八、わたしのはじまり

 一一五〇年六月二二日正午。

 突如姿をくらませていた女王ロザリンデ・ツェツィーリア・フォン・ヴィスタが戻ってきたのをいいことに、成人の御披露目は滞りなく開催されることとなった。七人の賢人が一斉に安堵の息をつく暇もなく。来賓に次ぐ来賓、突然やってきたボーマン伯爵家のアルフレッドやその連れも参列するなどとして、状況は混雑していた。

 だが、七人の賢人は、栄えある御披露目に際し、みな腰を抜かしてしまった。

 あんなに大切に伸ばしてきた長い髪を、女王がすっかり切り落としていたからだ。当事者が飄々としているからなおのことである。

 その女王が耳の下で切りそろえたくるくるの金髪を揺らし、大臣の首を引っ張って問うた。

「ねえ。結婚式なんてばかげた題目は、このセレモニーに含まれていないわよね?」

「は、はあ? そんなもの、あるわけがございません! あなたさまへの求婚は本日から解禁されるようなものですぞ」

「ふうん。それなら、いいのよ」

 女王は手を離し、つかつかと演説のためにバルコニーへ向かう。

 その後ろにちょこちょことついて歩く少女がいた。彼女は小さく小さくなりながら気配を消しているつもりのようだった。だが、綿菓子のようにふわふわと風に遊ぶ白い髪とエメラルドの瞳という珍しい容姿を隠さないという、最大の過ちを犯していたため、悪目立ちしていた。

 兵士が思わず止めたので、ロザリンデが振り向く。

「その子は、いいの。わらわのお友達よ」

 すると、白い髪を持つ乙女は、申し訳なさそうに兵隊が塞いだ槍の壁を下からくぐりぬけ、女王の小さな背中を追った。


 その演説は、千年の歴史を持つと言われるヴィスタ始まって以来のことだった、と、のちの歴史に記されるほどだった。

 堂々と民衆の前に現れた少女――王冠が小さな頭におあつらえ向きではないあどけない少女は、ひとたび口を開いた瞬間に、国民全員をとりこにしてしまった。

 彼女はひとしきり自己紹介と、今後の抱負とを述べると一歩進み出て、手すりに手をかけた。

「わらわは〈持たざる者〉。それだって立派な個性だわ。わらわ以外の皆も〈持たざる者〉。お互いに目を向けてはいかが? 〈ギフト〉の有無は、人間の優劣ではないの。人は手をつなぐことができるのよ」

 女王ロザリンデがそう言って手をつないだのは、女王の金の髪と対になるようなプラチナのように真っ白な髪を持った乙女だった。その白銀の乙女が両手を天にかざすと、王城ブリューテブルクを中心に光のベールが弾け、青空を覆ってそのうちにとけて見えなくなった。

 それこそが〈守護のギフト〉の証明の儀式に他ならなかった。

「そう、それから――」

 見守っていた国民からあがった歓声を、女王は小さな手のひらで止めた。

「わらわ、激しい恋がしたいの。愛して下さるだけじゃ、物足りないのよ」

 この一言で、近隣諸国の貴公子たちのプライドがくすぐられたのは、間違いなかった。


 女王の御披露目から一カ月が過ぎた。

 ボーマン伯爵領の町、ホルツ。この夏、旅立とうとする青年がいた。

「あんたが宮仕えなんてねえ! しかも女王様から直々にだなんて。ほんと、どんな奇跡が起こったんだか。出発したら、まずは伯爵さまにご挨拶してきなさい」

「わあってるよ! 子供扱いすんなよ!」

 青年兵士ルロイ・トマジは、母親のハンナ・トマジにお尻を叩かれる二一歳であった。

 自立の精神はとっくに芽生えていて、自分の世話ぐらいできる男だったが、この腕っ節の強い母親に未だ逆らえないのは事実であった。荷物ももちろん、用意してもらったものを背負っている。

 リチャード・ボーマンの帰還――これはアルフレッドとルロイ、リュリとロザリンデのみが知ることだった。

 今現在は、一一四五年に、ボーマン伯爵の失踪が起こらなかった未来になったのだ。

 そのため、リチャードとジークフリートとの取引が不成立になった。このとき二人が取引した一件、〈孤児院事件〉のあとの少年兵士たちの一斉人事異動も書類ごと消えていた。すなわち、全員が国境警備隊に所属したまま、ホルツで生活しつづけているのだ。

「なんか、急すぎて理解が追いつかないよなあ。なんにもわかんねえ」

 ルロイがあたまをかきかき独りごちたとおり「リチャードが消えなかった世界」は「リチャードが消えた世界」をよく覚えている人間にとって不自然極まりない出来事で構成されていた。

 いろいろな齟齬が多くて、ルロイは友人内から、忘れっぽい男として扱われ始めていた。

 他の人間が後者を忘れてしまったのに、たったの数名だけは覚えていた。

 これも不思議なことだったが、ルロイは難しいことを考えるのをいとうため、アルフレッドに比べ、さほど気にしてはいなかった。ロザリンデも少し首をひねったけれども、次の瞬間にはルロイの腕を抱きしめていた。ただ一人、リュリだけがにこにことほほ笑んでいたのが印象的だった。

 その中で唯一よくわかっているのは、ルロイがロザリンデの勅命により女王近衛騎士に抜擢されたことだ。時代の改変に流されなかった約束に、青年は嬉しさ半分の冷や汗を流した。

 だが、国のために働けと言われればそれまで。それが兵士と言う職業だった。もっとも、戦う相手と言えば野生の獣か、はたまた深酒で己の野獣を解放した貴族かに限られたが。

 ルロイはひげと一緒に剃ってしまったニキビの傷をいじりながら、ホルツのメインストリートをのんびりと歩いていた。

 うららかな陽気に、小鳥たちの歌が添えられている。街の人々が青空に向かって世間話を繰り広げる。明け方に大地を撫でていった通り雨の残り香が、あちこちに緑の青臭さを漂わせている。光に満ちあふれた世界に、ルロイの胸が大きく膨らむ。

 今日に関しては、走る意義が見出せない。いくら〈俊足〉の持ち主とは言え、彼だっていつも走りたいわけではなかった。

 ルロイが持たされた荷物を背中で持て余していると、前方に抱き合うカップルが見えた。

 男のほうは、兵舎で支給される麻布のシャツと丈夫なズボンを身につけている。女は小柄だが骨太そうな、結婚すれば夫を尻に敷きそうなタイプにみえた。ルロイは自身の恋愛経験の少なさを棚に上げて、知り合いならば茶化してやろうと勇み足で近付いた。

 だが近付くにつれて、その二人が本当によく知る人物だとわかるや、間に割って入った。

「よぉ、色男。オレの妹で遊びたいなら、仲介料よこしな」

 それは、ルロイの親友、赤毛のヒューゴと、妹のスクラータだった。二人はそろってくちびるを尖らせた。

「ルロイ! ちょっと、兄貴面しないでくれる!」

「いや、お前にあげる金があったら、スーちゃんとデートするから」

 二人の猛反発にあって、ルロイも思いっきり唇と顎を突き出してやった。

「いいか、オレは心が広いから見過ごしてやるが、我が家には最強のボスがいるんだからな!」

 なんだか除け者気分になったルロイは捨て台詞と共に駆けだして、一回振り向いてみた。

 若い恋人同士はクスクス笑いあうと、彼に向かって手を振ってくれた。


 ホルツの町からボーマン家のあるヒューゲルシュタットまでは、やっぱりひとっ走りした。

 馬を借りる金を惜しんだというのもあるが、なにより走ることは嫌いではなかったのだ。

 ルロイが汗をたらしながら、丘に城を戴くヒューゲルシュタットへたどり着くと、屋敷の正門のところで見慣れた金髪の男が出迎えてくれた。

 アルフレッド・ボーマンだ。

「やあ。遅かったな〈俊足〉」

「おそかったー」

 ルロイに手を差し出し、形の良い眉を一瞬だけそびやかして見せた彼の肩には、小さな少年が乗っていた。

 アルフレッドのくすんだ金髪よりもずっと明るい太陽のような髪をした彼は、肩車をされてご機嫌だ。

「こんにちは、坊ちゃん。で、それはどっちの意味だよ、アル?」

「もちろん、到着がさ」

 乳兄弟は固く手を握り合うと、並んでボーマン家の門をくぐった。

 ルロイはアルフレッドの隣を歩く。城のように真っ直ぐと頑丈な印象はいつも安心感を与えてくれる。

 その喉から響くのも豊かなバリトンだとルロイは知っていた。

 最近は、言い表しがたい暖かさが増したようだとルロイは思っていた。

 今までが葉を落とした樹ならば、今は豊かに葉を生い茂らせたような。

 それぐらい、男の彼から見ても、見違えていた。

 無意識にじっと見つめていたルロイに気付き、アルフレッドが彼へちらと視線を投げた。

 兵士はどきりとした。

 その瞳の色もふんわりとやわらかくほぐれていたから。

 二人の男と少年が兵士の開いた城の扉をくぐると、線の細い典麗な男性が彼らを出迎えた。

「やあ。改めて、この度はおめでとう、ルロイ君」

「あ、ありがとうございます!」

 ルロイが頭を下げる横で、愛らしいボーイソプラノが弾けた。

「とうさま!」

「おいで、エリオット」

 エリオットと呼ばれた少年は、アルフレッドの肩から降ろしてもらうと、階段ホールの手前で両腕を広げていた男の胸に飛び込んだ。


「オレも大概だけど、アルのほうが慣れないんじゃないか?」

 客間に通されたルロイが、手持無沙汰にうろつく。一介の兵士が伯爵家に招かれたのだ。身の置き場所を見つけられないのも無理はなかった。

「……まあ、な」

「だってさ。気付いたら叔父さんだろ?」

「おもちゃが増えた、と思うようにしている」

 窓辺に腰かけたアルフレッドが苦笑する。

 時間の変革はなくなったが、ボーマン家には大きな変化が起きていた。

 リチャードの出奔による心労がなかったので、ユスティリアーナは無事に後継ぎを産んでいた。そのため、一一五〇年へ戻ってきたアルフレッドには急に四歳の甥っ子ができていたのだ。

「奥さまも変わったしさ。なんかふわふわーって。ロゼよりもよっぽどお姫さまだよ」

 鼻息も荒く新しい主君の名を口にするルロイ。その頬がほんのり染まっているのを見て、アルフレッドは瞳をまたたかせた。

 ノックが鳴る。

 執事によって恭しく開かれた扉から入ってきたのは、二九歳のボーマン伯爵とその妻だった。

 待たせたね、と伯爵が詫びるのを手前に、兵士が直立不動になった。その瞬間、誰からともなく笑いがこぼれ、にわかに空気がなごむ。

 すると、伯爵夫人が一歩踏み出てルロイの両手を取った。真っ直ぐに瞳を見つめてくる彼女の笑顔には一点の濁りもない。純真な少女のままというふうだ。

「あなたですのね。女王陛下の騎士になるのは」

「は、はい!」

 つい先ほどまで噂をしていた張本人の背中に、冷や汗が垂れる。

 一児の母には到底見えない美女が、それに気付かず悠々自適に続けている。

「この度は、本当にありがとう。感謝してもしきれません。ロザリンデはわたくしのかわいい姪。ここだけの話、とても寂しがり屋ですのよ。ロゼのこと、よろしく頼みますわね」

「はい!」

 背筋を真っ直ぐにし過ぎて、そのままひっくり返ってしまいそうなルロイを見て、アルフレッドは独りで噴き出した。貴婦人は兵士の手をおろし、義理の弟に詰め寄る。

「笑いごとじゃありませんのよ、アル。わたくし、とても心配して言っていますの」

「知ってる。知ってるよ、ユーシィ」

「もう、そうやって軽んじるのは、おやめになって」

 冗談めいて追いすがるユスティリアーナの腕を、アルフレッドはごく自然に解いた。

 リチャードが実の姉弟のような二人を見て笑う。

「ユーシィ。アルもこれからルロイ君とブリューテブルクに出立するのだから、ほどほどにしなさい」

「もう、リチャードさままで!」

 乙女のように頬を膨らませる貴婦人とアルフレッドとを見て、ルロイは小さく安心した。

 いがみ合う彼らを見たことはない。だけれども、それは今後も見ないで済みそうだ、と。

 伯爵はまだ妻を諭している。

「アルは彼のお姫さまを迎えにいくのだよ。邪魔をしては、かわいそうじゃないか」

 そう兄が気を利かせてくれたのに、弟はすかさず訂正をはさんだ。

「いや、妖精だな」


 時が進み、場所は変わり。ここは首都エルンテのブリューテブルク宮殿。

「リュリ! 起きなさい!」

「ひゃああっ!」

 かつて物語の舞台になった双子の塔、その青き旗の翻る下で、一人の少女が飛び起きた。

 突然、扉があけ放たれたのに驚いたのだ。

 ぐしゃぐしゃにこんがらがった髪の毛もそのままに、リュリは来訪者を寝ぼけ眼で迎えた。

「……ロゼちゃ……?」

「見て! おかしいところはないかしら。へんなところは、ないかしら!」

 手の甲で目をこすりこすりしたあと、白い髪の少女は金髪の乙女をぼんやり見つめた。目の前でふんぞり返っているのは、小さくて尊大な、そしてとてつもなく愛らしい国家元首で彼女の友人の、ロザリンデだった。

 桃色に、あるいは黄金色に輝く太陽のような髪を耳の下で切りそろえた少女が、真剣にリュリへ詰め寄る。その装いは白を基調にまとめられ、実に清楚だ。夏らしく初夏の花々を模したリボン刺繍を贅沢にちりばめている。膝丈のドレスは少女の華奢な体をふんわりと優しく包み込み、スカートのふくらみが一輪の花のように花開いている。アクセントに、少女の名と同じ薔薇色のリボンが肩の上から腕と同じくすらりと伸びて垂れている。とても豪奢なサマードレスといった風だ。

 ぼうっと、素敵だなあ、という単純な感想を言おうとしたリュリは、ふと気付いた。

「あ、わかった。ルロイくんが来るから、おめかししてるんだね」

「な! そ、そんなこと、ないわよ!」

「ほっぺたが真っ赤だよー?」

「うるさいわね! 自分を棚に置いて!」

 少女たちがきゃっきゃと仲睦まじく戯れる声に、おずおずとした声が挟まった。

「……こちらでしたか陛下。お支度を」

 ロザリンデは年の近い女中へ向かって微笑んだ。

「ええ。今、行くわ。サナ」

 女王ロザリンデの衣装は結局、正装が望ましいということで、部屋に戻った彼女はしぶしぶ着替えることになった。


 厳かに行われたルロイ・トマジの叙任式を見届けると、彼の二人の友人はブリューテブルクを後にした。女王による盛大な見送りが始まる前に、するりと抜け出してきたのだ。

 二人はゆっくりと散歩を楽しむように街道を行った。二人きりの旅路である。

 それから数日後、馬上で揺られる男女二人組は、空の天辺にある太陽に見守られながらエルレイの森を目指していた。短い旅だったが、天候に恵まれていた。

「リュリ、疲れていないか?」

「んーん。平気だよ」

 夏用にと、女王からプレゼントされた薄手のリネンのマントで日よけをする少女が、後ろの男に頭を預けた。

「こうやって、新しい思い出がいっぱいできるんだね、アルくん」

「そうだな」

 リュリのふわふわの白い髪を百合かなにかと思ったらしい蝶が、ひらひらと舞い降りる。だがすぐに、己の勘違いを恥じるようにして去っていった。

「わたし、思うんだ」

「ん?」

「ロゼちゃんは〈持たざる者〉って自分のことを言うけどね、違うと思う。ロゼちゃんにはロゼちゃんの〈ギフト〉がちゃんとあると思う」

「ふむ」

 青年は少女のつむじに顎を置いた。彼女はそれを面白そうに見上げる。

「ロゼちゃんの周りにはね、カラスさんやお兄ちゃん、お母さんにアルくん、ルロイくん、それからわたし。みんなが集まってきたんだよ」

 そう言われてみれば、そうだな、とアルフレッドが鼻で返事をする。

「だからね、きっと、ロゼちゃんは……。えっと、人が集まる〈ギフト〉なんだよ」

えにしの〈ギフト〉か。君が言うのなら、そうかもしれないな」

 くすくすと笑うアルフレッドの心が、じんわりと暖かくなる。

 呪わしい縁談の数々から逃げ続けた結果として、彼をこんなにも成長させてくれた少女との出会いがあったのだ。

 彼がどこかで折れていても、あるいは少女との邂逅で感じていた安らぎの気持ちに嘘をついていても、今と言う未来はあり得なかった。

 己を導いてくれた不思議な運命にしみじみと感謝するアルフレッドの耳に、ぽつりとつぶやきが聞こえた。

「……わたし、本当はね、ずっと怖かったんだ」

「何がだ?」

 リュリは夢見るように瞳を閉じる。

 針のように細くて繊細な睫毛が重なり、心もとなさげに震える。

 それは可憐なソプラノも同様だった。

「……カラスさんに言われ続けた、わたしは妖精で人間じゃない、とか、誰にも会っちゃいけない、とか。アルくんに嫌われちゃうんじゃないか、とか」

 少女はため息をつく。

「カラスさんが本当は悪い魔法使いで、わたしとお父さんたちをばらばらにしたっていうのを聞いてね、本当に怖くなったの。何を信じたらいいのかなって」

「……俺がいる。俺を信じてくれたら……」

「そうなんだけど。でも、だよ」

 安心させるように腕をさすってくれる恋人に、少女は心をほぐす。

「それで、やっとお兄ちゃんに会えたと思ったら、お兄ちゃんもなんか変だし。それから、過去を変えようって言われて……。今度はアルくんに出会えない未来ができちゃうって。リチャードさんのときもそう。過去が変わったら、アルくんとわたし、会えないんだって。わたし、そんなの絶対にいやで……。絶対になくしたくないって、思った」

 言葉に詰まった少女は、手綱を握る彼の手をそっと取り、自身の心臓の上に置いた。

「アルくんとの思い出、なくならなくって、本当によかった……」

 リュリは、アルフレッドの両の手のひらを慈しむように抱きしめた。

 その拍子に手綱が引かれ、馬の脚が止まる。

「リュリ……!」

 アルフレッドは、気持ちの高ぶりのままに、少女をその腕に抱いた。

 きつく。けれども、心が伝わるように、極めて優しく。

 暖かな気持ちで満たされている二人の耳に、石畳を鳴らす踵の音が近づいてきた。

 恥ずかしさもあり、どちらともなく離れた。

 と同時に、一人の男が姿を現した。くるくると癖の強いブルネットを持つ男だ。

「リュリ! おかえり!」

「あっ。お兄ちゃん」

 少女の義理の兄シュウは、アルフレッドのことを無視して妹を抱き下ろした。

 塔から身を投げ出した彼は、彼の養父アラムの〈ギフト〉によって肉体を、その後両親との再会で心までも救われた。

 今はリュリが住まっていた家を拡張しながら一家で暮らしている。

 素性と顔を覆っていた仮面と、魔術師ジークフリートの名を捨てた彼は、アルフレッドを名残惜しそうに振り向くリュリに構わず、にこにこと細い腕を回す。

「遅かったから心配していたんだよ」

 馬からひらりと舞い降りたアルフレッドの眉間に、深い皺が刻まれる。

「お家に帰ろう。アラムとファイナも待ってる」

「違うよ、お兄ちゃん。お父さんとお母さんだよ」

 リュリは恋人の手のひらを返したような不機嫌を瞬時に察知し、兄の腕からすり抜けた。

 そして、アルフレッドに飛び付き、かじりつくようにして耳元でささやいた。

「今度は本当に、本当の家出をしてくるね。アルくん」

 すぐさま体を離して、えへへと少女は照れ笑いをした。

 ふわりと持ち上げられた頬は薔薇色で、輝く瞳の翠には彼女の思い人しか映っていなかった。

 考えるより先に、アルフレッドの体が動いていた。

 少女のひたいに、心からのくちづけを贈ったのだ。

「ああっ!」

 シュウの咎める声など、二人の耳には届かない。

 困惑と、羞恥とで思考が止まるものの、すぐに息を吹き返した理性が、アルフレッドの体を少女から遠ざけた。

 そもそも、どうしていきなりくちづけてしまったのか、本人でさえ判らない。

 気恥ずかしさが頭の頂点にまで到達し、彼は穴があれば入りたい気持ちでいっぱいになった。

「ご、ごめ……! だめだったよな――?」

「だめじゃないよ!」

 必死になって詫びるアルフレッドの頬に、何か柔らかいものが触れて、離れていった。

 それは、少女の身にしみついている甘くて爽やかな薬草の香りと共にやってきて、去った。

 アルフレッドは思わず、頬に手をあてがう。

「にひひ~」

 目の前で、してやったりの笑顔を花開かせる少女の顔もまた、耳まで真っ赤だった。

 少女は真っ白な髪を翻し、駆けだした。

 その背中を追うのは、兄だった。

 彼は振り向きざまに捨て台詞を吐き捨てていった。

「リュ、リュリ! お兄ちゃんに再会のキスなんてしてくれなかったじゃないか! くそ、なんでいつもお前なんだ、アルフレッド・ボーマン! リューリカ、一緒に帰ろう! 手を繋いで、さあ!」

「いやっ。わたし、子供じゃないもん」

「僕が繋ぎたいから、して」

「いやっ」

 義理の兄妹が、やいのやいのとつかず離れず、エルレイの森にある彼らの家へ戻っていく。

 それを、アルフレッドはぼんやりと見送っていた。

 去り際のプレゼントが、まだ彼の心を支配している。

 銀鼠色の瞳が、小さくなってゆく少女の相貌をずっと追いすがっている。

 彼女は、シュウの猛攻を軽々と避けながら、ちらとアルフレッドにさよならの視線を送りつづけてくれる。

 このまま別れたくはないと、少女の瞳が語っている。

 ときめきと寂しさとがないまぜになっているのは、アルフレッドだけではないのだ。

 そう、だから、自信を持っていい。

 アルフレッドは手綱を引き、つま先を前へ出した。

 その声もまた、信じられないくらい、大きかった。

「やっぱり、家まで送るよ、リュリ!」

 名を呼ばれたリュリは――かつて、妖精と呼ばれた少女は、嬉しそうに振り向いた。

「うんっ!」


 そのキスは、シファナ姫の手だけでなく、心にも触れました。

「ありがとう。では、わたくしはそのお気持ちにこたえねばなりませんね」

 シファナ姫は、牢屋のカギを開けて、少年タイムと一緒に牢屋をでました。

「どうしてこんなことを?」

 少年が尋ねると、姫はにっこりして言いました。

「あなたはもう、わたくしのお友達です。だから、きちんとごめんなさいをして、許してもらいましょう」

「しかし、王様はかんかんですよ。きっと首をはねられます」

 お姫さまは首を振りました。

「そのときは、一緒です」

 そうしてやっぱり、にっこりしていました。

「あなたのことを、大好きになってしまいました。大好きなあなたをなくしたら、わたくしはしんでしまいます」

「どうして、ぼくを好きになってくれたんですか」

「それは、かんたんよ」

 真っ白な髪が、月の光のようにきらきらとかがやきました。

「わたくしに、高い空と、風と、歌と、レモネードを教えてくれた。それから、好きの気持ちを。それから、それから。本物の世界を教えてくれたからよ!」


〈了〉

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