美しい涙の行方

島野 智信

第1話

涙が出そうだった。

我慢していたことが全て溢れ出る。極貧生活だった。母は身体の弱い男と結婚した。それが俺の父だったーー。



俺の父親は頭のいい人だった。有名大学を卒業し、“鷹本株式会社”という大きい会社を起業した。

俺はその頃、まだ幼き子供で、父親が偉大な人だとは思ってなどいなかった。

母はそんな父を影で支える、大和撫子のような人だ。亡くなってからも父を思い、仏壇の前で毎朝、線香を上げている。

そんな母と父の元に生まれた俺の名前は、母と父の名前を一文字ずつ取り、「幸人(ゆきと)」となった。二人の間に無事生まれた大切な子、という意味だと学校の宿題で話してくれた。






父が亡くなってから、早五年。

俺は大学生になっていた。父親が十代のうちになくなっていたため、俺は学費を自らで免除しないとならなかった。

そのため、勤勉学生となり、奨学金をもらうため、勉学に努めていた。

最初の頃はそれさえも母親のためーー。と思っていた。

旦那を早くに亡くしたため、女で一つ、子供を育てた。

そのため、常に仕事で忙しく、ゆっくりなどできない。貧乏生活だ。

俺は少しでも楽をして欲しいため、しっかり勉強し、バイトもこなし、ちゃんとしたところへ就職し、母親を楽な生活にしてやるつもりだった。

それなのに、母親は「再婚したいの」。と相談してきた。男は俺より少し上の男だ。二十代半ばぐらいだろう。母とは年の差、二十近くもあるというのに、そんな男と結婚したいと言ってきたのだ。

俺はそこで我慢していたものが堪えきれなくなってしまったのだ。母親のためーー。なんて偽善であったことが、ここにきてやっと気づいてしまったのだった。




再婚してほしいーー。そう思ってはいる。ただ、許せないのは自分と歳の近い男だからだ。

もし、父ぐらいの男なら、俺も幸せを願った。しかし、若い男となんて苦労するに決まっている。今も貧乏なのに、これ以上、苦しい生活をする必要はないのだ。

母はきっと運がない女なのだろう。不幸が常にまとわりつく。

俺が幸せになれないのも母のせいなのでは?とつい、母のせいにしたくなるのだが、今のところ自分の性格の問題だ。

というのも、自分で言うのはおかしいが、昔はそれなりにモテていたのだ。

母は四十という割には見た目が若く、そして父も容姿が良かったため、そんな耽美な二人の間に生まれた俺の顔は、まさしく二人の血を受け継いだ、男前になっていた。

段々と歳を重ねる度に、父親に似てきており、父の若かりし頃の写真が自分とうり二つであったーー。

それを見て、俺は父親を思い出した。父親の最期の顔を思い出す。そうなるともう視界が涙で眩み、手で泪を拭う。

五年経っても俺の中では、父の最期は消えない。目を閉じると浮かんでくるのだ。父の最後の顔を。

母はその顔が浮かばないのだろうか。だから違う男へ心が移ってしまったのだろうか。

俺は母への疑念が膨らむばかりだった。




母の再婚はバイトから疲れて帰ってきた時に知らされた。目の前に自分と変わらない歳の男が目の前にいた。

「お母さんと清きお付き合いをさせてもらっています。」そう告げられた。

俺の知らないところで、母は女になっていた。想像したくなかった。女の顔があるのが嫌悪感を抱いた。


それから俺は女性に対して拒否反応を示すようになり、恋愛はしなくなった。

男性がいいーー。ともならず、時間が経過すれば、きっと誰か愛せる人が現れる。そう信じている。

いたんだ、あの日までは。




俺の働いているバイトは飲食業。所謂ファミレスだ。俺はホールを担当しているため、主に接客がメインだ。

大学生ともなれば、残業もあり、長引くことが多い。高校生と違い、労働基準法に引っかからないからだ。

その代わり、高校生は早く帰らされる。

俺は遅くまで残らされ、帰りが遅くなってしまった。大体遅くなる時はアルバイトで長引くため、終電を逃す時さえある。

母はそれをわかっていた。だから俺がいない隙に男を連れ込んだのだ。

思ったよりも俺の帰宅が早く、帰宅し、鍵を開け、家の中に入ると、裸になっている男女がリビングで交わっていた。

夢中で鍵の音にも気づかず、激しく互いに乱れていた。

大学生と言えども、まだまだ子供だ。俺には残酷だった。親のセックスを見るのはーー。

そして俺は完全に女性がだめになった。性欲も共に失われた。

あの日から自慰行為さえできないでいた。溜まる一方だ。

母親なのに、俺の苦しみを知ろうともせず、母は何かある度に俺がいない隙を狙い、男を連れ込むようになった。

それが親子の絆に亀裂を生み、俺達親子は溝が深まったのだった。


その日から俺は母親と顔を合わさなくなった。朝も母がパートに出かけてから大学へ行く。

やがてそのうち、大学にもアルバイトにも顔を出さず、当然、アルバイトはクビになり、大学も単位が足りず、留年という危機に迫っていた。


そんな俺はさすがに留年は免れたく、大学だけはちゃんと行くことにした。

アルバイトも一から探すことにもした。

しかし、それは相当きついものであった。精神的に崩壊しているので、普通のができず、かえってそれがストレスへになっていたのだった。

そんな俺の精神はもう限界を達していた。気づけば頬に涙が伝っていた。もう泣くことしかできなかった。

「だ、大丈夫か?」

泣いている俺に声をかけてきたのは、白衣を着た知らない大学教授だった…。

「えと…あ、はい。大丈夫…です。」

本当は大丈夫なわけない。辛くて我慢の限界で泣いているのだから。

「そうだよね。いきなり見知らぬ人が声かけても心配だよね。それに僕、心理学とか専攻してないから、そういうの詳しくないし、役に立てないし。」

そんなつもりはないのだが、どうも日本人というものは遠慮がちであり、そう聞かれたら咄嗟にそう返してしまう生き物なのだ。

「あの、そこまでは思ってませんよ?それに俺、あなたを見かけたの、今日が初めてなので。」

「…あっ!そっか。ごめんごめん。……でも心配だし、僕の研究室で軽くお茶して行く?」

誘われていた。なかなか行動が読めない。でも俺の心はこの人に読まれている。

「……バイトもクビになったし、暇だからいいっすよ。」

「そっか。なら気晴らしにどうぞ。」

腕を掴まれ、引っ張られる形で歩かされた。離してなどくれなさそうだった。

掴まれた手の力は強く、俺へ何か伝えているみたいだったーー。




「着いたよ。ここが僕の城さ。」

目の前には教授の研究室の扉。緊張する。教授の研究室など何回か別の教授の部屋になら入ったことあるが、皆、雰囲気が堅く、厳かであったため、中に入るのには毎回緊張したのであった。

この教授は今までのタイプとは違うが、それもかえって新たなる緊張が生まれている。

「失礼…します。」

恐る恐る中へと入る。すると中は机の上に大量のプリントが置いてあり、整理整頓などという言葉は無縁の世界であった。

「汚っ!人呼べるレベルじゃねー!呼ぶ前に片付けてくださいよ!」

そう。この教授の部屋はとにかく汚い。片付けがまるでできないタイプのようだ。

「てへ。ごめんごめん。僕ね、片付けが苦手なんだよねー。特に講義の資料作りとか、試験前は汚くてね。」

汚いというレベルを通り越した汚い。床が見えず、ゴミしかないレベルだ。

もはやもうこれはゆっくりしていくというよりは、ゴミを片付ける作業をした方が早い。

「先生、俺、この部屋、綺麗にしてもいいですか?」

いってもたってもいられない。ここは俺が片付けるしかない。まずは片付けからだ。

「お願いしようかな。…だからお願いします。」

「わかりました。でもその前に、教授は部屋から出てください。終わったら入ってきてください。」

俺の片付け大会が始まった。そして俺と先生の奇妙な関係の始まりでもあったのだった…ーー。



2話へ続く

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