第5話

蓼崎は、雨の朝を迎えると憂鬱な気分に襲われることがあった。

過去の嫌な経験が自然と頭の中で想起され、イライラが募ってくるのである。

憂鬱が過去の嫌な経験を引っ張り出すのか、過去の嫌な経験が憂鬱へと誘うのか、分からなかった。

この朝も雨だった。

彼は、やはりイライラし、三ヶ月ほど前まで働いていた工場での嫌な出来事を思い出していた。


彼は、ダラダラと時間をやり過ごすように、仕事をしていた。

あと一週間で仕事の契約が切れるので、完全にやる気を失っていた。

職場は、大体毎日残業だったので、「どうせ今日も残業だろうな」と思っていた。

本日定時終了のお知らせが彼に伝わったのは、終わる三十分前になってからだった。

この後すぐに常勤の人間が帰り、自分はその交代要員だった。

残業を考慮したペース配分だったので、今の仕事がギリギリ終わらなそうだった。

そんなバタバタがあって、少し周りを巻き込んで、なんとか全員と同じ時間で帰ることができた。

彼はイライラしていた。

実はもっと早い段階で、残業の有無を知る人物に確認を入れていたのだ。

その際に相手は何かヘラヘラとして、まともに答えようとしなかった。

そこへ仕事の流れが押し寄せ、結局残業かどうかは分からずじまいになってしまい「どうせ今日も残業だろうな」と決め込んだのだった。確認を入れた段階で定時終了と知れていれば、こんなにバタバタする必要はなかったのだ。

しかし、ダラダラと時間をやり過ごすような勤務態度の彼には何も言えない。

不服な面持ちで帰り支度に向かうと、「蓼崎さんが悪いんですよ」と、左後方からぶつけてくるような声が聞こえた。振り向くと相手は、一年半、別の部署にいて、三ヶ月ほど前にこの部署にやってきた上原だった。歳は蓼崎よりも五つ下である。

仲は良くもなく悪くもない。別に話されれば話すし、話さなければ話さなくても構わないといった、ドライな関係の相手だった。

蓼崎は、この部署では、もうすぐ一年になる自分の方がキャリアも長いし、五つ下の上原を完全に後輩として見ていた。

次にこの後輩は「ダラダラ仕事してるから駄目なんじゃないですか」と、突っかかってきた。上原は、蓼崎の勤務態度を遠くからよく見ていたらしい。

しかし、上原も真面目に仕事をやる方ではないことは、蓼崎もよく知っていた。

少し疲れていたし、イライラして誰とも話したくなかったので、蓼崎は「お前嫌い」と、どっかで聞いた言葉を吐き、相手の前を通り過ぎた。

それでは終わらなかった。相手は追いかけてきて、「調子乗ってんですか」と凄んできた。

流石に頭にきた蓼崎は「あ?なんだてめぇ?」と、昔のヤンキーのような口調で言い返した。

すると相手は「調子乗ってんのかって聞いてんだ」と、引き下がらない。

しばらくにらみ合いが続いた後、すぐに目を逸らして帰り支度に逃げたのは蓼崎であった。相手の腕の太さと、年上にも食ってかかる気迫に恐れをなしたのである。

その後、二人はすぐに仲直りしたが、これは蓼崎の迎合を交えた、半分イカサマの男の友情劇によるものだった。


この屈辱的な出来事が、約三ヶ月経過した今でも納得できていないようで、想起される度に動悸とイライラが込み上げてくるのであった。


「上の人間に食ってかかるなんてけしからん!許せん!」彼はこのような信念を持っていた。

そうして、頭の中で「あの場面でこう言い返していたら」と、再び架空の上原と怒鳴りあいを始めるのである。

意思を主張する勇敢な自分を妄想し、あわよくば自分を勝利させようとするのだが、「実際の自分が果たしてそこまで肝の据わった態度がとれるだろうか?」などと考えてしまい、そこで妄想の世界に一工夫を加えなければならなくなる。

まず、怒鳴り合いのさなかに、都合よく仲介者を割り込ませ、その場を収める。周囲の人間は、怒りを露わにして主張した自分に一目置く。女にもモテるようになる。

このような展開にして、彼はまだ少し不服を胸に残しつつ、しかしその不服を甘んじる自分に酔いながら、「まあこんなところか」と自分を納得させようとするのである。

また、「あそこで殴ってやれば良かった」と、妄想の中で殴り合いの喧嘩を勃発させることもある。

都合よく自分を勝利させようとするのだが、相手の腕の太さを思い出すと、一発でKOされる自分も想像してしまうので、そこでも都合よく仲介者を割り込ませ、その場を収める。その後の展開は前に同じである。


こうした妄想に囚われると、それは頭の中にベッタリとこびりついて、やすやすと拭い去れるものではなかった。下手をすれば一日中、その妄想に囚われ続けていた。

その間中、動悸は早くなり、発汗すら促したのである。

そんな時に読書をしても、何一つ頭に入ってこなかった。


夕方に雨が止んだので、蓼崎は外に飯を食いに出た。帰りにドラッグストアで買い物をし、買い物袋を下げて歩いていると、直線方向から三人の小学生がこっちに向かって下校してくる姿が小さく見えた。

彼は子供が嫌いだった。子供は、こちらの迷惑などお構いなしだからだ。すれ違いざまに、どんな災難があるか分からない。

元気に下校する子供たちの態度が、すれ違う時にやや静かになった。

彼はその変化を、自分に対する不信感によるものだと感じた。彼はイライラし始めていた。

通り過ぎた三人の一人が、後方から、買い物袋に書いてあるドラッグストアの店名を、何か発見したかのように、嬉々としたデカい声で言った。

蓼崎は思わず振り返った。

言った本人は目をキラキラさせて満面の笑みだった。

思わずニヤリと笑みを返してしまった、

この時の感情は、イライラとは真逆だと彼は思った。

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