虹を見る

鉈音

虹を見る

 オーロラと虹は似ているようで違う。

 この有名な言葉を最初に口にしたのが誰なのか、記録には残っていない。日本語だから、たぶん日本人なんだろうと思う。

 オーロラと虹は本質的に違う。──二百年くらい前まではそうだったらしい。

 ここ、月面都市ムルタイトでは、虹もオーロラも簡単に見ることができる。コンソールに適切な数値を入力するだけだ。どちらも単なる視覚情報に過ぎない。

「オーロラを見に行こう」

 だから彼女がそう言った時には、僕は困惑したものだ。

 だって、だなんて。全部ここにあるのに。

「本物だよ。本物の、オーロラ」

 本物って。マテリアルボディでも作るつもり?

「ちゃんと発声して」

 彼女はなぜか音声データのやり取りを好む。よくわからないこだわりだ。

 彼女はかつてヒトだったらしい。発生シミュレーションから生まれた僕とは出自がまるで違うのだ。



 月面都市ムルタイトは、集積現実組織アーカイブスと呼ばれる組織によって運営されている。彼らは不自由な現実から解脱し、新たな現実を作ろうとする信仰組織だった。

 その活動の根幹を成していたのが、量子サーバー上への現実のアップロードだ。彼らはそのために戦争をした。

 彼らは謎めいた超技術を使って、まず二つの大国を滅ぼした。あまりに呆気なく。軍隊の保有する兵器は彼らの兵器に傷一つ付けられなかった。今ではそれは、クロックアップさせた量子サーバー内で生み出された技術だと知られている。

 とにかく、彼らは強かった。それはもう非常識な強さだった。そして非戦闘員を捕まえては、全身を分解スライススキャン装置に放り込んではサーバーに取り込んでいった。当然ながら、スキャンを受けた人間は細かく裁断されて死ぬ。二つの国から灯りが完全に消え去るまで、一ヶ月とかからなかった。

 その時はまだ、彼らは悪の組織として扱われていた。当時の人々は、量子サーバーの中に生きるということをまだ上手く咀嚼できなかった。だから人々は命を懸けて戦った。人々にはただ殺されることと、スキャンされることの違いがわからなかったから。

 けれど無駄だった。アーカイブスの力は圧倒的で、人々は一度も、どんな形での勝利も収めることができなかった。

 そして、南米や旧欧州連合EUや第三中華の人々が自らスキャンを希望し始めた頃、流れが変わった。繰り返される紛争や貧困に耐えられなくなった彼らは、新天地を求めていた。

 そしてアーカイブスは多数派になった。

 抵抗する人々はテロリストと呼ばれるようになった。各国の世論が、アーカイブを受け入れる方向へ傾き始めた。

 その後は、もう話す必要もないだろう。

 抵抗する人々は自分たちをレジスタンスと呼んだが、それで何が変わるというわけでもなかった。彼らはじっくりと時間をかけて丁寧に殲滅され、もう地球にヒトはいない。



 そういうわけで、もうホモ・サピエンスは絶滅したのだけれど、彼女はその最後の生き残りだった。

 彼女は集積現実組織アーカイブスに最後まで抵抗していた、あるテロリストの一派にいた。彼女は生まれた時からテロリストに囲まれて育ったらしい。

 彼らはアーカイブを受け入れず戦ったが、戦力差は歴然だった。何十年もの戦いの末、テロリストたちは惜しげも無く投入された機械化兵団にすり潰され、生き残った彼女は唯一の捕虜となって、アーカイブを受け入れた。

 それがどういうことなのか、僕にはわからない。この街には永遠があるから。誰も死ぬことはない。僕は人の死というものを経験したことがない。ただ漠然と、恐怖のようなものだけがある……僕もDNAデータから作成された人間だから、本能とは無縁ではないはずだ。もちろん、現実で発生し成長した人間に比べるととても慎ましいものだけど。

 肉の体を持てば、彼女の気持ちがわかるのだろうか。それは魅力的なアイデアだった。

「マテリアルボディを作って、探査船を作って……ってこと? まあ、キットなら買えなくはないかな」

「一緒に作れば、たぶん半日もかからないよ。お金キャッシュは私が出すから」

 彼女が見せた通帳の数字は、僕のものとは文字どおり桁が違った。何をすればこんな大金を手に入れられるのか。

「私は有能なんだよ」

 彼女は悪戯な笑みを浮かべて、そう言った。



 彼女との馴れ初めについて話したい。とはいえ、彼女と僕は恋愛関係にあるわけではない。まずそれは第一世代、第二世代の老人たちの娯楽であって、僕たちの世代には普及していない。だって、わざわざ好みの相手を探す必要がない。もし伴侶が必要とあらば、好みの人間を作ればいいのだ。一般市民にも、二、三人の市民を新規に作成する権利は認められている。

 ほとんどの老人たちは倫理的な問題がどうとか言って手をつけないが、さんざっぱら人をテロリスト扱いしては殺してきて、いまさら倫理がどうなどとどの口が吐かすのか。

 まあとにかく、そういう関係は恋愛とは呼ばれない。じゃあどう呼ぶのか、と言われると困る。文字言語ではなく、味とか音とか匂いとかで標識タグ付けするのが最近のトレンドだ。

 もちろん、彼女は僕が作成した人間ではない。彼女が僕を作成したというわけでもない。けれど何故だか僕らは惹かれあって、だいたいいつも一緒にいる。でも恋愛関係ではない。そんなところだ。


 馴れ初めの話だったか。

 僕は桜小道を歩いていた。入学式の日だったはずだけど、よくは記憶メモリーしていない。買ったばかりの制服に身を包んで(別に着続けても着心地が変わったりはしない。そんなところを再現しても仕方がない)、近現実タイプの学校に向かっていた。

 彼女が何か違うことは、すぐにわかった。彼女が持つメモリー量は馬鹿みたいに多くて、その情報圧が僕を圧倒していたのだ。と今ならわかるけど、当時は「なんだかよくわからないものを見た」くらいにしか思えなかった。情報が圧を持つなんてことは、大学で習うまで聞いたこともなかったから。

 その時は近寄れなかった。大きな情報圧は、漫画的に表現された威圧感みたいに感じるんだ。純粋に恐ろしかった。

 それで、入学して三日目くらいに、彼女が元テロリストの入植者だと知った。みんなは警戒して遠巻きに見ていたけど、テロリストと話す機会なんてそうはない。僕は恐怖も忘れ、休み時間のたびに彼女の隣に座っては話しかけて、なし崩し的に友人の座を獲得した。僕に笑いかけてくれるようになった時は、純粋に嬉しかった。

 彼女の話はすごく面白かった。音楽とか、空の色とか、ジャングルの話。特に食べ物の話は最高だった。僕はおかげで食事modを導入するほかなくなってしまった。今なら、楽しい思い出がそれくらいしかなかったんだろうとわかるけれど。

 でも、彼女はいつも現実に帰りたそうだった。どうして苦しかったはずの現実に帰りたいのか、僕にはよくわからない。



 僕らが作った探査船は、それなりにいい解像度でオーロラを映してくれていた。しかし僕らの眼の解像度は普段よりずっと低いから、なんとなく辺りに霞がかかったような気分になる。

「生身の眼って、こんなに見えにくいのか」

 そう彼女に言うと、

「私は、こっちの方がいいな」

「どうして」

「あの街はね、いろいろ見えすぎるんだよ。……ああ、光学的な視界の話だけじゃなくてね。それはピクセル数を落とせばいいだけだから」

 と信じられない事を言う。眼の解像度を意図的に下げるなどという話は初めて聞いた。そんなことをして、いったい何の得があるのだ。

「ほら、他人の気分とか、行動の評価とか……見えるでしょ、あの街では」

 そういえば、ステータスシートが見えない。なるほど、あれは現実には存在しないのか。考えてみれば当然だ。

「本当に不便なんだな、肉体って」

「あなたはサーバー生まれだったね。ま、私が向こうで暮らす気持ちが少しはわかったかな」

 まったくわからない。ただ不便になっただけだ。

「それは残念」

 ちっとも残念ではなさそうに、彼女は言った。

 オーロラの光が、窓の外を音もなく流れていく。

「ねえ、私は……」

 アラームが鳴り響いて、回転灯が船内を真っ赤に染め上げる。

 僕は警報装置をマニュアルで止めた。

「わかってたよ。今更どうにもならないんだから……そんな顔、しなくていい」



 オーロラを間近で見るということは、それが可能な距離まで地球に接近するということだ。それは月へ戻れなくなることを意味していた。いずれ大気圏で燃え尽きることを。

 わかっていたとも。ずっと前から知っていた。

 ただ、彼女が心中する相手に僕を選んでくれたことが、とても嬉しいのだ。



「もっと性能のいい船がよかったな。大気圏突入に耐えられるやつとか、月に戻れるやつとか」

 そう僕が言うと、彼女は申し訳なさそうな、僕の意地悪を咎めるような、微妙な表情を浮かべる。

「冗談だよ」

「こんなときに、冗談なんて言わないで」

「ごめん」

 彼女と僕のは、まだムルタイトに保存されている。僕たちが死ねば再び写本が作られ、きっと再起動されるだろう。今度は自殺を選ばないよう、別のバージョンで。

 そして新たなバージョンの僕らは、またムルタイトで生活を始める。また繰り返されるだろう。懐古現実主義の彼女と、それを理解できない僕の、歪な関係が。

 僕はその関係が好きだったし、たぶん彼女もそうだ。ただ、表現する方法が違っているだけで。

 彼女は機会を逃した死を望み、僕は当然のように永遠を望んだ。僕らは互いを連れ立ちに選んだ。その両方が叶うのなら、それは幸せなことに違いない。僕らはここで死ぬが、あの街では生き続ける。

「暑いな……」

「……脱いであげよっか。私の体なんかじゃ、不満かもしれないけど」

「それはすごく魅力的な提案だけど、やめておく」

 彼女はとても深いため息をつくと、そう言うと思った、と言って微笑んでくれた。

 その笑みは僕の心の水面を揺らして、ちょっとばかりの後悔を覚えさせた。


 断熱圧縮が機体を灼き、僕らの体を蒸し焼きにしていく。あの振動は、耐熱パネルが剥がれた音か。

「……ねえ。後悔してない?」

「してないよ」

「私は、してるかも」

 ああ。彼女は、やっぱり。もう遅いけれど。どの時点で手遅れだったのか、僕にはどうしてもわからないけれど。

「大丈夫。一緒だから」

 震える彼女の手を取る。意識が朦朧とする……どうしようもなく、肉体は不便だ。でも、彼女が執着するのもわかる気がする。この不自由さは、あの街では手に入らない。

 それとも、彼女は負い目を感じていたのだろうか。

 ただひとり楽園に移住したことに。楽園の住人と共に過ごすことに。


 もう訊く時間はないけれど。もうすぐ僕たちは死ぬのだから。それは少し、

「……怖い?」

 彼女の手を握りなおすと、彼女もぎゅっと握り返してきた。

「……怖くは、ない」

 ああ……それなら、もういい。

 僕は薄れゆく意識を手放して、熱い空気の中で眠りにつく。


 あの街で、僕と彼女が、また生きている。

 閉じた世界の中で、何度でも生き続ける。


 そしていつかまた、こうしてオーロラを見にやってくるのだ。もしかしたらきっと、地上へ降りて、ふたりで本物の虹を見る。


 その光景を想像すると、ほんの少しだけ、恐怖がやわらいだ。

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虹を見る 鉈音 @QB_natane

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