シノハチ 後編
僕は、しがない工事作業員。日給月給なので働かないとマズイと感じ、春香ちゃんの会話をしてから三日後、ようやく仕事場へと復帰した。
この二日間、僕は風邪をひいていた事になっている。
「おう。もういいのか?」
仕事場の人達の問いかけに、僕は全て「はい。心配かけました」と、笑顔で対応し、いつも通り機敏に仕事をこなす。
僕は、仕事場の人間を軽視していない。
だけど同時に、尊敬もしていない。
早い話、無感情。
笑顔は作るが、笑ってはいない。
でもそれはお互い様だろう。
一度だって飲みに誘われた事も無ければ、誘った事も無い。入社祝いもされなかった。
だから、これでいい。この人達と深く関わる必要は無いんだ。
そう思い続けていた。
けれど、今更のように感じているこの違和感。煮え切らない感じ。
なんなのだろう。
昼休み、僕は現場の近くにある公園へと向かい、ベンチの雪を落とし、そこに寝転がる。
空を見上げながら、だるい体を休ませた。
「……ついに、仕事に対してまで、やる気が出なくなっちゃった」
ありがちに「なんのために生きているのだろう」と言うつもりは無い。その答えはもう出ているから。
だけど、けれど、それなのに、僕は今、血が滾らない。
これは、甘えなのだろうか。
誰に助けて貰いたい訳でもなく、ただ、やる気が起きないこの感じは甘えなのだろうか。
仕事を辞めて、お金が無くなって、餓死していく事を想像しても、恐怖ひとつ感じない僕は、甘えているのだろうか。
姉の死を見た。アイツの死を見た。いずれも酷い表情だった。それを想像しても恐怖が涌かない僕は、甘えているのだろうか。
それとも、また、狂っているのだろうか……。
そうじゃないと思いたくて僕の心の中を探ってみるが、そこにはどうやら何もなく……。
あるのは体のだるさと、からっぽの僕。
春香ちゃんはもちろん、ユキちゃんも、彩子さんも、健太も、安奈さんも、タダっちさえも、僕の心に住んではいない。
いつだったか、アイツは「ケイの心に俺の居場所を作ってくれ」と言っていたのに、どうやら作れなかったようだ。
「ごめん」
つい、謝った。
だけど、それは言葉だけのもので、僕は何一つ悪いとは思っていないのだろう。
僕は事務所からいつも歩いて帰っている。
普通に歩いて一時間くらいだろうか。結構な距離があり、体力作りには丁度良い。
しかし僕は、今日始めて、タクシーに乗って帰ってきた。
どうしても、歩く気にはなれない。
歩けばいいのに。やればいいのに。
やらない。やりたくない。
それは仕事にも、約束にも同じ事が言えた。
「……子供の、我侭と同じだ」
僕はタクシーの窓から見慣れた景色を眺めながら、小さな独り言をもらす。
やりたくないから、やらない。
そんな言い訳が通用するのは、小さな子供だけ。この世に生まれ出て、数年の間だけ。
僕はもう、十八年生きている。しかも、親を狂わせるほどに、迷惑をかけて生きてきた。
もし彩子さんの言うようなカルマというものが存在するなら、僕はそれを少しでも無くすための努力をしなければ。
だけど、そう考えると「やらなきゃいけない」という意識よりも先に「死んで詫びる」という考えが浮かんでしまう。
僕なんか、居なくたっていい。迷惑をかけるなら、死んでもいい。
今の母親なら、僕の死を喜ぶのでは無いかと思う。
それに、もし死後の世界があるなら、アイツが待ってくれているはず。
「しょうがねぇな」とか言いながら、笑ってくれるはず。
その笑顔を見て、僕も「あはは」と、本当に笑えるような気がする。
それが、逃げだという事にも、気付いていた。
それなのに「逃げたっていいじゃないか」とか「僕にはどうせプライドなんて無い」等という言葉が浮かぶ。
アイツという、本物の親友が無くなった今。約束という、僕の心を揺さぶっていたものが無くなった今。僕を支えているものは、何も無い。
「何も……」
「お客さん? 着きましたけど」
「何も無い……」
「お客さん?」
誰かの声が聞こえていた。
布団をひき、その上に座り、テーブルによりかかり、缶ビールをあけた。
プシュッという音がして、隙間から少量の泡が漏れ出る。
僕はそれを見て、缶ビールをそっとテーブルに置いた。
「……飲みたくないなぁ」
僕の少ない楽しみだった晩酌に、手がつかない。
素ビールでも十分に楽しめていたはずなのに。
今は、まるで毒を目の前にしているような、そんな感覚。
僕はしばらくじぃっと缶ビールを眺めた後、それに飽きて横になった。
そして、目を閉じる。
思い浮かぶものは、円。
ぐるぐると回っている、思考という円型の渦。
その中に僕が居て、横を見ると僕が居る。
よく周りを見てみると、その向こうにも、そのまた向こうにも、僕が居た。
高速に回転している渦の中、一人の僕が目の前を通る。
ニヤリと笑い、僕の顔をつかんだ。
「お前なんかに殺されてたまるか」
僕は、恐怖する。
しかし、逃げようにも逃げられない。抑えられているのは顔だけだと言うのに、まるで全身を拘束されてしまっているかのよう。
「やめろ……」
「もう任せちゃおけねぇ」
「やめろ。僕は」
「僕を殺す気なんだろ? 代われ」
突然、ピンポーンというチャイムの音が、この部屋に響いた。
それと同時に、僕は自分を取り戻す。
あわてて体を起こし、自分の体が自由に動くかどうかを確かめた。
どうやら、眠ってしまっていたようだ。
「はぁ……はぁ……」
あの夢は、一体なんだったのだろう。
真冬だというのに、寝汗を大量にかいている。
「……夢……?」
どこかで、聞いた事があった。
夢を見た後、こうして寝汗を大量にかき、息切れを起こしている現象について。
どこで、どんな風に聞いて、何を思ったのかは、忘れてしまったが。
「なんだっけ……」と思い悩みはじめたその時、再びこの部屋のチャイムが鳴る。
誰かが来たらしい。
彩子さんはこの部屋の合鍵を持っているので、チャイムを鳴らして部屋に入るなんて行儀の良い事、した事は無かった。つまり、彩子さんではない。
彩子さんとアイツ以外の来客なんて今まで無かったこの部屋に、一体誰が来たと言うのだろうか。
僕は面倒くさくなりながらも、重たい体を立たせ、玄関へと向かった。
鍵を外し、ドアを開くと、そこには、泣いている女、二人。
「え」
「ケイくぅんっ……! ケイくんっ……!」
一人の女性に、抱きつかれる僕。
思わず後ろに倒れそうになるが、踏みとどまる。
この女性はどうやら軽い。
「え? え?」
僕は、混乱した。
一体、何があったと言うのだろう。
「ケイくんっ……わたしぃ……わたしっ……!」
僕の目に映るのは、僕達から一歩離れた所に立っている、女性。
酷くやせ細っていて、精気が感じられず、今にも消えてしまいそうに見える。
彼女の左指からは、血が流れていた。
ポタポタと、白い雪に赤い点をつける。
「ユキちゃん、落ち着いて。中に入って」
僕はとりあえず、泣いている彼女をなだめる事にした。
部屋の中へと連れていき、ココアの一杯でも飲ませなければ。
「……春香ちゃんも、入りなよ。散らかってるけど」
僕がそう言うと、精気の無かった彼女の顔が一瞬にしてクシャッと歪む。
必死に我慢していたのか、大量の涙を、流していた。
「わたっ……私が春香だって……なんで……会った事……無いのに」
「どこからどう見ても、春香ちゃんじゃんか」
精気の無い顔。やせ細った体。うつろな瞳。ボサボサの頭。
見た事は無かったが、彼女はどこからどう見ても、春香ちゃんだった。
春香ちゃんの深い深い指の噛み傷を流水で洗い、消毒してバンソウコウをはった。
しかし、深い傷だ。明らかに肉の一部がそぎ落とされている。骨まで達しているかも知れない。
こういった身体の先端部分は神経が集中しており、相当痛むはずだ。それを今まで、よく我慢していられたものだと思う。
「指、早く病院に行かなきゃ駄目だよ。腐って落ちるよ」
僕が治療しながらそう言うと、春香ちゃんはより大きな声で鳴いた。
「あぁあっ……! うううぅっ!」
……話は聞けないが、察しはつく。
この噛み傷、おそらくユキちゃんが付けたもの。
当のユキちゃんはと言うと、僕の布団の上でうつぶせになりながら、震えていた。
こちらも、今は話を聞ける状態では無いだろう。
「腐って落ちれば……っ」
「ん?」
突然春香ちゃんは、声を漏らした。
泣き声交じりなので、上手く聞き取れない。
「何か言った?」
「腐ってぇ……落ちればいいんだぁ……」
目から涙、鼻から鼻水を大量に垂らした、とても情けない表情で、春香ちゃんはそう言った。
「え? なんで?」
僕は当然の疑問を投げ返す。
すると春香ちゃんは僕の目を見て、より一層、顔をゆがめた。
まるで、幼い子供が泣き始める瞬間をスローモーションで見ているよう。
「だって私……これ……左腕ぇ……」
春香ちゃんは左腕を僕に差し出した。
そして、ゆっくりと着ていた黒いパーカーの、袖をめくる。
「こんな腕っ……要らないもん……」
彼女の腕には、無数の生々しい傷跡があった。
恐らくカッターか剃刀で、自ら傷つけたものだろう。
おびただしい量。腕の隙間を無くすほどの量。
昨日今日つけたばかりの傷らしく、かさぶたの隙間から血がにじみ出ている傷もあった。
「汚い腕だね」
「……ううぅっ……! うぅっ!」
「駄目だよ」
僕は春香ちゃんの手をとり、水道の水を当てる。
キンキンに冷えている水道水だ。冷たいし、傷に染みるだろう。
その上で僕は、彼女の傷口ひとつひとつを、丁寧に洗った。
痛いのだろう。春香ちゃんは「うぅっ」という声を出している。
「傷つけてもいいけど、放置しちゃ駄目。傷は化膿して、悪くなっちゃうから」
「……うぅう」
「……それなのに、一ヶ月も放置しっぱなしで、ごめんね」
僕は、謝っていた。
心からの謝罪かどうかは、わからない。
だけど僕の頬に、三日ぶりの涙が伝っていた事は、間違いじゃなかった。
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