第9話 (第四章 その2)終
2
朝、目醒めはなぜか、重苦しかった。
今の皇女に、彼の人の記憶は全くない。
悲しみも苦しみも、今の彼女には何もないはずだった。
だが、なんだろうか。
この、ぽっかりとこころに穴が開いた感じは。
ーーー何かが、足りない。
だが、そんな気持ちもいずれは消えてゆく。
全てが元に戻るだけ。
そう、あの皇子に逢う以前の時に。
その夜、皇女は一人の舎人を連れて、外に出た。
何故(なにゆえ)か、皇女自身、判らなかった。
だが、月が天頂へと近づくにつれ、“あの山”へ、ゆかなくてはならぬと、そういう気が胸に押し迫ってきた。
ーーー何故。
月影が痛切に胸を灼く。
風は涼しい。
何処かで、心の端で、誰かの面影を追っている。
誰かの面影を・・・。
繊細な白銀の月に照らし出される二上山の雄岳の裾の草原に立ち、皇女と舎人の宅馬は徐に地を掘り始めた。
偶然であろうか、そこは昨夜、皇女と貴公子が出逢った場所だった。
「内親王(ひめみこ)さま、御手(みしゅ)がお汚れになります。ここは私めが掘りますから、内親王さまはどうか・・・」
「いいえっ!!私が・・・」
ーーー自分がこの手で、“何か”を捜し出さなくてはならぬ。
“何か"を・・・。
その時、皇女の指先が、何か堅いものに触れた。
「あ・・・っ!宅馬よ、何かありまするぞ!!」
舎人の宅馬は皇女の手元をのぞき込んだ。
「箱のような・・・?はて?」
地の中から、小さな竹で編まれた細長い箱が出て来た。ところどころが腐食し、虫に食われ、漆のはげかがったような、汚い泥だらけのものだった。
箱を開くと、中には朱と黒で彩られた和笛が、錦の袋に包まれ入っていた。
かなりの年代物のように見えるが、まだ、美しい光沢を放っている。
皇女は不思議な感情に捕らわれ、笛を手に取ると、自然、涙があふれてきた。
ーーーこんなに、熱い想いを、昔、否、つい、この間まで、感じていた。
そんな気がする。
懐かしい、記憶の薫り。
ーーーこの心の波はどこから?
皇女は柔らかなひとひらの桃の花びらのような唇を笛の吹き口に押し当て、吹き始めた。
あまりに美しい音色(おとのいろ)。
月影の音(おと)。
宅馬もただ、うっとりと酔いしれていた。
この笛は誰(たれ)のものなのか?
判らない。でも、懐かしいような。これを吹いていると、何故か、心が落ち着く。
何故か・・・。
どこぞで、吾(あ)の笛を吹くものがいる。
皇女(ひめみこ)、なのか?
そのようなこと、あるはずが・・・。
だが、この音の色は、聴いたことがある。
否、吾が、奏したことがある。
確か、皇女によく吹いて聴かせた。
皇女(いもせ)よ・・・。
チリチリと、皇子の沓の前に幾粒もの光の砂がゆっくりと静かに舞落ちてきた。
皇子は天(そら)を仰ぐように見上げた。
「おおっ!」
高天原の門が開くーーー。
皇子は天の門へ歩み始めた。
皇女の笛の音(ね)が吾を高天原へと導いた。
皇女の音によって、天の門は開かれた。
吾は天へ“戻る”のだ。
吾ハ天ヘ・・・。
月は皇女をやさしく照らし出す。
透き通った蒼に輝く小さな美しい蝶が、皇女の手の上へ、ひらひらと優しく舞い降りて来た。
ーーー皇子は・・・迩々命は今、高天原へ帰られました。あなたがこの世の生を全うした時、あの天(そら)の彼方でいつか出会う日をニニギ様は待っておられます。
まるでそう、皇女に告げるように二、三度ゆっくりと羽を閉じたり広げたりすると、再び、月へと帰って行った。
皇女は天を見上げた。
幾千幾万もの様々な色の光の粒が目映いほど夜空をうずめていた。
(綺麗・・・)
皇女は宅馬のほうをそっと顧みて云った。
「私は髪を下ろします。この世には・・・救われぬ荒魂が多く存在しております。私は彼らを苦しみから救いたい・・・。」
再び音色は夜空に響く。皇女の笛の音は遠く、高く、何処までも。
ーーーいつか・・・あなたと何処かできっと、めぐり逢う。
今度こそは、どのようなことがあっても、決して二人、離れない。
確信。
皇女にあの蝶の囁きが届いたか、否かは判らぬが、皇女は心内で、知らずら知らず、そうつぶやいていた。
目頭から、熱い珠が、一粒、流れ落ちて行った。
そして、もう一度、心の中で。
ーーー何処カデ、キット、巡リ逢ウ。
END
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