ビフォア・ファントム㊳飼い犬たち

 クロウは開店の準備をする娼婦たちの控え室に駆け込むなり叫んだ。娼婦たちは、ちょうど各々が口紅を塗ったり髪を整えたりしている最中だった。

「みんな、逃げよう!」

 そんなクロウを、娼婦たちは訳も分からず見ていた。

「クロウ……どうしたのさ?」と、メグが言う。

 クロウは借用書の束を掲げた。「こいつがみんなをここに縛り付けてたものだよ! カールスの部屋から持ってきた。これを始末しちゃえばみんなはもう自由の身なんだ!」

 それでも娼婦たちは困惑したままでクロウを見ていた。

 アリアが言う。「クロウ、何てことを……。今すぐ戻しなさいっ」

「何言ってるの? これを戻したらみんな娼婦に逆戻りなのよ!?」

「そんな……だって、そんなことしたらカールスさんが……。」

 クロウの目が座った。「カールスは、もう追って来れない」

「……え」

 クロウは娼婦たちを見渡す。「アイツはくたばったよ……。」

「なんてこと……。」とアリアが絶句する。

「だからみんな、ここから逃げるんだよ。カールスは追ってこれないけれど、町の奴らだって私たちの味方じゃあない。今夜中に、男たちが集まってくる前に早く!」

 クロウはすぐにみんな自分に賛同してくれるものだと思っていた。自分やシーナと同じく、みんなここから何が何でも出ていきたいものなのだと。しかし……。

「逃げるって……どこへ?」と、エミリオが言う。

「どこへって……とにかくここじゃないどこかよ!」

「そんなこと言ったって……。」

 メグが言う。「ここ以外でどうやって生活してけってのさ」

「どうやってって、どうにだってなるでしょ?」

 だが、クロウの呼びかけに娼婦たちは乗り気ではないようだった。

「クロウ」とアリアが言う。「わたしたちの居場所はここなのよ」

「……何言ってるの」クロウは愕然とした。「毎日毎日ロクでもない男に好き勝手されてモノ扱いされて……。こんな、こんな所のどこが居場所だって言うの?」

「そんなぁ……だって、お客さんだってそんな悪い人たちばかりじゃなかったでしょ」

?」

「ええそうよ。優しい人だっていっぱいいたはずよ?」

「優しいですって?」クロウはゴールドバーグを思い出し怒りに震えた。「あれが、あんなのが優しさですって? あれは優しさなんかじゃない、あれは……。」クロウは自分を抱いた多くの男たちの眼差しを思い出していた。その視線はいつも彼女の上にあった。「あれは……哀れみよ。だって……だって、あいつらは一度だって私たちを対等になんか見てなかった!」

 

 娼婦たちはクロウから目を背けた。それがクロウの問いかけに対する彼女たちの答えだった。

「大変です皆さん! カールスさんの部屋から火が!」と、バリーが控え室に駆け込んできた。

 女たちはまぁ大変と口々に言い合った。

「メグ、井戸から水を汲んできて!」

 アリアに言われ、メグは分かったよと裏庭に走っていった。


 こいつら……。


 もうひとりでも良かった。クロウは騒ぎに乗じてここから逃げる決意を固めた。しかし……。

「クロウ、一緒にいくよぉ」

 振り返ると、そこにはエレナがいた。

「エレナ……。どうして?」

 娼婦たちの反応の悪さから思わずクロウは尋ねたが、すぐに強く頷くとエレナの手を引いて娼館の表玄関から飛び出した。


 今にも雪が降りだしそうなほど冷たい寒空の下、ふたりは無我夢中で走り続けた。クロウが走るスピードを少し緩めて振り返ると、娼館の前では燃え広がり続けている炎を何とかしようと、女たちが消火活動に勤しんでいた。

 女たちを見てクロウは思う。彼女たちは犬だ。繋がれるのに慣れてしまった犬だから、例え首輪を外されようと鎖の届く範囲から動こうとしないのだ。吠えることも走ることも主人の許しがなければできやしない、飼い慣らされた犬なんだ。そして飼い犬は主人がいなくなると、新しく尻尾を振るに相応しい者を探すことでしか生きる道を見いだせない。


 アリア。貴女は優しかったんじゃない。倒錯した卑屈さで騙そうとしていただけ。他でもない自分自身を。

 メグ。貴女は十分に若いのに、まるで年寄りみたいにもう未来がないと自分から諦めていた。希望を持って裏切られるのが恐ろしかったから。

 エミリオ。お姉さんを殺した娼館なのに、貴方が反抗することといったら上辺だけ、それだけで男としてのプライドを守っていたつもりになっていた。

 

 さようなら、みんな。貴方たちは弱すぎる。


 クロウは月明かりと娼館の炎が照らす山道を再び走り始めた。

「……ねぇエレナ」息を切らせながらクロウが言う。

「なぁに、クロウ」同じく息絶え絶えにエレナが言う。

「どうして……私について来ようって思ったの?」

 クロウは、娼館を出る前に気になっていたことを訊いた。

「う~ん」エレナは緊張感のない、いつもの間延びした感じで思案する。「もしかしたらぁ、エレナにも違う人生があるのかなぁって。自分で何かを選べるような、そんな人生が」

 クロウは強く微笑んで頷いた。「そうよ、きっとあるわよ」

「そうだねぇ、だって世界は広いもんねぇ」

「そうよ、貴女は家事だって出来るし歌も上手い。芝居小屋でも下働きでも楽隊でも、居場所は絶対あるはずよ」

「うふふ~、いいねぇ、いっぱい良いことがありそう」

 ただ二人の女が暗い山の夜道を走っているだけだった。しかし、その先には無限の可能性へと続いているかのような明るい希望があった。ふたりはどれだけ息が切れようとも疲れを忘れたように走りづけた。しかし、それでもクロウは一抹の気がかりがあった。

「エレナ……。もし、私と付いてきて、それで今より大変なことになって……。」

 クロウが後ろを走るエレナを振り返ろうとしたその時、何かが風を切って走ってくる音が彼女の耳に入った。この時のクロウには、それが何なのかまだ理解できなかった。

 そして振り返ったクロウの目に映ったのは、ボウガンの矢で首を貫かれたエレナだった。


「……エレナ?」


 エレナは目を大きく見開き、翼から羽を散らせながら崩れ落ちた。エレナ自身何が起きているか分からず、クロウに翼を伸ばしながら口をパクパク動かし何かを訊ねようとする。だが、気道が矢で塞がれそれもままならなかった。呼吸ができない苦痛で、エレナは眉間に皺を寄せた。


「エレナァ!!」


 クロウはエレナに駆け寄り抱きかかえて何度も彼女の名を叫んだ。だが呼びかけるごとにエレナは意識を失っていくようだった。目からは刻一刻と光が失われている。エレナは自分が死のうとしていることも分からず、困惑した眼差しをひたすらクロウに向けていた。

「エレナ……うそよ、エレナ……。」

 クロウはそれでもエレナの名を呼び続けた。だがそれも虚しく、かつてクロウを癒した美しい歌声を生み出した喉は、二度と声を発することなかった。

 ただでさえ軽かったエレナの体は、命が消えてより一層軽々しくなっていた。クロウはその軽い体を涙を流すことさえ忘れ抱きしめた。ふたりの間を、完全な死の静寂が包み込んでいた。

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