家出

「ミラ姉、ホント律儀だよねぇ」

 客の使い終わった皿を炊事場に運ぶトリッシュが感心しながらそう言った。

「そうだよね、リタの持病のことなんて、ここに来た時から分かってたのにね」と、男の相手を終えたばかりのミッキーが言う。ミッキーは濡れたタオルで体を何度も拭い、さらにスカートをまくって股間の辺りを拭い始めた。

「ちょっと何やってんのミッキー、炊事場でそういうことすんのやめてよ」と、トリッシュが眉間にシワを寄せる。

「仕方ないっしょ、洗面所はアリシアさんが使ってんの」

「よそでやれっつぅの」トリッシュはマリンを顎でしゃくる。「それに子供の前で下品なもん晒してんじゃねぇよ」

「ウチのここが下品だって? 上等だね。じゃああんたのアソコはどれほど上品なのさ」

「んなこと言ってないし」

「そんなに上品なアソコだってんなら……ほうら見せてみなっ」と、ミッキーはトリッシュに迫ってスカートを捲し上げた。

「やめてってばっ」と、トリッシュがスカートを抑える。

「マリンっ、見てみなっ」スカートを引っ張りながらミッキーが声を上げる。「トリッシュ姉さんの上品なのが拝めるよっ」

「冗談やめろやバカっ」トリッシュがミッキーの体をグーでポカポカ殴る。

「ホントは嬉しいくせにっ」

「私にだって選ぶ権利があるってのっ。好きでもない女に見せたくねぇし」

「ひっど~い、ちょっとはウチに気があると思ってたのにぃ~」

 ふたりはふざけ合っていたが、マリンはそんな二人が存在していないかのように、呆けた様子でジャガイモの皮を剥き続けていていた。

 その様子に気づいたミッキーが言う。

「……マリン?」

「え? ああ、うん。……何?」と、マリンが意識を取り戻したように訊ねる。

「何って、トリッシュのアソコが上品だって話」とミッキーが言う。

「バカっ」トリッシュがミッキーの頭をはたいた。

「うん、そうだね……。」

 マリンの奇妙な反応に二人は顔を見合わせた。

「……マリン、どうしたの?」

「……実は」


 マリンはサハウェイの店にミラがいた事を二人に話した。そして、ミラとサハウェイが繋がっていて、先日捕まった女も裏取引でミラがサハウェイに差し出したのではないかという疑念も。

 しかし、マリンが思っていたよりも二人の反応は薄かった。

「そっかぁ……。多分、あの一件以来なんだろうねぇ……。」

「やっぱサハウェイの所の女引き抜いといて、無事ってわけじゃすまないか……。」

「仕方ないよね……。」

「……え? それだけ?」と、ふたりの様子を意外に思ったマリンが言う。

「それだけって、まぁ、そういうことになっちゃうかもね。何だかんだ言って同じ女扱う店をイリアでやってんだから、いつまでも無関係でいられるわけじゃあないでしょ」

「そうだけど、でもミラ姉は今まで行き場を無くした人たちとかの為に頑張ってたんじゃ……。」

 そういうマリンに、ふたりは白々しい視線を向けた。マリンは衝撃を受ける。それは一ヶ月前、顔を焼かれた女のことを訴えた時と同じ目だった。純粋な子供を見るような哀憐が有り、一方で聞き分けのない子供見るような疎ましさもあった。

「そりゃ、ミラ姉に助けてもらった女は多いよ?」トリッシュが言う。「私らもそのクチだし。でも、ミラ姉だって聖母様じゃないんだ。やれることにも限りがあるよ。それに、私らだって同じ女ってだけで同情できるわけじゃないんだから」

 ミッキーも言う。「マリンさあ、アンタ何かちょっと勘違いしてるよ。ここはただの旅籠屋なの。ミラ姉を尊敬するのは勝手だけど、だからって旗振って女を導く英雄みたいに見てちゃあミラ姉だって気の毒だよ」

「それにね、中途半端な正義が一番タチが悪いんだよ? できないことはきっぱり出来ないって言うのが大事なのさ」

 トリッシュとミッキーの口調はますます冷めたく、マリンを責めるようになっていった。

「それに、多分このことはクレア姉だって知ってるよね」

「ああ、何かそんな感じする。この間の顔焼かれた女の件からでしょ? ミラ姉が出て行く時も、前もって知ってるみたいだし。だからねぇ、マリン」トリッシュはマリンを見た。「あれ? ……マリンは」

 しかし、マリンはもう炊事場にはいなかった。


 マリンは酒場のフロアにいるお竜の所にいた。演奏の合間、お竜はフロアの隅で三味線の具合を確かめているところだった。

 お竜は張りを確かめるために3本の弦をばちで弾く。音が小さくふたりの間に響いた。マリンが意味深にそばに立ち続けているので、お竜は三味線を下げてマリンを見た。

「……なぁに、アチシに何か聞きたいことでもあるのかしら?」

 鱗に覆われた表情は硬かったが、その口調は女のように柔らかく、男のようにおおらかだった。しかしマリンは浮かない表情で答えない。

「……しばらく試し弾きしてるから、考えがまとまったら言ってちょうだいな」

 そしてお竜は演奏を始めた。それは、試し弾きということもあっただろうが、マリンの心を慎重にノックするかのように、小さく丁寧な音色だった。

「……ねぇお竜さん」

 お竜が演奏をやめた。

「何だい?」

「どうしてあの時、私を助けてくれたの?」

「……あらぁ? 迷惑だったかしら?」

「そうじゃないよ」

「……理由なんてないわよ。助けた理由もないんだから、アンタは恩にきる必要なんてないのっ」

「うん……。」

「でも、それが聞きたいことじゃないみたいね?」

 マリンはお竜を見る。

「……ねぇ、どうして私のパパとママは殺されたの?」

 お竜は三味線を脇に置き、そして琥珀色の目でマリンを見つめた。お竜は何も答えない。まだ、マリンが言いたいことにたどり着いていない事を知っていた。

「どうして私は助かったの?」

「……嬢ちゃん。アンタが分からないのは、答えじゃあないでしょ?」

 マリンは首を傾げてお竜を見る。

「アンタが分からないのは、自分が何を求めてるかよ」

「何を……求めてるか」

「アンタ、許せないんでしょ? おとっつぁんとおかっつぁんを殺されたことが」

「でも、あいつらはお竜さんが……。」

「復讐じゃあないわ。アンタが許せないのは、無力なままでいる自分よ。そして……無力さを受け入れる大人たち」お竜は首を傾けた。「……でしょ?」

「でも、お竜さんは違うじゃない。だって凄い強いもん」

「強い……。」お竜は鼻から息を吹き出した。おそらく苦笑したのだろう。

「……違うの?」

「……誰しも大人になっていく過程でね、自分の弱さとやりくりしていくもんなの。王様も貴族も、お坊さんだって、みぃんなその過程を踏んでるんだから。いってみれば、求めるものを諦めるのが人生なのよ。どうしようもない物事はどうしようもないの」

「……じゃあ、もしお竜さんがミラ姉と同じ立場だったら、酷い目にあうかもしれない人を見捨てるかもしれなかったってこと?」

「……大切なものを選ぶためには、あるいはね」

「あの強盗たちがお竜さんより強かったら、私を助けなかったの?」

 お竜は何も答えず、ただ琥珀色の瞳でマリンを見た。

「……分かった」

 マリンはお竜に背を向けた。

「……マリン」

 お竜が声をかけるが、マリンは振り向きもせずに去っていった。


 マリンは両親を失くすには、それも世界の理不尽ゆえの喪失は早すぎたのかもしれない。少女にはまだ絶対の庇護者が、世界にはまつろうことのない不滅が存在するという信仰が必要だった。


 気づくとマリンは夜道を駆けていた。もしかしたら店の誰かが自分を追いかけてきてくれるかもしれないという淡い期待もあった。しかし、店が一番忙しい時間帯だったため、誰もマリンがいなくなったことに気づくことはなかった。

 怒りと失望から、マリンの足は疲れることを知らず1時間近く夜道を彷徨さまよった。少女ひとりで歩くのはあまりにも危険だったが、山道を抜け、荒野を抜けると、マリンは運良くイリアの中心部まで無事にたどり着いていた。野盗も野犬もその夜は、奇跡的に彼女を見つけることができなかった。

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