薄暗がりに息づくもの

九十

二十一時。


 月が、濡れた路面を照らす。

 蒸し暑い夜だ。行き過ぎた雨は湿度を上げるだけで、期待していた涼気は運んできてはくれなかったようだ。吹く風はなまぬるく、息苦しい。

 右手に提げた白いビニール袋の中で水の跳ねる音がする。

 ちゃぷちゃぷと騒々しいそれは、繰り返し聞くうちに手のひらで水面を打つ音にも聞こえてきて。立ち止まって、ほんの少し袋の中を覗き見る。

 コンビニエンスストアの小さなロゴに天然水の文字。しんと静まった透明な水。ラベルの結露がひとしずく流れ落ちた。それだけだ。

 歩き出せばまた水面は踊り出す。突っかけたスニーカーの下でも水溜りが踊り出す。

 雨雲が立ち去った空はどこまでも黒く深く、澄んでいた。

 通り過ぎた車の音が、一瞬世界のすべての音になり、そうしてまた消え去っていく。ヘッドライトが闇を切り取って持ち去った後は、ただ空っぽの夜が残る。

 ちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷ。ぼん、ぼん、ぼぼん。ぱしゃん。

 水の音に交じって、唐突に何か別の音が現れる。

 ぼん、ぼん、ぼぼん。

 幼い記憶の片隅で聞いた、これは確か太鼓の音。

 ぼん、ぼん、ぼぼん。

 近くで、祭りでもやっているのだろうか。……先ほどまで雨が降っていたのに。

 音は二車線の道路を渡った向こう側から聞こえてくる。向こう側にそびえたつ、しんと束の間の眠りに沈む小学校。その裏手から、繰り返し。

 行ってみようか。

 信号機は押しボタン式だ。ボタンを押して数秒で、女性の声が青を告げる。

 感情の伴わないそれに背を押され、音の方へ。

 小学校のぐるりを歩く。誰もいない学校はどうしてこんなにさみしいのだろう。八月も終わりに近づき、もうすぐまた子供らの声が溢れる九月が来る。そうすればまた、建物は息を吹き返すのだろうか。このさみしさは消えるのだろうか。

 校舎に取り付けられた大時計を見れば指し示す時刻は二十一時。恐らく、もうすぐ祭りも終わりの時間だろう。

 ほんの少し足を速める。

 ぼん、ぼん、ぼぼん。

 音がだんだんと大きくなる。

 うたが聞こえてくる。盆踊りの。

 少し先にぼんやりあたたかな色の灯りがともる駐車場。ああ、あんなところで祭りをやっていたのか。

 誰かの笑い声を、途切れがちに風が運んでくる。静かに賑わう祭りの場。

 それなのに、この通りを歩いているのは俺ひとりきり。少な過ぎやしないだろうか。いくら小さい祭りといえど、浴衣を着たひとの一人や二人は見かけるものなのに。

 ふと、右手の袋の重さに気づいた。

 足下には駐車場から転がってきた砂利。バランスが崩れる。

 もつれる足の影は灯りの中で踊っているようだ。袋が宙を舞いアスファルトで跳ねる。視界はいつの間にか黒く深く澄んだ一面の夜。視界の端に掠めた白い指先が冷たく額を撫でる。鼻の奥からつんとした鈍い痛み。無様にまろぶ自分を笑う声はない。

 顔をあげれば。

 楽しげに踊るひと達は皆、狐の面をつけていて、


 まばたきした次の瞬間には、誰もいなくなっていた。

 ぽつんと落ちた手拭いと、やぐらだけが祭りの証。

 

 ああ、そうか。夏の終わりを、惜しんでいたのか。

 軽くなったペットボトルを拾って帰路を辿る。

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