六花
和尚の話によると、婚礼の夜、弥三郎の想い人は姿を消したままついに戻らなかったそうな。
娘の部屋から換金できそうな簪や帯留めと共に、着物が数枚消えていたため駆け落ちではないかとしばらく噂がたった。
なにせ、弥三郎とその娘が仲睦まじくしているのを村人はよく知っていたので、その後弥三郎もいないことが知れると、親の反対を押し切って二人で旅立ったのだろうとその話は丸く収まった。
名主の一人娘。百姓の倅が相手では反対されても仕方がないが、それでも慈しみ合う二人。生木を裂くように別れさせるのは可哀想だと周りの者は同情していたのである。
それゆえ二人の旅立ちを悪くいうものはなかった。
その当の本人が娘も伴わず現れたのである。
和尚が驚くのも無理はなかった。
弥三郎の方はといえば、娘の親から手紙を渡されていた。
その手紙には、確かに愛しい彼女の文字で別れが告げられていたのである。
婚姻後、周りの者の目もある。
それゆえ、この地を去ってもらえまいかと名主に頼み込まれて、彼女が幸せになれるならと旅立つ決心を固めたのだ。
それを今更、娘が行き方知れずとはどういうことだ。
膝の上、握ったこぶしが震えるのを、弥三郎は止めることができなかった。
その時小坊主が、お連れの方が戻りましたと戸の外より声をかける。憔悴し血の気の引いた顔の太一が、部屋の中へ通された。
「あぁ、太一さん。心配していたんですよ」
「よくぞご無事に戻られた」
大丈夫かと声をかける弥三郎に反応せず、和尚とも視線を合わせようとしなかった。よほど疲れたに違いない。
気づけば太一の手に、この世のものとは思えない色合いの花を付けた枝が一本握られていた。
「太一さん、取り返せたんだね!」
嬉しそうに笑う弥三郎に返事もせぬまま、布団へ横になっている与助のそばへ座る。
鬼と対峙したのかもしれない。
会わずにその目をかいくぐったのだとしても、精神的にかなり疲れたのだろう。そう思えば違和感などはなかった。
与助の枕元に座り込むと、その口元へ花を寄せる。
花に宿っていた光は、与助の口や鼻から空気のように吸い込まれて消えた。それに合わせて生き生きとしていた花弁が見る間に萎れて茶色く枯れていく。
弥三郎や和尚が驚きに目を見張っていると、動きを止めていた与助の胸が緩やかに上下を始めた。張りつめていた空気に深いため息が尾を引くように漏れる。
「よかった。与助さん助かって本当に良かった」
「さて、お疲れでしょう。茶でも持ってきましょうな」
弥三郎と和尚が嬉しそうに笑顔を浮かべているというのに、太一は一向に笑おうとしない。それどころか表情は暗く沈むばかりだ。それでも内心はうれしいに違いない。ほっとして気が抜けているのだと彼らは判断して気にも留めなかった。ところが、太一は座ったままこちらへくるりと体ごと振り向くと突然土下座したのだ。
「すまねぇ。弥三郎さん俺はとんでもない事をしてしまった!」
ぎょっとして、とりあえず顔を上げてくださいと弥三郎が助け起こそうとすれば、それを頑なに拒んで額を床に擦り付ける。
茶を出しに戸口へ向かっていた和尚まで、この異様な光景に立ち尽くしたまま動けずにいた。
「俺はあんたを売っちまった。あの鬼女に与助の身代わりとして、あんたの魂を売っちまったんだ」
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