お竜⑦

 連日に起きた弟子たちの不始末から、脱藩の可能性もありとみなされ、そして脱藩は死罪に値する重罪ため、役人たちは深夜にいたるまで千吉を探し続けた。

 とうの千吉はというと、脱藩というよりもただ此処ではないどこかへ逃げようと、あてもなくさまよっていただけだったのだが、役人の騒ぎを見るなりことの重大さに気づき、帰るに帰れなくなっていた。


「いたか?」

「いや、こちらにはいないっ」

 提灯を持って捜索をする役人たち。逃亡する千吉は、大橋の橋杭の陰に隠れ息をひそめ、その様子を見ていた。もともと脱藩の意思などなかったが、もはやここまできては脱藩するしかないというほどに追い詰められていた。

「ちょっとぉ、アンタ~」

 隠れている千吉の背後から、何者かが声をかけてきた。千吉が振り向くと、そこには夜鷹※の女がいた。

(夜鷹:店に所属せず店を持たず、路上で客引きをしていた娼婦)

「なによぉ、アンタ女買いに来たわけぇ?」

「いや、拙者は……。」

 女は笑いながら千吉に近寄る。

「あらあら~。こ~んなに生き荒くしちゃって~」

 歳は50代半ば、千吉よりも年上だった。若く見せようと声色を高くし、化粧の香りで加齢臭を抑えようとしていたが、ごまかすにごまかせていなかった。 

「ち、違う……。」

 千吉が後ずさりしていると、遠くから「いたぞ、こっちだ!」と役人が叫ぶ声が聞こえた。千吉は体をびくりとこわばらせ、土手の上を見た。だが、役人たちが集まっていくのは見当違いの方向だった。どうやら、夜鷹を買いに来た男が千吉と間違えられたようだった。

 そんな千吉の様子を見た夜鷹が言う。「……なんだか、ワケありみたいねぇ」

 千吉は夜鷹を見た。

「こっちいらっしゃい」そう言って、夜鷹は千吉を手招きする。

 千吉が夜鷹について行くと、そこには夜鷹の自前のおけが倒れていた。人ひとりが入れるくらいの大きな桶だったが、どうやらそれがその夜鷹の自宅のようだった。夜鷹は桶から巾着袋きんちゃくぶくろを取り出すと中から化粧道具を出した。

「……何をする気だ?」

「見つかっちゃまずいんでしょ?」そう言って、夜鷹は紅をすくい千吉の唇にあてがった。

「なっ?」

「変装よぉ。まさか、お侍さんが夜鷹に化けるなんて誰も思わないでしょ?」

「いや、しかし……。」

「見つかりたいんだったら別だけど~?」

「う、ぐ……。」

 千吉は言われるままに夜鷹から化粧を施され、さらに梅毒ばいどくで頭に毒が回って死んだ友人のものだと、女物の着物に着替えさせられた。

「やぁだ、似合って──」

 笑おうとした夜鷹の顔はすぐに真顔になった。つられて千吉も怪訝な顔をする。

「さて、次にこれをすれば完成ね~」

 話を変えるように、夜鷹は千吉の頭にほっかむりをした。

 千吉の全身を見ながら満足げに夜鷹が言う。「まぁ~、どこから見ても完全にワッチらの仲間じゃないのさぁ~」

 千吉は自分の着ている着物を見た。これだけで女装ができているとはどうしても思えなかった。

「──おいっ」

 突然、千吉の背後から男の声がした。千吉の心臓は止まりかけた。

「あ~ら、お客さ~ん?」そう言って、夜鷹は千吉の背後を見た。

「……何だババアか」

 男は夜鷹を見るなり顔をしかめた。

「誰がババアだいっ?」

「どう見ても俺のお袋と同い年くらいだろ」男は言った。「おい、そこのデカ女。お前、こっちを向け」

 変装に自信が無い千吉は、振り返る事ができなかった。

「おい、お前だよっ。お前も夜鷹なんだろっ?」

「ごめんなさいね~。彼女ったら照れ屋でねぇ」

「夜鷹のくせに照れ屋もなにもあるかっ。ほらっ」そう言って、男は千吉の肩を掴んで振り向かせた。「……顔は悪くねぇが……やっぱデカ過ぎだな」

 男は何だよ他にいねぇのかよ、とぶつくさ言いながら橋の下から去って行った。

 夜鷹は去っていく男の背中を見ながら言った。「なによ~腹立つわね~」

 その横で、緊張の解けた千吉は橋台に背を預け、大きく安堵をして胸をなでおろした。

「思った以上に変装が上手く行ったみたいじゃないの~」夜鷹は顎で川の方向をしゃくって示した。「川面で確認してみなさいな」

 千吉は川辺に向かった。

 川には月の光が映っていた。満月だった。満月の像は川の流れに揺れながらも、決して流されることなくその場にとどまっていた。うつろわず、まつろわないものがそこにあった。

──水月か

 千吉は月の明かりに照らされる自分の顔を見た。

 てっきり、先ほどの男の反応から美しく変身できていると思っていた千吉だったが、そうではなかった。

 化粧が滑稽すぎて、男だと信じられないのだった。

 千吉は思わず笑った。思えば、あのふたりの果し合い以来、千吉は笑っていなかった。

 千吉は顔をくしゃくしゃにして涙を流した。やがて、その可笑しみは悲しみとなり、笑い声は泣き声になった。

「ちょっとアンタ、大丈夫ぅ?」

 千吉は思う存分泣いた。心のままに生きられなかった弟弟子たちのために。

 侍として、男して生きてきた重責からの解放は、虚しいまでの心の自由を千吉にもたらした。


 千吉は女装したまま八重垣から逃亡した。もはや追手も来ないというのに、千吉は女装をやめなかった。そんな千吉を人々は奇異な目で見たが、千吉は全く気にしなかった。

 しかし、重荷から解放された男には留まる場所もまたなかった。羽は風に飛ばされるだけである。千吉は流れ流れた。異国の地に降り立ち、幾度の困難に直面しようとも、鍛え上げた体と剣は彼の命をつなぎ続けた。

 いづれ流れ続ければ、そのうち世界の果てに行きつき、命も尽きるだろう。


 そう自分を、人生を、世の中を見限りさまよっていた千吉は、とある国の山の麓に行き着いた。



 そして今、かつて守ることの能わなかった名誉のため、千吉は多勢の凶刃を前に立ちはだかっていた。かつて捨てたものを今一度握りしめ。

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