ビフォア・ファントム㉚オーク

 クロウはバリーに案内されが待つ客室へと向かった。

「あの……クロウさん。の相手をしたことは……。」

「ないわよ。見るのだって今日が初めてなんだから」

「僕が見た限り……そんなに悪そうな方ではなかったので……。」

「大丈夫ってこと?」

「え、ええ。あくまで僕の見立てですが……。」

「この際言わせてもらうけど、貴方の大丈夫はあてにならないの。これここの常識ね」

「ははは……。」

 頼りないバリーの後に付いて客室に向かいながら、クロウはこの通路が永遠に続けばいいのにと思い始めていた。普段は気にならない壁のシミやランプの傘にへばりついたまま死んでいるカナブンの死骸を凝視し、一体どうしてあれを誰も掃除しようとしないのだろうと、どうでもいいことを考えていた。

 突然、バリーが立ち止まった。

「……ここです」

 ああそう、とクロウは口に出したつもりだったが、声が出ていなかった。

 客室の前にいるのに、扉を開けると断頭台があるのではないかというほどの緊張でクロウは足がすくんだ。事実、面構えに至っては死刑囚のそれであった。

「……貴方は、いつまでいるの?」

「僕は……今回は何かあったらすぐに入れるようにと……カールスさんから仰せつかってます……。」

 ああそう、とクロウは口に出したつもりだったが、やはり声が出ていなかった。

「ではクロウさん……。頑張ってください」

 何でこんなことになってしまったんだろうと、クロウは今更ながら後悔しながら扉に手をかけた。


 クロウが扉を開けると、扉の前には緑色の壁があった。

 妙なことだ、開けてすぐ壁になっている客間などあっただろうか。クロウはいまいち飲み込めない事態に呆然とする。

 しかしすぐに、それが目の前に立つオークの巨躯だと分かった。そびえ立つそれは、もはや体というより絶望だった。

 あらゆる感情が通り過ぎ、逆に冷静になっていたクロウはオークの体を細かく観察していた。


 尻と見まごう程に大きな胸板、女のウエスト並の腕、幼児がすっぽり胃袋に納められていると言われれば信じてしまいそうな腹、そして大の男の腕くらいに太く長く勃起しているイチモツと、その下に伸びる人一人分が収まる太さの両足。そしてその体のいたるところに丸々と太ったミミズのような血管が走っていた。顔に至っては、室内の光が届かず見えなかった。


「待ちくたびれたよぉ。お前が今日の相手か……。女日照りが続いてな、異種族の雌でもいいからヤリたくて仕方ねんだ……。」


 何もかもが現実味がなかった。タチの悪い悪夢に迷い込んでいるようだった。

 しかし、閉められた扉の音で現実に引き戻されると、何だ自分はここで死んでしまうのかと妙におかしい気分になり、彼女の顔からは恐怖で引きつった笑顔ではなく、ごくごく自然な微笑みがこぼれていた。


 閉められた扉の外では、バリーが祈りながら大事なく時間が過ぎるのを祈っていた。しかしバリーは熱心な信徒というわけではなかったので、祈りの言葉が思い浮かばず何度も同じフレーズを呪文のように繰り返すばかりだった。

 しばらく、といっても数分程度なのだが、何も音がしなかったのでバリーは実はあのオークは紳士的だったんだろうかと、ありもしない期待を抱いたその時、扉越しにベッドが激しい音を立ててきしんだのが聞こえた。バリーは息を飲んで扉を見つめた。

 それからまたしばらく静寂が続いたが、やはり物事はそう優しくはなく、扉の向こうから、男を悦ばすためではない、苦痛そのものを吐き出すような叫び声が漏れてきた。建て替え工事のように大きな音が、何度も部屋どころか外の廊下までもきしませる。そしてその度に、クロウの喘ぎ声を通り越した悲鳴が扉越しにバリーの耳をつき、たまらずバリーはその場に座り込んでしまった。膝まづいたバリーはさっきよりも強く、自分でも聞こえるくらいの声で祈り始めた。

 だがそのリズミカルな悲鳴はバリーの祈り声をかき消し、バリーは祈りながらもそのクロウの声で股間を勃起させ、そんな自分に嫌気を感じながら涙目でバリーは祈り続けた。


 ……気がつくとクロウはベッドに寝かされていた。

 視界の隅、ベッドの横に光を帯びた天使が寄り添っていたので、クロウは自分が死ん出しまったのだと思った。思った以上にあっけないものだなと、悲しみもなにも感じることはなかった。

 だが改めてその天使を見てみると、それはランプの灯りに照らされたエレナだった。エレナはうたた寝をしているようで、その翼の羽の荒れ具合と裾の短いパンツから伸びる素足の様子から、クロウは彼女が自分を看病してくれたことを察した。

 クロウは目を閉じて思い出す。しかし当日の記憶を探ろうとすると、あの獣の息遣いと悪臭がフラッシュバックして、再び気を失いそうになった。それ以上は、あのありえない程に大きいイチモツを股間にねじ込まれた時の痛みが戻ってきそうだった。実際、気を抜くと膣どころか骨盤ごと歪みそうな痛みに悶絶しなければならなかった。

 クロウが痛みをやわらげるために大きく呼吸をすると、それにエレナが気づいてゆっくりと目を開いた。

「……クロウ」

 クロウはエレナを見るが、何も返事をしない。声を出しても体が大丈夫か、その確信がなかった。

「良かったぁ。意識があるのか分からなかったから」

 意識はあった、と言っていいのだろうか。ただひたすら激痛に苦しむ悪夢を見続けていたような気がする。おそらく、娼婦たちに囲まれていたのは現実だろう。しかし、メルセデスが自分のそばで手を握り励ましている光景は幻覚だっただろうし、母が遠巻きに自分を見ていたのは間違いなく夢だ。クロウはそこまででまた思い出すのをやめた。

「……貴女が、看病してくれたの?」

「うん……。クロウが目覚めたって皆に教えてくるね」

 エレナは椅子から立ち上がり、よたよたと部屋を出ようとする。

「……いいわ」

「え?」

「別に、アイツ等に教えなくても……。どうせすぐに分かるでしょ……。」

「……うん、分かった」

 エレナはベッドのそばに戻ると、クロウの頭から濡れたタオルをあしゆびで掴み、洗面器に浸して両足のあしゆびでそれを絞った。相変わらず器用なものだった。ランプに照らされた彼女の顔を改めて見ると、髪はクシャクシャで趾の皮膚は擦り切れて所々血がにじんでいた。

「……ありがとう」

 エレナはクロウの額に濡れたタオルを乗せて言う。「……それはエレナが言うことだから」

「いいのよ。私が好きでやったことだから……。」

「オークとやるのが?」

「そうじゃないって……。」

「分かってるよぉ。でもどうして? クロウだって、もしかしたらってことになってたかもしれないのに」

「なぜかしらね……。」かすれた声でクロウが言う。「きっと貴女の歌よ」

「歌?」

「そう。なんていうのかしら……貴女はそういうことをやるために生まれたんじゃないって、ふと思っちゃったのね。だとしたら、私が代わりになるべきなんじゃないかなって……。」

「だったら、クロウだってここで働くために生まれたわけじゃないでしょ?」

「そうね……誰だってそうよね……。でも、何故だかあの時は急にそう思っちゃったのよ。そして気づいたらカールスに申し出てた……。」


 エレナは納得のいかない様子でクロウを見ていた。涙の滲んでいるエレナの目の周りは充血していて、それが彼女の髪の色と相まって、瞳がまるで花びらの真ん中のおしべの様にも見えた。


「もしかしたら、血かもね……。」

「血?」

「身内にいるのよ。発作みたいに、何かあったらまず他人の心配をするような人が」

「すごい人もいるんだねぇ」

「そうね……。」

 クロウは微笑むエレナを見て体を起こした。

「クロウ、寝てないと……。」慌ててエレナがクロウを止めようとする。

「大丈夫よ。少し話してずいぶん回復したのが分かったから」

「でも……。」

 クロウは化粧台を指で示した。「あそこに座って……。」

「……うん」

 エレナがベッドの横の化粧台に座ると、クロウはエレナの後ろに座りくしを取って彼女の髪をとかし始めた。

「だめじゃない。せっかくの綺麗な髪がモップみたいよ……。」

 クロウは丁寧に繊細な細工を扱うように、しかし手際よく髪をとかしていく。

 最初は遠慮がちだったエレナだったが、クロウに髪をとかされながら次第に心地よさそうな表情になり、そして目をつぶった。

「クロウ上手だねぇ」

「……昔ね母がこれを褒めてくれたの」

 褒めてくれたことに、“唯一”とは付け足さなかった。

「そっかぁ、いいお母さんだったんだねぇ……。」

 何も言わないクロウに、エレナがクロウ? と目を開けて問いかける。

「そうね……良い母だったわ」


 良い母だった。クロウには何故かそう思えた。そんなことはなかったのに、この時、この場ではそう思えた。そして、そう思っても良いのだとも。


 部屋の扉を開ける音がしたのでその方向を見ると、バリーが意識を取り戻したクロウを見るなり買い物袋を落としたところだった。

「クロウさん……。」

「……バリー」

「よかったぁ……。目覚めたんですね」

 バリーは泣きそうな顔をして安堵の表情を浮かべる。

「バリーもクロウが寝てるあいだに色々お世話してくれたんだよぉ」

「あらありがとう」

「僕、クロウさんがもうこのままなんじゃないかってすごい不安で……。」

「そこまでヤワじゃないから」

「じゃあ、カールスさんにも伝えますね」

「エレナにも言ったんだけど、別にわざわざいいわよ」

「いえ、カールスさんがクロウさんが目を覚ましたら、すぐに言うようにって」

「……そう」

「カールスさんなりに心配してたんですよ、きっと」

 あの男に限ってそんなわけがないことは分かっていたが、それでも今の気分を壊したくなかったので、クロウは相槌をうっておいた。

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