ドラゴンズヘブン

柾木 旭士

 ……神はあまねく命を創造したのち、天上へと帰還した。

 神が創りし命のうち、智にもっとも優れたのは人、武にもっとも優れたのは竜であった。

 いつしかこの二つの種族は諍いを始め、激しく争うようになった。

 神の代行者たる天人は、これを調停するどころか、ふたつの種の争いを見て多いに楽しんだ。

 竜の力は強く、人はしだいに追い詰められていった。

 天人はこれをつまらなく思い、人に竜と戦う力を授けた。それは、竜そのものの力だった。

 人と竜の力は拮抗し、争いは激しさを増すばかり。天人たちは、これを見て大いに喜んだ。

 神は地上の惨状に激怒し、地上に帰還して天人たちを除くと、ふたたび争いが起きぬよう人と竜を海を隔てて分けて住まわせた。

 人は、エウレシアに。竜は、東の最果て、コルドアに。

 『キアランの碑文』より――九六二年・ボスポニア遺跡より出土(ヘンリー・グラッドストーン訳)


 一二〇九年、大東洋沖合――東方調査船団旗艦・プリンセスクローディア号甲板上にて――


「そろそろ冷えてきます。提督、船室にお戻りください」


 艦長・コネリーが、舳先にたたずむ男に声をかけた。がっしりとした体躯に黒々としたひげを蓄えたコネリーに比べ、提督と呼ばれた男は背が低い上に線も細い。一見すると、いかにも頼りないこの男であるが――その眼光は船団の誰よりも明るく燃え盛っている。男の名を、ケンジー・アマディアスといった。


「……艦長か。済まない、すぐ戻る」


 しかし、アマディアスは一向にその場を離れようとしない。


「見張りなど当直のものにお任せください。大将がそんに焦っていては、兵たちが動揺します」

「相変わらず容赦ないな、艦長」


 アマディアスが肩を竦める。

 大海原の果てにあるというまだ見ぬ大地を目指し、故国であるブリーディアを出港して二ヵ月あまり。出港したとき六隻で編成されていた船団は四隻に数を減らし、最後に陸地を見たのはもう一ヶ月以上前だ。類稀なる精神力とリーダーシップで調査船団を率いてきたアマディアスとて、焦りを隠せないでいるのは事実であった。


「あるはずなんだ、絶対に――あるはずなんだ」


 ああ、またいつもの話が始まるな――そう思いつつも、コネリーは黙ってアマディアスの言葉を聞く。それでアマディアスの不安が和らぐなら安いものだ。


「いいか、この世界がどうやら球の形をしているらしい、なんてことは古代の天文学者すら知っていたことなんだ。そして、その大きさだっておおよその見当はついている。しかしどうだ、我々エウレシア大陸の人間が踏破したのは、その世界のうちの三分の一程度だ。残りの三分の二がすべて海、だなんて考えるほうがおかしいだろう」

「私は学者じゃありませんので意見は差し控えますがね。しかし『コルドア大陸』、でしたかな? 古代遺跡の落書きが着想のヒントだった、なんて聞いたら探検費用を出した王様も腰を抜かすでしょうな」

「ハハハ。これで何も見つかりませんでした、じゃあ縛り首ではすまんな。いや、部下たちに吊し上げられ海に投げ込まれるほうが先かな」

「恐ろしいことを言わんでください。そうなったら我々士官一同も提督と道連れだ」

「まあ、そうならんことを祈るしかないな――」


 二人が顔を見合わせ苦笑した、その時。


「艦長! 右舷二時方向に影が見えます!」


 マストの上から声が響く。


「なんだ、船か!?」

「いえ……あれは、おそらく……陸地です!」


 アマディアスとコネリーは顔を見合わせる。二人の両眼は驚きで見開かれていた。

 船が進むにつれ、陸地の全容が徐々に明らかになっていく。大きい。それは、「島」と表現するには巨大すぎた。


「……コルドア」


 アマディアスが呟く。

 ルゲール暦一二〇九年、新大陸コルドアの発見。歴史に残る偉業の達成は、同時に人類にとって最大の天敵との出会いのときでもあった。


 一二九九年、ブリーディア領コルドア辺境地方・ジーン村にて――

 早朝。村の教会に併設された孤児院の門前で、一人の若者が旅立ちの準備を整えていた。茶色の髪とおそろいの色の、優しげな瞳。いかにも人のよさそうな風貌だ。

 彼の名はフランシス・ファウラーといい、当年十八になる。職に就くために、物心ついたころから暮らしてきた孤児院を出るところだった。

 馬に荷をくくりつけているその若者に、一人の少女が寄り添っている。くせっ毛の黒髪を両耳の後ろで二つにまとめた、愛嬌のある娘だった。


「フラン兄ちゃん、私やっぱり不安。鉱山って荒っぽい人たちばかりなんでしょ? 兄ちゃん、喧嘩のひとつもしたことないのに」


 フランシスは困ったように眉根を寄せると、頭一つほど背の低い少女の頭を撫でた。なんと言って少女を安心させようか、と青年が思案していると、戸口に寄りかかった修道衣の中年男が代わりに口を開いた。


「心配すんな、ナタリー。フランシスは読み書きや算術が達者だし、要領もいい。十中八九、事務方に回されるだろうからな」

「神父さまの言うとおりだよ、だから安心して」

「でも……」


 ナタリーは、なおも不安げな表情を崩さない。健康な男子が独立して金を稼ごうとするのなら、軍人、船乗り、鉱山夫になるのが手っ取り早い。孤児であり金も土地もコネも持たないフランシスには、選べる道は少なかった。

 ナタリーもそれは理解している。しかし、フランシスにはもっと相応しい職があったのではないか、その考えが頭から離れない。

 神父が、依然納得がいかぬ様子のナタリーの肩に手を置く。


「大の男が自分で決めたことだ。いつまでもそんな顔してねぇで、せめて笑顔で送り出してやれ」

「……わかりました。ごめん、兄ちゃん」


 ようやく笑顔になったナタリーに微笑み返すと、フランシスはひらりと馬に跨った。


「じゃあ、そろそろ行きます。神父さま、いままで本当にありがとうございました」


 フランシスの感謝の言葉に、神父は苦笑する。「礼には及ばない」とでも言いたげに、ひらひらと手を振った。

 なににつけても大雑把で、言葉遣いや態度も聖職者とは思えぬほどぞんざいな神父であるが、孤児院の子供たちに対する愛情は確かだった。フランシスが独り立ちを決意した際、「選別代わりだ」と言って一頭の馬を用立ててくれたのもこの神父だ。就職先である鉱山に着いたのちは、売って当座の生活費の足しにしろと言われている。とうに盛りの過ぎた老馬とはいえ、貧しい辺境の教会の神父にとって安い買物ではないはずなのに。

 言葉では言い尽くせぬ感謝の念。立派に稼げるようになったら、必ず恩返しをしよう――フランシスは、固く心に誓う。


「じゃあナタリー、元気で。みんなの世話を頼むよ」


 最後にそう言って、フランシスは馬の腹を軽く蹴った。

 住み慣れは故郷を離れることへの寂寥と、まだ見ぬ明日への期待。二つの想いを胸に、フランシス・ファウラーは旅立った。


「ああ、綺麗だなぁ。世界は本当に広いや」


 街道沿いを行く馬上のフランシスが呟く。

 空は雲ひとつない晴天。彼方まで広がる大平原には春の花々が咲き誇り、平原の向こうにはいまだ雪帽子をかぶったままの丈高き峰々が連なる。

 雄大なコルドアの自然を目の当たりにし、思わずこぼれた台詞かと思いきや――フランシスは単に現実逃避を試みているだけであった。

 どしん! どしん! どしん!

 大地を揺るがし迫り来る轟音が、ふたたびフランシスを現実世界に引き戻す。


「はっ!? って、ダメだ、ボーっとしている場合じゃ! こんなところで死ぬわけにはいかないんだ!」


 ブンブンと首を振ると、フランシスは馬に拍車を入れた。


 どしん! どしん! どしん!


 馬の速度が、一段上がった。馬の体力が限界に近いのはフランシスの手綱にも伝わってくる。それでも必死に四肢を動かし続けているのは、馬も本能的に死の危険を察しているからだろう。


 どしん! どしん! どしん!


 それは、巨大な重量を持つ何かの足音だ。全速で走る馬から離されるどころか、その距離をじりじりと詰めてくる。

 悪い夢であって欲しい、この大きすぎる足音も幻聴かなにかであって欲しい――そう思ってちらりと後ろを振り返るフランシスであったが、わずかな希望はいとも簡単に打ち砕かれる。


「っな、なぜ!? どうして! こんなところに『ドラゴン』がいるんだよ!」


 フランシスの見たもの――それは、フランシスの乗馬を追って疾駆する巨大ないきもの――竜だった。

 隅々まで赤銅色の鱗で覆われた体躯。蜥蜴を思わせる長い首と尻尾を持つが、蜥蜴と違い後ろ足二本で走っている。隆々とした筋肉は鱗の上からも見て取れる。前足には鎌のように鋭い爪が生え、口元から覗く牙は一本一本が大人の腕ほどもありそうだ。後頭部からは、鋭角な角が後ろに向けて突き出ている。

 何よりその大きさだ。後ろ足で立った頭の高さは二階建ての建物よりも高く、十メートルはあるに違いない。頭の先から尻尾の先まで測ったならば、二十メートルをゆうに超えることだろう。


「よくわからないけど、こいつ、凄く怒ってるよね!?」


 踏み潰されるか、爪で引き裂かれるか、噛み殺されるか、はたまた竜の呼気ブレスで焼き殺されるか――いずれにせよ、追いつかれてしまえばフランシスの命はない。


「そ、そうだ、深呼吸だ。戦場じゃ冷静な奴が生き残る、って神父さまも言ってたじゃないか」


 かつて軍属だったという神父の言葉を思い出し、何とか平静を取り戻そうと試みる。どんな苦しい状況でも、知恵と気力を振り絞り、最後まで諦めるな。そうすれば、必ず道は開ける。これもまた、神父の教えだった。

 速度は向こうがやや上。今はまだ七十メートルほどの距離が開いているが、それはじりじりと詰められている。馬に拍車をかけ、鞭を入れれば一時的に引き離すことも可能だが、そもそもこの馬は年老いた農耕馬で速く走ることには向いていない。無理をさせればすぐに潰れてしまう。

 逃げられないのなら、立ち向かうか。

 鞍には、炸薬と弾丸が装填された一丁の古びたマスケット銃がくくりつけられている。街道沿いに稀に出没する危険な野生動物に備えるためだ。しかし、これは時代遅れの火縄マッチ・ロック式で、相手は悠長に火縄に点火する暇など与えてくれそうにない。もっとも、より点火が容易な最新の燧石フリント・ロック式の銃があったところどで、この竜に有効打を与えられるかといえば、答えは否だろう。


「……やっぱりダメな気がします、神父さま!」


 どう考えてもジリ貧であった。

 馬の呼吸は激しく乱れ、全身は汗でびっしょりだ。速度が目に見えて落ちていく。この老馬も限界に達しようとしていた。


「ちょ、お願いだからもう少し頑張って!」


 フランシスが鞭を入れるが、もはやそれは意味を持たない。竜との距離は、もう三十メートルに満たなかった。


「グラララアーーーーーッ!」


 竜の口から、ひときわ大きな咆哮がほとばしる。雷鳴にも似た、空気をつんざく轟音。

 フランシスの馬は動揺した。大きな衝撃を受けたようによろけると、駆け足の勢いそのままに地面に倒れこんだ。


「くっ!」


 間一髪、鐙を蹴ってフランシスは馬から飛び降りた。身体を捻ってどうにか受け身をとり、ごろごろと大地を転がる。なかなかの反射神経と運動神経を見せたフランシスだが、当然無傷で済むはずもない。


「っ、痛ぅっ……」


 フランシスの背後には、なおも迫り来る竜の姿がある。必死に立ち上がろうとするも、身体がいうことを聞かない。


「逃げなきゃ……!」


 必死に身体を動かし、這うように前に進もうとする。が、それすらままならない。脇腹に違和感を覚えたフランシスは、ようやく腹部がざっくりと裂けていることに気付いた。落馬のさいに、潅木の枝か岩かどで切ったのだろう。溢れ出る鮮血が、みるみるシャツを真っ赤に染める。


「はぁ、はぁっ……!」


 ――痛い。苦しい。なぜ僕がこんな目に。

 心中とは裏腹に、フランシスの身体は這いずるように前に進もうとする。生きる意志はいまだ失われていなかった。


 どしん!


 しかし、運命は無慈悲である。フランシスが振り返ると、すぐそこに竜がいた。


「っ…………!」


 フランシスはの叫びは、声にならなかった。まるで「力」という概念をそのまま形にしたかのような、巨大な体躯。圧倒的な存在感を持った威容。大地の王者の姿が、そこにはあった。

 竜はぐっと顔を近づけ、爛々とした両眼でフランシスを覗き込んだ。


「っ、……ひっ……はぁっ……!」


 竜の眼光に射すくめられ、フランシスの身体は硬直する。全身は冷や汗でびっしょりで、呼吸すらままならない。


「フシュルルル……」


 竜が火傷しそうに熱い吐息を吐く。その頬を伝った一筋の血潮が、フランシスの身体にぽたりと落ちた。


(こいつ、怪我してる……怒っているのはそのせいだったのか)


 もはやどうにもならない状況。諦観の境地に達したか、フランシスは妙に冷静だった。

 フランシスの全身を一瞥したのち、竜がゆっくりと右腕を振りかぶった。その鋭い爪でフランシスを引き裂くつもりか、それとも力任せに叩き潰すつもりなのかもしれない。


(ああ、ここまでか。神父さま、孤児院に仕送りできなくてごめんなさい)


 フランシスは観念し、目を閉じた。

 その瞬間。

 フランシスの頭上で何かが弾ける大きな物音が響く。

 そして――暖かな液体が降り注ぐのを感じたフランシスは、恐る恐る目を開けた。そこには、首筋から血を噴き出し、苦しげなうめき声を上げる竜の姿があった。遠距離から放たれた一発の弾丸が、間一髪のところで自分をを救ったことを、フランシスは知るよしもなかった。


「危ないところだったね。でも、あたしたちが来たからもう安心して」


 そう言って、何者かがフランシスを助け起した。フランシスの視界は出血でぼやけており、顔までははっきりと見えなかったが、小柄な女性であることは間違いない。


「クリス、早いとこその兄ちゃんを運んじまうぞ!」


 今度は野太い男の声だ。声の方向のには、体格のいい男性の姿があった。深緑色の揃いのデザインの服を身につけた二人に抱きかかえられ、フランシスは荷袋のように運ばれる。

 フランシスは、竜から数十メートル離れた草むらに寝かされた。


「軍人、さん……?」

「喋るな、怪我に障る。クリス、俺が時間を稼ぐから応急手当だけでもしてやれ!」

「わかった! 頼んだよ、エドガー!」


 男性が走り出す。クリスと呼ばれた女性は腰の物入れから布を取り出すとフランシスの腹の傷に押し当て、包帯できつく固定した。


「ほんとはもっとちゃんとした手当てをしてあげたいんだけど、先にアイツを片付けちゃわないともっと大変なことになるから……ごめんね」


 そう言うと、女性もまた走り出した。

 ちょっと待って、と叫ぼうとするも、フランシスの身体にはそれだけの力が残されていなかった。


(アイツ? 片付ける? 一体何を言ってるんだ?)


 フランシスの疑問は、すぐに氷解する。というより、この状況下で「片付ける」べき相手といえばひとつだけだ。ただ、それがあまりにありえない結論だったため、頭のほうが受け入れられなかったのだ。

 結論からいうと――二人は巨大な竜に肉弾戦を挑んでいた。


「うおぉぉぉーーっ!」


 エドガーなる大柄な男が、長柄の巨大な斧を振りかぶり、竜の後ろ足に叩きつける。斧の刃は鱗の隙間に滑り込み、傷口から血が流れた。


「グアアアァァァーー!?」


 巨大な竜が苦悶の叫び声を上げ、激昂して両腕を振り回す。クリスと呼ばれた女性は、腰の二本の剣を両手に構えつつそれをかいくぐると、跳躍して竜の脇の下辺りを二度切りつけた。鱗が弾け、鮮血が飛び散る。


「なん、だ、あれ……」


 朦朧とする意識の中、フランシスは驚愕を抑えることができない。

 なぜなら、生身の人間が、たった二人で竜と渡り合っているのだから。そして、その動きときたら、とても人間のものとは思えないのだ。

 まずはその速度。竜が矢継ぎ早に繰り出す両腕の攻撃など、まるで当たる気配がない。それどころか――失血により視界がぼやけていることもあるにせよ――フランシスの目からは残像すら見えるほどだ。

 跳躍力も生半可でない。クリスという女性など、五、六メートルはあろうかという高さまで跳躍し、斬撃を加えている。

 そして、その膂力も相当なものなのだろう。竜に対し、着実にダメージを与えているのがフランシスにもはっきりとわかるのだから。


(これは……現実? それとも死にかけの僕が見た夢なのか……?)


 フランシスが思ったのも無理からぬことだ。それだけ、竜と戦う二人の戦士の能力は現実離れしていた。

 フランシスの視線の先では、ちょうどエドガーが大斧の刃を竜の脳天に叩き込んだところだ。


「浅いか! クリス、もう一撃だ!」

「わかった!」


 クリスが、エドガーの肩を足がかりに大きく跳躍。さらに竜の肩口を蹴ってその頭部に取り付くと、先ほどエドガーの斧がつけた傷口に自らの剣を突き立てた。


「グロォォォーーーツ!!!」


 竜が激しくのたうつが、クリスは振り落とされることなくもう一本の剣をさらに突き立てる。

 竜の身体は二度ほど大きく痙攣し――ついに大地に崩れ落ちた。

 二人の兵士が、なにごとか叫びながらフランシスに駆け寄る。

 これは果たして現実なのか――はたまた死を間近にしたフランシスを迎えに来た神の使いが見せた幻なのか。

 すべてが曖昧になり、やがてフランシスは意識を失った。

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