強者
それからマリンは、友人の勧めもあって、サハウェイの店で働くことになった。ミラにはサハウェイが話を通してくれたということだった。
働き始めてすぐにマリンが思い知らされたのは、ミラの店とサハウェイの店にあまりにも大きな差があるということだった。貴族の豪邸二つ分はあろうかという敷地面積、さらに店の従業員はミラの店の十倍はあった。そんな建物や従業員の規模はもちろん、その規模によって生じる近隣住民や
かつてアリシアはマリンにこう語った。女は、娼婦は男たちに平身低頭して生きていくしかないのだと。しかしサハウェイの存在は、まさに男たちの頭を、世間を足で踏みつけんとするほどに巨大で、そして強大だった。
強烈な落差の反動から、少女は自ずとサハウェイを見る目を輝かせていた。
マリンのそんな視線に気づいたサハウェイは、少女を連れ立って外出することが多くなった。秘書に関してはティムがいたためその必要がなかったはずだが、サハウェイは自分に純粋な好意の眼差しを向けるマリンを次第に気にいるようになっていた。
そして今日も、役人と会合している間、サハウェイはマリンを馬車で待たせていた。マリンのの正面には秘書役のティムが座っていた。
「……何です?」
興味深そうに自分を見るティムの視線に気づいたマリンが言った。
ティムが言う。「いや、サハウェイさんが女ば連れて回るっちゅうのが珍しゅうての」
「そう……ですか」
マリンは客車の窓から外を見た。顔を外に向けたが、それでもマリンはティムの
「……ええ顔しとるの」
「え?」マリンがティムを見る。
「俺は女を腐るほど見とるから分かる。お前はすぐにべっぴんになるぞ。母親似か?」
「どう……でしょうか」
「すぐに男がお前をほっとかんようになる。サハウェイさんも、お前に見込みがあるから可愛がっとるんやからな。あの人は無能な女には興味がない」
マリンは気まずそうに引きつった笑顔をティムに向ける。
「もっときちんと笑顔を作れるようになっとけ。ええ女が無自覚なんは犯罪やぞ」
「そんな、いい女だなんて」
無能という言葉に反応したマリンは、ドウターズを飛び出した時のことを思い出した。数日前までは、自分には価値がないかもしれないという恐怖を抱えていた。しかし今ではサハウェイほどの人物から有能だとみなされている。その事実は少女の心をくすぐった。
すると、ティムがマリンに手を伸ばし、栗毛色の横髪を指ですくった。マリンの体が硬直する。
「顔の骨格がもう大人になりよる。可愛げよりも色気があるのう」
「ちょっとっ」
マリンが身を引いた。少し顔が赤らみ緑色の瞳が潤んでいた。ティムは目を細め、少女の反応を観察し、女の性質をうかがっていた。
すると、マリンが建物の中からサハウェイが出てくるのに気づいた。
「あ、サハウェイさんだ」
マリンはサハウェイの事を言えばティムが戸惑うと思っていたが、思いの外ティムに動揺は見られなかった。
ティムが
「待たせたわね」とサハウェイが言った。
「どんでもない」とティムが言う。
「いい子にしていたかしら」とサハウェイがマリンに訊ねる。
「いい子だなんて、私、子供じゃありません」
「あら、そう。ごめんなさい」
マリンの
その後、マリンはサハウェイに連れられて街の教会の礼拝に出席した。教会は完成していたが、素人が行った建設だったため、風が吹くとすきま風が
演台の上のブラッドリーは聖典を読み終えた後、薔薇の枝は適切に
礼拝が終った後、教会を出たマリンはサハウェイに言った。
「サハウェイさんって信心深いんですね」
しかし、それにサハウェイは小さな鼻笑いで答えるだけだった。
「……違うんですか?」
「ここでは必要なことなのよ。皿回しみたいに方々に気を配って、常にいい顔を作っていかなきゃあいけないの。どんなに些細なことであってもね」
そう言ったサハウェイが、マリンにはミラに重なったように見えた。
ふたりが馬車に乗り込もうとすると、サハウェイに初老の女が声をかけてきた。
「サハウェイさんっ」
「……あら」
老女は
「もうお帰りですか?」と女が訊ねる。
「そうね。これからまた仕事があるし」とサハウェイは答えた。
「そうですか」と、女は深く頷いた。無理に顔を引っ張って作った笑顔だった。そしてその笑顔をマリンに向けて言った。「まぁ、貴女はサハウェイさんの新しいお付きのコ?」
「このコには見所があるから、色々教えてるの」とサハウェイが言う。
「へぇ~そうなのぉ」
笑顔をより歪ませる女に、マリンはおずおずとお辞儀をする。
「サハウェイさんが見込んだコならきっと大丈夫ね、大成するわ」と女は言った。「サハウェイさんはすごい方でね、この人のおかげでこの街は豊かになったのよ?」
マリンはサハウェイを見る。サハウェイはまんざらでもない笑顔を作っていた。
「何より、おばさんもサハウェイさんのおかげで助かったひとりなの。昔は生活が苦しくて、日々の食事もままならなかったんだけど、今ではそんな心配もなく、十分に生活していけているんだから」
そして再び女はサハウェイに笑顔を向けた。最初は不自然に見えた笑顔だったが、この女は元々こういう笑顔をするのかもしれないとマリンは思った。
ふたりが乗った馬車が走り始めてしばらくすると、サハウェイが口を開いた。
「別に、私は聖人君子じゃあないわ」
マリンがサハウェイを見る。サハウェイは窓の外を見ていた。
「彼らを支配するには恩義で縛りつけるのが手っ取り早かったの」
「支配……ですか」とマリンが言う。
「……最初は街の住人も私のことを良くは思っていなかったわ。いつまで経ってもここの奴らが私たちを見る目は変わらない。それなら……。」サハウェイはマリンを見た。「彼らの蔑む視線すらも及ばないくらいの力をつければ良いのよ。恐怖と施しを与えて思い知らせるの。そうすれば、いずれ彼らは膝をつかざる得なくなるわ。持つ者に対して、持たざる者が選ぶ態度はひとつだもの」
マリンは思った。これこそが自分が求めていたものではないかと。世界に理不尽がまかり通るのなら、それをものともしない圧倒的な力が必要なのだ。ミラは低いところに留まり過ぎだった。たとえ陰口を叩かれようと、サハウェイのように高みにいれば嫉妬の声は届かない。少女にとって、正面の女の存在は、新たな道を指し示す預言者のように輝いて見えた。
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