追い詰められた侯爵

 恐怖の禍を穿つ澄んだ声が響いた。ヘルメス候、ダニエルズ候、そしてゴブリンを含むすべての者が声の方向を見ると、そこには東方民族を率いたロルフの姿があった。さらにその後ろには、ダニエルズ候の嫡男、ネス・ダニエルズの姿も。ダニエルズ候は安堵して息子の名を呼んだ。

 ロルフが天高く手を伸ばし、そして空気を両断するようにその手を振り下ろしゴブリンたちを指し示すと、それを合図に新品の光り輝く刀剣を手にした東方民族たちがゴブリンたちに斬りかかった。先ほどまでダニエルズ候にまとわりつき、貴族たちに襲いかかろうとしていたゴブリンたちは、まったく刃を交えることなく、さらには鳴き声すらも上げずに散り散りになって屋敷の隅に消えていった。

 ゴブリンが去ると、ほんの少し前までの危機が嘘であったかのように中庭は静まり返った。小さな夏虫の鳴き声すら聞こえるほどだった。

「皆さん、お怪我はありませんか?」

 ゴブリンたちが去ったのが確認できると、ロルフは凛々しく彼らに歩み寄っていった。今まさに蛮族を追い払い、人々の窮地を救った次期後継者の姿は、月の光に照らされさながら英雄譚で語られる登場人物の如き佇まいすらあった。

「あ、ああ。さすがだロルフ。よくやってくれたな」

 そしてそれはヘルメス候も例外ではなかった。彼にとってさえも、目の前にいるのが自分の息子だということに実感が薄かった。

「ネス……。」ロルフの後ろに控えていたネスが歩み寄ると、不出来とはいえ息子の無事を喜ぶダニエルズ候が言う。「まったくどこに行っていたのだ。心配したぞ」

「父上……。」しかし、危機は去ったというのにネスの顔色は優れないようだった。「大事なお話があります」

「……どうした?」

 ネスはこちらへ、と父を誘うと逃亡していた集団から距離を置いた。


「ロルフよ、一体なぜあやつ等らと?」と、ヘルメス候はロルフが従えている東方民族を見ながら言う。「それに、何故武器を持っているのだ? 武器の類いは屋敷の前で差し出すよう徹底していたのではなかったのか?」

「父上、以前から私が東方民族と交易を計画していたのはご存知でしょう」

「それはそうだが、それにしても……。」

「父上は彼らの事を、まるで魔族のように計り知れぬものと思い過ぎなのですよ」ロルフは微笑んだ。「彼らとてダニエルズ候達と変わらぬ人間。ただ呼び求める神の名と言葉が違うだけのことなのです」

 だがレインメーカーと呼ばれ、多少は価値観の新しいヘルメス候であっても、その呼び求める神の名が違うということは受け入れがたいことだった。ヘルメス候は呻くように返事をするしかなかった。

「そして武器に関してですが、彼らからの贈呈品には貴重な金属や宝石で装飾された武具があって、そのことを東方民族の代表者の方が教えてくださったのです」

「そ、そうか……。」

 大広間のある棟から東方民族の男・ジャービスがこちらに歩いてきていた。一際背の高い男だったので、遠くからでも否応なく目立っていた。

 ロルフはジャービスを一瞥する。ロルフが男の背の高さに表情を変えないのは、既にその男を見慣れているからだった。

「どうです父上。彼ら東方民族も、我らの友として関係を築き上げてはどうでしょうか? 何より彼らが今宵私たちを助けてくださったのが何よりの証明です」

 ヘルメス候はいつものように自分の考えに固執することができなかった。自分のたったひとりの息子の勧めだという以上に、自分達を劇的に救ってくれたという事実は、ヘルメス候の価値観を揺るがし始めていた。そしてそれは、ヘルメス候だけではなかった。共に救われた諸侯の貴族たちもまた、このほんの束の間の出来事で東方民族に対する見方が変わっていた。

「むぅ……確かにこの恩義、返さないわけにはいかんな……。」


「……アイザック」と、しばらく息子とふたりきりで話をしていたダニエルズ候がヘルメス候に声をかけた。

「ん? どうしたギル?」

「これに……。」ダニエルズ候は100ジル紙幣を掲げた。「見覚えはないか?」

「……金がどうかしたか?」

 少し、返答に間があった。だが、取り繕える程度の綻びだった。

「これにも、見覚えがないと」

 しかし、ダニエルズ候が息子から渡された偽札の原盤を掲げると、ヘルメス候は右の眉を釣り上げたまましばらく沈黙した。狼狽を必死に押し込めるような沈黙だった。

「……何だそれは?」

「白々しいぞアイザック。ネスが貴様の屋敷の地下室でこれを見つけたと言ってる」

「……何を」ヘルメス候はわずかに首を振る。「言っておるのだ……。」

「この事は王に報告しておく。アイザック、お前と言えど厳罰は避けられんぞ。……偽札製造は重罪だからな」

「ば、馬鹿な! 処分だと!? 私はそんなものなど知らん! 貴様の倅のでっちあげだろうが!!」

「ヘルメス候っ」ネス・ダニエルズが声を上げた。「私は貴殿の下女に誘われ、その先でこれを見つけたのですっ。この屋敷の主の貴殿がご存知ないとはまかり通りますまい!」

「下女? お前、下女と何をやっていたというのだ!?」

「そ、それは、今は関係ないではないですかっ」

「ふん、ならばその下女とやらをここに連れて参れっ。貴様ら、揃いも揃って私を謀るつもりだろうっ」

「アイザック、私の息子が嘘をついているとでも言うのか」

「出来の悪ことで評判の貴様の息子ならばあるいはなっ」

 つい先程まで共に死線をくぐり抜けようとしたヘルメス・ダニエルズのふたりは、一転して対立するように睨み合っていた。

「父上っ」

 そしてまたしても、その濁った空気をロルフの澄んだ声が切り裂いた。

「な、何だロルフよ?」

「……お見苦しい真似はおやめください」

「何、何を……何を言っている!」

「もし、父上が潔白であるのなら、中央からの使節を受け入れればよろしいではありませんか。もちろん父上のことですから、やましいことなど何もないのでしょう?」

「此奴らなど信用できるかっ。私を陥れるために画策するに決まっている」

「ならば、私もダニエルズ候と共に王への報告と捜査に協力します。そうすれば父上に不利になることなどないでしょう」ロルフはダニエルズ候を振り返った。「よろしいでしょうか? ダニエルズ候」

 ダニエルズ候はてきぱきと場を仕切る命の恩人の美しい若者に促され、ヘルメス候に対する不信感も忘れていた。ロルフの言われるままに事を承諾し、さらにロルフの仕切りによって晩餐会はお開きとなり、そしてそのまま手当の必要な負傷者を除いて、来賓たちはそれぞれの帰路について行った。


「父上……。」それからさらに夜も更け、すべての来賓が帰った後、ヘルメス候の寝室でロルフは父に尋ねた。「ダニエルズ候の仰ったことは本当なのでしょうか?」

 だが、ヘルメス候は気まずそうにしたまま答えることを拒んでいた。

「私には本当のことを仰っていただかないと困ります。ダニエルズ候に私も捜査に協力すると言った手前、何も知らないでは仕事になりませんから」

 岩のように頑なになったヘルメス候は、ナイトテーブルの上の杯に溢れんばかりの勢いで酒瓶から葡萄酒を注いだ。そして自分の頑なさをほぐすように酒を一気に飲み干した後、酒の熱で体を微かに震わせてから語りだした。

「……の助言だ」

「……あの方?」

「あの方が……妻を、パリスを差し出す代わりに、戦後我がヘルメスが成り上がるための方法を教えてくださったのだ」

「そんな……こんなの、犯罪じゃあありませんかっ」

「あの方がいた頃は違ったのだっ。あの頃はまだ貨幣そのものが世間に浸透していなかった。共通の通貨などなおさらだ。だが時代と共に共通ジルの偽造が違法となったのだ。勝手に時代が変わったようなものだ。こちらの都合も考えずにな。だからそう、時代が悪いのだっ」

「時代? 時代ですって?」ロルフの口調が侮蔑で震えていた。「それでは……。」

「なんだロルフ?」

「それでは、父上もまた敗者ということではありませんかっ」

「貴様……本当にロルフか?」


 晩餐会から一週間と経たぬうちに、中央から使節が派遣された。早すぎる動きだったが、ヘルメス侯はロルフの隠蔽工作にすべてを任せた。晩餐会での働きから、ヘルメス侯は息子に全幅の信頼を寄せていたのだ。

 だが、隠蔽は失敗に終わった。

 正確に言うと失敗ではなく、そもそもロルフは父のために動く気などなかったのである。ロルフは集めた証拠を始末すると父に見せかけ、ダニエルズ侯に偽札やその原盤を差し出していたのだ。

 ロルフはそうすることで、偽札の製造は父と一部の側近のみが関わっていたことだと他国の諸侯たちに訴え、自分や自分の息のかかった家中のものを疑惑から外そうとしたのだった。

 そしてロルフの報を受けたダニエルズ侯もまた、晩餐会で自分と息子の命を救ってくれたロルフを信頼していたので、ロルフの事を信じて中央に報告をした。

 ダニエルズ侯の報せを受けた王はすぐにヘルメス侯の爵位をはく奪し、臨時の統治者として息子のロルフ・ヘルメスに爵位を与えた。


 二週間足らずの出来事だった。そのわずかな期間に、ヘルメス侯国の権力は父から息子へと譲渡された。

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