シノロク 後編
玄関を開けながら、小さな声で「ただいま」と、誰にも聞こえないように声を漏らした。
しかし、それと同時にドタドタという音を立てながら、妹である真美が階段を急いで駆け下りてくる。
「おっ……お姉ちゃん、今日学校行ってないでしょ?」
必死な表情を見せながら、妹は私にそう言った。
私にしてみれば、そんな事はどうだって良い。
「お姉ちゃん私服だし……何? 何かあったの? お母さんカンカンだよ?」
「別に。何でもない」
私はそれだけを言って靴を脱ぎ、家の中へと入って行った。
妹は素っ気無くされていると言うのに「何かあったんでしょ? 変だよお姉ちゃん」と言いながら、私の腕を掴む。
今更、私が変になっている事に気がつくなんて、遅すぎる。
遅すぎて、思わず含み笑いが出てしまう。
もう少し早く気づいていれば、私は契約なんて、しなかっただろうに。
「ねぇ……男の人なの……? その服も男の人の家にあったヤツとか……」
「うるさいな。何でもないって言ってるでしょ」
「あ、お姉ちゃんリビングは……お母さん怒って待ってるから……」
「うるさい」
私はいつもの通り、リビングのドアを開く。
そこには、ソファーに座りながらテレビを見ている、母親の後姿があった。
いつもの通りに、私は小さく「ただいま」とだけ発し、台所へと向かって手を洗う。
「なつめ、ちょっとこっちにいらっしゃい」
「嫌」
私は覇気無く、ほぼノータイムでそうつぶやいた。
小さな声だったと思うのだが、どうやら私の声は届いていたようだ。私の背後から「なつめっ!」という大きな声が聞こえてきた。
母親は、本当に分かりやすい人間だ。己の感情にはどこまでも従順。
私がこれまで、どれほど自分を殺して生きてきたかなんて、この女には理解できないんだろう。
一切の反抗をせず、ただひたすらに従ってきたと言うのに、妹よりも不遇にされてきた、私の事なんて、この女には理解出来る訳が無い。
「なつめ! 今日どうして学校に」
「うるさい」
私は奴の右足を見つめ、アキレス腱が切れる所を想像する。
すると、そのイメージの通りに、母親はその場へとうずくまった。
ブチッという、音と共に。
「いっ……! あぁっ……!」
その様子をドアの影から見ていた妹が「お母さん!?」という声を上げて近寄ってきた。
「あああっ! あぁぁっ!」
うるさく、汚い声が私の耳に届いてくる。
とてもとても、耳障りだ。
私のお腹の辺りで、黒いモヤモヤがグルグルと回っているのを感じた。
グルグルと回って、黒いモヤモヤは、感情と変わって行く。
それは、明らかに負の感情。
作り出された感情は、全身へと駆け巡り、私を支配する。
ローラの首を折った時も。ローラの目を潰した時も。同じ感情が私を支配していた。
「あは」
私は、更に念じた。
歯よ、抜けろ、と。
喋れなくなるように、抜けてしまえ、と。
「ひぎいぃっ? いぃぃいっ!」
「いやぁ! 母さん! お母さん!」
母親の口から、白い固形物が、赤みを帯びて、ボロボロと抜けていく。
面白そうだから、八重歯だけは残しておこう。
「おっ……お姉ちゃん! お母さんがっ! お母さんが……ぁ」
妹が私の顔を見て言葉を詰まらせた。
流していた涙を一瞬のうちに止め、顔色を一気に青ざめさせる。
「いやっ……お姉ちゃん……何で笑顔なの……」
「何よ」
「なんでぇっ……? いやぁあっ! いやっ! 悪魔ぁっ!」
本物の悪魔を見た事も無いくせに、私を悪魔と呼ぶなんて、無知にも程がある。本物の恐怖を、知らないのだろうな。
教えてあげなければ、いけない。
「悪魔? 私が?」
「悪魔ぁっ! いやぁ来ないで!」
私は笑顔のまま、妹へと近寄った。
それに連動するかのように、妹はあとずさる。
妹へと近寄る途中に「うーうー」という、汚いうめき声を上げている母親が居たので、思い切り踏んづけた。
それと同時に「うぐっ」という、更に汚い声を漏らす。
「私は別に、何もしてないじゃない。母さんに少しでも手を触れた?」
「いやっ……いやぁあっ! カズくんっ! カズくんっ!」
カズくん。山本和義。
それは妹の彼氏の名前。
高校二年生の、サッカーをしている、長身の、格好良い男子。
妹は、容姿が良いという訳では無い。成績だって、中の下で、私の遥か下。確かに明るい性格をしているが、決して社交的という訳でも無いと思う。
それなのにコイツは、中学生の分際で彼氏が居る。
週に一度は彼氏を家へと招きいれ、母親と妹とで談話をしていた。
その間私は、三人の笑い声を聞きながら、自分の部屋で勉強をしているフリをしていた。
何故、コイツはこんなに恵まれているのだろうか。
何故、私はこんなに恵まれていないのだろうか。
何故。
そう思うと、許せなくなった。
「アンタ、私を見てて何を感じてた?」
「やだぁっ! 来ないで! 嫌だよぉっ!」
「聞いてるの。何を感じてたの?」
「怖いよぉっ! カズくっ……うっ……かはっ……」
妹は恐怖を、表情と声で表していた。
確かに、映画やドラマでは、ヒロインが恐怖に怯えた時、引きつった表情を作り、ヒステリックな声を発する。
しかしそれは、本物の恐怖ではない事を、私は知っていた。
本当に恐ろしい時は、声を発さない。
息をする時に漏れる「ひっ」という音と、小便と、ただただ震える体。
それだけしか、無くなってしまう。
少し前に、私自身が体験した事だから、それが真実だと知っている。
妹は、私という外観を見ているから、心のどこかで安心しているに違いない。
だから私は、妹の気管を火傷させた。
「あっ……あっ……くる……し……」
妹は両手で喉をおさえ、ガクッと膝をついた。
目からは大量の涙を流す。
「おね……ちゃん……くるしい……くる……」
妹が息をするたび「ひゅう」という音が私の耳に届く。
「ねぇ、私を見て、何を感じてたの?」
私は妹の前でしゃがみこみ、頭にポンと手を置いた。
「教えてくれないかな」
「はっ……あ……私……お姉ちゃんの事……き」
「え? 何?」
「好き……だから……けい……さつにも……言わない……から」
私は母親へと視線を移し、イメージの中で心臓を鷲掴みにする。
すると母親は、一瞬だけ汚い叫び声を上げて、足と手をビクンビクンと跳ね上がらせた。
妹は母親のその姿を見て、小さく「あ……」と声を漏らす。
震える左手を前に伸ばし、目を大きく見開き、大量に涙を流した。
「好き? 何言ってんの」
「はっ……はっ……! ほっ……ホントにぃ! ホント……だからっ! やめてっ……!」
「やめるって、何を?」
私は、より強く心臓を掴む。
すると母親は、激しく痙攣するのをやめ、小さく、小刻みに体を震わせた。
声は、もう聞こえてこない。
「かっ……母さん……っ! あぁぁっ……」
「嘘なんでしょ?」
「はっ……はっ……」
妹は、私の目を見た。
私も、妹の目を見た。
「私の事が好きなんて、嘘なんでしょ?」
親も、妹も。
クラスの皆も、学校の先生も。
私に興味なんか無い。
死を間近に感じるようになったここ最近、その事を急激に理解してしまった。
つまり私は、これから二年三ヶ月、生きたとしても、死の直前まで、誰からも興味を持たれる事なんて、無かったのだろう。
いや、もしかしたら、たとえ死んだとしても、興味を持たれないかも知れない。
だって、ローラに見せられていた誰かの死に対して、私自身が、親身になれていなかったから。
人は、誰かの死に対してすら、無関心だって事は、自分自身で、証明済みだ。
それでも、生きていたいって。
そう願っていたような気がする。
何故だろう。
いつか誰かに興味を持たれて、理解される事を望んでいたのだろうか。
……きっと、そうなんだろう。
私は、寂しかったんだ。
嘘でもいいから、興味を持って欲しかった。構って欲しかった。
ローラは、私に言った。
「本当に詰まらない人間」と。
詰まらない人間に、興味を持つ人間なんて、居るハズが無い。
だけど、どんなに努力しても、私は、詰まらない人間。
どうすればいいのか、私には分からない。
だから、私以上に詰まらない人間である筈なのに、何故か恵まれているこの子を妬んでいる。
私が持っていないものを持っている妹が、どうやら私は、嫌いらしい。
「もぉ、いいや」
私はため息交じりに落胆の表情を浮かべながら、妹の頭から手をどけた。
「え……」
「死んじゃえ」
私のその声と同時に妹の瞳は光を失い、ゴトッという音を立ててフローリングに頭を落とした。
私は携帯電話を持った事が無い。
特にこれと言って必要が無かったから。
だけど、何故、妹には与えて私には与えなかったのだろうと、いつも疑問に思っていた。
いや、疑問というより、やはりこれも嫉妬なのだろう。
愛されている妹に、腹を立てていた。
「……さって」
私は妹のジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。
使った事が無いので操作に戸惑う。
「カズ……カズくん……と」
私は独り言をつぶやきながらメール送信画面を開く。
「あ、あった」
カズくんという名前の後に、ハートマークがつけられている。
なんて分かりやすい愛情表現だろうか。
「さぁて、どうやっておびき出そうかな」
私の独り言は続いた。
家のチャイムが鳴り、私はいそいそと玄関へと向かう。
扉を開いたら、そこには妹の彼氏であるカズくんが立っていた。
てっきり妹が出てくるものだと思っていたらしく、少し驚いているようだ。
「あ、お姉さんですよね、真美の」
「えぇ。あ、真美に用事?」
「まぁ、はい。急に会いたいってメールが来まして」
私はクスッと笑った。
「確か貴方のほうが年上よね? どうして敬語なの?」
「あ、はい。そうでした……」
私は再び笑う。
「だから、敬語じゃなくていいってば。今ちょっと真美は家に居ないんだけど」
私がそう言うと、カズくんは驚いたように「え?」という声を漏らした。
それはそうだろう。呼び出した当人が居ないなんて、そんな馬鹿な話、あってたまるか。
「え~……参ったな、部活抜け出して来たのに」
「良かったら、上がって待ってて? すぐに戻ると思うから」
私は玄関のドアを大きく開け、彼を招き入れた。
あはは、地獄へようこそ。と、私は心の中で笑う。
「あ、そう……だね。待たせてもらうよ」
彼は少し戸惑いながらもドアをくぐり、ゆっくりと靴を脱いでいる。
「リビング散らかってるから、真美の部屋に居てくれる?」
これが終わったら、明日は学校だ。
「え? あ、はい」
その次は国会議事堂か?
「また敬語っ。私って年上に見える?」
その次はホワイトハウスだろうか。
「え? なんて言うか……」
とにかく、寂しい思いのまま、死にたくは無い。
「なんだか、落ち着いてますよね、雰囲気が」
知らしめてやりたい。
この世界に、私の存在を。
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