一、躓かないつま先
ルロイは〈力のギフト〉の持ち主である。
その兆しは、妹の生まれるその前からあった。彼が五歳になろうかという頃から、ホルツでその足の速さに勝てる者はいないと言われるほどだった。
足の速さだけでなく持久力にも定評があり、国境を警備していた十六歳の時には伝書鳩を飛ばすよりも早いと言われ、伝令係として一役買っていたものだった。
そんな少年の走りっぷりに〈俊足〉のあだ名がつくのは至極自然なことだった。
ホルツ近くでアルフレッドと別れてから、ルロイは着の身着のまま、何の荷物も持たずに履きなれた革靴のまま駆けだした。
行く先はただ一つ。魔術師がその身を置いているであろうブリューテブルク宮。
石畳の街道をひた走る。
黄昏の陽光に見送られながらボーマン伯爵家領を後にし、王家の領地に入る。
一番星が煌めいたのをきっかけに次々と現れた星々に見守られながら、速度を落とすことなく走る。夜の街道は、商人や旅人の乗った馬車、郵便馬車などが行き交わず、ルロイにとっては快適な道のりだった。
ボーマン領と王家直轄領の間にはなだらかな丘陵が並ぶだけだ。
彼はまだも走り続ける。
短く切りそろえてある茶色の前髪が汗を含み額に張り付きルロイにある種の不快感を与える。
喉がだんだんと乾いてきたころに、遠くに蝋燭の明かりが煌々としている街が見えてきた。
彼の息は未だ荒れず、一定の間隔で呼吸がなされていた。
まだ余裕がある。
汗が体中にいくつもの川のように流れ、ルロイのチュニックに染みて、それが彼に張り付く。
彼はその感覚にむずがゆさを覚え、走りながら湿気たチュニックを脱ぎ、上半身を露にした。脱いだものを腰に巻きつけた。
城下町エルンテの目の前にある最後の丘にさしかかると、彼は一層速度を上げた。
この丘を越えてしまえば、後は平野が広がっているだけだと思うと、ルロイは体中から残っている元気を絞り出した。
平野を見下ろすと城下町の光が一つ、また一つと消え始めていた。
人々が眠ろうとする時間になったらしかった。
魔除け代わりに燃やされた炎が明るい城下町の門前にたどり着くと、彼はすっかり疲弊して番兵の前で倒れてしまった。
番兵は目を丸めて彼を抱きとめ、心配そうに尋ねた。
「おい、ルロイじゃねえか! どうしたんだ? こんなになってまで」
「へへ……ちょっと、忘れ物、とりにきたんすよ……」
ルロイは肩を上下させながら答えたが、その足と体はぐったりとして力無かった。少し張り切りすぎたかもしれない。
「しゃあねえ奴だなあ……。おい、俺、こいつを宿舎に置いてくるから、ちょっと頼むわ」
「いいっすよ。でも怖いんで早く帰ってきてくださいよ」
「わあった。お前がちびったころに戻ってくる」
「勘弁してください」
そう言うと、もう一人の番兵はルロイの肩を元気づけるように叩いて、宿舎に向かう二人を見送った。
城下町エルンテには、遠くにある自宅から城下町に勤務している兵士に宿舎がある。一般の兵士だけでなく、先の〈孤児院事件〉で城下町勤務になった少年兵たちも、漏れなくここで寝泊りをしていた。大概の宿舎は一部屋に二人の兵士が寝泊まりできるようになっていた。
番兵がその宿舎にルロイを運びこむと、部屋着に着替えてすっかり気楽な様子の青年がその場を通りかかった。彼は丸めた瞳をぱちくりさせた。
「あっれー? ルロイ? お前、今、自宅謹慎じゃなかったのかよ?」
「ヒューゴ! 水持ってこい、水! ルームメイトのピンチだぞ」
「あ、はい!」
ヒューゴと呼ばれた青年は、番兵にそう言われるなり鋭角の敬礼をし、その場からすぐに駆けだした。それを見た番兵は、担いでいるぐったりとしたルロイにそっと声をかけた。
「すまんな、ルロイ。鎧を着たままだとおぶってやれなくてな。部屋はどこなんだ?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます、ジェラルドさん。ここまでこられたら、オレ一人で行けます」
ルロイは先輩番兵ジェラルドの気遣いに感謝をして、彼の腕を力なく解くと宿舎の中へ歩き出そうとした。
だが、ルロイの意思と反してその足はがくがくとして全く言うことをきかない。ジェラルドが腕をつかまなければ、彼は再び床に倒れ込んでいただろう。
先輩が呆れたようにため息を漏らした。
「言わんこっちゃねえ。大人しく言うこと聞いてろ、甘ちゃん。で、どっちだ?」
「すいません。恩に着ます。こっちです」
ジェラルドは、担いだルロイの指し示した方に彼を軽々と運んだ。と、なみなみ水の入った水瓶を持ったヒューゴがそこに合流し、ルロイの部屋の扉を開け、ジェラルドの進行を助けた。
ジェラルドはルロイを彼のベッドに丁寧に座らせるとすぐに戸口の方へ向かった。
「ヒューゴに礼を言って、水飲んで休むんだな。俺は戻るぞ。マースのおもらしを見にな」
ジェラルドはそう言うと、ルロイを担いで少しずれた鎧の佇まいを直すとルロイの部屋を後にした。
その様子を見送って、ヒューゴが扉を閉めた。そして、水瓶から直接水を飲むルロイの隣に詰め寄ってきた。
「で、なにがあったんだよ? その様子じゃ走ってきたんだろ、〈俊足〉さん?」
「うっせ。たしかに走ってきた。でもさすがにこの距離は疲れたぜ」
「どれくらいさ?」
ルロイは水をもう一口飲み下すと、ヒューゴににやりとして見せてから質問に答えた。
「ホルツ、から、ここまで」
「はあ? ばっかじゃねえの! いつ出発したんだよ?」
ヒューゴが半ば呆れていると、ルロイは少しおくびをしながら思案し、窓の向こうの暗闇を見て言った。
「今日の、陽が落ちる頃、だったと思う」
「うわ、信じらんね……。休みなし六時間でここまでって、馬より早いだろ、お前」
ヒューゴがルロイから聞き出した距離と時間を踏まえ、サイドボードの上の時計を見ながら指を使ってその速度を計算した。
その間、ルロイは胃の中が水でいっぱいになるくらい水を飲んだ。水瓶はすっかり空っぽだ。
「で、時速五レウカの〈俊足〉さんよ、なんで休みなのにわざわざ帰ってきたんだよ?」
ヒューゴは急に真面目な顔をして、茜色の前髪をかきあげながらルロイに問うた。
ルロイも彼の表情に合わせて深刻な面持ちをして答えた。
「それがさ、スーのやつが何しても怒ってくるから五月蠅くて、家出」
「なんだそれ、自慢か、自慢なのか?」
ヒューゴはルロイの言葉を聞いた途端に神妙な面持ちを崩し、隣に座るルロイに食ってかかった。彼はルロイの肩を掴み前後にがくがくと揺らしたが、ルロイもルロイで、真剣な表情を笑顔に変えていた。青年二人が寝泊まりするには小さな部屋に、笑い声が響く。
「嘘。嘘だって」
「だよな。だってこんなに可愛い子と一緒に居たら、叱られるのもご褒美だよな!」
ヒューゴは、ルロイの枕元のサイドボードに置いてある肖像画を取り上げ、そこに描かれた少女――ルロイの妹に夢見るように語りかけた。
こんな絵、オレ、持ってたっけ。
その肖像画にルロイは覚えが無かった。だが、彼が城下町勤務になったときに寂しくないようにと家族で奮発して、流浪の画家に描いてもらった――そんな体験したことが無い過去が思い出されたような気がした。画家の名はリヒャルトと言うことまで心に浮かんできた。うっすらと彼の印象までも蘇る。柔和な微笑みのほろ苦さには確かに心当たりがある。
ルロイはヒューゴの様子見て呆れながらも、本題を出した。
「なあ、明日の城内勤務って誰だ?」
小さな肖像画に妄想上の輝かしい将来を語りかけていたヒューゴに、ルロイが尋ねると、彼は一瞬の迷いもなく答えた。その鼻の下は伸び切っていた。
「ああ、それ俺。何、代わってくれんの?」
「おう。代わるぜ」
「悪いな。じゃあお言葉に甘え……ええ!」
冗談めかしたやり取りをしていたヒューゴが驚いて立ち上がり、いたって普通の様子のルロイを見る。その顔が驚きで大きく見開かれ歪んでいたので、ルロイは大いに吹き出した。いつもそうだ。幼馴染みの大袈裟な表情は必ず笑いのツボに入ってしまう。
危うく飲み干した水が口から逆流してしまいそうになるほど、ルロイは腹を抱えてベッドの上を転げ回った。
「お前、驚いたとき、ほんと変な顔するよな! ともかく、明日はオレが出るから」
「え、ええ! いいけど! いいけど、いいの?」
「あー! もうこんな時間だ! 寝ないと勤務に支障がー!」
ルロイは転がったベッドの上で掛け布団を引っ張り頭までかぶると未だに状況が呑み込めていないヒューゴを置いて、一人でいびきをかいて寝始めてしまった。
「なあ、ルロイ、俺このお礼どうしたらいいんだよ……お礼にスーちゃんをもらうって、なんか変な話じゃん……」
ヒューゴはルロイの隣のベッドに入ると、ルロイの妹スクラータが自身の夢に出てくるようにと念じながらそのまま夜を明かした。ルロイのいびきを聞きながら。
翌朝の六時きっかりに目覚めたルロイは、彼の立てるいびきが消えたお陰でやっと夢の中に旅立てたヒューゴの鎧を借りた。そして、宿舎の食堂で軽く朝食を済ませるとすぐにブリューテブルク城に向かった。夜勤の兵士と警備を交代するためだ。
城下町エルンテは、ブリューテブルク城を囲う塀の中に作られており、その入り口から往生の門前までは蛇のように曲がりくねった一本道になっていた。
万一の事態に備えた街の作りに、初めて訪れた旅人は苦労して城の入口まで歩くことになるのだが、住民はというと、ある種の抜け道をよく知っていて、家と家の隙間を縫いながらほぼ直線的に行きたい場所へと移動することが出来た。
ルロイも城下町に住んで五年が経っていたので、その例にもれなかった。
ルロイは宿舎を出ると近道を利用してまっすぐ城の前まで来ると、その門を守っていた兵士に敬礼をし、城内に入っていった。
見慣れた顔の兵士が何人もいて、彼らと目が合う。しかし、勤務中の兵士に私語の自由は与えられていなかったため、お互いに腕を上げるだけで挨拶を交わした。ルロイはこの、武骨ながらもさりげないやり取りが自身を含めたむさ苦しい青年兵士たちに相応しいと思い、それなりに気に入っていた。
城内に勤務する兵士の仕事は簡単だった。鎧を着て、その城の廊下を行き交う人々に怪しい者がいないか確認しながら、割り当てられた区域を見回るだけの仕事なのだ。そもそも、ヴィスタという国は三百年前に終結した戦争以来、ずっと独立を守ってきた平和な国であり、現代を生きる兵士には要人を危険にさらさないといった類の仕事しか残されていなかった。
ルロイは、ヒューゴの割り当てられていた城の三階、会議室前の廊下にたどり着くと、そこに立って、元老院の賢人七名がそれぞれの秘書を引き連れて会議室に入っていくのを見送ると、一息ついて吹き抜けのホールから二階を見下ろした。
そこには、朝から忙しく動く女中たちの姿があった。朝食の時間が終わり、その片付けをしているのだろうとルロイは想像した。
彼はその中に、真っ直ぐな黒髪を二つに束ねた女中が少し辺りを見回しているのを見つけた。彼女のあどけなさが自身の妹に重なって、ルロイは成人した女性が苦手な自分でも話せそうな相手かもしれないと期待を寄せた。
「君、ちょっといい?」
黒髪の女中はルロイの声を聞いたという証明に、彼の方へすぐに顔を上げてみせ、そしてぱたぱたとすぐに三階のルロイのところまで階段で上がってきた。
ルロイは彼女を目の前にして少し緊張感が高まるのを感じながら、極めて冷静さを保とうと努力した。
「昨日のことなんだけど、魔術師さまがお戻りになった時……」
「……白い妖精を抱いていました。東の塔に居るはずです」
ルロイは言葉を失ってしまった。黒髪の女中が、長いまつげを伏し目がちにして、興味のなさそうな声でルロイの聞きたかった質問の答えをいきなり突き付けてきたからだった。
ルロイの空いた口が塞がらないのを見て、黒髪の女中はたった一つくすりと笑うと、そのまま階段の方へ歩き出した。彼女が階段に足を下ろし始めた頃、ルロイも気を取り直し、その秘密を聞き出そうと彼女を追ったが、時は既に遅かった。
彼女は螺旋階段の柱に一瞬隠れたかと思うと、階段の次の段に足を下ろさなかった。
「嘘だろ……」
ルロイがその階段を駆け下りて行っても、その壁や柱に、扉はもとより、なにかしらのくぼみすらも無く、隠れられる場所はどこにもなかった。
黒髪の女中は、忽然と姿を消してしまったのだった。
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