贈り物
──その夜
給仕の手伝いをしていたマリンが井戸の水をくむために外に出ると、中庭にある手洗い場から男女の声が聞こえてきた。内容が聞き取れなくとも、声の調子だけで不安を誘う、
娼館の男と女の喧嘩など聞きたくもないマリンだったが、水をくんで帰ろうとしたその時、足を止めざるを得なくなった。
──この声……。
マリンは桶を置くと、手洗い場に忍び足で近寄り、そしてドアの隙間から中をのぞいた。
「せからしかや! お前、一回やっただけで俺の女になったつもりなんか!?」
「そんなわけないでしょ! そんなわけないけど、あんまりじゃない!」
声の主はやはりティムとキャサリンだった。室内では、および腰のティムにキャサリンが食ってかかかっている。
「ガキがいっちょ前に情婦を気取んなやっ。昨日までケツも青かったこんガキが」
「そんな口の利き方していいわけ? サハウェイさんに言いつけてやるわ!」
「やってみぃ。お前との事ぁ
「何ですって……。」
「それにのう、娼婦ひとりのいざこざなんぞ、あん人が気にするわけなかやろがい」
「そうかしら? じゃあ、貴方がマリンにもちょっかい出してるってこと知ったら、ただで済むかしら? あのコ、サハウェイさんのお気に入りみたいだから」
「ちょ……待てやっ」
「はん、ダッサイ。結局アンタもあの人の顔色うかがう召使いなわけね」
「なんやと!?」
ティムが平手でキャサリンの頬を
「あ……あ……。」と、キャサリンの
「す、すまん。せやけど俺をあんまし怒らせんといてくれや。お前のことは大事に思っとるけぇ」ティムは倒れているキャサリンを抱き寄せ、何度も肩をさする。「サハウェイさんに言うとかやめとけ。それは違うやろ? ふたりの為やけぇ、な?」
キャサリンの額に口づけをするティム。さらに指で涙をぬぐい、キャサリンの顎をつまんで上げると、口にキスをした。キャサリンはすすり泣きながらティムの体に手を回す。
はた目から見て、なんと間抜けな光景なのだろうとマリンは思った。ティムが言っていることには何の整合性もない。それなのに、キャサリンはそんな男の言っていることを真に受けている。マリンのキャサリンを見る目は友を見るそれではなくなっていた。マリンにとって、キャサリンは仲の良い、ともに将来を歩む少女ではなく、憐れみが必要な力のない女に変わっていた。
男に篭絡されただけで、こんなにも人は変わってしまうものなのだろうか。マリンには、悲しみをとおり越して、虚無感すらあった。
翌日、マリンは執務室へ行くのにも気が重かった。いずれ自分もキャサリンのようになってしまうのかと思うと、ここで働く未来が、足場も定まらない暗闇を歩くようなものに見えた。仮にサハウェイのようになろうにも、彼女の高みは自分には遠すぎることを、幼いマリンとはいえ理解していた。
マリンが執務室に入ると、サハウェイが化粧台の引き出しを探っているところだった。
「おはようございます」とマリンは言った。「どうしたんです? 探し物なら私がやりますよ?」
「おはよう」サハウェイは何かを探したままで言う。「いいのよ。仕事に関係のないものだから」
「そうですか……。」
サハウェイは金色の鎖を取り出すと、室内中央のソファに座り、来なさいとマリンを手招きした。
「はい?」
マリンが自分の前に立つと、サハウェイは少女に背中を向けさせた。サハウェイはマリンの首に手を回すと、鎖をマリンの首にかけた。ひやりとした金属の刺激が首を伝い、マリンは肩をすくめた。
自分の首にかけられたものを見てマリンは言う。「これは……。」
それは宝石で装飾されたネックレスだった。中心には小さな青緑の翡翠がついていた。
「……どう?」とサハウェイはマリンに訊ねた。
「とっても綺麗です。こんな石、見たことないです」そう言って、マリンは中央の翡翠をつまんだ。
「決して悪いものじゃあないんだけど、そこまで高価じゃないし、ちょっと持て余してたの。気に入ったならあげるわ」
「え? いいんですかっ?」
「ええ、二言はないわ」
「でも……。」
「私が良いって言ってるの。もしかして逆らうつもり?」
「い、いえっ、とんでもありません……。」
「じゃあ決まりね」
「ありがとう……ござます」
振り向いたマリンの頬に手を当ててサハウェイが言う。「期待してるわ。この宝石に見合うどころか、及ばないほどの価値のある女になるのよ」
「はい……。」困惑するマリンが思い出したように口を開く。「そういえば、サハウェイさん。旅商の方から買ったあの品、どうします?」
「ああ、あれね」サハウェイも思い出したように言ってため息をついた。「私はてっきり毛皮のことだと思ってたのに、生きたのを持ってくるなんて」
「どうします? ティムさんはあの子の毛を剥いで毛皮を作ろうってお話しをしていますけど……。」そう言うマリンの口調は、大人たちの恐ろしい発想に委縮しているようだった。
「あんな子供を一匹毛皮にしたところでマフラーにもならないわ。後で考えましょう」
「はい……。」
マリンはぎこちなく微笑むと、これから商人たちとの会合のために外出するサハウェイの身支度の世話を始めた。しかし、マリンの動きはいつもより手際が悪かった。サハウェイと目を合わせようとせず、声も小さくいつものように
サハウェイはそんな少女の変化の本当の意味に気づいていなかった。どこか上の空なのは、高価な宝石をもらって恐縮しているのだという、ありがちな娘の反応だと思っていた。
少女にとって、サハウェイは憧れだった。その憧れの存在の教えを吸収しようと、目と耳を凝らし、サハウェイの些細な所作も、しゃべり方の癖すらも覚えようとしていた。ゆえに、その発言のひとつひとつも、賢者の金言であるかのようにしっかりと記憶にとどめるようにしていた。
──支配するには恩義で縛りつけるのが手っ取り早いの
少女もまた、サハウェイの贈り物の本当の意味を理解していなかった。
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