に身を任せる訳でもなく、春哉は門島に商店街の抽選くじで手に入れられる音玉の説明をして、商店街に向かうことにしたのだった。

 般若と釈迦の能面やゾンビマスク、銅粘土、ビーツ、ほぼ壊れた木琴から取り出して作られたドとミとソの三音しかない、超小型木琴。ウェットティッシュ。弓を持ったウサギの文鎮。

 くじで当たった賞品を抱えて春哉は落胆した。今回も音玉には届かなかった。とにかく多彩な音を出すエポックメイキングな音玩具なのに。商店街の人間が自分の好きなタイプの女の子に一等が当たるように仕向けている気がしてならない。

 もはや、春哉は冗談半分にそう僻んでしまうくらい、それが欲しくてたまらなかった。

「そんなに欲しいのなら、いっそ普通に買ったらどうなのか」と門島が聞いたりもしたが、「非売品なんです」と深刻な声で春哉は答えた。

 目の前に般若がキャベツを千切りにしている絵をプリントしたTシャツを着た男とダイヤの王冠を頭にかぶった釈迦の絵のキャミソールを纏ったギャルが歩いていて、彼らの服装は奇抜であったが、胸元にぶらさげたオセロの石もすごくおかしかった。男は白い面、ギャルは黒い面を表にしていた。

 周囲の人々はちらちら振り返り、商店街の賞品を思い出した主婦はこれであの能面をかぶってればパーフェクトなのにねと呟いている。老人は日本人だったら将棋にしなきゃいかんとピントのずれた怒りを見せている。

 黒と白のビルが交互に並ぶオフィス街を進み、いつもと変わらない横断歩道のモノクロな色調に反応しつつ、一駅ほど歩き、ちょうど来たタクシーを門島は呼び止め、春哉も一緒に乗った。

 未知なる方向に進むと思われたタクシーが既知の酒場に着いたのをみて、春哉はガッカリした。原始時代に用いられていた楽器の博物館や蚊帳の博物館といった珍しい場所に招待してもらえると期待していたからだ。

 今日は休業日だし、もう少し遅くても軸子や暮井が訪れるのには間に合うはず。

 内心不満に思いつつも、作り笑いをしながら門島に尋ねた。

「けっこう早く酒場に来ましたね。これからどうします」

「好きな民族楽器でセッションし合おう。夜までにはなんとかなるやろ」

 門島はサズを、春哉はチャランゴの十つの弦に戸惑いながらも、なんとかある程度は弾けるようになり、門島はただの石をショウケースに飾り、知人の反応を楽しむ女の歌を歌い、春哉は歌詞が特に浮かばなかったので、漬物の種類を思いつく限り並べてみた。

 アンプにギターをつなぐこともなく、ランプが点る頃になった。

 軸子がそこそこ疲れた様子で現れた。春哉と門島が芋焼酎で一杯飲み始めた頃だった。

 軸子は中野区じゅうのレストランをチェックし、階段の段数を数える仕事をしている。また、ダサいデザインのものは遠藤に報告し、彼からレストランのオーナーに奇抜な模様の塗装を施さないかと提案してもらう。唐草模様だったり、ペイズリーだったり、矢絣模様だったり、曼荼羅模様だったりなどだ。だいたいの個性の無い無骨な階段が遠藤の交渉術によってみるみる変になっていく。

 遠藤薫というのは、軸子に仕事の話を持ちかけてきた資産家で素性が全くわからない男だった。どこからか軸子が料理に関する詩を書いていると聞いて、それを真似し始めたり、芸能関係のコネを活かし軸子によく似た風貌の女性をお笑い芸人にのし上げたりもした。 かといって、全く軸子に恋愛感情などは持っていないようだったから、軸子は遠藤がなぜそんなことをするのか理解できないでいたが、彼の精神構造を想像する気も無かった。

 頬杖をつき、しばらくボーッとしていた軸子の向かいの席に暮井が座った。テーブルに置いた黒い袋から、ぺらぺらに薄い小型のオセロを取り出し、浪曲のように節をつけて言った。

「オセーローをひっくーりいぃ返しあおうぅう」

「ええ、黒と白どっちにする?」

「オレオ持ってきたんだけどさ、早く剥がした方が白ってことで。むしろオレオでオセロやってもいいんだけどね」

 オレオをサッと開け、自分と軸子の手に一つずつ乗せ、カウントの後にお互い恨みっこなしにオレオを剥がし競う。軸子が勝ち、暮井が黒を担当することになった。

 春哉と門島はオセロをし始めた二人を見て、昼間の奇怪なオセロカップルとの少なからぬ偶然に驚いていた。

 おどけて盤面にオレオを乗せたりして軸子の笑いを誘う暮井は無邪気だ。ピュアな青年だ。

「えっ、ひっくり返したのに、その上からオレオ置かないでよ」

「まだオレオなだけ感謝してほしいね。石代わりに黒ゴマプリンとか使い出したらもはや区別がつかないし、盤面がベトベトになってしまうし」

「もう、呆れた」

 暮井の冗談に仏頂面で対応しつつ、彼女は蔓延る黒をどんどん白く染め変える。トントン拍子に軸子に有利に展開していく。

 しかし、大どんでん返しで軸子の石は暮井のものに早変わり。そのまま暮井が勝った。

 そして彼らが次に囲碁でも将棋でもチェスでも始めるわけではなく、春哉は今日もくじで得た賞品を配った。暮井が般若の能面を、軸子が釈迦の能面を着けたが、その姿はサラリーマンが股引姿で出勤するような違和感があった。ノリノリでゾンビマスクをかぶり呻き声をあげる門島は様になっていた。予測不能な歩き方もすばらしかった。マスク以外の賞品は適当に振り分けられていった。

 それから門島が店内の床を円形にくりぬき、マンホールを嵌め込んだら、客はどんな反応をするだろうといった話をしている最中に、

前日、本を読んだり、ギターで単音のメロディを鳴らし遊んでいた春哉は眠気を堪えきれず眠ってしまった。

 目を覚ますと、見知らぬ女性が門島たちと歓談していた。遠くから見ても、近くから見てもいい女だった。全体的にわしゃわしゃカールした髪。春哉は眠ったフリをしながら、時折目を開いて会話する姿を見ている。

「飲み味わい、飲み下し、飲み尽くす」

「何杯でも飲んだらええ。美女にはいくらでも酒を飲む権利がある」

 誰もが笑いあう。暮井が聞いた。

「卵が好きなんだけど、あー一度、軸子ちゃんと君に卵に入って欲しい。でも、そのために何百個の卵を用意しなきゃならないんだろう。資金もアボカドもない」

「ふふっ、面白いアイデアねえ」

 女性はテーブルに指を立て、行きつ戻りつを繰り返している。

「有意義なホラ話ね。人間の重みに耐えられる頑丈な卵と卵の破片をそれらしい形に作れればだけど」

 口では理屈っぽく切り捨てつつも、軸子は案外、暮井の他愛のない冗談が嫌いではなかった。

 黒のチョコレートカクテルと白のカルアミルクがテーブルの上で女性の笑いに合わせて踊っていた。ころころした声が響いた。


 すっかり春哉は門島の酒場に休業日に行くことが楽しみだった。タダで酒が飲めるし、空間がゆるゆる溶けて癒しの風が自分に吹いて、ぐんぐん調子が上がるばかり。糸くずや髪の毛が浮き、水垢まみれの蛇口からは冷水がちょぼちょぼ出ている。そんな銭湯に身を浸からせていたら、柚子の木の近くの露天風呂で美酒に酔いしれるみたいな環境にいつのまにか変わっていて、満悦至極愉快極楽万歳と叫びたいような気分になっていたからである。

 小躍りしたくなるのをこらえながら、春哉は北千住駅を降りて商店街でくじを引き、漬物やせんべいの賞品を当て、蕎麦屋とうどん屋とパン屋の並ぶ道を右に曲がり、いささか人通りの少ない横断歩道を渡ろうとした。紫の乗用車が人並みの速度で向かってくるのに、春哉は弁当屋の幟に気を取られていて気付かなかった。青地にカレーと書かれた幟は冷めたカレーを連想させたが、特に物珍しいものでもなかったはず。

 春哉は二ヶ月入院することになった。軸子の痩せた体や一度だけ聞いた女性のあやふやな声を思い返してはムラムラした。しかし、彼の内に沸き起こる透明な色欲と桃色の閃光は暮井の馬鹿笑いによってすぐに現実に戻された。

 また、彼の利き腕が骨折してしまっていたというのもあるかな。未完の妄想ばかりで記憶のゴミ箱はいっぱいになった。

 でも、それ以上に商店街のくじを引きたくて仕方がなかった。音玉を手に入れたくてくじを引いているのか、くじを引きたくて音玉を思い描くのかわからなくなる程に焦った。

 連絡先を交換していないために、門島たちに事故を知らせられなかった。孤独だった。意味も無くいそいそとして、心の柔らかく脆い部分がきゅうきゅう閉じた。朝靄の中でギターをかき鳴らしたくなった。

 窓から流れ込む石鹸の香り、明度を上げていく澄んだ青空に退院の身支度を整える春哉はしんとした気持ちになった。景色の全てが頭の中に染み込むようであった。きんきんに冷やした水ようかんを食べたくなった。

 日頃、階段と向き合い続けているせいか、軸子は階段を見て擬人化する癖がついてしまった。螺旋階段はくびれの良い女性で、あちこちタイルが欠けた階段は荒んだねじけ者、木の階段は素朴で素直な好青年、ピンクの階段は内気な少女といったところか。

 しかし、ある奇抜な階段にはどういった人物を当てはめていいかわからなくなった。

 全体に蔦がびっしり生え、三段目のみ刈り込まれて本来の階段が見え、丁寧に磨かれている。なぜ所有者はその箇所だけきれいに手入れするのか不思議だったが、それ以上に複雑怪奇なキャラクターを極彩色の絵の具で思い描いた。

 塗貝凸紗はよくお参りする神社では言いがかりや賽銭箱にボタンや小石、粉々にしたがんもを入れるなどして迷惑行為を繰り返す変人だが、その一方で公園で遊ぶ小学生の子供にキャラメルをあげたり、遊園地に連れて行ったり、面倒見の良いお姉さんでもある。踊りを踊るのが好きでバロンダンスと暗黒舞踊がお気に入り。夢はスウェーデン人に甘納豆を食べてもらうこと。左右の足に別々の靴を履いて、ある時は下駄と健康サンダル、ハイヒールと長靴などの組み合わせで街を歩く。

 そんな設定をひらめいている間、彼女の耳に、てゅるてゅる、という音がずっと鳴ってた。

 暮井は食パンにジャムを塗ろうとして、手を伸ばし、その手が粘土をこねるように動いていることに気がついたのは金毘羅像を作りきってからだ。写真を撮ってから、とりあえず拝み、何もつけずに食パン金毘羅を食べた。口を動かしている最中、だんだんだんだと太鼓の音がどこかで聞こえていた。


 久しぶりに来店した春哉をあの女性が最初に迎えた。特徴的なカールの髪型ではなく、ストレートにして髪の両端をピンクのメッシュに変えていた。了内了と名乗り、本名なのさと付け加えた。

 了内に手を引かれながら門島たちが座るテーブルへ向かう。手を握り合う軸子と暮井の様子からへー、ほほーんと恋仲に進展したのを知った春哉は羨ましくなった。門島の隣に春哉が座り、彼の向かいに了内が腰を下ろした。パイカル片手に話を始める。

「それにしても、何で北千住行ったん?」

「いやー、千手観音のせんじゅと同音だから、なんとなくご利益ありそうと思うた」

「ははっ、おかしい理屈やな。彼女が近辺に住んでるとかじゃないんか」

「いやいや。恋人おらへんし。たまにはけっこう遠いところに行きたかったちゅうか」

「君がいない間、了ちゃんが色々ぶっとんだ話してくれたんやけどね」

「さいでっか。ほなどういう話か聞きまひょか」

 門島に合わせて春哉が大阪弁を使うのは何も告げずに心配をかけた気遣いという訳ではない。

 ほんのり顔を火照らせた了内はにっこり笑ってしゃべり始めた。

「旅に出たくなったの。ふらりとね。伊能忠敬はすごいわね。私は全ての町の写真を撮りたい。日本恍然という感じで、全国の町をうっとりしながら歩きたい」

「心斎橋とか仙台とか、繁華街を歩く感じか」

「ううん、それこそその県の町全部、町域にまでこだわって歩くの」

「ってえことは、一丁目、二丁目ぐらいに細かくこだわるんですかえ?」

「さすがにそこまでは…。でも、名前が違えばどんなに小さな町でも。それで町域はア行からワ行までしっかり調べて愛媛の愛光町から和霊元町という町まで行ったよ」

「今はまだ愛媛だけなのかい?」

「いや、広島と山梨に親戚がいたから、その二県もコンプリート。富士吉田にはなんか独特な音楽を奏でる人がいたなあ」

 門島が了内に兄弟はいるのかと聞いて、双子の姉がいて出不精な性格で、誰に対しても敬語で話し、オペラのDVDを見て、そばをすする。自分は落語の寄席に行き、うどんを食べる。

 了内は独特な日記をつけていた。日記帳を記すのではなく、CDに音声を吹き込んでいるのだ。日中印象に残った景色や人物を思い出しながら、落語風に再現し、ボイスレコーダーでそれを録音するのだ。しかも同行していない姉を登場させてみたり、悪役の海外俳優に強引に港まで連れて行かれ、優しい抱擁で口説かれるのかと思いきや、クローナ札に両替してくれないかと頼まれ、耳慣れない異国のお金の名前に困惑したりする。

 さらには松山城の隣に大阪城が移転したり、松山城自体がテーマパーク化しているなんて設定を勝手に作ったりするなどした、ほぼフィクションな日記なのであった。

 ちょうど今日そのCDを持参したようで、軸子のVAIOでかけた。映像や写真がなくとも、春哉の頭には了内の愉快な旅模様が浮かんだ。

「クローナと聞きましてね、てっきりクロワッサンのことかと勘違いした私をパン屋まで引きずってって、二十コくらい、たらふく買って食いねぇ、食いねぇって口にグイグイ押し付けてくるんだからおっとろしい」

 語尾がなぜか大分弁。彼女の声は和やかで、周囲を淡い木漏れ日に包まれている気分にさせた。

 春哉はCD以外に旅行先で作ったものはあるか質問した。

 了内はシャボン玉に映る橙色の木の実、みかんをあっという間に食べる八百屋の主人が飼う甲斐犬、ビー玉を持った少女が水溜りに浮かぶ金平糖を眺める写真があるが、今は持っていないので次ここに来た時持ってくると言った。

 あと、色々な女性に声をかけて泊めてもらうのだけど、だいたいの人が狛犬に乗る巫女のデカールをくれる。乗った状態で器用に柏の葉に桜餅を挟もうとしていたり、柏餅をエッグスライサーで切ったりするなど、奇を衒う巫女はひねくれ者に違いない。流行っているのかと知り合いの女の子にたずね回っても、キョトンとした顔になる子ばかりで、変だと話した。

 もちろん春哉はそのシールも持ってきてほしいと頼んだ。

 ズブロッカをソーダで割って飲むみんな。一人称を変え始める。春哉は「俺」、門島は「わし」、軸子は「我」、暮井は「拙者」、了内は「あたい」である。

 最初に暮井がふざけて「拙者は」と言い始めて、どんどん雰囲気がふわふわになった。

 門島がぼそぼそと言った。

「わし、この店を改造していきたい思うとるんけど」

「あたいクレープ食べたい。世界中の果物を集めてゼリーにして包んだら美味しそう」

「採算が合わへん」

「拙者は作った粘土を置いてみたいのじゃ」

「よかろう。好きに飾るといい。ぬかもっちゃんは詩、最近はどんなん書いた?」

 宵の空に呑まれ、尽きてしまいそうな新月のような微笑を浮かべていた軸子はゆっくりと涙をこぼした。

「我を失うほど我は詩を書いてきた。調理法がわからないまま、ジタバタしてもただ傷んでいくばかりなのに、気がついたら食材自体無くなってた。干からびた野菜のかけらだけが私に残ってる」

「その野菜はチコリとかロロロッサ?」

 おどけて聞いた門島に言葉を返さないで軸子は無表情に淡々とした声で言った。

「トマトのヘタで紙が隠されていて、空白を探してもどこにもない。ヘタでできた意味不明な記号が頭のなかで走り回りそう、どんどん混乱していく私は口の中いっぱいにヘタを押し込まれている状態」

 酔っているためか、彼女の言葉はわかりづらい。

「君はそれを詩にしたらええんやないか?」

 ニヤッと笑いかける門島。強情に強張っていく軸子の表情。弱弱しくつぶやいた。

「ある程度すっきりした状態で創作したいかな……言葉の味までわからなくなって丸飲みしてしまってるから」

 沈黙するみんな。暮井はぎこちない手つきで軸子の背中をさする。軸子は胸の中でどうにもならない悔しさを嘆いた。

 ひたすら時間と気力をつぎ込んだのよ。ストイックに詩に打ち込んできて、三百六十五日のほとんどを言葉探しに捧げてきたのに。幼い頃に印象に残っている食感や味覚を四十八字で四十八編の詩にまとめたり、一週間断食をして「米料理」をテーマに八十八の連作詩を書き上げたのに。空腹の苛立ちと戦いながら、がむしゃらに書き散らせば、そうする程もち米のように粘りつく文章になった。塩をどっさりかけ、ド塩辛く、口にした誰もが怒り出すようなもち米。

 そ、そうだ。LEDメッセージボードに詩を入力して出版社に送ったり、ライトアップされた階段の一段に一文字ずつばらまいてそれをカメラに収め、後日Youtubeにアップロードするのも悪くないかも。

 あっ、でもどっちみち詩の内容を評価されないか、残念。私はやっぱり愚人。おっと、絵馬や短冊にさりげなく紛れ込ませるというのも手頃で悪くない。いやさ、やっぱり内容が……。悶々日和は文句の紋織物。そこにあるのは苦悩の模様。もう山盛りのトリュフ塩かきこみたい。

 ただただ落ち込み続ける軸子に、暮井は声をかけた。

「俺は君の詩を読めないけど、君が朗読する度ふんわりした気分になる」

 暮井は識字障害を持ち、喋ることはものすごく得意だったが、文章を読むのは拷問のようであった。もっとも漫画や映画しか見ない彼には、特に困ったことはなかったが。

 みんなはネット上の猫の動画を見てほがらかな時間を過ごした。


 それぞれの生活で捨てられるゴミはこうである。

 春哉は切れたギターの弦、信玄餅のプラスチック容器、ヤングマガジン、チーズバーガー、ウーロン茶。

 門島は大量の酒瓶、全国紙の新聞五紙、あちこち破れた覆面マスク。

 軸子は木の枝、底の抜けた桶、ミル貝、バイ貝、ひょっとこが岡持をぶら下げた絵の割れたマグカップ。

 暮井は近代麻雀、ビジネスジャンプ、コミックビーム、月刊コミック@バンチ、本人、QuickJapanなどの雑誌を散々読んで捨てようとしたが、もったいないと思いとどまり、ドーナツ屋の紙袋、コンビニ弁当、割れた陶器製の弁天の置物を捨てた。

 了内は頭にかぶって破いてしまったストッキング、泥酔してどこからか持ってきてしまったうどんの食品サンプルとビリヤードのキュー、使い切ったフェイスパウダーなどなど。

 彼女が泥酔して上記の物を拝借してしまう前、日中に二つの出来事があった。高円寺陸橋をくぐるように信号を渡り、ラーメン屋や和食レストランが並ぶ箇所から奥まった路地に進んでいくと、のどかな一軒家が仲良く集まる景色が見えてくる。それらの一軒家の表札がどれも湯縄なのである。十一世帯続くのだから、よほど広い親戚関係があるのだと了内は思った。

 玄関先にピンクのバコパを飾った家からちょうど銀色の羽のカチューシャを着けた女性が出てきたので、問いかけた。

「同じ苗字ばかりだけど、親戚なの?」

 猫だましをくらった猫のような顔で一瞬驚き、首を横に振った後言った。

「関係ないんですよね、よく聞かれるんですけど。顔も似ていないし、出身地も違いますし。ちなみに私の親戚は加藤と伊藤です」

「そうなの、私の母親の旧姓は諒内だったわ」

 そうと相づちだけを打って、女性は陸橋の方へ歩いていった。

 二つ目の出来事は了内の道行くところで何人もの金髪シニヨンの女性が紛失したらしい琥珀色の狐の形をしたアロマペンダントの情報を尋ねてくるというもの。同一人物ではなく、服装も顔のパーツも異なっていた。

 了内はアロマペンダントそのものを知らなかったから、どんなペンダントか聞くと、女性たちはペンダントの特徴を説明し始め、アロマペンダントとは何かについては、既に知っているはず、と触れてくれないのだった。

 そして了内はさらに説明を求めようとはせず、なんだか面倒になって「知らないんだ、ごめんね」と答えて、ブラウニーや抹茶ラテをカフェで味わって気分転換する。

 しかし、日が暮れるまで三十分間隔でそのアロマペンダントについて問われたのだった。


「じゃあ、了ちゃんを驚かせていこう」

 手洗いに行った了内を尻目に門島はみんなを集めてドッキリを企画した。四つの置物が主役だ。ウサギが描かれた赤い和服を着た少女、白目を剥いた変な福助、おはぎのようなものを拵えるスローロリス、暮井が銅粘土で作った三匹の猫の置物はなかなか風変わり。一匹だけ首をかしげ、その横に軍配が転がっている。まず猫と軍配という組み合わせが妙だ。想像してみるにこうだろう。じゃれあっている猫たち。すると、そこに突然落ちてきた軍配が一匹に当たって、おや? と首をかしげている様子がかわいく、ちょっとひねりが効いている。

 これらの置物に通常とは異なるリアクションをして、了内を戸惑わせるのだ。

 手本に最初に門島がおふざけを実行することになった。三分ほどして了内が戻ってくると、門島はスローロリスの置物に怒り始めた。

「できれば棒ゆべしにしてほしかったのに、またおはぎなんやね。だぼがっ。そんなくりくりの目で見たって、わいはだまされへんで。いつもこっちが望んだものとは別のを作るのはなんでや。なんでなんや」

 了内の反応が気になって、三人は黙って見つめている。

「まあまあ。メガネザルくんは茶目っ気があるのか、あまのじゃくなのか、どちらかなのよ。おはぎでもいいじゃない」

「まあ、主食の虫を盛り込んだりしないだけええねんけどな」

 それから十分ほどみんなは酒を、門島はカルピスを飲みながら次に誰が動き出すか待っていた。

「ははっ、下駄スケート履いていたらって考えたら笑えてきたなー。今フィギュアスケートで下駄スケートでやったらどうだろう? さらに顔を黒く塗ったら、こんな可愛い少女が変わった下駄を着けているギャップと相まって、ぶははは、僕もイカ墨か靴墨でも塗って混ざろうか」

 暮井のわざとらしい笑い声が店内に響き渡り、やはり誰も暮井に反応せず、了内が答えるのを見守っていた。

「至って普通な置物なのに、そんな滑稽におかしみのある発想浮かべるなんて、ふふっ。どうせなら七色にフェイスペイントしたらどうなの?」

「うーん、色々面倒だよね」

「いつかやりましょ。その時は塗ってあげるから」

 なかなか門島の思惑通りに混乱しない了内も軸子の演技には飲み込まれてしまうことになる。白目の福助を持ってぽろぽろ涙を流すのだから、みんなへどもどした。

「その白目を見ていると不安な気持ちになってくるから黒目になってよ。トビウオの目で見てよ」

 絞りだすような切なげな声で福助を抱きしめる軸子は、演技が過剰すぎていたが、了内は「大丈夫?」と心配する。門島以外の人間は軸子の悲しそうな顔に惹き付けられていた。

 しかし、門島とアイコンタクトをすると軸子は表情を元に戻し、なんでもないと薄く笑って今度は春哉の番。まだやる気なのか、と思いつつも最後に残った三匹の猫を前に、軍配を指差しながら言った。

「えっと、これは新手のしゃもじかな。左右別々にごはんを盛れるから、普通のごはんと赤飯を区別して盛りたいときに便利だね」

 誰も笑ってくれなかった。ただただ沈黙が流れた。実にまずそうな水色に着色された、化学的な色合いのごはんが春哉の頭に浮かんだ。

 深夜二時、空豆をみんなで食べあっている最中に暮井がぽつりとつぶやいた。

「近所の空き地にゴテゴテした飾りが付いた壺があって、木のフタが固くはまっていて、中を見られないんだ。でも、すごく中身が気になってさー。ある時には壺のなかからケラケラ不気味に笑う声がして、ある時には喧嘩神輿の掛け声がさ、もってこいもってこいって聞こえたりしたのよ。それでも、奇妙な壺を放っておこうとしたんだけど、やっぱり気になっちゃうんだ。おかげで全く作品を作れない」

 了内があっけらかんと言った。

「割ればいいじゃない」

「できれば割らずに開けたいかな。割ると破片目立つし」

「それならあまり気にしないようにすればいいんじゃない」

 その頃、春哉は普通の気分なのに、悲しい旋律が耳の奥で鳴って、何度も繰り返すのが不思議だった。それは弱弱しいピアノの音のようで、傘の先の金属部分を強く地面に擦るような音でもあった。


 予兆だったのだろうか。バーに集まる顔ぶれに立て続けに不幸が起き、少しずつ居合わせる人数が減っていった。

 軸子と暮井は互いのスランプを解消するため、熱海に旅行して夜景を眺めながらの露天風呂を堪能し、豪勢な料理にどんどんモチベーションは高まっていったが、戻ってきてからが最悪だった。

 軸子の会社は倒産し、遠藤もどこかに消えた。暮井は空き巣に入られ、いくつかの作品が破壊されていて、士気はガタ落ちした。せっかく旅行に行って気晴らしをしたのに、台無しだった。

 了内は財布を落とした上に、突然やってきた十匹の猫をどうするか悩んでいた。

 ある日、縁側のガラス戸をわずかに開けて、太陽を浴びながら眠った。目を覚ますと、猫が十匹群れていて、開け放したガラス戸から入ってきたのだろう。首輪はつけておらず、しかし人懐っこいところから捨て猫かもしれない。奇妙なことにどの猫も同じ模様で、白い毛並みなのだが、鼻の下に生えているチャップリン髭のような黒い毛がひょうきん。

 その夜は身体の上を猫が行き交い、一睡もできなかった。だけど、愛嬌のある髭を見ていると、怒りもどこかに吹っ飛ぶのだった。

 しかし、十匹も面倒は見られないので引き取り手を探したところ、門島が七匹、軸子と暮井が二匹引き取り、最後の一匹は自分で飼うことに決めた。名前はチャッにした。

 これで一件落着かのように思えた。が、毎日庭にチャッをモデルにしたグッズが十個ずつ置かれるようになり、今度はその置き土産の置場所に悩んでいるのだった。マグカップ、メガネケース、ノート、小皿など小さいうちはまだ良かった。

 それがだんだん場所を取るものばかりになってしまった。スノーボードやテーブルなどのやたらかさばる物が借家の部屋じゅうを埋めるようになると、了内は悲鳴を発しながら、全身に食紅をかけたい気分になった。

 春哉はすっかり寂しくなったカウンターで門島からそんな話を聞いた。もう耳の奥ではでたらめに笛が吹き鳴らされていた。

 様々な肴が並び、門島の大盤振る舞いを春哉は素直に喜んでいた。湯豆腐や明石焼きなど普通のものもあれば、エゾシカやイソギンチャクなどの変り種もあった。

 食べ終わる頃、国菊を開けて自分や春哉のグラスに注ぎ、くいっと飲み干すと言った。

「店つぶれるかもしれへん」

「えっ、嘘ですよね。真でござるか、なんてエセ侍な言葉づかいになってしまったけれど、いや、そんな。もうね、なんかよくわからないですよ。今日みたいにエゾシカ食いたいなあ」

「いつでも振舞ったる」と門島は言ってから、国菊を二杯呷り、きりっとした顔をして、言った。

「バンドつくろうや。なんとかなるで。うん、君と僕ならいけるやろ」

「バンド始めるのは悪くないんですけど、ちょっと待ってください。僕、三年ほどライブやってないんです」

「そうか。まあ、またバーを開けるようになったら、一緒に演奏しようや」

 夜が明けるまで飲み明かした。酒に弱い春哉は味見するように飲み、ウイスキーを豪快に飲む門島を眺めていた。

 部屋探さないといけないし、何かあったらはがきで用を知らせたいからと門島に住所を聞かれた春哉は教えた。

 肩を叩き合って、握手する訳でもなく、また来るからと心のなかで告げて春哉は店を出た。


 商店街のくじを引きに出かけることも、ギターを弾くことはおろか、音楽を聞くことも面倒で心ここにあらずの春哉は漫画のページを機械的にめくっていた。漫画喫茶の個室で寝転がりながら。

 マンションの向かいでビルの工事が行われていて、騒音から逃れるため、二日酔いでやや寝不足な身体で歩いてやって来たのだった。

 彼が今読んでいるのは「ひょろり豆吉珍道中」という、江戸時代に豆屋を営む豆吉が近所のイタズラっ子に大福豆を道端の石にすり替えられ迷惑したり、未知の豆を作るべくあらゆる地形に種を埋めてみたり、長崎まで出かけオランダ人に豆の絵を描いて見せ、外国の豆を勝手に輸入しようとしたりする、そんな漫画だ。

 母親がおはぎを希望しているのに、手元に枝豆しか無く、ずんだ餅を作って渡したところ、ずんだの匂いが苦手と断られ、自分が食べた後、姪にずんだ餅をせがまれ困るという話を読んで春哉は親孝行について考えた。

 ふらり上京して四年経った。くらりくらりとよろめいてしまう位、暗い暗い人生だった。ライブハウスでミュージシャンの知り合いができず、ライブを開いても友達は誰も来てくれず、去年惚れた女の子は早々と結婚していくし、、同窓会の誘いは一切無いし、録音機材や家具はどんどん壊れていくし、一週間に一度のスモークチキンを食べる楽しみも最近はできないし、携帯に間違い電話ばかりかかってくるし、蛍光灯の寿命が切れたから新しいの買ったらサイズ間違っていたし、全然ダメだ。

 けれども、ここで何か親孝行をしておけば、神様がちょっとは運を好転させてくれるかもしれない。

 そう思い立った春哉は利用時間が過ぎ、漫画喫茶を後にすると、デパートに向かい、母親にはバウムクーヘン、父親には熊本のからしレンコンを買って送ることにした。

 あてもなく街を歩き、路地裏の側溝にクレヨンで描かれた白猫の背中に桜が乗った絵や、中野サンプラザ近くの道を歩いている際に見かけた女性の着ているシャツの絵に印象が残った。それは銀杏並木の下を猫たちが闊歩するものだった。

 夕方になって、居酒屋に入るとメニューに国菊があったので、春哉は門島を思い出しながらそれを注文し、ぬる燗にして呑んだ。

 線路沿いの道を通って、がむしゃらに歩いていくと、公園にたどり着いた。塗装の剥がれた三つのベンチと水飲み場以外には大して何もない小さい公園だった。

 砂の上に置かれた四本のペットボトルの中の水はどれも淡い色に染まっていて、小学生の女の子が色水を作って放置したのだろうか。静かな感情が秘められているようであった。街灯に照らされる、ぼんやりした色の水を眺めながら春哉は涙をこぼした。そこそこの色合いを保ってきた日常がだんだん薄まっているからか、ただ単に穏やかな色を見て癒された気分になったのか、街灯の光でキラキラ輝く水に感動したのか。そのどれでもなく、意味も無く泣いてしまっただけなのかもしれない。

 公園名を記した看板のかすれた文字が夜の闇で余計に隠されてしまいそうだった。


 何か目新しい趣味を探そうとした春哉だったが、惰性で結局商店街のくじを引きに行ったのだった。

 春哉はJR山手線の目白の駅で降りた。

 しかし、ペーパーウエイトとティッシュ箱しか当たらなかった。春哉は寂しく笑って、ヘヴィメタルのライブを見に行きたい気分になったが、実際には宇治金時でも食べに甘味処を探して歩くことにした。

 だけど、なかなか甘味処を発見できないまま、住宅地の方に進んでしまい、どんどん南へ向かい、高田馬場まで道を誤ってしまった春哉は目白駅前へ戻り、目白通りを歩いていくと木地の看板に緑の字で「志むら」と書かれた和菓子屋を見つけた。

 一階は和菓子を販売しており、甘味喫茶になっている二階まで上がって、メニューを眺め、九十九餅がついてくる自家製和菓子と冷たい抹茶のセットを注文する。メニューにはかき氷の種類も豊富にあったが、自家製和菓子という言葉の響きに惹かれてしまったのだ。

 九十九餅とは卵を練りこんだ求肥で虎豆を包み、きな粉がまぶしてある名物菓子である。

 何気なく店内を見回したところ、窓側の席に了内らしき後姿の女性が座っているのが見えた。

 彼女は目白の近くに住んでいるのかなと思いつつ、四個ある九十九餅を三個ほど食べた辺りでその女性が立ち上がった。すると、了内だったので、二人とも驚いて声をあげた。

「えっ、ここにはよく来るの?」

「いや、たまたま立ち寄ったの。君も?」

「うん。あと、九十九と聞いて九十九里浜が浮かんできてしまったのは僕だけかな?」

「うーん、思い浮かべなかったな。チャッくんウェルカムボードいる?」

「うん、ありがとう」

 未だにチャッくんグッズは増え続けていて、困り果てた彼女はトランクルームを借りて、業者にコンテナに荷物をしまってもらい、庭に「物品の送り主へ 利用料一万二千六百円お願いします」と書いた立て札を掲げておいた。

 後日、スナック菓子の筒状の容器に現金が入れられており、香ばしい匂いを発するそれらを苦い顔をしながら財布にしまっただとか。

 話は愛猫チャッの可愛い仕草から猫が食べてはいけないもの、門島のバーの閉店へ流れていった。

「いっそ今度は同じ店四軒並べて開店させればいいんじゃない?話題作りにはなると思うし、そうしたらみんながマスターになってみるってことで」

 了内は大胆で滅茶苦茶な冗談を叩いた。

「斬新だけど、どの店に入っていいか迷うよね」

「だからメニューと内装はそれぞれ違うものにすればいいんじゃない?」

「うん、そうだね。いっそテキーラやアブサンのような度数の高い酒のみ置いたり、酒を凍らせてシャーベットみたいにして出してみたら面白いかもね」

「バーのように見せかけて、お酒で作ったゼリーやアイスを売るのもいいと思う。あっ、そろそろ帰らなくちゃ」

「それじゃ、またどこかで」

「なかなか会えなくなってしまったけど、いつもの調子で行きましょ」

 凪のように穏やかに微笑んで手を振る了内に春哉もだらしない笑顔で返した。


 それから四ヶ月の間、春哉はコンガをでたらめに叩いたり、ブリキ缶に入ったサボテンの栽培セットを育ててみたり、部屋の照明を水色や緑などのカラー蛍光灯に変え、ライブハウスのステージに立っているかのような気分に浸ったり、千葉の商店街まで行ってくじを引いてみたりして、日々を過ごしていた。

 ある日、玄関ドアの郵便受けを開けると門島からのはがきが届いていた。久しぶりに集まるので来なさいという内容だった。

 待ち合わせ場所の貝料理の店は高円寺にあった。

 店舗の脇にある階段を昇ると、お座敷に門島と了内が座っているのが見えた。

 三人でお通しの銀杏を食べながら、電気ブランを注いだグラス片手に話していると、軸子と暮井もやってきた。

 春哉は焼いたマテ貝や貝出汁茶漬け、生牡蠣に舌鼓を打ちながら、門島の近況報告を聞いていた。

「色々なバンドのTシャツやバッジを売る通販とライブハウスのスタッフのバイトをかけもちしてるけど、これはこれで楽しいよ」

「そのライブハウスはどこにあるんですか?」

「下北だよ。受付で店員とコイントスをして裏だったらドリンク代がタダになる」

「へえ、遊び心がありますねえ」

「おっ、妙な顔してどうしたんや」

 ずっと戸惑っているような顔をしている軸子に門島が声をかけた。

彼女が喋りだす前に暮井が口を開いてしまう。

「どうやら投稿した詩が雑誌に載ったのが嬉しかったみたいで、だけどまだ素直に信じられないみたいでこんな顔をしているのです」

「よかったじゃない、よかよか。あまりのめでたさに貝も踊ってる」

 酔っ払った了内が変なことを言い、暮井が牡蠣の貝殻を手に持ってひらひらさせた。軸子はふふっと少し笑った。

 門島はテーブルから身を乗り出して聞いた。

「それで、その詩はどんなんやね?」

「こつこつと米粒一つ一つを拾い集める思いで書いた詩です。ふっくらした言葉を味わってください」

 軸子はそう言って鞄から雑誌を取り出して門島に渡そうとした。 しかし、門島は静かに横に首を振り、「朗読しなはれ」と言った。

「じゃあ、読むよ」

 ページをめくり、掲載されている箇所を覚えているのか、素早くそのページを開くと、「ほうとうハシゴににゅうめん」と題名を言い、読み上げ始めた。


 ほうとうの渦にまぎれたにゅうめん

 麺を知らない子供がいま器に箸を入れる

 「にゅうめんがあったっていつか気付いてね」

 底でうずくまろうとしたにゅうめん

 ゆらゆら舞うだんだらがほらだんだんと

 ほうとうのハシゴを渡って

 小さな笑顔の中へ


 春哉は心の芯がほぐれていくのを感じた。それは生煮えの麺のような固さだった。

 美味しい麺を食べ終えた気分で春哉は言った。

「温かいほうとうですね、心細そうなにゅうめんを手助けしてあげてる」

「ほんと、ほんと。麺の幅だけやなく心まで広い」

「今度五色そうめんでにゅうめん作りましょ」了内が提案した。

「彼女が笑っていてよかった」しみじみと暮井が言った。

 暮井が軸子と二人で通信販売を始めたという話をした。ヒノキのまな板や寿司桶に詩を彫ったものや、紙粘土で表裏を白黒に塗分けた猫の顔を作り、猫オセロと名付けて売ったりしているらしい。ただ、一セット六十四個も手作りで作るのはしんどいので、すぐにやめ、現在は透明粘土で作った花を売ることにしたらしい。携帯の写真で見せてもらうと、淡い桃色の花が半透明に咲いていた。

 午前一時頃、了内が寂しげに笑って言った。

「一ヵ月後に金沢行こうかな」

 門島が言った。

「旨い銘酒あったら送るように」

「とりあえず作品贈るから旅で仲良くなった人に渡してみてよ」

 暮井がちゃっかり宣伝する。

「写真とか送ってね、あなたの旅の温度が知りたいから」

 酔っ払っているせいか、突然の別れの挨拶に戸惑っているせいか、みんなが次々と了内に話しかけ、会話が先に続かないが、誰も気にしていない。

 春哉は了内が仲間内でどんなことを始めるかと期待していたので、切なくなったが、なんとか冷静に言った。

「いつでも戻ってくればいいじゃん」

「色々な音や思い出を持ち帰ってくるよ」

 しばらく酒を飲み、貝をつまみながら、それぞれの再会の想像を広げていた。

 春哉は突き上げ屋根の民家で囲炉裏を囲むようにして談話するイメージを描いた。一度も行ったことはないのに、なぜか思い描いた。

 軸子が手紙を書くのを提案する。

 みんなで手紙を書き、それを木箱に入れ、目印をつけて自分のものを取らないようにしておく。

 しかし、門島が漢文で手紙を書いたりして受け取った自分が困惑しながら読もうとする光景が目に浮かんだ。

 門島が想像したのはスタジオに集まって、好きなだけ楽器を演奏して一人一人歌っているというものだった。

 誰がどう歌うんやろな。春哉はアコースティックで好きな人の家にさりげなく花を植えたみたいな曲を歌い、俺はロックに反原発のメッセージソングを歌って、軸子はジャズ風の伴奏に野菜を絵の具で白黒に塗るという詞を乗せ、暮井はテルミンを器用に使いこなし、証城寺の狸ばやしを歌い、了内はニューウェーブな曲であみだくじで旅行手段を決めようという内容の歌を歌うんちゃうかな。

 そして軸子の頭のなかには一面に鏡が張られた部屋で、床に敷き詰められた銀杏の黄色に魅入るみんながいた。幼稚園児くらいの女の子がしゃぼん玉を吹いて、幻想的な風景がさらに幻想的になる。その女の子の横で三人の男の子たちが風車を回して鏡に鮮やかな残像が映っていく。全員がカメラを持ってこなかったのを悔やむのだった。

 暮井が思い浮かべたのは粘土アニメをみんなで作るなんてシンプルなものではなかった。一行はビルの屋上に立っていた。両手には桜の花びらが山盛りに乗っている。もちろん粘土で作ったものだ。

 春哉のは色が濃すぎていて、門島のは五枚分はあろうかというほどに分厚く、軸子のは小さすぎて、了内のは花の一部が欠けていた。

 それらの桜もどきを地上へ散布する。あっという間に花びらは飛び去って見えなくなり、人々の反応も確認できず、徒労感に包まれる。

 ロープウェイが了内の現実と妄想を行ったり来たりしていた。夕暮れの渓谷を渡るゴンドラ。席には金沢銘菓の柴舟が置いてあり、暮井が何の警戒も無く、食べてしまう。その様子を見て笑う私と門島。軸子はふくれている。春哉はふんわり名人を食べたい気分になっていた。

 会計を済ませ、春哉たちが店から出ると一匹のツグミが街路樹の枝に止まっているのが見えた。

 みんなは和やかに笑いあって、手を振り、別れた。

 春哉は橙色の街灯の光に包まれながら、都会に限られた動物しかいないのは何故か少し考えた。

 それから今度みんなでカラオケに行きたいなと思って、ちょうど右脇にあるガードレールの柱を見つけた春哉は中腰になって、それをマイク代わりにして歌った。見事にアホだった。


 駅前で四人組の男がトランペットやトロンボーンを吹き鳴らしている。緩やかに上昇するメロディを聞きながら、春哉は商店街を目指し歩く。今日こそ音玉を福引で当てるために。

 カフェテラスでは二人の女性が楽しそうにおしゃべりして、マドレーヌにハチミツを垂らして食べている。

 向かいのたいやき屋では主婦が子供に温かいたいやきを買って与えていた。

 前を歩く禿げた青年と白いチュニックを着た女性の会話が春哉の耳に入った。

「水色の水飴に桜散らしたの、おいしかったな」

「君がベンチに座って舐めてたら、黒猫がやってきて、驚いた君は飴落としちゃったんだよな。それでも君は笑ってた。ちょび髭を生やしたような猫が来て、水飴でベトベトの黒猫の顔を舐め始めて、もうメチャクチャだった」

「まあ、落としちゃってくよくよしたけど、すごい猫可愛かったよ、実際に」

 そこまで喋ったところで、カップルは右に曲がったので話は中断された。

 老夫婦を前にして、スケッチブックに似顔絵を描いている長い髪の女性。完成して彼女が掲げたその絵はお世辞にも上手いとは言えないが、素朴でぼんやりした質感が特徴的な絵だった。

 老夫婦が礼を言って去った後に眺めていたのに気付いていた女性が春哉に声をかけてきた。

「似顔絵ってただすれ違う人を親しい人と同じように描けるのがいいんです」

「そんな親しみやすさがあるんですね。知り合いにそっくりな人もいそうですね」

「私の似顔絵描いてみませんか」

 突然の提案に面食らいつつも、春哉は女性から道具を受け取り、十分かけて似顔絵を描いた。

「まさか似顔絵描くことになるとは思わなかったな」

「たまには描いてもらいたい気分になることもあってね。妙にたれ目気味だけどありがとう」

 これから女性は休憩をするらしく、春哉は自分の似顔絵を描いてもらう番はまた今度にして、先を急いだ。

 商店街のそこら中に紙吹雪が舞っていた。

 街の真ん中まで歩いていくと、福引所が見え、受付に黄色のベルガールが立っていた。

 物珍しさに十秒ほど食い入るように見つめてから、春哉はジーンズの右ポケットから福引券を三枚取り出し、ベルガールに渡した。

 春哉は期待に胸を躍らせながら、レバーを回した。

 一回目に当てたのは五等のコーラだった。

 お百度を踏みたい気分になりながら、春哉は今度はゆっくりとレバーを動かした。

 黄色の球が出て、これは三等。賞品はシュガーパズルというボタン程の大きさの角砂糖に絵柄をプリントしたものだ。写真ケーキのようなものだ。

 パッケージには提灯をぶら下げて夜の砂浜を歩く猿の絵が写っている。

 二度挑戦して当たらなかった春哉は焦りのあまり歌を歌い始めた。


 ころころ心は変わるけど

 音玉欲しくてしょうがない

 酒断ちしたら手に入るのか

 願掛けしてうまく行くならいくらでも

 あつまる

 自在に鳴らす世界

 のどまる

 今がぴったりになっていくよ


 歌い終えると、ベルガールが長机の奥から出てきてレバーを握る春哉の手に自分の手を重ねて言った。

「手重ねたら当たるかな? まあやってみましょう」

 春哉はうなずいて、目を閉じて無心になった状態でガラポンを回した。

 耳元に温かな声が聞こえてきた。

 銀色の二等辺りだろうと思いながら、春哉が目を開くとそこには黄金の球。

 抑えきれない喜びに春哉は視界が発光していくのを感じていた。 それは幸運の色に輝いていた。

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おとだま みんなもともと生死 @minamialpen360

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