海辺の町の散歩にて
黒猫くろすけ
第1話
海沿いにあるこの町では、朝日が昇るとそれを待ちきれないようにして、海岸沿いを散歩する人達が多い。
ウイークエンドには若者達の姿も見かけられるが、平日にはやはり第一線を退いた、いわゆるシニアエイジの人達ばかりが目立つのは、どこの町でも同じ傾向なのだろう。
加代も明るくなると、近くの大型スーパーで買い揃えたジョギングスタイルで、海までの道と海岸線を散歩するのが日課である。子供達はとうの昔に家から巣立ち、三十四年間連れ添った夫も、十年前に心筋梗塞であっという間に鬼籍に入ってしまった。
「母さんも年なんだからそろそろ俺達との同居を考えてみてもいいんじゃないかな?」
昔から優しく、そして気の弱い長男坊の健はそう言ってはくれるけれど、嫁に気を使いつつ暮らすなんて真っ平だ、と加代は思う。
「あ、だけど母さんと父さんは人も羨むおしどり夫婦だったから、父さんとの思い出の家は出たくはないんだね」
最後にはこうしてこの話はお終いになるのが通例だ。
体の自由が効かなくなったらこの家を売って、介護付きの施設に入ろうと加代は決めてはいるのだが、気の強い嫁がその時どういう態度に出るのかは分らない。古いとは言え、家には相当の不動産価値があるし、現在息子夫婦は賃貸のマンションに住んでいるのだから。それに嫁いだ娘夫婦も実家を狙っている節がある。その時、を考えると今から頭が痛いが、それはまだまだ先の話。嫌な事は後回し。それが加代の辿ってきた人生でもあるのだ。
加代はこの七月で六十四になる。まだまだ若い、と自分では思っている。見た目だって欲目ではあるにせよ、五十台前半でも通ると信じている位だ。孫達にもおばあちゃんとは呼ばせずに【加代ちゃん】と呼ばせている。けれど、以前と比べると近頃は外に出るのが億劫になり、それにつれ体重も増えてきた。
そんな彼女がダイエットを決心して始めたのが毎朝の散歩だった。
始めはダイエットの為の義務感が強かったが、そのうち散歩自体が好きになっていった。朝の澄んだ空気の中を散歩するのは気持ちがいいし、その後の朝食が美味しいのが一番の魅力でもある。体重はほんの少ししか減らないけれど、(美味しいのでその分食べるのがいけないのだ)健康にいい。顔色も良くなってきたと自分でも思う。それに……
それに大きな声では言えないが、毎朝、海岸で挨拶を交わすようになった老紳士と会えるのが、密かな楽しみでもあるのだ。
今朝も老紳士と会えるだろうか? そんな思いを持って加代は家を出る。
七月に入った今時分は、四時半には辺りが明るくなる。身支度を整え、家を出るのが五時少し前。そうしてゆっくり海までの道を歩く。すれ違う人達に「おはようございます!」と声をかけるのも、もう慣れたものだ。
始めた頃は、すれ違う人にいきなり挨拶をされ、面食らった。
知らない人からの挨拶。これは加代の中にはない習慣だったから。しかし、この習慣は気持ちが良い事に気づいた加代でもある。暫くしてからは、自分から声をかけよう、そう決心をし、今に至る。
挨拶ひとつにしても人は様々。目を伏せて小さな声でおはようと答える人、にっこりと微笑んで元気におはようございます! と答えてくれる人、音楽を聴いているからなのか無反応の人、等など。朝の散歩は、人間観察の場でもあるのよね、加代はそうも思うのだ。
海岸に近づくと、いつもの姿が見えた。鳥打ち帽に、霜降りのジャケットとパンツ。肩から茶色い革の鞄を斜めにかけている。手には木製のステッキ。
あ、今日もいらした! 加代の心臓はドキドキする。これってまるで女学生みたい、と加代は自身でもそう思う。
そう、あの方と初めて挨拶以外の言葉を交わしたのは、ひと月前位になるだろうか。その日の事を加代はまざまざと思い出す事が出来た。
「おはようございます!」
その日、さりげなさを装って、加代は老紳士に近づくと挨拶をした。
「ああ、おはようございます」
老紳士は鳥打ち帽をとって、軽く会釈を返す。
「今日もお早いんですのね」
加代は前日から考えていた、挨拶に次ぐ言葉を口にした。それは少しでも親交を図りたい、という女心でもあった。
老紳士は少しはにかみながら
「ええ、実はフィールドワークも兼ねていまして」
そう言うと、肩にかけたバッグから双眼鏡を取り出して見せた。
「フィールドワーク?」
「ああ、失礼、私、趣味で鳥を研究してまして。鳥類学という程のもんではないんですが」
「鳥の先生ですの?」
驚いた加代に老紳士は
「いいえ、そんなに立派なもんではありません。ただ昔から鳥が好きでして。バードウオッチングの延長のようなものですよ」
「そうなんですか」
「はい」
そう言ってから恥ずかしそうに笑ったその笑顔がかわいい、と加代には思えたのだった。
あの日からひと月。少しずつではあったが、加代と老紳士は、たわいもない話をする様になっていった。
そして本日。
「おはようございます。今朝はお目当ての鳥が見つかりましたか?」
「加代さん、おはようございます。ええ、特にという鳥ではありませんが、今は鳥達の子育ての季節ですからね。その様子は興味深いですよ」
今朝も鳥の話だが、こうして会話を交わす事が出来た。あ、そうだと思い、加代はひとつの質問を口にした。実はこれも以前から考えていた質問なのだ。
「あの、伺ってもよろしいかしら? よくおしどりって聞きますでしょ? どんな鳥なんですの?」
「え? おしどりですか? そうですね……」
なぜこの質問なのか? と聞かれても加代にも良く分らない。けれど、よく息子から言われた【母さんと父さんはおしどり夫婦だったから】という言葉が、加代の中では息づいていたからに違いない。
その時、二人の方に向かって、老夫婦だろうか、お揃いのトレーナーを来た二人が、似た様な歩調で歩いて来るのが見えた。
「おはようございます」
加代の声に二人は軽く会釈をすると、その後は何もなかったかの様に無言でまた歩いてゆく。
良く似た夫婦だ。長い間一緒に暮らしていると、風貌までも似てくるのかしら、と加代は思う。
「ふふ、あのような方をおしどり夫婦とでも言うのでしょうね。そうじゃありません?」
加代は老紳士にそう話を向けた。老紳士はちょっと考えてから
「あのですね、加代さんの思いを砕いてしまうのは残念ですが、よく言われる【いつまでも仲の良いおしどり夫婦】、と言うのは人の思い込みなんですよ」
と、困り顔をして言った。
「え?」
不思議そうな加代に老紳士は続けた。
「おしどりはカモの仲間でして。あ、海では見ることは出来ません。渓流や湖沼にいるんです。それでですね、おしどりは今の時期が繁殖期なんですが、抱卵期間が二十八日から三十日で、これはメスだけがするんです。で、孵化してから四十日から四十五日位で飛ぶようになるんですね」
「はぁ」
「それでですね……その後になるんですが、冬になるとおしどりは毎年パートナーを変えるんですよ」
何だか自分が申し訳ない事をしたような、口調である。
「パートナーを変える……? 一生連れ添うんじゃないんですの?」
加代は自分でも顔色が変わっているかも知れないと思った。
「はい。確かにおしどりは【雄雌相愛し】が和名の元になる位ですが、期間限定。それも僅かな期間です。せいぜい一年がいいところでしょう。人が一般的に持っている概念とは違うんです」
加代は愕然とした。これまで仲のいい夫婦の代名詞でもあると信じていたおしどりが毎年パートナーを変える?
「本当ですの? それ?」
「はい。鳥は繁殖を第一に考えますから、というか本能の命じるままに、ですね」
彼女のあまりの落胆振りに、何とかしようと考えたのだろうか、老紳士は言葉を続けた。
「おしどりは確かにそうですが、鳥の中には人間と同じ様に生涯を連れ添う種もいるんですよ。有名なのが丹頂鶴、ハヤブサ。アホウドリ、カラス、コキジバトも一夫一婦制です。丹頂なんかは一緒に子育てもしますし、ハヤブサは死ぬまで繁殖期の度に求愛行動までするんです。もしかしたら人よりもずっとマメかもしれませんね」
「へえ……」
「そうそう、丹頂鶴は野生では三十年ほどの寿命なんですが、パートナーを失った後は、生涯独り身を通すんだそうですよ。どうです? 鳥も捨てたもんじゃないでしょう?」
老紳士の熱心な説明振りに、加代は思わず微笑んだ。
「そういう鳥もいるんですね。何だか羨ましいですわ。あなた様のご家庭もきっとそうなんでしょうね」
加代はついそんな言葉を口にしてしまった。老紳士が一人暮らしであることは知っていたのである。
「え? 私は若い時からそういったことには縁が無くて。妻を娶った事はありません。いや、お恥ずかしい限りでして」
「え? そうでしたか。これは失礼なことを申しました」
言葉とは裏腹に、頭を下げた加代の顔は輝いていたに違いない。
その日、加代は家に帰る道々、考えた。おしどりは一生おしどり夫婦じゃないのか。そうだよね、鳥は本能が勝るんだもの。でも。丹頂鶴は凄いかもしれない。私は丹頂鶴のように……でも……人間人生八十余年。まだ二十年もあるじゃない。私は鳥じゃないし、きっと……
そう、人生、なんでも考えようだわ。うん、明るく前向きが素敵なんじゃないかしら?
明日はお弁当を持って散歩に出よう。もしあの人と一緒に朝ごはんを食べられたなら……
そんな事を想像し、思わずスキップしてしまう女学生みたいな自分も嫌いじゃない、と思いながら、加代は朝の清清しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、住み慣れた家を目指し、両手を大きく振りながら歩いていくのだった。
海辺の町の散歩にて 黒猫くろすけ @kuro207
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