Chapter01 ロシア式バースディクラッカー

原稿用紙約56枚

§01 導火線が引かれた日

 コーヒーをいれて戻ってくると、リビングに死臭が立ち始めていた。

 実際に死体があって臭うわけではない。だがおそらくは、これからそうなるだろうという確かな予感。それがさっとサニーの首筋をかすめて、背後へと去っていった。

 サニーはそう思うと足を止めたかったが、兄とその仲間たちに咎められるのは嫌だった。言いつけ通りすみやかにコーヒーを持って行く。

 この雰囲気の理由はすぐに知れた。リビングにいる男たちは、彼を含め六人。用意したカップは四つ、サニーの分は入っていない。それとは別にコーヒーを飲まない人物が、今まさに〝死のさだめ〟にあるのだ。

 サニーがテーブルを回る間、その男は憔悴した様子で拳銃を握り締めていた。くまを作った虚ろな目、剃られていない髭、冷や汗に濡れ土気色の顔をした中年。

 時代遅れのリヴォルバーは、苦く濃いモカと同じ色をしていた。

 男がだらだらと汗を流しながら、それをゆっくりと自分のこめかみに銃口を押し当てる。泣き出しそうに顔面が痙攣していた。


「……兄さん、何やってるの」


 最後の一人、クラウディオにカップを渡し、そっと訊ねてみる。


「見れば分かるだろ、ロシアンルーレットだよ」


 それが何かの余興であるかのように、十二歳年上の兄は答えた。サニーと同じ赤みのかかった金髪を真っ赤に染め、眼鏡の奥では緑の瞳が蛍火のように燃えている。


「見事、空砲を引き当てればお咎めナシという寸法さ」


 笑っていた、その瞳が、口元が。愉しんでいる。


「そんなのあんまりだ」


 この事態を言い出したのが兄なのか他の連中なのかはともかく、それだけは間違いない。サニーは空になった盆を胸の前で抱きしめて、気を奮い立たせた。


「いくら裏切り者でも……ゲームで生死を決めるなんて、悪ふざけが過ぎるよ」

「サニー、部外者のような口をきくんじゃない。これはせめてもの慈悲なんだよ」


 クラウドはソファから立ち上がり、顎を掴んでサニーの口を封じた。


「マッセナ! うちの弟にまで言わせてどうすんの。早く度胸を見せてみろよ、腰抜けのジューダス」


 クラウドに呼ばれて、裏切り者の男は肩を跳ねさせ、顔面の痙攣を全身に伝播させた。引き金の指がゆっくりと動き出す。

 哀れなマッセナ、その罪状は組織の資金横領だ。せめて彼の名前を覚えておこう。サニーがそう思ったのは、これから起こることを目にするなんて、とても耐えられそうになかったからだ。

 きつく目蓋を閉じて、眼前の現実をシャットアウトする。けれどその闇をこじ開けて、何かが遥か彼方から飛来してきた。それは重厚で荘厳で華やかな、

──鐘の音色。

 思わず両の目を開くと、リビングの男たちも天井を見上げ、音を探すようにきょろきょろと首を回していた。ほとんど無意識にサニーも同じような仕草を取っている。


「これは……?」


 音を探しているのは、兄も例外ではなかった。サニーの呟きに応えて言う。


「ああ、あの『時計塔』だ。知っているだろ、サニー。

 十五年この方、一度も鳴っていない、あの時計塔の鐘だよ」


 センタープロヴィデンス旧市街の住民ならば、どこへ行っても聞こえるだろう機械鐘きかいしょうを、サニーは耳にしたことがない。それは彼が生まれるよりも前、都市が戦火を逃れて大地へ潜って以来、原因不明の故障で停止してしまったからだ。だが。

 今この瞬間、終戦から十五年ぶりに、時計塔は午後の二時を告げていた。

「ふん、丁度良い。マッセナ! こいつが鳴り終わる前に、一発やっちまいな」

 朗々と鳴り渡る鐘の音にまけじと、窓辺の男が声を張り上げた。

 タイヤのような腹と、たっぷりの髭を持つ巨漢だ。そいつはこのグループのリーダー格で、サニーから見れば唯一、兄にとって目上にあたる。確かレイモンという名前だったか。

 マッセナは一瞬、夢から覚めたような表情になると、それから恐ろしい形相になった。かっと目を見開き、がちがちと合わない歯の根を無理やり噛みしめる。

 その唇がぷつりと切れて、血の玉が滴った。命そのものの赤い色。寄せては引く波のように、押し寄せる音の洪水の中で、サニーはマッセナの祈りを拾った気がした。


──ああ、神さま。


 その一発で、幾重にも降り積もった音の綾織りが消し飛んだ。耳がキンと痛くなるような静寂の中。その一発で、サニーの平衡感覚は吹っ飛んだ。天地が逆さまになったような感覚に、足元がぐらつく。自分一人が逆さまになった世界で、兄と男たちが笑っているのが辛うじて見えた。無音の笑いが酷く醜悪で気持ち悪い。自分の足裏で床が溶けていくのに、掴まる物が何も無くて、孤独と恐怖に絡め取られながらサニーは暗いどこかへ落ちていく。

 急速に色と光を失う視界の片隅で、二つだけぎらぎらと色を残す物があった。黒光りする拳銃と、床に散ったマッセナの血。モカのような黒と、命そのものの赤だ。

 その一発で、何が起こるか皆知っていた。

 サニーもクラウドもマッセナも、全員が。



「ねえ、ねえってばサニー。さっきのばーんってやつは、銃声よね? いきなり鐘が鳴り出してびっくりしたけど、あたしちゃんと聞いていたんだから。うん。それでクラウドが撃ったの? クラウドが撃たれたの? ねえってば!」


 部屋に戻るなり質問責めにされ、サニーは露骨に苦々しい表情になった。失神から叩き起こされるなり、トイレに駆け込んでさんざんに嘔吐したのだ。まだ口の中が酸っぱい。


「……兄さんが、ロシアンルーレットをやらせたんだ」

「じゃあクラウドは無事なのね。良かった!」


 小さなお姫様であるところのキャスリーン・ヒューズはようやく満足し、サニーのベッドに腰かけた。二つ結びにしたプラチナブロンドと、どこか冷めた灰色の瞳。

 肌は乳性の白に静脈の青がくっきりとして、青白いがとてもなめらかだ。まるで銀とガラスで出来た細工物のように、華奢で繊細な九歳の少女。

 もっと精をつけないといけないんじゃないの、とサニーは心配するのだが、「ちびのやせっぽち」などと痛い所を突かれると言い返せなくなってしまう。


「ねえキャス、君が兄さんの無事を喜ぶのはいいけれど。うちで何が起こったか分かってるのかい? ……人が死んだんだよ」

「死んでしまえばいいのよ」


 面白くもなさそうに言って、灰色の瞳が刺々しく尖った。

 そのきゅっと釣り上がった目を見ていると、この子は将来キツめの美人になるんだろうなあ、とサニーは思う。


「死んでしまえばいい。どうせこの家にいるのは、クラウドとあなたの他は、ろくでもないテロ屋どもじゃない。そんなヤツらが互いにつぶし合ってくれるなら、きっとおまわりさんだって喜ぶわ。素敵なことよ。だけどキャスの知ったことじゃない」


 確かにキャスリーンの言う通りだった。

 この家はセンタープロヴィデンスを騒がせる、職業的テロリストの巣窟になっているのだ。確かウェザーヘッドとかウェザーマンと名乗るグループで、日夜銃の手入れだの爆弾の製造だの強盗の計画だのに勤しんでいる。

 そもそもキャスリーンは、サニーとクラウドのグレイス兄弟とは何の血縁もない。だというのにこの家で暮らしているのも、誘拐されてきたからだ。

 そして誘拐犯のクラウドは、そのテロ屋の立派な一員である。だがキャスリーンは、〝ろくでもないテロ屋〟に兄を含める気はさらさらないらしい。


「それよりあたしは、退屈で死にそうよ。あなたも、あなたの部屋もつまんないんだもの」


 溜め息をついて、キャスリーンはこれ見よがしにサニーの部屋を見回した。

 ジムからもらってきたボロボロのサンドバッグ、ボクサーのポスターとボクシング雑誌。鉄アレイ。ここにあるのは勉強道具とボクシング関係のものばかりだ。

 キャスリーンはにっと笑って、にわかにサニーの腕を掴んだ。


「女の子みたいに細い腕なのに、パンチの練習なんて出来るの?」

「これでも鍛えているんだけどな」

「知ってるわよ、トレーニングしているものね。部屋からちっとも出ないけれど」


 この五年、サニーは家の庭にすら出たことがなかった。好きで引きこもっているのではなく、兄が外へ出させないのだ。

 散髪にも行けないから自分で髪を切っているが、面倒なので背中までかかるに任せていた。前髪はすっかり目元を隠してしまっているが、最近はもう気にならない。

 ネットを始め外部への連絡手段も取り上げられていた。家電LANのAIでは話し相手にもならない。そんな軟禁状態の生活でやることといったら、掃除か勉強か筋トレぐらいだ。

 その点で、誘拐されてきたキャスリーンと自分は、まったく同じ立場なのだった。だが、サニーはクラウドの身内だが、キャスリーンは他人だ。

 テロ屋が子供を誘拐したのなら、身代金か人身売買か。とにかく恐ろしい結末が待ち構えているに違いない。


「キャス。僕のことよりも、君は君の身の上を心配したほうがいいと思うんだけれど……」

「心配ないわ。クラウドがいるもの」

「だからね……」


 どうしてかキャスリーンは、この家に悪党を引き入れ、自分を連れてきたたあの兄を深く慕っているようだった。

 そもそも彼女に誘拐されてきたという認識があるかも怪しい。以前聞いた話では、家出して路頭に迷っていた所を、クラウドに「拾ってもらった」のだと言う。

 だが、兄の名を口にする時の、うっとりとした顔。花の芳香が広がりそうなその笑みを見れば、彼女がクラウドを理想の王子様のように考えていることは明白だった。

 今でこそ恐怖と嫌悪の的であるクラウドだが、サニーも昔は兄を自慢に思い、尊敬していた。十一年前、両親が死んで以来ずっと親代わりだったのだし、愛情をたっぷり受けて育てられてきたのだ。それが現在では妙な方向へ転がってしまったが。

 だから、キャスリーンが兄に思慕をつのらせる姿には、〝だって僕の兄さんだし〟という誇らしいような気持ちと、〝そんな奴を信じちゃダメだ!〟という心配で複雑な気分になる。


「サニー、あなたはクラウドの味方じゃないの?」


 不意に、キャスリーンの顔が間近にあった。息がかかるどころか、鼻と鼻が触れあいそうな距離で、サニーの丸く大きい瞳を覗き込む。その視線にか、言葉にか、彼女の持つ磁力のような何かに貫かれて、どきりとした。


「彼は弟のあなたを愛してる。今だって大好き。なのにあなたは、クラウドに冷たいんじゃないかしら。そんなのってヒドいわよね、ちゃんと報いなきゃ」

「……報いる?」


 確かに、兄には多大な恩があった。五歳で孤児になったサニーは、兄のお蔭で何不自由なく成長出来たのだ。だが、それとこれとは別だと思う。


「兄さんは悪党だ。あちこちで人を殺して、それを僕に見せたくなくて閉じ込めてる。そして、そのうち僕にも手伝わせようとしているんだ」


──そんな奴の味方だなんてまっぴらごめんだ!


「じゃ、あなたは無理やりお手伝いさせられるまで、人を殴れもしないパンチの練習をするのね。黙って言われた通りにして、それでお兄さん一人を恨むのよ」


 何かが弾けたように目の裏が燃え上がった。頭蓋の底から稲妻が発したようなショックに、体が中心から崩壊するような気分になる。

 あまりに図星過ぎて怒りも沸かなかった。自分は兄を憎み切ることも、素直に慕うことも出来ずに、何もしないでいるだけなのだ。兄に閉じ込められたから、それを言い訳に、自分で閉じこもってしまっている。


「ねえサニー。あなたがクラウドを見捨てても、あたしは怒らない。でも、あたしはぜったいにクラウドの味方よ。なぜだか分かる?」

「君を救ってくれたからだろう」


 キャスリーンは一度「帰りたくない」と言っていた。家を捨てて逃げてきた彼女にとって、兄との出会いはまさに救いだったのかもしれない。


「それもあるけど、ちょっと違うの。あのね、約束してくれたのよ」


 桜色の唇が、「ないしょだからね」と囁いた。サニーを手招きし、手で囲いを作って、その耳にそっと言葉を流し込む。恍惚として甘やかな声で。


「初めて会った時、言ってくれたの。キャスを〝爆弾〟にしてくれるって」

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