第8話 (第四章 その1)
第4章
1
やわらかな風に乗る湿った草の匂い。
月影は山裾に広がる広い草原を静かに照らし、葉の先の雫に反射して地表がきらきらと輝いている。
裳裾は湿り気を帯びて重たかったが、皇女は気にも止めずに颯爽と歩みを進める。
今日こそはあの方を捕まえる。
捕まえてみせる。
皆、安らかに幸せそうに寝静まっていた。誰一人と皇女を咎める者はいない。重たく冷たい門を体で押し開いて、僅かに空いた隙間から体を滑らせるようにして門外へ出た。
邸の門前に紅く煌々と輝く篝火を背に、一人、皇女(ひめみこ)は山へと歩みだした。首には瑠璃色の勾玉の首飾りが月光を浴びて、あたたかく光をはなっていた。
僅かな月影を頼りに冥い路を急ぐ。
いつも貴公子が現れる辺りの山裾の草原に、彼女は立った。
今宵はきっと大丈夫。
私の乳母がくれた、この常世と現世を繋げる首飾りをしているから。
取り巻く空気が変わった。
いつもとは確かに違う。
そう、ここは常世と現世が混じりあう空間。
見えない氷の壁も何もかも、隔てるものはない。
月のかすかな光の中で、輝き揺れる、濃紺の草原の波。さやさやと靡き、囁きあっていた。
静かに流れる螢たちが舞う。
虹色のひかりの粒が漂う。
耳に囁くのは、はるかな虫たちの歌う聲。
人界とは思えぬような揺らめく闇の世界、あまりに不思議な美しさによってしまいそうだった。
ここは、そう、まるで常世。
皇女が、落とされた射干玉の闇の中へ佇んでいると、彼方から高貴な人影が現れた。闇を背負っていてもなお美しく凛々しいその姿は、ゆっくりと此方(こなた)へ近づいてくる。月に照らし出されたその姿は、月の帝そのもののようだった。
皇女は自失して、歩み寄る事すらできず、唯、彼の人を見つめているだけだった。
彼は立ち竦む皇女へゆったりとした足取りで近づいて来た。
彼の人は白い手を皇女の頬へ伸ばした。
しかし、その手は、触れはしなかった。
ーーーあたたかい・・・。
触れはしないのに、確かにぬくもりは皇女へ伝わっていた。
これは、この方が持つ魂の暖かさ。そして懐かしい魂の香り。
ーーーやはり、私はこの人を知っている。
記憶の糸を手繰るように、皇女は口を開いた。
「此方様は?」
「黄泉に捕われし者だ。そなた、名は?」
ああ、なんて男らしい厚みのある、それでいて月影に透き通るような聲。
「白露内親王。」
長い睫を伏せて、彼の人は問う。
「山辺皇女と云う名に記憶はないか?」
「山辺の・・・?」
皇女の脳裏に激しい衝撃が走った、まるで落雷のような・・・。
「判らないわ。」
何処ぞでその名を聞いたことがある。でも、何処で?
判らない。
「私(わたくし)の名?」
判らない。でも、どこかで。
ーーーその女(ひと)の事をもっと知りたい。
皇女は彼の人の腕を掴もうとした。
刹那、
「触れてはならぬ。」
静かな、しかし厳しさのこもった声で、彼の人は叱咤した。
皇女は、びくっとして、一歩、後ずさった。
「申し訳ありませぬ。」
ーーーなぜ?なぜなの?
近寄って欲しくないほど、私をお嫌いなのですか?
「見つめあえるだけで良かったのだ。」
彼の人は悲しげな声で小さく呟いた。
「本当は我々は言葉を交わした時に、既に我らは禁忌に触れているのだ。」
それだけで理解できるはずなぞない。皇女は震える涙声を絞り出して、問うた。
「何故?」
「汝妹はいとおしい。だが」
皇女は彼の人の瞳に悲しい色彩を認めた。
「ひとたび言葉を交わしてしまったら、吾とて、汝に触れずにはいられない。」
そう云いかけて俯いた。
ーーー吾はまだ穢れであると。
「それならば何故、触れてはならぬとおっしゃるのですか?」
喉元が苦しくて、声が掠れそれ以上は伝えきれない。でも。
ーーー私には判らない・・・。私をお嫌いなのならば、はっきりそうとおっしゃってくださったほうが、幾分か良いのに!なんて、憎らしい方!!
そう、心の内で叫んでみても、彼には聞こえるはずがない。伝わるはずがない。それに私は、何と叫ぼうとこの方を愛しているのだわ。それが悔しい。
皇女はこらえ切れぬ悲しみに押されて彼の人の背を抱き締めようとした、が。
皇女の腕は空を切るように彼の人の体を擦り抜け、自らの身体を抱いていた。皇女は青ざめて彼の人を見つめた。
皇子はゆっくりと顔を上げ、皇女を見つめ返した。皇女に寂しげにほほ笑みかけ、
「皇女よ、判ったであろう?」
そして、悲しげな聲で続けた。
「吾は汝の世の者ではない。汝がまだ、触れてはならぬ国の者。」
「皇子。あなたは穢れてなぞおりませぬ。」
射るようなまっすぐな視線を彼の人に向け、話を続けた。
「薄々は判っておりました。だから私はこの勾玉の首飾りを持って来たのでございます。」
風は静かだった、不気味なほどに。辺りには皇女の吐息しか聞こえない。
皇女以外の全てが“無”のように・・・。
此処では“生”あるものは皇女のみだった。
「それはどこかで見たことがある。もしやそれは・・・、それは我が姉宮、大伯皇女がものではないのか?」
「いかにも、この首飾りは大伯皇女さまから、私の乳母が譲り受け、そして今、私が持っておりまする。」
「何という偶然なのだろうか。皇女、覚えてはいまいか?我らは遠い昔、共に契りを交わしあったのだ。」
皇子はたおやかに微笑みながら、やわらかな風に流れるような声で云った。
皇女は、はっと何かに気付いたようにしたように真っすぐに彼の人の顔を見つめ直した。
「たとえ、時潮が我らを引き裂こうとも、必ずまた巡り逢い、背の君とともに歩むと・・・」
二人、同時だった。
「皇子様、私、覚えておりまする。」
震える声で呟いた。
「だが、吾は今、汝妹との約束を違えようとしている。」
「・・・皇子?」
「理由(わけ)は先程述べたとおりじゃ。言葉を交わすくらいならばともかく、斎宮でもないただの現世の人である汝妹が死者と“想い"を交わすことは、汝妹の穢れになる」
「嫌ですっっ!!」
闇を切り裂くような声で、皇女は叫んだ。
彼の人は優しく揺れる月を仰ぎ、
「皇女よ、この世には、かなう愛もあれば、かなわぬ愛もある。」
皇女は責めるように彼の人へにじり寄った。
「運命なのだとおっしゃりたいのですか?」
「そなたに触れたい、そなたを抱き締めたい。吾とて、幾度思ったことか。だが、今の吾には決して許されぬのだ。」
彼の人は彼女を見つめ、
「・・・ただ、もし、吾に一言、神仏(かみほとけ)へ恨み言を云うことが許されるのならば、かなわぬ愛であったのならば、何故(なにゆえ)、最初(はな)から我らを引き合わさずにおいてはくださらなかったのかということじゃ。何故、このようにつらい想いをさせるのであろうか、と。」
「出会いとは意味のないものなぞ、ないのではないでしょうか?私はそう思うのです。」
皇女は哀しく呟いた。皇子は瞼を伏せた。
「そう、信じたいものだ。」
「この出逢いには何かもっと理由があるはずと、私はそう信じたい、信じていたい。・・・でなければ、でなければ、あまりにも哀しすぎまする。」
皇女は颯と顔を上げ、熱っぽい視線で皇子を見つめた。そして魂を震わせるほどに甲高い声で叫ぶように云った。
「私は恐れません。皇子さまを愛しております。」
強い意志だった。
「長い年月を経て、漸くめぐりあえた皇子さま。御方のためならば、私は禁忌なぞ破ってもよいと思っております。いえ、いっそ、この胸を剣(つるぎ)で貫いて、貴方様と同じ、死人(しびと)となり、貴方とともに参りたい。」
皇子は冷たくゆっくりと首を横に振った。
「それはならぬ。再びそのようなことをすれば、神仏の怒りを買うだけじゃ。命を穢してしまえば、それこそ二人、もう二度と魂が触れ合う日は来なくなるであろう。」
「ならば、ならばせめて、毎夜ここで逢ってはくださらぬか?触れ合えなくてもいい、言葉を交わすだけで私は・・・」
皇女の言葉を遮り、皇子は首を横に振った。
「そなたが、吾のことを知ってしまったからには、今日のことも、これまでのことも、全て、そなたのうちより、吾の記憶を消し去らなくてはならぬ。」
皇女の顔は蒼白となった。
「何故です?私は・・・私はやっと皇子さまを」
彼の人は皇女から、逃げるように、瞳を逸らした。
「帝や斎宮以外の者が、過去を見つめる常世の者と現在(いま)を生きてゆかねばならぬ現世(うつよ)の者とが繋がることは禁忌なのだ。」
皇女は涙でその瞳を曇らせた。息が詰まるほどの苦しみと痛みと悲しみが胸を脳裏を埋うずめていった。
「嫌です。」
皇女は顔を引きつらせながら、後退った。
「嫌、嫌です。私には皇子さましか愛せませぬ。それは皇子が一番よく知っておられるはず!!それなのに・・・」
最後の方は嗚咽になって言葉が出なかった。
皇子は何も云わず、冷ややかに踵を返した。
ーーーそう、結末はいつも悲劇。
皇女よ。遠い遠い昔から、そうだった。
迩々芸命と木之花咲夜比賣として愛し合ったときも、小碓命と弟橘比賣として愛し合った時も・・・幾度も幾度も輪廻を巡り、我らはいつも、出会っては儚い夢のうちに引き離されてきた。
優しい声が残酷に響く。
(貴方をずっとずっと、待ち続けていたのに・・・。今度もまた・・・?嫌よっ!!)
皇女は心内で、悲痛な程に高く鋭く絶叫した。
「これが貴女の今生の定めなのだ。ただ一つ、汝に伝えておきたいことがある。今、私が願うことは、私を縛るこの地から魂を解放して欲しい。そしてこの悲しき輪の巡りを断ち切り、汝妹も現世の者として過去の世に引きづられず生きて欲しいのだ」
闇よりも静かな、でもあたたかい声だった。皇女は消えていく気配に震える手を伸ばした。
(嫌!おいていかないでーーー)
ーーー霧の中へ彼の人が消えてゆく。
追いかけようにも、なぜか足が竦んだように・・・否、何者かに五体を押さえ付けられたように、全く動けない。
「私は決して、何があろうとも忘れはしませぬ!」
皇女は深山(みやま)の中へ消えゆく彼の人の背へ向かって半狂乱で叫んだ。皇女の絶叫は闇に呑み込まれるように消えていゆく。
「忘れませぬ!!」
彼の人は、最後にふっと皇女を顧みた。
「もし、明日、汝妹が吾を忘れておらなかったのならば、今宵、我らが逢った、この場所を掘ってみよ。」
寂しげに皇子は苦笑し、辛そうに呟いた。
「・・・だが・・・そのようなことかあるはずもない。」
いつしか、彼の人は闇の中へ溶け込むように消え、皇女の意識もまた、闇に沈んだ。
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