第7話
蓼崎の頭部には、もう一つ傷があった。
これは本当に切り傷であった。
髪が暖簾のように被さって隠してはいるが、ツムジから左斜め前方に向かって約五センチ離れた位置をスタートとして、オデコに向かって、太さ約五ミリ、長さ約十センチほどの生々しい白い一本の線が引かれていた。
これも小学校中頃のことだった。
夏休みに、山奥にある祖父の家に、家族で里帰りに行くことになった。その日は従兄弟一家も里帰りに来ていた。
従兄弟一家は、保護者を除くと、女二人、男二人のバランス型の四人編成。
蓼崎三兄弟とは歳も大きく離れていないので、両家の仲は悪くはなかった。特に、従兄弟の長女・長男と、蓼崎家の長男・次男とでは、歳がもっとも近寄っていたので、四人は特に仲が良かった。しかし、紅一点が、男三人の揶揄いの対象になることがあって、三対一の攻防の騒ぎが度々勃発した。
蓼崎家三男は、玄関の引き戸をガラッと開けた。そこへゴミ箱が飛んできて、左側頭部に命中した。プラスチック製のゴミ箱は、一部砕け、石造りの地面に乾いた音を立てた。
三男が顔を上げると、二メートルほど先の上がり框のすぐ先で、蓼崎家の長男と従兄弟の長男の背中が並んで見えた。腰をかがめて、その先の何かから身を守ろうとするような体制を取っていた。両手を顔の前で広げ、太陽光線の眩しさから目を守るような体制だった。
その更に一メートルほど先に、紅一点がこちらを向いていた。ピッチャーが投球を終えた直後の体制で、口を半開きにして、目を丸くして三男を凝視していた。
三男は一瞬で状況を把握し、この奇跡に笑った。そしてなぜか彼は照れていた。
直後、足元に、ポタリポタリと、赤い、大きな丸や小さな丸の不吉な水玉模様が落ち、石造りの地面に、紅を何点も彩った。
それが、流れ落ちてくる、自分自身の大量の血液だと知ると、たちまち恐ろしくなってしまい、赤ん坊のように声を上げて泣いたのだった。
その日は日曜日で、病院がやっていないということで、三男はタオルを頭に巻かれ、傷の処置はそれで終わった。
彼の傷は、頭の他にもあった。
飛蚊症といって、常に蚊のような、点のような線のようなものが、目の前をウヨウヨするという症状である。
これは初め、読書の妨げとなって彼をイライラさせたが、最近ではこの飛蚊症をコントロールして、活字にこれを這わせながら読むという楽しみ方を見出していた。
この飛蚊症の原因も、小学校の中頃にあると彼は踏んでいる。
彼が小学校ぐらいの時には、“超能力”がテレビなどで流行っていた。彼もスプーン曲げや、念力に挑戦してみたが、やはり上手くいかなかった。
ある雑誌に『レモン汁を目に入れるとエスパーになれる!』という内容のことが書いてあった。これを彼は実践したのだった。一回で成功しなかった時点で止めればいいのに、彼は何回も実践したのだ。
他の傷跡と言えば、右手首の脈から腕に向かったすぐのところに、直径三センチほどの丸い火傷の跡がある。
三歳の頃に、台所でピーピーと沸騰したヤカンを、手伝いのつもりで持っていってやろうとした。言われなくても出来る子をアピールして、褒められたかったのである。
台所に身長の足りない彼は、ヤカンを持ち損ねて熱湯を被って大騒ぎを起こした。
火傷の跡が、手首一点にしか残らなかったことは幸いだったが、善意の報いとして受けた心の傷は、今後の彼の人格形成に大きく影響を及ぼしたことだろう。
彼はサンタクロースに憧れる子供であった。
朝起きて、枕元にプレゼントのあることの喜びは大きかった。
その喜びを、他の人間にも与えてやりたかった。
彼は自分を「てつたくろーす」と言って、兄の枕元にお菓子を置いた。
兄二人は、かわいい弟がすることに喜んだ。喜んでくれる兄をみて、鉄男も喜んだ。
ある時長男の枕元にチョコレートを置いた。喜ぶぞと思って、朝を楽しみに寝た。
翌朝、長男の激怒する声で目が覚めた。
チョコレートが枕元で溶けてベトベトになっていた。
「ふざけんな!」と怒鳴られ、シュンとなっている所を、母親が間に入ってなだめてくれた。
これをもって「てつたくろーす」は廃業し、善意の報いとしての傷口はくっきり残る事となった。
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