第870話:サム・ドーバ~幸せだけを積み重ねて~
「君はどうしてそんなに幸せそうなんだい?」
「幸せだからだよ、私はずっと幸せだからさ」
冬のカフェ、窓際の隅の席、曇るガラスに落書きをしていた女性に相席をお願いして話を聞いてみた。
「ほぉ、ずっと幸せ。生きてきて不幸だったことは無かったのですか?」
彼女の笑顔に少しだけ嫉妬して意地悪したくなったと言えばまだ聞こえはそこまで悪くは無いだろうが、幸せを壊したくなって悪意を向けた。
「不幸だったことは一度もないですね」
「ふぅん……」
彼女が頼んでいたコーヒーが来て、僕は自分のコーヒーを頼む。
「私は本当にいままで幸せなことだけを積み重ねてきたんですよ、本当に幸運なことです」
カップのミルクを垂らしてマドラーを回しながら、いままであった様々な幸せを思い出しているように話す。
「それは、死ぬ時まで?」
この世界にいる以上、彼女は死んだ経験があるわけで、死を不幸でないと捉えるのはなかなかに難しいだろう。
彼女はマドラーを回す手を止めたものの、カップから上げナプキンで拭いてからソーサーに置いてから答える。
「はい、私は死ぬ瞬間その時まで、不幸ではありませんでした」
その目になんの澱みもなく、動揺も嘘も無いことがわかる。
本当に不幸を経験してこなかったんだな、とするとさっきの質問にも悪意を感じ取れなくても不思議ではない。
なるほどね、と納得していると僕が頼んだコーヒーが運ばれてきた。
「こっちです」と合図をする振りをして脚を掛け、運ばれてきたコーヒーは彼女に直撃しないまでも裾にかかり汚れてしまった。
さて、これが初めての不幸になるのだろうか。
「……ふきんをいただけます?」
コーヒーを持ってきた店員さんに頼んで、ふきんを受け取り、さっとシミにならない内にぬぐい取る。
「いやぁ、もうしわけない。少しバランスを崩してしまいまして」
店員さんにも謝罪の言葉をかけ、彼女の方を見る。
「私はずっと幸せに過ごしてきたので、何をもって不幸と言うのかも知りません。今、あなたが私に不幸をもたらそうと企てたことはわかりますが、それだけです」
その目には少し迷いが見えた。
「すまなかった、ここの会計は私が持とう」
さすがに参ったと、僕はもろ手を挙げて降参する。
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